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翠蘭帝国宝石記~没落妃を救い、劇物茶師と共謀し、孤独な皇子に帝王学(麻雀)を教える勝負師の職人生活~  作者: 寝不足魔王


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第40話:無の包囲網、逆転の配牌

 翠蘭帝国の後宮、その最果ての地に位置する宝石管理監の工房は、もはや人の住まう場所ではなく、生きた者の体温を等しく奪い去る「絶対零度の墓標」へと変貌していた。

 卓を囲む淑妃の周囲から溢れ出すのは、物理的な温度を奪い、すべての生命活動を、そして「意味」という名の魂の火を停止させようとする、極寒の虚無であった。レンが放った、魔力を吸着し反射するはずの「黒い石」による一撃は、確かに淑妃の翡翠を捉えたはずだった。しかし、衝突の瞬間に上がるはずの火花さえも、淑妃が纏う底知れぬ静寂に吸い込まれ、一筋の煙すら残さずに消え失せた。それは、勝負師としての意志が、広大な虚無の海に飲み込まれ、波紋一つ立てられぬまま沈んでいくような、絶望的な無力感であった。


 淑妃は、微動だにせず、呼吸すら止まったかのような静止の中で次の一手を放った。

 彼女の指先は、勝利を渇望して動くのではない。ただ、そこに存在する熱を、意味を、意志を、一滴残らず啜り尽くすために滑る。彼女が弾いた翡翠は、卓の上を音も立てずに滑走し、レンが築き上げた「勝負」という名の概念そのものを、冷たい影で侵食し始めた。

 工房の石壁には、春の陽気とは無縁の厚い霜が、血管が這うようにじわりと広がり始め、天窓から差し込む光さえもが、凍りついたように鈍く屈折し、色彩を失っていく。レンは、自らの指先から感覚が、いや、自らの存在そのものの輪郭が失われていくような錯覚に陥っていた。石に触れても、その硬さも、熱も、精霊の微かな震動も伝わってこない。ただ、冷たい虚無が指の腹から神経を伝い、心臓の鼓動を一つずつ凍らせながら、這い上がってくる。


(……これが、淑妃。いいえ、これが『後宮』という名の、巨大な墓標の正体。すべてを飲み込み、何も残さない、絶対的な沈黙)


 レンは薄絹の下で、浅く、凍りついた空気を肺に流し込んだ。

 相手は勝とうとしていない。ただ、この場にあるすべての「意味」を殺そうとしているのだ。勝負師にとって、負けることよりも恐ろしいのは、勝負そのものが無効化されること。レンの脳内にある譜面は、淑妃の指先が動くたびに、白く、白く塗り潰され、次の一手を構想することすら困難な泥濘ぬかるみへと沈んでいく。石の奏でる音は、もはや乾いた楽器の音色ではなく、崩れ落ちる雪崩のような、不吉な沈黙の響きを伴っていた。


 背後二歩半。ハクは、自らの強靭に練り上げられた肉体が、内側から芯まで凍てつき始めているのを感じ、琥珀色の瞳を鋭く細めた。

 物理的な盾や、魔力への耐性では、この「意味を奪う波」を防ぐことは叶わない。ハクは、レンの精神が淑妃の虚無に呑み込まれ、その魂の火が仮死状態に陥ろうとしているのを、彼女の僅かに震える、折れそうな背中越しに察知した。ハクは、騎士としての規律も、これまでに学んできた魔力耐性の理論も、すべてを無意味な殻としてかなぐり捨てた。

 彼は、自らの内に流れる熱い血液と、これまで戦場で数多の死線を潜り抜けてきた、凄絶なまでの「生」への執着を、剥き出しの熱量オーラとして開放した。一兵卒には感知すらできぬ、魂そのものを燃焼させる熱。


「……管理監。意識を逸らすな。私の背負う盾の重さを、その背中で感じていろ。……ここにあるのは、死人の静寂ではない。私が今、この瞬間も刻み続けている、生きた心音だ」


 ハクがレンの背にそっと、だが山のごとき重みを持って自らの気配を預けた。

 その物理的な圧迫感と熱が、レンの凍りついていた思考の氷原を、僅かに溶かした。ハクの瞳は、淑妃の背後の影に、不気味にうごめく星読みの残党たちの歪んだ期待を、闇を透かす獣のように捉えていた。この対局は、単なる妃同士の席順争いではない。レンという異端の光を、後宮という名の深い闇へ引き摺り込み、彼女が灯した精霊術という名の希望を、根絶やしにするための伝統の最期の呪いなのだ。ハクは自らの指先を拳に握り締め、掌に食い込む爪の痛みで、この場の虚無を撥ね退けていた。


 その絶望の余波は、卓の端で震えるリン皇子を、最も容赦なく直撃していた。

 彼が握る青い精霊石はいは、淑妃の翡翠が放つ極寒の吸引力に耐えきれず、ついにその輝きを失った。精霊の囁きは消え、石はただの冷たく重い瓦礫へと変貌する。


「……あ。……消えちゃった。精霊も、光も、ぼくの声も……どこにも、届かない」


 リンの瞳に、かつて北の廃庭園で見た、あの死人のような底なしの虚無が、泥のように戻りかける。

 自分はまた、捨てられるのだ。この暗い闇の中で、誰にも見つからず、石のように忘れ去られて消えていく。その根源的な恐怖が、少年の幼い心を再び鎖で縛り上げようとしていた。

 だが、その絶望の底を、レンの残酷なまでに鮮烈な、命の重みを乗せた咆哮が叩き割った。


「――何をボケっとしてるの、リン! 石が鳴かないなら、あんたの心臓で鳴かせなさい! いしが死んだくらいで、あんたの意志まで死んだわけじゃないでしょう! 自分の心拍を、石の鼓動に重ねろ!」


 レンの叫びは、凍りついた工房の空気を物理的に震わせ、霜を砕いた。

 彼女は、淑妃の虚無を打ち破るには、正攻法の「役」では、あるいは論理的な美しさでは不可能であることを悟っていた。

 レンは、自らの指先に残った全魔力を、そして勝負師としての全霊の、狂気にも似た熱狂を、一つの石へと凝縮させた。それは、彼女が完成させようとしていた、美しい逆転の布石をあえて自ら破壊し、場の均衡を根こそぎ奪い去る、自爆にも似た狂気の「放銃」であった。


「淑妃様……。あんたのその空っぽな器、私のこの、燃えカスさえも残さない『熱』で、内側から焼き裂いてあげるわよ!」


 レンが弾いた石は、卓の上で摩擦熱を上げ、赤黒い光を放ちながら淑妃の最も冷徹な陣地へと突っ込んだ。

 一見すれば、無防備に自らの喉元を晒す自滅。しかし、それは淑妃の「無」という無限の器に、容量を超えた「生」の情熱を無理やり流し込み、その器を内側から爆発させるための、命懸けのギミックであった。静寂を愛する者に、爆音の歓喜を。虚無を謳う者に、焼けつくような生の実感を。


 ガァァァァンッ!

 衝突の瞬間、工房を支配していた極寒の空気が、レンの放った熱によって激しく膨張し、爆圧となって室内に吹き荒れた。

 凍りついていた卓の表面が悲鳴を上げて砕け、淑妃の翡翠が、レンの熱に当てられて不協和音を奏でながら震え始めた。氷が融け、水蒸気が立ち込める。


「……なんですって? 私の、静寂が……。熱が、浸食してくる……?」


 初めて、淑妃のかおに、一筋の動揺と苦悶の影が走った。

 セツは、この「理を破壊する一打」を、震える筆を両手で支えながら、必死に帳面へ刻み込んだ。彼女の帳面には、もはや整然とした記録はない。ただ、絶望を燃料にして燃え上がる、勝負師の執念が、血のような、炎のような墨跡となって躍動していた。セツは、自らの筆が紙を貫き、机を削るほどの力を込めて、この「生きた記録」を刻み続けていた。


「さあ、リン! 場の温度は私が戻したわ! 霧が晴れた盤面を、よく見てごらんなさい! あとはあんたの火で、この冷え切った卓を灰も残さず焼き尽くしてあげなさい!」


 レンの指先は、自らの陣地を焼き払ってまで作った、残酷なまでの「逆転の配牌」に、歓喜と、そして神経を焼かれるような苦痛で激しく震えていた。薄絹越しに漏れるその笑みは、もはや職人のそれではなく、神さえも博打に誘う、真の勝負師のかおであった。

 絶望の底に沈んでいた少年の瞳に、再び、いや、かつてないほどに苛烈な青い炎が灯る。

 後宮の支配を巡る、最も冷たく、そして最も熱い「二局目」が、今、産声を上げた。


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