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翠蘭帝国宝石記~没落妃を救い、劇物茶師と共謀し、孤独な皇子に帝王学(麻雀)を教える勝負師の職人生活~  作者: 寝不足魔王


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第70話:無垢なる尖塔、職人の楽園

 翠蘭帝国の北限を越え、名もなき荒野の果てに辿り着いたレンたちの前に、それは「世界の綻び」そのものとして鎮座していた。

 星読みの長が流刑の地で最期に練り上げた、呪いと執念の結晶体――「虚無の黒曜石」。

 高さ一丈を超えるその漆黒の塊は、周囲の光を反射することなく、むしろ貪欲に飲み込み続けていた。石が放つ不気味な脈動は、大気を物理的に歪ませ、周囲の砂や岩を、底なしの沼のように中心へと吸い寄せている。

 そこに在るだけで、世界を「無」へと回帰させようとする自食の宝石。その引力に触れた荒野の岩盤は、音もなく砂へと帰り、風に舞う塵となって消えていった。


「……あは。……なんて傲慢な石。……自分がこの世で一番重いと思い込んで、周囲のすべてを道連れに心中するつもりね。……職人として、こんな『未完成な絶望』を放置しておくわけにはいかないわ」


 レンの声は、収縮する空間の影響を受け、驚くほど低く、だが鋼のような硬質さを帯びて響いた。

 彼女の目の前にあるのは、もはや宝石の形をした災厄であった。職人としてのレンの指先は、その石の表面に触れるまでもなく、内部で荒れ狂う「構造的欠陥」の悲鳴を捉えていた。石の中に閉じ込められた精霊たちは、自身の質量に押し潰され、逃げ場のない「自死」を繰り返している。

 レンは、血と泥に汚れた自身の掌を見つめ、かつてないほどに残酷で、かつ慈愛に満ちた職人の笑みを浮かべた。


「ハク! セツ! この石は、外から打っても響かないわ。……必要なのは破壊じゃない。……この自食する密度を、光を循環させる『反射の迷宮』に作り変えることよ。……ハク、あんたのその水晶の腕を、この石の回転軸スピンドルにするわよ!」


 ハクは、もはや全身の七割以上が透明な水晶へと変貌し、生身の肉体との境界線から、常に硝子が砕けるような悲鳴を上げていた。

 だが、彼はレンの言葉に一厘の迷いも見せず、その透明な左腕を、激しく震動する黒曜石の真下、霊脈の噴出口へと力任せに突き刺した。

 ギギギギギィィッ!

 ハクの水晶化した腕が、石の吸い込む引力と、自らの魔力耐性の間で軋み、火花を散らす。ハクは自らの鼓動を、無理やり魔力の回転エネルギーへと変換し、黒曜石を強引に「回転」させ始めた。


 ハクの琥珀色の瞳は、苦痛によって白濁しかけながらも、レンの指先だけを、唯一の希望として見据えていた。

 彼の肉体は今、巨大な黒曜石を削り出すための、世界で最も強固な「研磨機の軸」と化していた。回転の遠心力によって、ハクの肉体には数千斤の負荷がかかり、接合部の筋肉は断裂し、水晶の内部には、過負荷による新しい、おぞましいまでの黒い亀裂が走り始めていた。


(……腕が砕け、魂が磨り潰されようとも構わん。……私がこの『軸』を固定する一秒ごとに、彼女は絶望を光へと書き換えることができる。……騎士であった頃、私は王を護る盾であった。……だが今、私は彼女という職人が、神の理を削り出すための『一部』となれることに、かつてない至福を感じているのだ。私の肉体が石と化すのは、呪いではなく、この一瞬のためにあったのだ)


 ハクの肉体からは、石が石を削る際の、焼け付くような鉄臭い熱気が立ち上り、周囲の空間を白く歪ませていた。ハクが自らを捧げるその姿は、荒野に打ち込まれた、不動の「宿命の楔」であった。


 セツは、黒曜石が放つ負の波動に五感を奪われ、視界はすでに、何も見えない真っ白な虚無へと沈んでいた。

 だが、彼女は筆を捨て、自らの耳と、床から伝わる微かな「音の反射」に、全神経を集中させていた。セツの脳内には、記録者としての執念が、目に見える光を捨て、石の内部に響く「構造的欠陥の音」を、鮮烈な三次元の設計図として描き出していた。


「レン様! 目に見えるファセットを追ってはなりません! ……石の深層、重力が収束する座標に、一箇所だけ、光を拒絶していない『原初の隙間』がありますわ! ……そこを削り、光の出口をこじ開けてください! ……ハク様の限界まで、あと十四秒ですわ!」


 セツの声は、喉から血を噴き出しながらの叫びでありながら、一分の狂いもない論理的な冷徹さを保っていた。

 セツは、自身の鼓動を計測機とし、石の内部で反響するわずかな不協和音から、勝利への最短距離を導き出していた。彼女にとって、この「音の記録」は、自身という個を消してでも完遂せねばならない、新しい世界の創世記であった。


「――助かるわ、セツ! その『隙間』、私が一番残酷な正確さで、抉り取ってあげるわ!」


 レンは、自らの爪が剥がれ、指の腹が摩擦で焼け爛れるのも厭わず、即興の大型研磨円盤(金剛盤)を、黒曜石の最も脆い結合点へと食い込ませた。

 キィィィィィィィィィィィィンッ!

 世界の鼓膜を引き裂くような高周波が、荒野に響き渡った。

 レンの指先は、ハクが作り出した超高速の回転と、セツが導き出した座標を信じ、石の「劈開面」を逆に利用した、超高速の剥離ピーリングを開始した。


 黒曜石の不浄な層が一枚、また一枚と剥がれ落ちるたび、周囲を支配していた重力の檻が、悲鳴を上げて瓦解していく。レンの指先からは、血と石粉が混ざり合った「黒銀の霧」が噴き出し、彼女の顔を、職人衣を、無惨に、だが誇らしく汚していった。

 

「……見えたわ。……あんたが隠していた、その臆病なまでの純粋さ。……今、七百二十の鏡で、あんた自身を照らし出してあげる!」


 レンの金剛盤が、黒曜石の深奥、最も堅牢な「絶望の核」へと到達した。

 瞬間、石の内部から、これまで吸い込まれてきたすべての光が、逆流するようにして一点に収束し始めた。

 それは、崩壊から新生へと至る、職人と石の、命懸けの最終調律。

 

 レンの指先は、剥き出しの神経を摩擦熱に焼きながらも、かつてないほどに熱く、残酷に、そして優雅に、絶望の断面を削り出し続けていた。

 翠蘭帝国の呪縛を断ち切るための、最後にして最大の「研磨」が、今、臨界点を超えようとしていた。


 臨界点は、静寂と共に訪れた。

 レンの指先が、黒曜石の深奥に眠る「絶望の核」を貫き、最後の一厘を削り出したその瞬間。

 これまで周囲のすべてを貪欲に飲み込み続けていた漆黒の虚無が、一転して、内側から爆ぜるような白銀の輝きへと反転した。石の内部に閉じ込められていた精霊たちの怨嗟が、レンの手によって刻まれた「七百二十の反射面ファセット」という名の迷宮を駆け巡り、一打ごとに、一削りごとに、不純な闇を濾過ろかして純粋な光へと書き換えられていく。


 キィィィィィィィィィィィィン……!


 それは、石が悲鳴を上げる音ではなく、この世で最も硬く、最も清らかな結晶が、自らの真理を叫ぶ祝祭の調べであった。

 漆黒であった黒曜石の表面は、剥皮はくひするようにして次々と削げ落ち、その下から現れたのは、翠蘭帝国のどの宝石も、皇帝のどの至宝も及ばない、どこまでも深く、どこまでも透明な「みどり」の結晶体であった。

 レンの指先は、摩擦熱で皮膚が焼け爛れ、爪は剥がれ、節くれ立った関節からは鮮血が噴き出していた。だが、彼女はその激痛を、完成へと至るための「代償」として受け入れ、血塗られた指で、最後の仕上げとなる鏡面研磨を施した。


「……見てなさい。あんたがこの国の『闇』を背負ってきたっていうなら、その闇の深さだけ、あんたは誰よりも強く、この世界を照らすことができる。……さあ、目を開けて、新しい光になりなさい!」


 レンの咆哮に呼応するように、碧色の石が、荒野の空に向かって一条の巨大な光の柱を放った。

 その光は、歪んでいた重力の枷を粉々に打ち砕き、地平線の彼方まで、濁りのない清冽な波導となって駆け抜けていった。


 その光の直撃を、最も近くで受けたのはハクであった。

 自らを「研磨機の軸」として捧げ、ボロボロにひび割れていた彼の水晶の肉体。

 死の魔力が駆け巡り、黒ずんでいたはずのその内部に、レンが解き放った碧の光が流れ込む。

 パキィィ、パキィィッ!

 ハクの肉体から響くのは、もはや崩壊の音ではなかった。

 水晶の内部に走っていた無数の不純なひび割れ(クラック)は、光を吸い込み、万倍の輝きで乱反射させる「虹のインクルージョン」へと昇華されていく。石化の呪いは、レンの調律によって「不変の結晶体」へと作り変えられた。

 ハクの琥珀色の瞳は、光を失う代わりに、世界のすべてを見通すような、透徹した理知を湛えた碧の瞳へと変質していた。


(……ああ。……痛みが、消えてゆく。……わが身はもはや、人の形をした一石いっせきの守護神か。……管理監、貴殿の指先が、私の呪いさえも『機能』へと変えてくれたのだな。……ならば私は、この不滅の肉体を持って、貴殿が歩む未知の道の、永遠の『灯火』となろう)


 ハクは、もはや呼吸を必要としなかった。彼の肉体からは、石が太陽の光を浴びたときのような、微かな、だが力強い熱が立ち上り、レンの疲弊した身体を優しく包み込んでいた。


 セツは、光の奔流の中で、自身の両腕に刻んできた「音の記録」が、碧色の閃光と共に自動的に紙へと、そして大気へと、新しい世界の「ルール」として定着していく様を、ただ呆然と見つめていた。

 彼女の筆はもはや必要なかった。レンが石に刻んだ七百二十の面。その一つ一つが、翠蘭帝国の、そしてこの荒野の、すべての命が自らの輝きを失わずに生きるための、物理的な設計図となっていたからだ。


「……記録すべきことは、もう何もありませんわ。……歴史は今、文字を離れ、この美しい光の震動として、永遠に刻まれましたの」


 セツは、泥と血に汚れた自身の日記を、風の中にそっと手放した。

 紙は舞い上がり、光の柱に飲み込まれて消えた。

 セツの瞳には、かつての「記録せねばならない」という強迫観念はなく、ただ、新しい世界の一部になれたことへの、深淵なる歓喜だけが満ちていた。彼女は、一人の女性として、レンの隣で新しい空気を吸い込み、初めて心の底から微笑んだ。


 ついに、すべての光が収束し、レンの手元には、一つの小さな、だが世界の重みをすべて凝縮したような碧い石が残された。

 レンは、震える手でその石をキャッチし、月日の光を浴びながら、それを高く、空へとトスした。


 カチャリ……。


 それは、古い時代の終焉を告げる音などではない。

 すべての宝石が、すべての魂が、自身の屈折率で輝くことを許された、新しい時代の「第一打」。

 レンは、満身創痍の身体を、水晶の守護者となったハクに預け、薄絹を直し、地平線の向こう側を、不敵に睨みつけた。


「……宝石管理監、これにて卒業。……さて。……次局……いえ、次の街には、どんな頑固な石が、私を待っているかしら」


 レンの指先は、爪を失い、皮を裂きながらも、勝利の熱ではない、職人としての純粋な、そして残酷なまでの情熱を帯びて、かつてないほどに激しく、美しく脈動し続けていた。



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