「披露宴は中止にしておいてくれ」――婚約破棄されたので、用意していた百人分の料理は私のお客様にお出しします
「シュゼット、僕たちの婚約はここで終わりにしよう」
だしぬけに告げられた別れの言葉に、胸が凍りつきました。
私の屋敷の小さな客間で、百年の歴史を誇る名門、モントルヴェル侯爵家の三男であるリシャール様は、紅茶のカップを戻しながら言いました。
「終わりに――――と、おっしゃいますと」
「言葉のとおりだよ。僕はカミーユと結婚することにした。七日後の披露宴は中止にしておいてくれ」
「何を、おっしゃっているのか、わかりません。披露宴には百人を超えるお客様がいらっしゃいます。すでに会場の大広間も、お料理も、すべて準備が済んでおりますのに。今から中止だなんて、皆様にどうご説明するのですか」
「だからこそ、今日のうちに言いに来たんじゃないか。けじめをつけないのは君にも悪いかと思ってね。うちの親戚には僕のほうから話を通しておく。招待客への手紙は、いつもどおり君のほうで出しておいてくれないか」
リシャール様は、困ったようにまゆを下げてみせました。これまで私が披露宴の打ち合わせや、季節のお茶会の日取りを持ちかけたときにも、面倒な相談から逃げる前によく見せた顔でした。
昨年、婚約が決まってから、私はリシャール様の妻になる日をずっと楽しみにしてきました。
披露宴の会場選びも、招待状を送る作業も、料理の打ち合わせも、「君に任せるよ」とすべて私一人に押しつけられてきました。
それでも、たまに私の選んだ花やお菓子をほめてくれるリシャール様のことが、私は確かに好きだったのです。
リシャール様は背もたれに体を預けたまま、平然と言いました。
「先週、二人で披露宴の席順を決める約束をしていただろう。あの晩は、カミーユといたんだ」
あの晩、私はリシャール様を、ずっとお待ちしていました。
「そろそろ行かなくちゃと言ったら、彼女が服のそでをつかんでね。『もう少しだけ、私のそばにいて』って」
リシャール様のまゆがほどけました。その言葉を思い出すだけでも嬉しいのだと、すぐに分かる顔でした。
「幸せな気持ちでいっぱいだったのに、後日、君から手紙が来ただろう? 席のお返事を待っている方がいるから、いつ来ますか、って。興ざめだよ、まったくさ。君はいつもそうだ。僕が会いに来ても、打ち合わせだとかお客様の話だとかばっかり。僕のことなんか見ちゃいない」
「二人で席順を決めようと言ったのは、リシャール様です」
「そうだったかな? 覚えてないよ。僕が来なかった時点で気を利かせてもいいもんだ。君が決めておいてくれればよかったんだよ。披露宴の支度だって、結局ほとんど一人でできただろう」
リシャール様は軽く肩をすくめました。
「カミーユは僕が行くだけで嬉しそうにしてくれる。あれこれ面倒くさいことも言わない。君もさ、ただただ僕に会いたいと言ってくれたら、違っていたかもしれないね」
会いたかったのです。
二人でご相談したかったのです。
お話を、したかったのです。
私たちの披露宴に来てくださる方々の席を、リシャール様と二人で並んで決めたかったのです。彼と結婚したかった。二人で一緒にお客様を迎えたかった。
「終わりだよ、終わり。僕は責任をもって君に打ち明けた。招待客への手紙は君に頼みたい。理由は、君が急な病気で寝込んだことにしておいてくれ。君、頭いいんだから、うまくやってくれよ」
――何をおっしゃっているの。このお方は。
「私のせいだと、私が病気になったせいだと、書けと言うのですか」
「ああ。式の直前に花嫁が倒れたとなれば、招待客だって深くは聞かないだろう。しばらく休みが必要だと書き添えておけば、あとで婚約がなくなっても僕の家に傷はつかない」
リシャール様は、自分の思いつきに満足した顔でうなずきました。
「あ、そうだ。君の体調が悪くて式をやめるとなれば、会場や料理の取り消しにかかるお金も、裕福な君の家で払う形にしたほうが自然だよね? それがいい。そうしようよ」
あまりの言い分に言葉を失いました。
彼の瞳が、何を言うでもなく、私に述べました。
……立場をわきまえな……
……言うことを聞かなければ……
……どうなるか、わかるよね……と……
何かがぷつりと切れました。
「お断りいたします」
私の声に迷いがなかったからか、リシャール様が初めて驚いて目を見開きました。
「断るって、君ねえ……。そんなに頭が悪かったっけ? 中止の連絡ひとつ送れない女だと? 僕をがっかりさせないでくれよ。連絡がなければ、七日後に客が会場へ来てしまうだろう。迷惑だ。君はそんなに常識のない女だったのか?」
「披露宴の中止は、私から皆様にお知らせします。ですが、私の病気を理由にはしませんし、嘘偽りで私の家が責任をかぶる形もお受けできません。婚約がなくなったため、式を取りやめると正直に書きます」
「何を言っているんだ。まるで僕が直前に騒ぎを起こしたみたいじゃないか」
「あなたこそ何を言うのですか! 事実ではありませんか。お父様とお母様にも、今すぐ私から報告します!」
語調が強くなる私に、リシャール様は顔をしかめて、立ち上がりました。
「ずいぶん強気じゃないか、シュゼット。けれど、後悔するのは君のほうだよ。モントルヴェル侯爵家との結婚話がなくなったと知れたら、世間がどう見るか考えてみるんだな」
リシャール様は自分の上着のすそをはらうと、不機嫌そうにドアを開けて部屋を出ていきました。
廊下を遠ざかる足音が消え、玄関のドアが閉まる音が響きました。
部屋のすみで待っていたメイドのニナが、心配そうに駆け寄ってきます。
「お嬢様、大丈夫でございますか」
「ええ、ニナ。ありがとう」
強く答えようとしたものの、目元に涙がにじみました。三年間の思い出と、信じていた未来が、たった数分の会話で壊れてしまったのです。
――どうしよう。
まずは、お父様とお母様にすべてを話さなければいけません。予定を空けてくださっていた方々へ、正直におわびの手紙を書かなければなりません。リシャール様はおやりにならないでしょうから――
*
翌朝、侯爵家から返事が届きました。披露宴の費用は両家で出す約束でしたが、向こうは一銭も払わないというのです。会場も料理も当家の名前で頼んでいたので、かかった費用はひとまず支払うしかありませんでした。
「なんとひどい裏切りだ。つらい思いをさせてしまったね、シュゼット」
幸い、お父様とお母様は味方になってくださいました。
私から事情を聞き、最初は声も出ないほど驚き、リシャール様の言い分に強く怒りました。
お父様はすぐにモントルヴェル侯爵家へ使いを送り、婚約破棄の手続きを始めることになりました。
私はその日のうちに自分の部屋にこもり、招待客の皆様へ、披露宴の中止を知らせる手紙を書きました。結婚の式を取りやめることになったと短く記し、日取りを空けてくださっていたことへの深いおわびを添えました。
中止の理由は、両家の都合、とのみ書きました。リシャール様の悪口を書き並べるような、恨みつらみの手紙にはしたくありませんでした。
手紙をすべて送り出し、ようやく一息ついた次の日の午後のことです。
私は両親のいる居間を訪ねました。
「お父様、お母様。ご相談がございます」
披露宴の会場として予約していたのは、王都の緑地に面した『白鹿の銀匙亭』でした。開いてまだ三年ほどですが、料理がおいしく給仕も行き届いていると評判の館です。爵位こそ男爵ですが、領地の経営でゆとりのある私のベラック男爵家でも、家族の祝い事や会食で、何度も足を運んできました。
「今回は百人を超える披露宴でしたので、館の大広間を貸し切りにし、特別な食べ物の材料や、大勢の給仕の方々を手配いただいておりました。今から披露宴を中止にしても、取り返しがつきません」
お父様は静かにうなずきました。
「そうだな……。侯爵家との費用の話は進めているが、館の主人や料理人たちに悪いところはない。支払いはきちんとしなければならん」
「はい。そこでお願いなのですが――もしよろしければ、その同じ日の夕方に、食事会を開かせていただけませんでしょうか。私たちが普段から仲良くしている方々だけをお招きして、お料理を食べていただくのです」
私は両親の顔を見て、自分の考えを伝えました。
「結婚の披露宴ではなく、私個人の名前でお出しする、小さな食事の席です。気心の知れた数人の方に来ていただいて、お料理で温かくおもてなしできれば、私の気持ちにも区切りがつくと思うのです。せっかく『銀匙亭』にご用意いただいた料理を、すべて使ってさしあげることは、難しいと思いますが……すべて無駄になってしまうのは、嫌なのです」
「仕方がないな」と、お父様は言いました。「いい考えだと思うよ、シュゼット。招待状を送ってみなさい」
両親の賛成を得て、私の胸にようやく小さな明かりが灯りました。ただ、急な誘いですから、私が今から声をかけられるのは、ほんの数人でしょう。だとしても、ならばせめて、私が本当に会いたい方々と静かにテーブルを囲みたかったのです。
私は自分の部屋に戻ると、新しい紙を取り出しました。両家の印が入った厚紙ではなく、私が普段から使っている淡いクリーム色の便箋です。
まずは、いつも私をかわいがってくださる年老いたラロッシュ男爵夫人や、音楽会で親しくしているボーモン男爵夫妻などに宛てて、私の名前で招待状を書き上げました。
*
次の日の昼下がり、私は手紙を出した足で『白鹿の銀匙亭』を訪ねました。
「シュゼット様、お待ちしておりました」
きれいに手入れされた前の庭を抜けて邸内に入ると、出迎えてくれたのは館の主人でした。若いながらに落ち着いた態度と、すっと伸びた背筋が印象的な男性です。
私の家が以前からこの館をよく使ってきたこともあり、食事や今回の披露宴の準備で何度も顔を合わせ、今では気安く話せる間柄でした。披露宴の打ち合わせでは、彼はいつも私の話に耳を傾けてくれて、季節の花や料理の相談に乗ってくれていたのです。結局、リシャール様には一度として顔を出していただけませんでしたが……。
「先ほどお父上の使いの方から、披露宴が取りやめになったと聞いたところです。おつらい中、わざわざ足を運んでくださり、ありがとうございます」
控えの部屋で向かい合うと、館の主人は穏やかな、けれど心から気遣う目で私を見てくれました。
「こちらこそ、直前にこのようなことになり、大変なご迷惑をおかけして申し訳ございません。お金はすべてお支払いします。そのうえで、ご相談があるのです」
私は、同じ日の夕方に、食事会を開きたいのだと伝えました。
「大広間と百人分の準備をしていただいているのに、私からお声をかけたのはごく親しい数人だけですので、ずいぶん寂しい席になってしまうのですが。せっかくのお料理を少しでも味わっていただきたくて」
「なんですと――」
館の主人は怪訝な顔をされました。
「――よろしいのですか?」
「はい。父と母にも相談いたしました」
「こちらとしては大変ありがたいことです。料理長も大層残念がっておりましたから。ぜひご協力させてください。お客様が何人でも、私たちは心をこめておもてなしをいたします」
「ありがとうございます。本当に心が軽くなりますわ」
私がほっとしてほほえむと、館の主人は少し考えるように視線を動かし、それから静かに口を開きました。
「早速ですが」館の主人は言いました。「ひとつご提案があります」
「ええ、なんでしょう」
「先日、この館の常連であるマルソー子爵夫妻がお食事にいらした際、あなたの話をなさっていたのです。以前、ロビーで奥様が足をひねりそうになったとき、シュゼット様がすぐにいすを勧めて、馬車が来るまで楽しく話し相手になってくださったと」
館の主人は、続けました。
「ぜひまた、あなた様とゆっくりお話ししたいと言っておられました。よろしければ、今回のことをお伝えしましょうか」
私は驚いて、思わず顔を上げました。
「まあ、マルソー子爵夫妻がそのようなことを? 私もぜひまたお会いしたいと思っておりました。でも、こんな直前のお誘いではご迷惑になりませんでしょうか」
「大丈夫ですよ。あちらが望んでおられることです」
「では、さっそく帰って書きますね」
夕方、私がマルソー子爵夫妻へ招待状を送ると、次の日の朝一番で『ぜひ夫婦で行きます。シュゼット嬢とまたお話しできるのを楽しみにしております』という喜びの返事が届きました。
これで終わりではありませんでした。館の主人が、ほかの常連の貴族や、音楽会の世話役の方々にも「シュゼット嬢が食事会を開かれる」とさりげなく話をつないでくれたのです。
ラロッシュ男爵夫人やボーモン男爵夫妻からも、「あなたとお食事をしてお話ししたいと願っている友人たちがいるのだけれど、紹介してもいいかしら」と次々に手紙をいただきました。
ご紹介いただいた方々には、私から改めて招待状をお送りしました。父や母にも手伝ってもらい、使いの者たちは王都を忙しく行き来することになりました。
出席を知らせる頼りが、束になって届きました。母のお茶会でお迎えした方もいれば、父の会食で一度だけお会いした方もいました。私のことを覚えておいでだとは思わなかった方ばかりです。
〈娘が初めてお茶会に出た日、刺繍の話が合いそうだからと、隣の席のご令嬢を紹介してくださいましたね。あの二人は今では毎週のように手紙を交わしております。招待状を見せたら、今度は自分からシュゼット様に話しかけてみると申しております〉
〈王都に着いたばかりの頃、私と同じ地方のご出身だという男爵夫人を紹介してくださいましたね。まさかこの街で、子どものころに通った祭りの話ができるとは思いませんでした。あの方とは今も手紙を交わしています。シュゼット嬢に、直接お伝えしたかったのです〉
〈先日の園遊会で、栗毛の馬の話を延々とした男を覚えておいでですか。あれはうちの愚弟です。家では誰もあんなに長く聞いてやりません。先日やっと乗ることができたみたいで、どうしてもシュゼット様に報告したいと申しております。連れていってもよろしいでしょうか〉
〈シュゼット。例の恋愛小説の続編、先日発売されましたわね。お読みになりましたか。私、あの結末に納得がいきません。どう思うかぜひ聞かせてちょうだい。語り合いましょう。あなたのような人を裏切ったバカな男の悪口だって言ってやりたい! ああ、私の騎士を同行させてもよろしいですか? あらましを伝えたところ、ひょっとすると面白い展開になりそうです、などと言い出して……〉
〈先日の会食で、叔父と父を隣にするのをやめて、二人の間に孫たちを座らせてくださいましたね。おかげで最後まで領地のモメごとの話が出ませんでした。あの二人の破裂寸前の顔色を見抜いて、しかしさりげなく、いとも簡単に黙らせた見事な手際――あの席順は、今でもうちで語り草です。喜んでうかがいます〉
数人だけのつもりだった食事会に、百人を超える方が来てくださることになりました。これなら、披露宴のために仕入れた食材も使い切れそうです。
*
食事会の当日の夕方がやってきました。元の披露宴のために用意していた席がすべて埋まり、急いでいすを足さなければならないほどのにぎわいとなりました。
「シュゼット様、今夜のお魚料理、本当に素晴らしいお味ですわね。それに、あなたが選んでくださったこの白ワインの香りの良いこと」
「ありがとうございます、ラロッシュ男爵夫人。料理長が今朝から腕をふるって仕込んでくれたのですよ。奥様のお口に合って嬉しいです」
私は淡い緑色のドレスを着て、テーブルからテーブルへと歩き、招いたお客様一人ひとりと親しく言葉を交わしました。家の体面や堅苦しいあいさつではなく、料理を囲みながら、音楽や庭の花、最近の出来事について笑い合う声が広間じゅうに満ちています。
入り口の近くでは、黒い礼服姿の館の主人が、給仕たちに静かに指示を出しながら、会場を見守っていました。
そのときです。大広間の重いドアが、外から荒々しく開かれました。
「なんだ、これは。どうしてこんなに人がいるんだ」
入り口のざわめきに気づいて私が足を止めると、そこに立っていたのは、招いてもいないリシャール様でした。
「リシャール様。どうしてこちらへいらしたのですか。今日の披露宴は中止になったと、すでに両家で確認が済んでいるはずですが」
「披露宴は中止でも、君が同じ日にこの会場で食事会を開くと聞いたからだ。どうせ君が急に呼べる客なんて数人だろうし、顔ぶれもうちの親戚くらいだろうと思ったんだよ。あいさつの一つもしておかなければ、あとで僕が礼儀知らずだと言われるだろうが!」
彼は広間を見渡したまま固まりました。
「なのに――どういうことだよ。これは。侯爵家の親戚も取引先もいないのに、どうして席が全部埋まっているんだ!」
ドアのそばにいた館の主人が、静かに進み出て、私とリシャール様の間に立ちました。
「恐れ入りますが、お客様。今夜は貸し切りの会となっておりますので、お招きの方以外はご遠慮いただいております」
「誰だお前は。ここの支配人か? 招かれていないだと? 僕はモントルヴェル侯爵家のリシャールだぞ! ここはもともと、僕の披露宴に使うはずだった会場だ。館主ごときが、僕を追い返そうっていうのか。名を名乗れ!」
「ヴァレンヌ公爵家の跡継ぎ、ラインバウト・ド・ヴァレンヌと申します」
――――沈黙。
周りのお客様が息をひそめました。館の主人、ラインバウトと名乗った若き男性は、まゆひとつ動かさず、リシャール様を見すえていました。
「ヴァ――ヴァレンヌ公爵家の、ラインバウト様……!?」
リシャール様の顔が真っ青になりました。ヴァレンヌ公爵家といえば、王国最高峰の身分にあられる名家のなかの名家です。跡継ぎであるラインバウト・ド・ヴァレンヌ様の名は、私も聞いたことがありました。けれど、いつも私の話を優しく聞いてくれていたこの館の主人が、まさか公爵令息様だったなんて思いもしませんでした。
「ご理解いただけましたか。モントルヴェル侯爵家の三男坊殿。今夜ここでお客様を迎えているのはシュゼット嬢だ。彼女の人徳あってのこの結果とはいえ、ほうぼう手を尽くして声をかけるのは骨が折れたよ。貴公をお招きした覚えはない。私の『銀匙亭』には入れてあげられないな」
「うそだ、どうして公爵様の跡継ぎが、こんな館の主人にッ……給仕だとか料理だなんて、くだらない仕事をッ……!」
「うそかどうか、くだらないかどうか、お父上、モントルヴェル侯爵に確かめてみるがよいでしょう。貴公が立場をかさに切ると言うのなら――なんなら、ヴァレンヌ家の印をお見せしようか? 魔除けの銀の角をいただいた白鹿の印を」
彼が一歩踏み出すと、リシャール様はひっと、変な声をあげて後ろへ下がりました。
「し、失礼いたしました!」
リシャール様は頭を下げました。客席からの冷たい視線にいたたまれなくなって背を向け、慌てふためいて館の外へ走り去っていきました。
ドアが静かに閉まると、私はまだ心臓がどきどきと鳴っているのを感じながら、彼を見上げました。
「あの。あなた様、は」
館の主人としての彼は、まったく違う名前を名乗っていた。正体を隠しておられた。理由は皆目見当もつかないけれど――
「本当に、ヴァレンヌ公爵家の、ラインバウト様でいらっしゃるのですか」
彼は私を振り返ると、先ほどまでの剣呑な雰囲気をすっと消し、いつもの館の主人の穏やかな顔に戻ってほほえみました。
「驚かせてしまって申し訳ありません。詳しいお話は、この会が終わったあとに必ずいたします。さあ、今はあなたの大切なお客様方がお待ちです」
「は――はい」
私はとまどいながらも深くうなずくと、気持ちを切り替えて広間の方へと向き直りました。
「皆様、お食事の途中に騒がしくなりまして申し訳ございません。ちょうど温かいお肉料理が運ばれてまいりましたわ。どうぞごゆっくりお召し上がりください」
私が笑顔で声をかけると、広間にはすぐにまた温かな拍手と楽しい話し声が戻ってきました。
*
食事会が大成功のうちにお開きとなり、お客様を最後の一人まで馬車で見送ったあと、ニナには扉の近くで控えてもらい、私はラインバウト様と大広間に残りました。
給仕たちも広間の片付けを終えて下がり、照明の火が半分落とされた静かな広間で、私たちは窓際の丸テーブルの前に立っていました。
窓の外では、夜風に揺れる庭の並木が明かりに淡く照らされています。
「今夜は本当にありがとうございました。あなたが皆様に話をつないでくださり、あの場でも私をかばってくださったおかげで、最後まで無事に会を終えることができました」
私が改めておじぎをすると、彼は静かに首を振りました。
「お礼を言うのは私のほうです、シュゼット嬢。これまでずっと自分の名前と身分を隠して接していたことを、どうかお許しください」
「どうして、公爵家の跡継ぎであるあなたが、家の名前を隠してこの館をやっていらしたのですか」
私が尋ねると、彼は一度庭に目をやり、それから私を見て話し始めました。
「私は、生まれた家がヴァレンヌ公爵家であるというだけで、若い頃から周りに頭を下げられ、特別扱いを受けてきました」
彼は静かな声で続けました。
「それがどうしても息苦しくて、三年前に父に頼み込み、家の名前を一切出さない約束でこの館を立ち上げたのです。公爵家の力に頼らず、私自身の働きだけでお客様が来てくださる場所を作ってみたかった」
私はこれまでの彼を思い返しました。どんなお客様に対しても真面目に耳を傾け、テーブルの並べ方ひとつにも気を配っていた彼の姿。長い時間をかけて真剣に磨き上げられた所作でした。
「とはいえ、『白鹿の銀匙亭』を始めたばかりの頃――若かった私は、仕事にもお客様への対応にもまだ慣れていませんでした。食事の時間になっても、ろくに席が埋まらない日もありました」
言いながら、懐かしいものを見る顔になられました。
「そんな頃から、貴方がたは――ベラック男爵家は、何度もこの館を使ってくださった。お母上の隣で、少し恥ずかしそうに感想を話すあなたの姿を、今でもよく覚えています」
「……お、覚えておられたんですね……」
少しばかり恥ずかしかったです。
というのも――心から感動的だったのです。
美味しかったのです。すごく。ものすごく。
それはもう語りすぎてしまうほどに。
……『お魚料理のソースがとてもおいしかったです! 外がフワフワで、中がカリカリで……あっ、逆です。外がカリカリで、中がフワフワで。最初はそのままいただいたんですけれど、ソースをつけたらそちらもおいしくて。次のひと口はどちらにしようか迷っているうちに、お魚を全部食べてしまいました。それで、残ったソースをパンにつけてみたら、それもおいしくて、パンをもうひとつ……あの、すみません。おいしかったとだけ申し上げるつもりだったのに。……次も、あのお魚をお願いしてよろしいですか?』……
「ふふ――料理長は私の友なのです。どのレシピも二人で必死に考えました。あなたの笑顔が見られて、手を叩いて喜びあったものですよ。以来しばしば足を運んでくださり、食事会にも使っていただけて、館の主人として、ただただありがたかった」
彼の声が、少しずつ熱を帯びていきました。
「けれど、やがて予約の帳面にベラック家の名前を見つけると、次は何をお出しすればシュゼット嬢が喜んでくださるだろうかと考え始めました。お迎えする日は、まだ約束の時間には早いと分かっていても、つい玄関の方を見てしまう。そうして何年も顔を合わせ、季節の花を眺めるあなたの横顔や、笑ったときの表情を一つずつ覚えていくうちに、私は、あなたがこの館に来てくださる日を心待ちにするようになっていました」
低い声が響きます。
「去年の春、入ったばかりの給仕が、間違ってあなたのドレスのすそにソースをこぼしてしまったことがありましたね」
私ははっとして、当時の記憶をたどりました。
「私が館の主人として謝りに行くと、あなたはドレスの汚れよりも、青ざめて震えている若い給仕の手を気遣ってくださった。私に向かって、少しもいばることなくこう言われたのです。『お料理がおいしくて、私がお皿に体を乗り出しすぎてしまったのですわ。どうか彼をしからないであげてくださいね』と」
彼は、一歩私に近づきました。
「あなたは私をただの平民の主人だと思っておられたのに、いつも温かく、一人の人間として私に接してくださった。家の名前を持たない私を、ありのままに見てくれたあなたに、私はずっと前から恋をしていました」
私の胸が、熱いものでいっぱいになりました。
「だというのに、私は――情けないものです。家格が違いすぎる、身分が高すぎると思って、あなたに気持ちを伝えるのをためらっていました。しかし、あなたがリシャール殿と結婚すると知ったとき、どれほど胸をかきむしられる思いがしたか。あなたが幸せならと、自分に言い聞かせていたのです。よりによって、あなたをあんなふうに見くびる男だったとは」
彼は。ラインバウト様は、私の前に右手を差し出しました。
「もう、同じ間違いはしません。これからも、この館であなたと一緒にお客様を迎えたい。父には私から話します。シュゼット、私と結婚してください」
静かな大広間に、その言葉だけが響きました。
公爵家の跡継ぎという身分を知った驚きよりも、目の前にいる人が、私があの控えの部屋で、そしてこの広間で何度も言葉を交わしてきた彼なのだと感じる喜びがこみ上げてきました。
私は自分の胸に手を当て、それから顔を上げてラインバウト様を見ました。
「ラインバウト様。いいえ、私にとっては、まずこの素晴らしい館の主人であるあなたにお答えさせてください」
ラインバウト様が、息を止めて私の言葉を待っているのが分かりました。
「披露宴の準備をリシャール様にすべて任されて、私一人で途方に暮れていたときのことです。この館で、あなたはたびたび、相談に乗ってくださいましたね。どれほど心強かったか。あなたが私の選んだ花をほめてくださり、あの窓から見える夕日の美しさを語ってくださるひとときが、私には何よりの救いでした。けれど、リシャール様との結婚の相談を引き受けながら、このような気持ちを抱いてくださっていたなんて……」
私は一歩前に出て、差し出された彼の大きな手に、自分の両手をそっと重ねました。
「あなたがどこの家のどなたであっても、私の気持ちは変わりません。私も、館の主人として知り合ったあの頃から、あなたとお話しする時間が大好きでした。喜んで、お受けいたします。私を、あなたの隣に置いてください」
私の言葉が終わると、ラインバウト様は止めていた息をゆっくりと吐き出しました。そして、これまで見た中で一番柔らかく、幸せそうな笑顔を浮かべました。
私の手を、彼の温かな両手が優しく、けれど決して離さない強さで包みました。
「ありがとう、シュゼット。必ず、あなたを幸せにします」
*
それから一ヶ月ほどのあいだに、周りの事柄は驚くほど順調に片付いていきました。あの夜の食事会に使った分は私たちベラック男爵家で支払い、食事会に回せなかった結婚の衣装や飾りつけなどの取消料は、一方的に別れを言い出したリシャール様の側がすべて払うと決まりました。
リシャール様はどうやら、お相手の方とはうまくいかなかったようです。なんでも、彼女は平民の娘だったそうなのですが、リシャール様が何の覚悟も根回しもないまま、ただ可愛らしいからと自分のものにしようとした結果、当の彼女に逃げられてしまったのだとか。おまけに一連の顛末や、ヴァレンヌ公爵家に無礼を働いたことが、侯爵様の耳に入って大目玉。厳しい謹慎処分が下されたと聞きました。
一方で、ラインバウト様がご自分の言葉でヴァレンヌ公爵様にお話をしてくださったおかげで、公爵家からも温かく私たちの婚約を認められ、準備が始まりました。
ある晴れた日の午後、私は自分の部屋の机に向かい、一枚の淡いクリーム色の便箋を広げていました。
後ろで紅茶を入れていたメイドのニナが、私の手元をのぞき込んでほほえみました。
「お嬢様。ご準備しておきますね」
「ええ、ニナ。ありがとう。特別なお客様をお招きするの」
私はペン先にインクをつけ、ひと文字ずつていねいに書きました。
『来週の土曜日、私の家で夕食をご一緒していただけませんか。庭の見える窓辺に、二人分のお席を用意してお待ちしております』
差出人は、シュゼット・ド・ベラック。そしてあて名は、ラインバウト・ド・ヴァレンヌ様。一枚の招待状が、私を一番大切にしてくれる人のもとへと届けられるのでした。
このたびはお読みいただき、ありがとうございます!
今回は「教科書通りのド真ん中ストレート」を意識して、清く正しいなろう逆転劇を作り込んでみました。
やんごとない人のスマートなざまぁからしか得られない栄養素、あると思います。
楽しんでいただけたら、下の☆☆☆☆☆から評価をお願いします。ブックマークも励みになります。




