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翠蘭帝国宝石記~没落妃を救い、劇物茶師と共謀し、孤独な皇子に帝王学(麻雀)を教える勝負師の職人生活~  作者: 寝不足魔王


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第32話:封じられた資材、不敵な乱入者

 後宮の夜明けは、常に洗練された静寂と共に訪れる。しかし、その日の朝、宝石管理監の工房を包んでいたのは、喉を撫でるような湿り気を含んだ、不吉な沈黙であった。

 レンが工房の扉を開け、いつものように作業卓へと向かった時、彼女の指先が最初に触れたのは、期待していた精緻な道具の冷たさではなく、空虚な棚の乾いた木肌であった。


「……セツ。精霊油の補充は? 研磨用の白絹も、まだ届いていないようだけれど」


 レンの声は、凪いだ水面のように平坦だったが、その瞳には鋭い観察の光が宿っていた。

 セツは新調された帳面を、指先が白くなるほど強く握りしめ、窓から差し込む薄い光の中で立ち尽くしていた。彼女の視線の先にあるはずの公式な搬入記録は、昨日から不自然な空白のまま止まっている。


「……止められましたわ。星読みの残党と、彼らに同調する保守派の妃たちが手を組み、管理監の術を『帝国の富を浪費する贅沢な異能』として、物資の供給を完全に遮断いたしました。これはもはや、手違いなどという生易しいものではございません。……明白な、兵糧攻めですわ」


 セツの声には、秩序を重んじる彼女にとって最大の屈辱である「制度による不正」への、激しい憤りが滲んでいた。

 レンは棚の埃を指でなぞり、その感触を確かめる。指の腹に伝わるざらついた微細な粒子の感触。それは、相手が放った「守りの一手」――すなわち、自分を卓から降ろすために、牌そのものを取り上げるという卑劣な戦術であった。


「管理監。資材搬入口へ行って参ったが……話にならん」


 背後から、重厚な軍靴の音と共にハクが姿を現した。彼の琥珀色の瞳は、かつてないほどの激しい憤怒に燃え上がっていた。

 ハクは今朝、資材の遅滞を問い詰めるべく、管理局の官吏たちの元へ赴いたのだ。しかし、そこで彼を待っていたのは、慇懃無礼な態度で「規律に従っているだけだ」と繰り返す、感情の欠落した役人たちの壁であった。


「奴らは抜剣した私を前にしても、眉一つ動かさなかった。……『星読みの許可なき物資の移動は、帝国の法に抵触する』、とな。剣で斬れる敵であれば、一瞬で片が付くものを。……セツ殿、帳面の裏側で起きているこの醜い工作を、止める術はないのか。私の盾では、この目に見えぬ網から彼女を守りきれん」


 ハクの低い、地を這うような呻き。

 彼はレンの周囲一帯を物理的に制圧することには長けているが、この「制度」という名の不可視の暴力に対しては、その強靭な膂力も、最強の剣技も、虚しく空を切るばかりであった。ハクは自らの無力さに拳を固く握り締め、その爪が掌に食い込むほどの悔しさを噛み締めていた。


「……面白いじゃない。相手がなりふり構わず牌を隠し始めたってことは、それだけ私の和了を恐れている証拠よ。……ねえハク、そんなに怖い顔をしないで。場が冷え切っているなら、外側から熱を流し込めばいいだけの話だわ」


 レンは不敵に微笑み、窓の外、霧が立ち込める回廊の奥を見つめた。

 彼女の脳内では、すでにこの「供給遮断」という最悪の配牌を、どう逆手に取るかのシミュレーションが始まっていた。相手が正面の道を塞いだというのなら、こちらは誰もが予想だにしなかった「裏の道」をこじ開けるまでだ。


 その時、工房の裏口から、微かな、だが独特の薬草の香りが漂ってきた。

 音もなく扉が開き、そこには薬草の籠を無造作に担いだ茶師の姿があった。


 茶師は無言で籠を卓の上に置いた。

 その中から現れたのは、公的な経路では決して手に入らない、最高級の研磨剤と精霊石の安定剤。そして、レンが最も必要としていた、石の熱を鎮めるための冷たい氷晶石であった。


「……茶師。あんた、どこからこれを」

「私の薬草調達ルートを甘く見るな。……星読み共が、貴様の喉元を締め上げようと動いている。地下の源流を絶たれた奴らは、今度は地上で貴様を『贅沢の象徴』として仕立て上げ、皇帝の査定を不利に進めるつもりだ」


 茶師の声は、彼の淹れる茶と同じく容赦のない苦みを孕んでいた。

 レンは茶師が届けた資材の感触を指先で確かめる。滑らかで、それでいて確かな重み。職人としての感覚が、最高級の道具を得たことで歓喜に震え出した。


「助かるわ。これで、あいつらの予想を上回る『一打』が放てる。……ハク、セツ。あいつらが資材を止めたことで、かえって私の術は、純度を増すことになるわよ」


 レンが茶師と密談を交わし、反撃の筋を組み立てようとしていたその時。

 工房の正面入り口から、それを遮るように、華やかな鈴の音と、香水のような艶やかな香りが舞い込んできた。


「あら。……ずいぶんと寒々しい空気が流れているわね、ここは」


 極彩色の衣を翻し、女官たちを従えて現れたのは、かつてレンがその真珠を癒やした「貴妃」であった。

 彼女は、後宮でも最も享楽的で、退屈を何よりも嫌う女性として知られている。賢妃の厳格な排除工作を「鼻につく古いやり方」と一蹴し、彼女はレンの窮地を、最高に面白い「見世物」として楽しむべく、自ら足を運んできたのだ。


 貴妃は、ハクの鋭い威圧を扇一つで軽やかに受け流し、卓の前に立つレンへと優雅に歩み寄った。

「管理監殿。……貴女が窮地に立たされていると聞いて、退屈しのぎに物資の『手配』をして差し上げましたわ。……賢妃様のあの生真面目な封鎖、あまりに退屈で見ていられませんもの」


 貴妃の合図で、女官たちが最高級の絹布や精霊油を次々と運び込んでくる。

 それは、賢妃が止めていた物資の数倍の価値を持つ、圧倒的な「物量による介入」であった。

 セツは、この公的な手続きを完全に無視した貴妃の奔放さに、帳面を落としそうになるほどの衝撃を受けていた。


「……貴妃様。これは、公式な手続きを経ていない物資です。これを公務に用いることは、後宮の規律を……」

「規律? そんなもの、私が面白いと思えば書き換えて差し上げますわ。……ねえ、管理監。私は、面白い方の味方なの。……この退屈なノーテンで死ぬくらいなら、私も一丁、貴女の勝負に噛ませて頂戴?」


 貴妃はそう言って、自身の首元に輝く、以前レンが直したあの巨大な真珠を卓に差し出した。

 レンは、その貴妃の艶やかな挑発に、薄絹の下で獰猛な笑みを浮かべた。


「いいわ、貴妃様。あんたのその派手な石、私の盤面で一番の『ドラ』に仕立ててあげる。……ハク、セツ。これで面子はさらに面白くなったわ」


 伝統を守る賢妃、現状を破壊し楽しむ貴妃、そして成長するリン皇子。

 利害の全く一致しない三つの勢力を、レンは一つの卓に囲わせ、後宮全体の権力均衡を「対局」の熱で溶かし去ることを決意した。


「……リン。あんたの次の一打で、この澱んだ霧を完全に晴らしてあげなさい。……さあ、最高の『二局目』、始めましょうか」


 レンは懐の宝石を高く、夕闇に染まる工房の天井へと弾き上げた。

 資材の封鎖すらも自らの力に変え、レンの指先は、次なる巨大な和了に向けて、かつてないほど熱く、激しく脈動し続けていた。

 後宮という名の巨大な盤面が、今、複数の意志を飲み込みながら、修復不可能なほどに熱狂し始めていた。


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