第十五話 捨てといて
毒島さんは、家に帰る気にはなれませんでした。足が動くのに任せて町の中をふらふらと歩いていると、いつの間にか駅近くのハンバーガー屋さんの前にまで来ていました。
以前、川崎さんと二人で入ったハンバーガー屋さんです。川崎さんと友達になった場所、生まれて始めて友達というものを知った場所です。
誘われるように毒島さんは店の中に入りました。なんとなく窓際の席に座り、窓の外の景色を眺めました。もう冬でした。
店員さんがやってきて、そういえば注文をしなければいけないんだなと気がつきました。味噌カツバーガーを注文すると、それは期間限定メニューだったのでもうありませんと言われたので、仕方なくので普通のハンバーガーを単品で注文しました。
注文したハンバーガーは、驚くほど早く届きました。注文を取りにきた店員さんが去るのをボーっと眺めていると、いつの間にか目の前にあったのです。毒島さんはそれを食べようと思いました。ところが、手を伸ばそうとする毒島さんの目の前で、別の手によってハンバーガーが奪い去られてしまいました。
「あ……なにするの」
ハンバーガーを取ったのは、どうやら塚田君のようでした。いつの間に、そして何故、彼が自分の目の前の席に座っていたのか、毒島さんには全く分かりません。
「……何してんの?」
訝しがる毒島さんの目の前で、塚田君は包みを開いてハンバーガーに噛りつきました。
「もう冷めきってんな、これ」
「ちょ……私の」
塚田君は毒島さんなどまるで存在しないかのように、ハンバーガー一個を瞬く間に食べきってしまいました。適当にそして包み紙を丸めながら言います。
「代わりの奢ってやるよ。何でもいいぞ」
「別に要らない」
「すいませーん、焼肉バーガーセット二つ!」
ろくに話も聞かず、塚田君は勝手に注文してしまいました。このシチュエーションは毒島さんに何かを思い出させるようです。
ふと気がついて、毒島さんは窓の外を見ました。お昼ごろだと思っていたのに、いつの間にかもう夕方でした。塚田君がさっき食べたハンバーガーは、冷め切っていたどころかそろそろ乾燥し始めていたことでしょう。何時間も椅子に座ってボーっとしていたのでは、ハンバーガーを取られてもしょうがないなと毒島さんは思いました。
焼肉バーガーセットが二セット運ばれてきました。塚田君は毒島さんのハンバーガーを食べたのに、まだ食べるつもりのようです。どう言うつもりかは分かりませんが、毒島さんはとにかくこの場を離れたい気持ちでいっぱいでした。男の子と話すのは苦手です。
「マズイことになったな」
毒島さんの気持ちを知ってか知らずか、塚田君は落ち着いた様子で話し始めました。
「もうクラス中の奴らがお前がやったと思い込んでるぞ。今回の事件」
「え……」
毒島さんは思わず顔を上げました。塚田君はなんてことない顔をして焼肉バーガーをもぐもぐしています。
……私がやったと『思い込んでる』? 今この人はそう言ったのかしら。
「あんたは思い込んでないの?」
「ああ。俺は今回の事件、川崎悠子の仕業だと思ってる。証拠はないが」
ごくん。と毒島さんは唾を飲み込みました。
「お前、何か知っていることがあったら言ってくれよ」
……どうしよう。この人は、ひょっとしたら私の味方になってくれるかもしれない。
毒島さんは迷いました。塚田君が自分にとって有利な証言をしてくれたら、毒島さんにかかった疑いは晴れるかもしれません。でもそうしたら、川崎さんはどうなってしまうのでしょう。友達だと思っていた川崎さんは。
「私は何も知らないよ」
毒島さんは、思わずそう口にしていました。ポテトをつまむ塚田君の手が止まります。
「本当か?」
「本当」
毒島さんは声の震えをごまかすために、急いで焼肉バーガーを口に詰め込みました。小食な毒島さんにはこのハンバーガーのボリューム感は結構こたえます。
「俺と川崎悠子がしばらく付き合っていたのは、お前知ってるだろう」
「……シラナイ」
「嘘つけ。本人がお前のお陰で付き合えるって言ってたんだぞ」
「……し……知ってた」
毒島さんは動揺して、むせてしまいました。それが落ち着くのを待ってから、塚田君は続きを話します。
「いいか? あいつに告白された時、俺ははっきりした返事はしなかったんだ。そしたらアイツはこう言った。じゃあ今度一日デートして、それで付き合えそうかどうか決めてくれ、と。俺は納得して、試しに一日だけアイツと付き合うことにした」
毒島さんはなんだかちょっと赤くなりました。それを悟られないようにマスクの位置を直そうとして、食事中なのでつけていなかったことに気付きました。恥ずかしさが二倍ぐらいになりました。
「付き合ったのはその一日だけだったが、アイツの様子はおかしかった。少なくとも告白した相手と始めてデートするというような浮かれた感じじゃなかった。どちらかと言うと上の空で、うわべだけで楽しんでいるフリをしていたな。俺ははっきり言って腹が立ったね。自分で付き合ってくれと言っといて一体なんなんだと思った。しかし、それで次の日学校に来てみると、いつの間にか俺と川崎悠子はもう付き合っていることになってた。アイツが噂を流していたんだ」
「え? そんな……」
「そこで俺はアイツにハッキリ言ってやろうと思った。お前と付き合う気はないから、勝手に変な噂を流すな、と。だが俺がそれを言う前に、アイツの方が俺を呼び出して、この前の話は無かったことにしてくれ、なんて言ってきやがったんだ。ろくに俺の意見も聞かず、何から何まで一方的にだ。しかもな! それも何故か俺がフッたことにされてたんだぞ! 一晩寝ただけで用済みになって酷い振り方をされたとかアイツが言いふらしやがったんだ。何だその目は! 寝てねーよ!!」
塚田君があまりに興奮して大声で話すので、毒島さんは身の縮まる思いがしました。これだから男の子は苦手です。怯えている毒島さんに気付いて塚田君は「あ、ごめん」と申し訳なさそうにしました。
しかし、今の話は毒島さんの知っている話と隋分違いました。毒島さんは二人が付き合い始めてすぐに酷い別れ方をして、川崎さんが傷ついているんだと思っていたのに。それに、今の話ではどこにも毒島さんの作った惚れ薬が出てきません。
「塚田君は、ユウちゃんに何か食べ物とかもらわなかった?」
「は?」
「あ、いや……」
川崎さんはせっかく毒島さんが作った惚れ薬を使いもしなかったのでしょうか。それじゃあ一体、どうして塚田君に告白して、そして自分からすぐに別れなくてはならなかったのでしょう。
塚田君が言いました。
「いいか? つまりだ、アイツは俺と付き合って、それから別れて傷つけられたという設定が欲しかっただけなんだ。どういうことかというとだな、ここからは俺の予想の話になるんだが……」
塚田君は一度落ち着いて口の中のものをジュースで流し込み、話し始めます。
「川崎悠子が、なぜこんな噂を流さなければならなかったのか。それはつまり、毒島、お前を騙すためだと思う。川崎はまずお前に近づき、そして俺に告白するに当たっての相談やら手助けやらをお前に求めた。詳しい事情は俺は知らないがそうなんだろう? そうすることでお前に、『俺と川崎の仲に一枚噛んだという責任』を植えつけたかった。そして俺たちは破局し、川崎の狙い通り、二人の仲を取り持ったお前はひどく責任を感じたはずだ。そして自分のせいで傷ついた友達という立場を利用して、川崎はお前に何か頼みごとをした」
「……」
毒島さんは黙ってそれを聞いていました。
「なぁ、毒島。川崎は何かお前に要求しただろ? 違うか?」
毒島さんは黙っていました。
「頼むよ。俺はお前に対して怒らないし、誰かに告げ口もしない。俺はただ川崎悠子が許せないだけだ。な、お前が川崎に頼まれて、武田先生を殺した『毒』を用意したんだろ? ……多分、最初は俺を殺すためという名目で頼まれたんだろうけど、お前を責めたりはしない。俺たちは二人とも、川崎に利用されたんだ。最初から川崎は毒を手に入れるため、『武田先生を殺すために』お前に取り入ったり、俺を女を使い捨てにする下衆野郎に仕立て上げたりしたんだからな。俺はあの先生が嫌いじゃなかった。だから川崎悠子を許すことはできない。お前だってこのままじゃ先生殺しの犯人に仕立て上げられてしまうのに、黙ってられるのか? なぁ頼むよ。一緒に警察に行ってくれ。俺一人の証言じゃ弱いんだよ」
毒島さんは……。
毒島さんは黙って焼肉バーガーを食べ始めました。塚田君と比べて毒島さんの食べる速度はずいぶんゆっくりでした。ボリューム満点のハンバーガーとポテトとジュースのセットを毒島さんが少しずつ少しずつ食べるのを塚田君も黙ってじっと見守りました。
毒島さんは考えていました。今から少し昔のことを。
私は、顔が可愛い人は何をやっても上手くいくのだと思っていた。自分は何もしなくても回りの人が世話を焼いてくれるし、黙っていてもちやほやしてくれるし、ただ立っているだけでどんどん友達が集まってきて、どんどん幸せになっていくんだと思っていた。
それに比べて自分は不細工だから、何をやっても上手くいかないし、友達も出来ないし、疎まれて、蔑まれて、一生を不幸に過ごさなければならないんだと、そう思っていた。
でも、それは違ったんだ。
あんなに可愛くて、魅力的で、頭もいい川崎さんでも、必ず幸せになれるとは限らなかった。友達に嘘をついて、クラス中のみんなを騙して、恋人になれたかも知れない人を裏切ってでも、誰かを殺したいほど憎まなければならないなんて、そんなの幸せじゃない。
塚田君だってそう。カッコよくて、女子みんなから好かれているのに、ある日突然酷いプレイボーイの疑いを着せられて、一度付き合った人を警察に突き出そうとしてるんだ。きっと辛い気持ちだ。
私は不細工かもしれないけれど……。誰も、私を可愛いとは言ってくれないけれど……。でも、ちゃんと友達ができた。短い間だったけれど、とても幸せな気持ちになれた。
顔は関係なかったんだ。私はずっと、醜さや背の低さのせいにして、自分の生まれつきのせいにして、幸せから逃げていたんだ。
私はきっと、ユウちゃんのおかげで救われた。ユウちゃんにとって私は、毒を手に入れるための道具に過ぎなかったのかもしれないけれど、それでもいい。あの子はやっぱり私の友達だ。今度は私があの子を救ってあげる番なんだ。
「決めた。私、ユウちゃんに会いに行ってみる」
毒島さんは言いました。
塚田君は深刻そうな顔をして、毒島さんの顔を見つめました。
「止めたほうがいいぞ。アイツの言うことは全部嘘ばっかりだ。また騙されることになる」
毒島さんは塚田君に微笑みかけました。彼女のこんな表情を見たのはおそらく塚田君が初めてでしょう。あまりにも意外だったので塚田君は思わず言葉を失ってしまいました。
「あんまりユウちゃんを悪く言わないで、塚田君。大切な友達なんだ。ユウちゃんのこと、許せないかもしれないけど、私はやっぱりまだ信じてあげたいよ。きっと何か理由があるんだ。会って話を聞かなくちゃいけないと思う」
それはとても清々しい表情でした。悩みなんかまるでなさそうな、屈託の無いほほえみです。うそ臭さのない笑顔です。
「お前、そういうコト言う奴だったんだ。知らなかった」
塚田君はこの時始めて、自分が今まで毒島君子の顔を少しも見ていなかったことに気付きました。マスクを外した毒島さんは、塚田君が思っていたほど醜くも不気味でもありませんでした。
「ここの代金、塚田君持ちだよね」
「あ? ああ、うん」
「悪いね。ご馳走様。私早速ユウちゃんの家に行ってみる。こうやって決心がついたのも塚田君のおかげだよ。ありがと」
毒島さんは鞄を担ぐのももどかしそうに、急いで席を立ちました。
そのまま走り去ろうとした背中を塚田君が呼び止めます。
「おいっ、忘れ物だぞ!」
その手には白いマスクが掲げられていました。
今までずっと毒島さんの素顔を隠してきたマスクです。
「要らない! 捨てといて!」
毒島さんはろくに振り返りもせずに、風のように去って行きました。
塚田君は残されたマスクを掴んだまま、呆気に取られるばかりでした。