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雨が降っていた

作者: ak

 雨が降っていた。


 会社に電車で通っていた私は酔った勢いのまま友達と線路に近づき駅員にこっぴどく叱られたようだが、もちろんそんなこと頭の片隅にも残してはいなかった。何より問題なのは愛する妻と人類の宝と言っても過言ではないであろう娘が二人で私のことを心配していただろうということだ。さらに言うなら妻が心配から怒りに変わってリビングで阿修羅のごとく待ち構えているかもしれないということだ。私は思わず身震いをしてしまった。これはきっと雨のせいではあるまい。


 そもそもの発端は同僚の佐々木のせいである。佐々木という男は何かとお酒の好きな奴で家にビールからワイン、ブランデー、日本酒とくれば米酒、芋酒、麦酒に濁り酒まで常に常備しているというつわもので、あの男の家に行けば最後、その日はアルコールと一緒にブレイクダンスを踊ることになる。家庭もちの間では「だから結婚できないんだ」「しかし楽しそうな家だ」と哀れみ半分、羨み半分の目で見られている。


 もちろん、佐々木自身もそんなこと百も承知で自分の家を宅飲み場として提供する代わりに酒を多めに持ってこさせて残りを自分で飲むという驚くべきギブアンドテイクの形を作っていた。かくいう私自身も大学時代は随分お世話になったものだ。


 そんな佐々木は今日、いや昨日、仕事帰りに満面の笑顔で私に近づいてきた。私は嫌な予感はしたものの、どうした、と訪ねた。すると突然私の肩に手を置いてこの頃は不景気だな、どこの取引先も返事を渋っていけない、と言ってきた。私は曖昧な返事をするしかなかった。言葉と表情が全く別だったからである。お金なら貸せない。それは佐々木の奴だって分かっているはずだ。しかし、いいニュースがある、佐々木は言った。俺の知り合いが経営している飲み場が特別に安く席を空けてくれるそうだ、どうだ、お前と俺でひとつ席を埋めてやろうじゃないか。


 私は酒が嫌いなほうじゃない。大学時代もよくご馳走様が聞こえなかったものだ。しかし、今は家庭持ちである。妻は晩御飯を毎日、日記に付けて一週間のうちで同じものが出ないように気を使ってくれる優しい女性だが怒ると涙ひとつ流さず本を読み始める。こうなると機嫌を戻してくれることは容易ではない。そして、私と彼女が結婚式で交わした約束は何より家庭を優先させよう、ということなのだ。


 そして、一番問題なのは娘である。娘は私が夜遅くに帰ってくる事情も分かる歳ではないが、毎日、私や妻の布団にもぐりこんでくる可愛い癖がある。彼女を悲しませることはあまりしたくなかった。


 私は佐々木に何とか言い訳をしようと頭の中で断りの言葉を考えた。しかし、私の切り返しはいささか遅かったと後で頭痛のする頭で考えれば結論付けるしかなかろう。そのとき、私たちの上司が近づいてきた。付け加えるならその人も無類の酒好きである。


 そして芋づる式に人が増えていき、断ることはできなくなっていた。自分の流されやすさをうらむしかないわけである。


 目を覚ませば駅の椅子に座っていた。駅委員はもちろんいない。終電もとっくに過ぎている。私はどうしようかと宙を見上げた。雨が降っている。


 隣にいたはずの佐々木はとっくにいなくなっている。ひとりだけ電車に乗ったということもないだろうからタクシーでも拾ったに違いない。私も徒歩で帰るつもりもないので同じようにしなければならないだろう。


 この辺りではタクシーが蛇のごとく歩道に沿って並んでいた。私は近くのタクシーを覗き込んだ。寝ている。あえて起こすのも面倒なので次のタクシーを見た。運転手自体がいないではないか、ひどく馬鹿にされた気がして蹴ってやろうかとも思ったがやめておいた。アルコールが残っているせいかいささか沸点が低くなっているようだ。タクシーを覗き込み続けるのは何だか恥ずかしいので、あえて走っているタクシーを止めてみることに下。


 手を上げて待っていると一台のタクシーが私の前で止まった。お客さん、どこまで、運転手が聞いてくる。顔は見えないがなかなか渋い声だ。私は家の住所を告げると財布の中身を思い出す。お金が足りないということはないだろう。


 無言の状態が続く。私は妻に電話したときのことを思い出していた。飲み会を断りきれなかった旨を伝えると妻はしばらく無言だったができるだけ早く帰ってきてね、と言った。現状をどうかんがみても全力疾走したところで遅かろう。明日は家族サービスをして夕方にはケーキを買ってあげよう。女性というのは甘いものが好きな生き物である。ケーキを買ってきたときの妻と娘の反応は似ている。そうなると妻の態度もケーキのように甘くなるのだ。私は困ったときはケーキに頑張ってもらっている。ケーキと私は家庭の中で心強い友となっているといっても過言ではない。


「そういえば」


 いきなり運転手が話し始めた。車の中は私と彼しかいない。私は慌てて返事をした。少し声が裏返っていたかもしれない。


「この前、卜部伸介を乗せましたよ」


 そうですか、と私は返事した。卜部伸介とはイケメン芸能人で通っている俳優である。会社の女性陣も知らない人はいないだろう、知らないなどと言えば世間知らずのレッテルを貼られてしまう。この歳になると世間の流行についていくのも大変である。


「やっぱりイケメンでしたね、仕草から話し方まで颯爽としていましたよ」


 そうですか、とやはり私は返事した。


「私ほどじゃありませんでしたけどねぇ」


 その言葉に私ははぁ、と返事といえるのかも怪しい声を出してしまった。何だ、自慢がしたかっただけか。できれば二日酔いに移行し始めている私にはやめて欲しかった。


「そういえばですね」


 まだ続くのか。


「戸田純一を見ましたよ」


 戸田純一とはやはり近頃、人気の激しい俳優である。このごろ大河ドラマにも出場が決定しているらしい。妻も私も大河ドラマは見ないのであまり知らないのだが。とりあえず、そうですか、と返事をしておいた。


「やはりイケメンですね」


 はぁ。


「まぁ、私ほどではなかったですけどねぇ」


 そうですか。卜部や戸田よりもイケメンとは随分な自信を持っているようだ。しかし、言うだけならタダである。会社の後輩にも同じような奴がいる。しかし、そういうことを言う人に限ってそうでもなかったりするのだ。それにさして興味もなかった。


「そういえば」


 また同じ事を言い始めた。できれば黙って欲しかった。


「この間、三田鉄平を乗せましたよ」


 そうですか、イケメンでしたか。


「そうですねぇ、ま、私ほどじゃないですけどねぇ」


 そうしてしばらくこのやり取りが続いていた。私はそれをはぁ、か、そうですか、で流しながら早く家に着かないものかと、それだけを考えていた。雨は相変わらず続いている。勢いが弱まることも強まることもなく降り続いている。この調子なら外に出かけて家族サービスをする必要もなさそうだ。


「着きましたよ、お客さん」


 気がつくとタクシーは止まっていた。見慣れた家がある。私は財布を取り出してお金を出した。運転手がお金を受け取るために振り向く。


「あ」


 思わず私は声を出してしまった。運転手の顔はイケメンだったのである。俳優といわれると、そういうことに疎い私は納得してしまうだろう、昔はさぞかしもてたであろう整った顔立ちだった。


「ありがとうございました、またご利用ください」


 そう言って微笑みかける様子はまさに光源氏のごとくであった。つまるところ自慢でも誇張でもなく本当のことを淡々と述べていただけであった。

 

 私は何ともいえない気持ちを胸にタクシーを降りたのだった。


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