第十三話 人体実験
その日、教室はいつもより静かでした。
毒島さんは時間どおりに学校にやってきました。クラスの女の子たちは毒島さんの姿を見ても何も言いません。遠くで集まってひそひそと何か相談しています。ときおり何人かがちらりとこちらに視線を送ってくるところを見ると、おそらく、毒島さんのことで何か話し合っているのでしょう。あんな騒ぎを起こした後ですから、きっと何か毒島さんにとってよくない話にちがいありません。
でも、毒島さんはそんなことは少しも気にしませんでした。それよりもっと重大な問題があるからです。
川崎さんは、まだ教室には来ていないようでした。
それから……塚田君も。
昨日、毒島さんは川崎さんに人を殺せる薬を渡しました。
人一人を殺すのに十分な量を、管理しやすいように水で薄めて小瓶につめて渡しました。受け取った川崎さんは「ありがとう」とわずかに笑みを浮かべて、それから「ごめんね」と小さく付け加えました。
そのさらに前の日には、毒島さんは電車に乗って遠く離れた町に行っていました。そして駅前のハンバーガー屋さんで、一番安い普通のハンバーガーを一つ、お持ち帰りで注文しました。包みを受け取ると、今度はその足で駅へ戻り、公衆トイレの個室に篭りました。
そして震える手で包みを開くと、ハンバーガーの上のパンを取り、その裏側に持ってきた毒薬をしみこませました。それからまた元通り蓋をして、開いたことが分からないように慎重に包み紙に戻しました。指が震えるのでとても苦労しました。全てやり遂げる頃にはもうハンバーガーは冷めかけていました。
公衆トイレを出た毒島さんは、毒入りハンバーガーの入った紙袋を抱えて駅近くの公園までやって来ました。おぼつかない足取りでなんとかベンチにたどり着いた頃には全身が汗だくでした。
毒島さんは公園の中をよく観察しました。砂場では5歳位の子供たちが転げまわって遊んでいます。あの子たちはベンチの上にハンバーガーが置いてあるのを見たらよく考えずに食べてしまうかもしれません。公園の裏手の林にはブルーシートのテントが集まっています。ああいう所で生活する人たちは落し物や忘れ物でも食べられるものはありがたく頂いてしまうでしょう。昼間なのにブランコで遊んでいる寂しげなサラリーマンは、お昼ご飯も満足に食べずにお腹を空かせているかもしれません。
毒島さんはだんだん呼吸が苦しくなってきました。世間話をしている奥さんも、隣のベンチで語り合っているカップルも、公園の入り口を通り過ぎていくお爺さんも、みんな毒島さんが紙袋を忘れて帰るのを今か今かと待ち構えているようにさえ感じます。
吐き気がしました。まるで自分で毒を飲んでしまったみたいに意識が遠のいていきます。あと少しで袋を抱えたまま失神するところでした。それでも毒島さんはずっとベンチに座ったまま、脂汗を流して公園の人々を観察していました。どれぐらいそうしていたのか、気がつくととっくに日が沈んでいました。最終電車の時刻さえ近づいていました。毒島さんは紙袋を大事に抱えたまま立ち上がり、ふらつきながら駅に向かいました。
……結局、毒島さんは人体実験をすることができませんでした。毒の入ったハンバーガーは、家に帰る前に100円のライターを買って、川原でこっそり燃やしてしまいました。夜の闇の中で炎が赤く揺れるのを見ていると、まるで悪夢から覚めたように心が落ち着いていくのを感じました。全てが完全に灰になってから、燃えカスを川に流しました。これならもし毒素が燃え残っていてもその毒性は限りなくゼロになるまで薄まるはずです。川は汚れてしまいますが。
毒島さんの家には、まだ毒薬の瓶がありました。川崎さんに渡しても、まだ半分以上中身が残っています。でも、それはもう魔法の小瓶ではありませんでした。毒なんかあっても自分には使えない事を知ってしまった毒島さんは、永遠に魔法の薬を失ってしまったのです。
私にはあの薬は使えなかったけれど、ユウちゃんは使えるのかな。もし使えるのなら、それはきっとユウちゃんに人を殺すだけの理由があるってことだよね。そう思いながらも毒島さんは、心臓が割れそうに痛むのを止められませんでした。今日、もし塚田君が学校に来なかったら……。
教室の扉が開くたびに、肺が締め付けられる思いをしながら確認します。また、塚田君ではありませんでした。川崎さんも来ません。もうすぐ朝礼が始まってしまいます。
時計の針は無慈悲に進み、とうとうチャイムが鳴りました。その音は毒島さんの耳に酷い耳鳴りになっていつまでも響きました。
……その音に紛れてガラッと扉が開きました。
「あぶねー、ギリギリセーフ」
そして、塚田君が元気そうに教室に駆け込んできたのです。
毒島さんは思わず立ち上がっていました。それも、椅子が倒れるぐらい勢いよく。その音でみんなの視線が一瞬だけ毒島さんに集まりましたが、音源が毒島さんだとわかるとみんな何も言いませんでした。
毒島さんは、ほっと胸を撫で下ろしていました。よかった。とにかく今日は何もなかったんだ。ユウちゃんは来てないけど、塚田君はまだ生きていた。
塚田君に続いて、先生が教室に入ってきました。見慣れない顔だと思ったら、それは学年主任の太田先生でした。太田先生は手際よく生徒たちを席につかせると、教卓に立ってこう言いました。
「皆さんに、残念なお知らせをしなければなりません」
急に教室の温度が下がり、何もかもが凍りついたように感じました。教室中の人間が沈黙し、時間までも凍りついたかのようです。
それは、本当は1秒よりも短い間のことでしたが、毒島さんにとっては永遠に近い沈黙でした。もう少しで凍った時間が端からほつれて無限の闇に落ちるんじゃないかと思い始めた頃、やっと太田先生は口を開きました。
「このクラスの担任武田先生が、昨晩亡くなられました」