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翠蘭帝国宝石記~没落妃を救い、劇物茶師と共謀し、孤独な皇子に帝王学(麻雀)を教える勝負師の職人生活~  作者: 寝不足魔王


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第23話:不戦の揺らぎ、盤面の予熱

 翠蘭帝国の後宮において、真の脅威とは怒号と共に訪れるものではない。それは、池の底に溜まる澱みのように、静かに、そして着実に人々の足元を掬い取っていく沈黙の浸食である。

 本殿での審判以来、伝統権威である星読みたちは表立った弾劾の手を止めていた。しかし、その静寂は和解を意味するものではない。彼らは「盤面」を力ずくで叩き割るのではなく、レンの持ち手である「精霊への信頼」を根底から腐らせるという、より狡猾な戦術へと切り替えていた。


「……管理監。今日だけで十二件目だ。これほどまでに精霊の不調が重なるのは、もはや天災の類ではないぞ」


 工房の入り口で、ハクが苦々しく声を漏らした。彼の琥珀色の瞳は、運び込まれてくる宝石たちの輝きが、一様に不自然な「灰色」に濁っているのを鋭く捉えていた。

 ハクはレンから二歩半の距離を保ちつつ、工房の周囲を伺う者たちの気配を殺気で威圧し続けている。だが、彼の背中には、かつてないほどの焦燥が滲んでいた。守るべきはレン一人ではない。彼女の術を信じ、光を取り戻した下級妃や、あの廃庭園の皇子にまで、星読みの放つ「負の連鎖」が及び始めていることを、騎士としての直感が告げていた。


「分かっているわよ、ハク。……あいつら、私の『持ち牌』を一枚ずつ河に捨てさせようとしているのね」


 レンは卓の上に並んだ、震える宝石たちを見つめた。

 茶師の離れで聞いた「精霊を衰弱させる香」の話。星読みたちが地下で焚き始めたその毒が、霧のように後宮を這い、妃たちの守護石を内側から蝕んでいる。精霊たちは、主を護ることもできず、ただ理由も分からぬ苦しみに身悶えしていた。

 石の表面を撫でるレンの指先には、精霊たちの悲鳴が微かな震動となって伝わってくる。職人としての彼女にとって、それは自身の神経を逆撫でされるような屈辱であり、勝負師としての彼女にとっては、対局相手が卓の下で卑劣な細工を施しているのを目撃した時のような、氷の如き怒りを呼び覚ますものであった。


「レン様。帳面の数字が、不吉な均衡を示していますわ。一刻の猶予もありません」


 セツが一切の私情を排した手つきで、記録帳の最新頁をレンの前に提示した。

 そこには、精霊の不調を訴える妃の宮と、その発生時刻が緻密にプロットされていた。セツは公式な記録の裏で、星読みが「不変の宿命」を演出するために、いつ、どこの宮に香を配ったかの「裏の帳簿」を、女官たちの僅かな動向から導き出していたのだ。


「私の計算によれば、相手のリーチは間近です。このまま修繕に追われるだけでは、私たちの『持ち点』は底を突きますわ。……レン様。守るだけでは、この局は流せません。相手はこちらの根を枯らそうとしています」


 セツの瞳には、秩序を守る女官としての義務を越えた、一人の共犯者としての冷徹な意志が宿っていた。レンは彼女の差し出した帳面を指でなぞり、薄絹の下で獰猛に唇を吊り上げた。


「……ええ、そうね。安牌を切り続けて逃げ切れる場じゃないわ。……セツ、明日の予定を書き換えて。中級妃・麗人の宮への定期訪問を、一番早い刻限に入れるのよ。あそこが一番、場の流れが滞っているわ」


 ハクが驚愕に振り返る。

「麗人の宮だと? あそこは今、最も星読みの香の影響が強く出ている場所だ。敵の本陣に、自ら飛び込むというのか。守護の距離が保てぬほど敵意に満ちた場所だぞ」


「そうよ。あいつらが面白い『罠』を仕掛けてくれているなら、それを逆手に取って、特大のカウンターを返してあげなきゃ失礼だわ。向こうが私の精霊を病ませようとするなら、私はその病そのものを、あいつらを討つための武器に変えてあげる」


 レンは卓上の、最も濁りの激しい宝石を手に取った。

 彼女は職人として、石の痛みを自身の神経で受け止める。しかし、その内側にある勝負師の魂は、冷たく冴え渡っていた。レンは薄絹を緩め、石の芯へと、これまでにないほど細く、鋭い息を吹き込んだ。


 それは、単なる治癒の術ではない。

 精霊の核に、星読みの魔力を感知した瞬間に激しく反応する「感応の罠」を仕込む、勝負師としての秘策。相手が「闇」を流し込もうとしたその瞬間に、石そのものを「告発の光」へと変えるための仕掛け。


「……レン様。その術、貴女の身体への負担が大きすぎます。これ以上の無理は、明日の本番に響きますわ」

「いいのよ、セツ。……今の私は、最高に『乗っている』んだから。指先が止まらないのよ。ハク、あんたも準備しておきなさい。明日の訪問、あんたのその腕、退屈させないわよ。騎士としての規律より、勝負師としての直感を研ぎ澄ませておいて」


 ハクは溜息を飲み込み、レンの背後で拳を固く握り締めた。

「……承知した。貴殿が盤面をひっくり返すというなら、私はその嵐を切り裂く盾となるだけだ。……だが、これ以上、護衛の限界を超えさせるなよ。私は貴殿を失うわけにはいかん」


 レンは懐の宝石を一度だけ、静かに、だが力強く弾き上げた。

 宝石は夕闇の中で虹色の火花を散らし、レンの指先へと正確に戻ってくる。その一回転ごとに、精霊の叫びがレンの意志と融け合い、巨大な反撃のエネルギーへと変換されていく。

 伝統という名の古い鎖。自分たちが勝つために積み上げられた、イカサマだらけの盤面。


「さあ、見せてもらうわよ。伝統とやらが、私のこの一打でどう崩れ去るかをね。天運を語る連中に、実力という名の現実を叩き込んであげるわ」


 反撃の第一打。

 レンの指先は、明日という名の決戦場に向けて、歓喜と怒りの混ざり合った熱を帯び、かつてないほどに激しく脈動していた。

 後宮の霧の向こう側で、いよいよ本物の嵐が、産声を上げようとしていた。それは静寂を切り裂く一音となり、伝統の闇を白日の下に晒すための、残酷なまでに美しい予兆であった。


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