牛舎の飾りと呼ばれ乳量を盗まれましたが、署名済みの受取簿で私の乾酪名義を取り戻します
「こちらが、うちの牛舎の飾りでして」
ボグダンが笑った。
笑うには、朝が早すぎる。
デスピナの両袖からは、夜明け前に搾った乳がまだ滴っている。十八頭分だ。髪にも藁が一本刺さっている。飾りにしては働きすぎである。せめて乾いた布でも掛けてから展示してほしい。
「ラズヴァン監査官には、私が帳簿をご説明します。この娘は牛の顔を眺めているだけですから」
「飾りに夜明けの搾乳を任せる牧場とは、ずいぶん勇敢でございますね」
ボグダンの笑いが薄くなった。
「デスピナ。監査官へお茶を。それから出荷帳を持ってこい。余計な口は利くな」
来客へ向けていた丸い声が、デスピナに届くころには牛追い棒のようになっていた。
卓上の帳簿には、管理者ボグダンの名が並んでいる。搾乳量も、飼料の調整も、乾酪を型から外した日も、実際に書いてきたのはデスピナだ。ところが王都へ出る書類になると、彼女の名だけがきれいに消えた。
数字の空は快晴。名義のあたりだけ局地的な濃霧である。
契約を監査するラズヴァンは、その霧よりひどい顔色で帳簿を開いた。右手の指が震え、紙の端を二度つかみ損ねる。隣には手をつけていない硬いパン。冷たいお茶。
「昨年より納入量が増えていますね」
「私が飼料を見直しましたので」
見直したのはデスピナだった。冬前に干し草の配合を変え、乳の落ちる牛だけ豆殻を増やした。
「乾酪の出来も私が毎日確かめております」
確かめていた時間、叔父は借財の取立人から逃げていた。
デスピナは反論せず、ラズヴァンの前から冷えた茶を下げた。
「何をしている」
「乳粥を温め直します」
「監査官は帳簿を見に来たんだぞ」
「ですからです」
空腹の人間が見る数字には、雨が降る。契約停止などという雷まで落とされたら、共同牧場で働く二十世帯がまとめて焦げる。
青い縁取りの陶椀へ乳粥をよそい、刻んだ干し果実を少しだけ落とした。ラズヴァンは匙を取ったが、震えた先が椀の縁へ当たった。
「結構です」
「四口だけ召し上がってください」
「監査中です」
「一口目も監査のうちに数えます」
ラズヴァンがデスピナを見た。冷たい帳簿係と恐れられる目は鋭かったが、その下には眠れていない者の紫色が沈んでいる。
一口。
二口目には、匙の音が小さくなった。
四口目を飲み込むと、彼はようやく紙の同じ行を三度読むのをやめた。
「残りは後ほど」
「残してよいのですか」
「椀は逃げません」
契約も逃がすつもりはない。そちらには、足をつけて卓へ縛ってでも残ってもらう。
* * *
「手首を出してください」
「なぜです」
「擦れております」
「職務に支障はありません」
「先ほど、頁ではなく卓をめくろうとなさいました」
ラズヴァンは卓の縁へ置いた右手を見た。指の付け根は赤く、手首には帳簿を押さえ続けた跡がある。
薬草を混ぜた軟膏を塗ると、彼はひどく不本意そうな顔をした。眉間だけ豪雨。逃げなかったので、処置への同意票は一票と数えておく。
「痛ければおっしゃってください」
「痛くありません」
「では、もう少し強く塗ります」
「……痛みます」
「正確な申告をありがとうございます」
その夜、デスピナは客室の寝台へ毛布を一枚足した。ラズヴァンは帳簿を抱えたまま横になろうとしたので、取り上げて枕元へ置く。
「眠っている間に記録は逃げません」
「あなたは何でも逃げないと言いますね」
「逃がさない仕事をしておりますので」
翌朝、青縁の陶椀は空になった。
「一椀、完食。監査官の眉間だけ、まだ荒天です」
「六時間眠りました」
自分で驚いたらしく、ラズヴァンは寝台脇の時計をもう一度見た。
細切れだった眠りが六時間。四口だった乳粥が一椀。匙を握る指はまだ揺れるが、昨日より振れ幅が小さい。
彼は月別欄を上から追い、途中で指を止めた。
「春二月の出荷量。ここの前に一行ありませんか」
昨日は飛ばした行だった。
「ございます」
「その原簿は」
「公開の卓でお見せします」
眠った目は、ようやく数字の切れ目を見つけた。
* * *
「公開照合を求めます」
デスピナは目的も証拠も隠さなかった。
コスティンが保管する署名と受取印入りの月別受取簿。働き手二名の印がある搾乳簿。製造日を書いた熟成札。
三つを、同じ卓へ並べた。
「私の記録だけでは採用しないでください。コスティンさんの受取印と一致し、働き手の印および熟成札で製造日までつながる記載だけを、訂正の対象にしてください」
仕掛けはない。あるのは数字だけ。数字は牛より従順で、餌をやらなくても同じ場所にいる。
ラズヴァンは受取簿へ伸ばした右手を途中で止めた。
「上司からは、不一致が一件でもあれば契約を停止するよう指示されています」
「承知しております」
「停止されれば?」
「二十世帯が販路と給金を失います」
「それでも公開するのですか」
「隠せば、来月も叔父さまの借金が乳を飲みます。牛より大食いです」
ラズヴァンの口元が、ほんのわずかに動いた。
そこで身体のほうが限界を申告した。彼の額から汗が落ち、受取簿の手前へ黒い染みを作る。
「ラズヴァン監査官。今日はここまでです」
「まだ確認できます」
「その汗で署名を流すおつもりなら、別ですが」
湯で絞った布を額へ当てる。湿った寝具を替え、乳粥を温め直す。昼食は半分で止まったので、残りを少量ずつ別皿へ移した。
翌日は一皿入った。
目の下の紫色は薄まり、署名練習の線が枠を横切らなくなった。右手の震えは一行で戻った。次の日には二行。さらに翌朝、三行続けて出なかった。
身体という帳簿は正直だ。睡眠六時間、朝食一椀、昼食一皿。天候、回復傾向。
デスピナは毎朝、彼が飲み込む速さに合わせて匙を置いた。急げば咳き込む。遅すぎれば乳粥が冷える。監査より加減が難しい。
三日目、空になった青縁の陶椀を下げようとすると、ラズヴァンがその縁を押さえた。
「毎朝、同じ時刻に温め直し、私の飲み込む速さまで覚えている」
「牛にも食べる速さの違いはございます」
「私を牛と同じ欄へ入れないでください」
「では監査官欄を作ります」
「それを職務ではなく、好意だと受け取ります」
手が止まった。
椀の乳面に浮いていた小さな泡が一つ弾ける。
そこを正面から監査するとは聞いていない。契約の付属条項にもない。不意打ちである。
「受け取りの署名を求めますか」
「今は求めません」
ラズヴァンは青縁から手を離した。
「まず、私が自分の判断へ署名します」
彼は上司の指示書を閉じた。契約停止の文字が隠れる。
「停止命令へ追従すれば、私は責任を上へ返せます。しかし、空腹と不眠のまま選んだ結論を、回復した今の私が引き継ぐ理由はない。公開照合を行います。継続か停止かは、記録を確定した後に私の名で判断します」
枠の中へ署名が収まった。
食べて眠った手で、彼は自分の判断を選んだ。
晴れた。
ようやく監査官の頭上だけ、雲が切れた。
* * *
「では、春二月分から確認します」
村の公証人は質問と復唱しかしなかった。
余計な情けも、親族への気遣いもない。たいへん結構。公的な場では、愛想より余白の少ない記録が役に立つ。
卓の周囲には、牧場の働き手たちが並んだ。コスティンも受取簿の正本を持っている。ボグダンだけは上着を新しくし、管理者の銀色の留め具を襟元へつけていた。
「ずいぶん大げさだな」
ボグダンは働き手たちへ聞こえる声で笑った。
「娘の遊びを帳簿仕事と呼ばれても困る。なあ。こいつは昔から数字を書いて、大人の真似をするのが好きだった」
隣の働き手へ同意を求める目が動く。返事はなかった。
「叔父さま、霧が出ているのはご説明の周りだけです。数字はよく見えます」
「黙れ。お前は聞かれたことだけ答えろ」
来客へは笑い、デスピナへは命令する。いつもの空模様である。
公証人が受取簿を開いた。
「春二月。王都向け乾酪、九十六輪。受取人、コスティン。持込人、ボグダン。受取印あり。双方の署名あり。相違ありませんか」
コスティンが自分の印を指で押さえた。
「相違ありません。この数量を受け取った相手の名は変えられません」
「九十六輪を持ち込んだ者は、ボグダン。復唱します」
公証人の筆が走った。
「搾乳簿を」
デスピナは開いた頁を差し出した。
「春二月。デスピナ担当、十八頭。合計二千八百八十杯。働き手二名の印あり」
「そんなもの、後からいくらでも書ける!」
ボグダンの声が急に大きくなった。反撃してこない姪を叱るときの声だ。
公証人は顔も上げない。
「後から書いたと主張しますか」
「そうだ。この娘が監査を邪魔するために書き換えた。私の名義を盗むつもりだ!」
名義を盗んだ本人から名義泥棒と呼ばれる日が来るとは。人生の天候は読めない。だが雷雲が叔父の頭上に居座っていることだけは、よく見えた。
「印を押した働き手は」
二人が一歩出た。
「夜明け一番、十八頭。桶数を数えてから印を押しました」
「飼料変更後は、夕刻分も増えた。記入はその日のうちです」
「誰の指示で飼料を変更しましたか」
「デスピナです」
「誰が乳房の傷と搾乳量を照合しましたか」
「デスピナです」
「誰が記入しましたか」
「デスピナです。俺たちは桶を洗う前に数字を読み上げ、合ってから印を押しました」
作業の返答には飾りがない。牛舎で使う言葉は、乾いた藁のようによく燃える。
公証人は二人の回答を復唱し、日付とともに記録した。
ボグダンが鼻を鳴らした。
「細かな作業は任せていた。それだけだ。管理したのは私だ。子供に牧場全体の判断などできるものか」
「製造分を確認します」
熟成札が卓へ出された。
春二月の乳量二千八百八十杯。三十杯ごとに一輪。製造数九十六輪。札には製造日、型から外した日、熟成庫へ移した日が書かれ、すべてデスピナの筆跡だった。札の裏には運び込んだ働き手の印。
「搾乳簿二千八百八十杯。熟成札九十六枚。月別受取簿九十六輪。数量は一致」
公証人が一つずつ復唱するたび、ボグダンの口元から笑いが減った。
「偶然だ」
「毎月ですか」
「牧場の仕事なら一致して当然だろう!」
「一致する記録を作った者は」
「だから、細かな記入は娘に任せたと言っている!」
「製造責任者は」
「管理者である私だ!」
「九十六枚の熟成札に、あなたの確認印がありません」
「家族の仕事に、いちいち印など押すか」
「王都への精算書には、九十六輪の生産責任者としてあなたの名があり、署名があります」
公証人が精算書を横へ置いた。
「いちいち印を押さない仕事について、責任者として署名した。復唱します」
「言葉尻を取るな!」
ボグダンの手が卓を打った。
ラズヴァンが受取簿を押さえた。右手だった。青縁の陶椀の隣で、指は動かない。
「ラズヴァン監査官の確認など信用できるものか!」
ボグダンがそこへ食いついた。
「来た日は匙も持てず、同じ行を何度も読んでいた! そんな男の監査は無効だ。上司の命令どおり契約を止めればいい!」
契約が止まれば二十世帯が職を失うと知っていて、叔父は言った。自分の署名が照らされるくらいなら、牧場ごと暗くしたいらしい。
ラズヴァンは訂正記録を自分の前へ引き寄せた。
「私の健康状態は記録の数量を変更しません」
「だが、その手は震えていた!」
「はい」
ラズヴァンは署名欄へ一行目を書いた。
監査日。二行目。
公開照合を選んだ責任者名。三行目。
筆先は三本とも枠内で止まった。
「今は震えていません。過去に震えた事実も隠しません。その状態で契約停止を選びかけたことも記録へ残します。回復後、私はその判断を撤回し、証拠の照合を選びました」
公証人が署名を確認した。
「監査官の右手に震えなし。三行の署名を確認。復唱します」
ラズヴァンは青縁の陶椀へ視線を落としたが、何も付け足さなかった。
その沈黙だけで十分だった。
公証人がボグダンへ向き直る。
「質問します。王都向け精算書の生産責任者欄へ、あなたの名を書いたのは誰ですか」
「私だ。管理者だからだ」
「デスピナが記録し、デスピナが製造を指揮した九十六輪について、あなたが自分の名を書いた。相違ありませんか」
「牧場の成果は管理者の成果だ」
「質問へ答えてください」
ボグダンの頬から赤みが引いた。
「……私が書いた」
「誰かに強制されましたか」
「されていない」
「デスピナの名が記載されていた月について、精算書を作り直しましたか」
ボグダンの目が、卓の端へ逃げた。
「書式を統一しただけだ」
「誰の判断で」
「私の判断だ」
「デスピナの名を消し、あなたの名へ付け替えた。あなたの判断。復唱します」
筆が紙を擦る音がした。
一筆ごとに、叔父の逃げ道が板で塞がれていく。釘まで公証済み。たいへん眺めがよろしい。
「生産責任者への加算金は、九十六輪分で銀貨九十六枚です。受取簿ではボグダンが受領しています。牧場会計へ入金しましたか」
「入金はしていない。牧場のために使った」
主語が大きくなった。困ったときだけ牧場は叔父の外套になる。
「何を購入しましたか」
「必要なものだ。飼料や、修繕や、いろいろだ」
「購入記録を」
「急な支払いだった」
「支払先を」
「村の外だ」
「名称を」
「覚えていない」
公証人は一つずつ復唱した。
「購入品、特定できず。支払先、特定できず。領収書、なし」
コスティンが短く言った。
「支払日は分かります。私が銀貨九十六枚を渡したのは春三月三日です」
公証人が日付を書いた。
「春三月三日、コスティンさんから受け取った銀貨九十六枚を、どこへ支払いましたか」
ボグダンの喉が動いた。
「牧場を守るための借金だった」
「借財の契約者は」
「私だ」
「使途は」
「……私の取引だ」
「牧場会計への記載は」
「ない」
「生産責任者加算金、銀貨九十六枚。ボグダンが受領。私的借財へ支出。本人の回答として記録します」
叔父自身の言葉が、叔父の首へ札を掛けた。
デスピナが何年説明しても、家族の揉め事で片づけられただろう。けれど受取印と署名と本人の回答は、家の戸を越える。
これでようやく、盗まれたものが「気のせい」ではなくなった。
「訂正条件を読み上げます」
公証人が新しい記録を開いた。
「春二月分、乾酪九十六輪。生産責任者、デスピナ。以後、照合の完了した各月も同様に訂正する。監査責任者、ラズヴァン」
ラズヴァンが署名した。
「乾酪商コスティン。数量と受取記録の一致を認めます」
コスティンが署名し、自分の印を押した。
「働き手二名。搾乳簿と熟成札への印を認めます」
二つの印が並んだ。
最後に公証人の封印が押された。
働き手たちの視線が、一斉にデスピナへ向いた。
ボグダンはもう笑っていなかった。
よし。
乳量は晴れ。名義も晴れ。叔父の頭上だけ、返済期限つきの雷雨である。
「契約は停止しません」
ラズヴァンが告げた。
「不正を行った管理者個人を、生産者二十世帯から切り離します。正しい生産責任者名へ訂正し、納入を継続します」
誰かが息を吐いた。牛舎で一日働いた後のような、長い音だった。
二十世帯の給金も、販路も残る。
叔父を助けるためではない。叔父が食い破った穴を、働いた者の名で塞いだのだ。
* * *
ボグダンへの条件は、その場で記録された。
銀貨九十六枚を含む不正受領分の返済。乾酪の買付権と精算書への署名権を放棄。共同牧場の管理者を退き、給金制の飼育係として監督を受けること。
「家族だぞ、デスピナ」
ボグダンは署名欄の前で初めて、その言葉を使った。
「はい。ですから、返済が終わるまで所在の分かる場所で働いていただきます」
「私を追い出すのか」
「残っていただく条件をご説明しております」
家族だから赦すのではない。責任を払い続ける者として残す。そこを叔父は最後まで取り違えたが、取り違えたままで構わない。署名は理解より長持ちする。
ボグダンは管理者の銀色の留め具を外した。
公証人の前へ置く。
代わりに飼育係の木札を受け取り、返済条件へ署名した。命令を待っていた働き手の一人が、初日の担当を告げる。
「西柵、泥落とし。終わったら十八頭分の水桶です」
「私にそんな仕事を」
「給金制の飼育係への指示です」
公証人が復唱した。
「ボグダン、管理権を放棄。飼育係として勤務開始」
叔父の肩が落ちた。
役割は変わった。責任は消えていない。
その日の夕方、ラズヴァンは別の書面をデスピナへ差し出した。
「王都へ同行してください」
「監査報告のためですか」
「それもあります」
「ほかには」
「あなたを、ここへ一人で残したくありません。搾乳も当面禁止します。牛舎の鍵は私が預かります」
回復した判断力はたいへん結構だが、過保護まで元気いっぱいに育っている。乳粥に何か余計な肥料を入れただろうか。
デスピナは書面を引き寄せた。
「三箇所、訂正を求めます」
「三箇所も」
「一つ。休養日は双方の合意で決める。二つ。王都への同行は毎回、双方の承諾を要する。三つ。私の仕事と牛舎の鍵を、ラズヴァン監査官が無断で取り上げない」
「あなたは休みません」
「監査官は食べませんでした」
「それとこれは」
「同じ書面に載せられます」
ラズヴァンは黙って三条件を書き加えた。
「鍵を預かりたい場合は」
「申請してください」
「却下されますか」
「理由が曇っていれば」
「同行は」
「認めます。牛舎の鍵まで預けるとは申しておりません」
彼は条件の下へ署名した。今度の線も枠内に収まっている。
「では、この条件で、私との交際も認めていただけますか」
真情の前では、数字も役に立たない。
デスピナは彼の右手を見た。もう震えていない。その手は彼女の仕事を囲い込もうとし、止められれば書面へ戻り、条件を引き受けた。
「条件つきで」
「十分です」
「違反時は再交渉です」
「厳しいですね」
「回復なさった方には、相応の判断を期待しております」
成立後を長々と味わう暇はなかった。翌朝には、公証人が訂正版を二十世帯の前で掲げたからだ。
「王都向け乾酪契約。生産記録を訂正。管理者権限の変更を確認。契約継続を確認」
一項ずつ、よく通る声で読み上げる。
飼育係の木札を下げたボグダンも、列の端にいた。彼が消してきた名は、もう彼の手の届かない封印の下にある。
公証人が最後の一行を読んだ。
「生産責任者、デスピナ」
二十世帯の顔が彼女へ向いた。
牛舎の飾りを見る目ではない。今日の乳量を預け、明日の飼料を尋ねる相手を見る目だった。
デスピナは空になった青縁の陶椀をラズヴァンへ返した。彼が受け取る。その指は揺れなかった。
「デスピナ、朝の搾乳が終わった」
働き手が叔父の返事を待たずに報告した。
「十八頭、合計九十六杯。昨日より四杯増えた。記録を頼む」
デスピナは自分の名が印刷された新しい搾乳簿を開いた。
「承りました。数字は快晴です」




