第52話:崩壊の通奏低音、地下の雀鬼
翠蘭帝国の後宮に訪れた、かりそめの平穏。
本殿の修復が進み、リン皇子の立太子に向けた儀礼の準備が着々と整えられていく表舞台とは裏腹に、宝石監理監としてのレンの指先は、絶えず不吉な「ノイズ」を拾い続けていた。
再建された工房に持ち込まれる石たちは、磨き上げられた表面の輝きとは裏腹に、その芯が氷のように冷え切り、怯えた小動物のように細かく震えている。レンが指先でその震動を確かめるたびに、石の奥底から聞こえてくるのは、精霊たちの歌声ではなく、何かが激しく削り取られるような、乾いた不快な摩擦音であった。
その不協和音を増幅させるように、特定の周期で後宮の地下深くから、地鳴りとも打牌音ともつかぬ重厚な微震が伝わってくる。
茶師が遺したあの「無地の白い石」が、その震動に呼応して作業卓の上で独りでに跳ね、卓を叩く。レンはその不規則なリズムを、勝負師の研ぎ澄まされた直感で読み解こうとしていた。
「……これ、ただの地震じゃないわ。……誰かが、地の底でとてつもなく巨大な『山』を積み直している音よ」
レンの声は、薄絹の下で低く、低く押し殺されていた。
彼女の脳内では、見えない地下の暗闇の中で、数万の、あるいは数億の石が整理され、一つの巨大な「局」が開始されようとしている光景が、鮮明な譜面となって描かれていた。相手の顔は見えない。だが、その一打一打の重みは、すでにこの国の理を歪め、レンの指先にまで痺れるような警告を送り続けている。
その平穏を偽る地鳴りの正体を探るべく、ハクは一人、帝都の深淵へと足を踏み入れていた。
騎士位を剥奪された彼は、もはや日の当たる場所を堂々と歩むことはない。しかし、漆黒の隠密装束を纏った今のハクは、以前よりも鋭利で、かつ静かなる殺気を全身に湛えていた。
彼が辿り着いたのは、星読みの長の「石化した死骸」が安置されていた地下霊廟であった。
しかし、そこに横たわっていたはずの灰色の彫像は、跡形もなく消え去っていた。争った形跡はない。ただ、そこには鼻を突くような、粘りつく黒い精霊油の跡が、まるで巨大な蛇が這ったかのように、さらに深い場所――建国以来立ち入りが禁じられた「旧帝都の遺構」へと続いていた。
ハクはその不気味な跡を指でなぞり、そこに宿る温度のない魔力に、自らの魔力耐性さえもが削られるような錯覚を覚えた。
騎士として守ってきた「規律」や「法」が、この地の底では一分の意味も持たない。ハクは、自らが守るべき対象であるレンとリンの背後に、騎士の剣では決して斬れぬ、巨大な虚無の牙が迫っていることを悟り、自らの無意識な焦燥を、拳を強く握りしめることで抑え込んだ。
(……この先の闇、管理監が言う『最悪の配牌』というやつか。……どれほど深い暗闇であろうと、私が一寸先の光となる。それが、規律を捨てた私が唯一選んだ『道』だ)
ハクの琥珀色の瞳は、光の届かぬ深淵を、かつてないほどの孤独な使命感を持って射抜いていた。
一方で、地上に留まったセツもまた、目に見える崩壊とは異なる、より根源的な恐怖に晒されていた。
彼女の膝の上にある帳面に、あの不気味な黒い墨跡が、再び、そして激しく浮かび上がり始めていた。
黒いインクは、セツが丁寧に書き留めた「現在の記録」を、あたかも生きた魔物が捕食するかのように飲み込み、黒ずんだシミへと変えていく。さらに恐ろしいことに、そのシミの中から、現帝国の文字ではない、古の呪術言語に似た歪な形が浮かび上がり、帳面そのものを「書き換えて」いた。
セツの指先には、墨が紙の繊維を食い破り、内側から脈動するような、生理的な不快感と生臭い匂いが伝わってくる。
「……記録が、喰われている。……歴史が、私たちの知らない『過去』へと引き摺り戻されてゆくわ」
セツの声は、戦慄で上ずっていた。
記録が汚染されるということは、この国の人々の記憶が、アイデンティティが、根こそぎ奪われることを意味する。セツは、自らの魂の一部である帳面が、得体の知れない何かに汚されていくことに、自らの肌を直接汚されるような辱めを感じ、筆を持つ手を震わせていた。
レンは、工房に漂うセツの恐怖を察しながらも、茶師が遺したあの文箱の底を、鋭い爪先で叩き割った。
二重底から現れたのは、地下遺構へと続く隠し通路の地図と、古びた茶葉。そして「山を崩すには、自分も山の一部になれ」という、茶師らしい不親切で、かつ血の通った助言であった。
レンは迷わず、その茶を淹れた。
立ち上る湯気は、花や果実の香りなど微塵もせず、ただ重苦しい土と、鉄錆のような血の匂いが混ざり合った、死の予感を孕んでいた。
「……ふふ。……相変わらず、最高に不味い茶を淹れるわね、じいさん」
レンはその泥のような液体を、一気に煽った。
ざらついた舌触りが喉を焼き、意識が強制的に肉体から剥がされ、地下を流れる不浄な霊脈へと叩き落とされるような衝撃。
レンの瞳は、一時的に光を失い、代わりに地下で進行している「洗牌(洗牌)」の光景を、脳内の譜面へと直接投影し始めた。
――ガガッ、ガガガッ……。
地下深層から、一段と大きく、石が卓を砕かんばかりの「打牌音」が響き渡った。
それは宣戦布告であった。
レンは光の戻った瞳に、かつてないほどの凶暴な勝負師の火を宿し、ハクとセツを振り返った。
「待たせて悪いわね、地の底の雀鬼さん。……あんたの積み上げたその完璧な山、一撃でバラバラにして、全部私の点棒に変えてあげるわ」
レンは懐の黒い石を手に、ハクが待つ地下への階段へと足を踏み入れた。
翠蘭帝国の地下そのものが、一つの巨大な、そして血塗られた雀卓と化し、三人の打ち手を、逃げ場のない深淵へと誘っていた。
一歩踏み出すごとに、レンの指先は、暗闇の奥に潜む「王の隠し牌」を掴み取るための、残酷なまでの歓喜に震え続けていた。




