第五話 ひょっとして
「待って!」
人より早めに家路をたどる毒島さんの後ろから、女の子が駆ける可愛らしい足音が聞こえました。毒島さんはもう、その足音と声を聞くだけでも不快になりました。
「待ってよ! 一緒に帰りましょう」
毒島さんは立ち止まりませんでしたが、走って逃げることもしませんでした。振り返ることも話に耳を傾けることもなく、徹底的に無視を決め込みました。
可愛い足音はすぐに毒島さんに追いつき、そして前に立って進路を阻みました。
「お礼を言わなくちゃいけないと思って」
はぁはぁと息を切らしながら、そこに川崎さんが立っていました。手には毒島さんと同じように鞄を提げています。
「学校、まだ終わってないよ」
「そんなのいいのよ」
毒島さんの知る限り、川崎さんが授業をサボったのはこれが始めてでした。
「あの薬、本当によく効いたの。三本ももらっちゃったけど、一本目がなくなる前にもう元気になったわ。ありがとう!」
毒島さんは答えませんでした。無視して通り過ぎようとするものの、川崎さんは毒島さんの歩く早さに合わせてピッタリくっついて歩きます。
毒島さんは腹が立って、だんだん歩く速度が早くなって来ました。
ああむかつく。まずその顔が気に食わない。この世の幸せ全部独り占めにしたような顔して、しれっとしていやがる。病気になったらクラス中に心配してもらって、おまけに弱いものの味方か。何だその美少女ゲームのヒロインみたいな役作りは。お前みたいな奴は騙した男に刺されて死んでしまえ。
「だからね、どうしてもお礼がしたいの。私がおごるから、ねっ、一緒に入ろうよ。ねっ」
気がつくと、毒島さんは駅近くのファーストフード店の前まで来ていました。
「入るってここ? あんたと?」
冗談じゃありません。
昼下がりのハンバーガーショップです。頭の軽い女子高生どもが増えすぎたハムスターみたいに群れをなしてそこらじゅうできゃいきゃい言っているようなこの空間に、陰気な毒島さんが吸っていい空気はビニール袋一杯分も無いんです。毒島さんは生まれてから一度もこの手の店に入ったことはありません。ハンバーガー屋もドーナツ屋もファミレスでさえもです。だってこんなところに入ったら窒息してしまうもの。
「ふざけんな。早く帰りたいんだよ」
「そんなこと言わないで! なんでもいくらでも食べてイイから!」
毒島さんは川崎さんを振り払って帰ろうとしましたが、なにぶん体がちっちゃいので殆ど抱きかかえられるようにして店の中に連れ込まれてしまいました。
「いらっしゃいませ! こちらのお席へどうぞ!」
席まで通されてしまうと、さすがの毒島さんも観念せざるをえませんでした。居心地悪そうにソファーの隅っこに位置取ると、窓の外に目を向けて、ムスッとしながら通行人の数でも数え始めます。
「毒島さん何食べたい? 新発売の味噌カツバーガーがあるの! 私これ食べてみたいなー」
「知らない」
「すいませーん! 味噌カツバーガー二つ! セットで! ドリンクはコーラ!」
川崎さんは勝手に注文を決めてしまいました。
毒島さんはずっと黙っていましたが、川崎さんは一人でどんどん喋り続けます。
「みんなひどいよね。私の言うこと少しも聞いてくれないんだもん! 毒島さんは私の病気を治してくれたっていうのにさ! あんなの変だよ! 私、ずっと毒島さんを誤解してた。みんなが毒島さんのことを、その、悪く言うもんだから、それを信じてたのよ。でもホントは違ったのね。歪んだ情報が独り歩きしていたのよ! 私今日、それがわかった」
その情報は何にも歪んじゃいないよ。と思ったけど、それでも毒島さんは無言を通しました。
「でもすごいよね。病院でもらった薬はあんなに効かなかったもの。あんなのどこで売ってるの?」
毒島さんは答えたくありませんでした。でも、薬のこととなると、つい口が緩んでしまうようです。よくないな、と思いつつも、毒島さんは答えてしまいました。
「売ってないよ。私が調合したんだもの」
「うそっ! そんなの出来るの!?」
「頭が悪いと無理だけどね」
川崎さんはこの、毒島さんの弱点を見逃しませんでした。続けさまに薬に関する話題が振られます。どこで習ったの? 材料はなんなの? どう言う風にして作るの?
毒島さんは心ならずも、そういう質問に次々と答えてしまいました。まるで、川崎さんが用意した台本に合わせて喋っているみたいに、すらすらと言葉が出てきてしまうのです。
毒島さんは内心焦りました。いけない、私、乗せられてる。
ハンバーガーが運ばれてきたので、毒島さんはマスクを外して仕方なくそれに口をつけました。本当は食べる間もなく喋りたいのに、仕方なくハンバーガーを食べました。生まれて初めて食べるその食べ物を、毒島さんはおいしいとも不味いとも感じませんでした。
川崎さんも食べました。川崎さんは毒島さんと違って、実においしそうにハンバーガーを食べます。口に出して「うん、おいしー!」といいながら、とびっきりの笑顔で食べます。
ああ、この子は何をしても魅力的だな。と毒島さんは思いました。
こんなにおいしそうに食べてくれるんなら、誰だってこの子のために料理を作りたくなるだろうな。きっとこの子は笑っているだけで人からなんでも貰えるだろうな。クラスのみんなとあんな風に争って別れても、きっとみんなの方から仲直りをお願いしてくるんだろうな。みんなから愛されてきっと一生幸せだろうな。いいなあ。いいなあ。
思いのほか時間は早く過ぎ、太陽はもう傾いていました。二人がサボった学校も、とっくに終わってしまった時間です。
毒島さんは、ずっと川崎さんと喋っていました。
それも喋っていたのは川崎さんではなく、いつの間にか、殆ど毒島さんが喋るのを川崎さんが聞くだけになっていたのです。毒島さんはそれに気付いて戸惑いました。
川崎さんが言いました。
「今日は毒島さんと話せてよかったわ」
毒島さんは急に恥ずかしくなって俯いてしまいました。
そして、食べるために外していたマスクがそのままだったことを思い出し、慌てて付け直しました。しまった。ずっと素顔で喋っていたなんて。なんて馬鹿な私。馬鹿。
「あのう」
毒島さんが話しかけると、川崎さんはにっこり笑って話に耳を傾けてくれました。
「その、毒島さんって呼ぶの、やめてくれる? 嫌いなの、その名前」
毒島さんは今まで、自分の名前について人に文句を言ったことなんか一度もありませんでした。川崎さんが初めてです。
「下の名前、なんだっけ?」
「キミコ」
「じゃあキミちゃんね!」
「キミちゃん……」
不思議な響きでした。小学校の頃からずっと、ブス島ブス島と呼ばれてきた毒島さんにとって、その名前はまるで自分以外の誰かのことのようでした。
「私の名前は悠子だから、ユウちゃんって呼んで!」
「……ゆう……ちゃん」
川崎さんは「ハイ!」と可愛らしく返事をしてくれました。
ひょっとして……
毒島さんは思いました。
ひょっとして、この人、私の友達ってことになるのかしら。