第11話:東屋の影と、見えない対局
翠蘭帝国の後宮において、北西の端は「忘れられた地」に近い。
華やかな極彩色の宮が立ち並ぶ中心部とは対照的に、そこは手入れの届かぬ木々が鬱蒼と茂り、湿った土と古い木材の匂いが混じり合う静寂の領域だった。茶師の離れからほど近いその場所に、かつては妃たちの密やかな憩いの場であったろう、半ば朽ちかけた東屋が佇んでいた。
白石の柱には蔦が絡まり、卓の上に積もった塵が、流れた時間の長さを物語っている。だが、レンにとってそこは、後宮という檻の中で唯一見つけ出した、誰にも汚されぬ自由の聖域だった。
「……セツ、ここなら誰の邪魔も入らないわね。次の公務まで、私はここで『調整』を行うわ」
「予定表には、この場所での休憩は記されておりませんが……。確かに、この静けさであれば、精霊の毒を鎮めるには適しているかもしれません」
セツが渋々と懐中時計を閉じ、周囲の環境を帳面に記録する。レンは満足げに頷くと、東屋の中央に置かれた古い石卓へ向かった。
背後では、ハクが既に周囲の藪へ向かって鋭い視線を配っている。彼は東屋の入り口を背中で塞ぐように立ち、微かな風の揺らぎすら逃さぬ構えを見せていた。
「管理監、この場所は死角が多い。私が許可するまで、東屋の外には出るな。……そこで何をしようと自由だが、音を立てるなよ」
「分かっているわよ、ハク。あんたがいるだけで、ここは世界で一番安全な場所になるんだから」
レンはハクの堅実な背中を一瞥し、懐から一つの袋を取り出した。
卓上にぶちまけられたのは、工房で「規格外」として廃棄されるはずだった、四角い端石の山だ。仕事に使う宝石のような透明感はない。だが、レンが指先から微かな魔力を通せば、石の芯に眠る名もなき精霊たちが、一時的な命を得て小さく震え出す。
(……いい。雨上がりの湿り気が、石の鳴きを良くしているわ)
レンは口元を覆う薄絹を僅かに緩め、勝負師の瞳を輝かせた。
彼女は卓の上に石を伏せ、慣れた手つきでそれらをかき混ぜる。ジャラジャラと石同士が擦れ合う乾いた音が、レンの耳には至高の調べとして響いた。
石を積み上げ、壁を作る。そして、自らの「手牌」として十四の石を手元に引き寄せ、垂直に立てて並べた。精霊たちはレンの指先に触れられるたび、アトラクションの順番を待つ子供のように期待に満ちた微光を放っている。
「……さあ、始めましょうか。今日の面子は……そうね、私と、あんたたち三人よ」
レンは独り言ち、仮想の対局相手を脳内に召喚した。
東家、ハク。南家、セツ。西家、茶師。そして北家に、自分。
レンの脳内では、三人の性格に基づいた「打ち筋」が鮮明に描き出されていく。
ハクなら、迷わず安牌を抱え、防御を固める「鉄壁」の打ち手。
セツなら、一分の無駄も許さず、最短距離で役を揃える「効率」の打ち手。
茶師なら、劇物のような茶と同様に、相手の喉元を焼き切るような「苛烈」な攻めを見せるはずだ。
「……ハクがまず、一三二の筋を嫌ってこれを切る。セツはそれをスルーして、一刻の狂いもなく自分の役を育てる……。そして茶師は、この危険牌を平然と放り込んでくるわね」
レンの指先が、目にも止まらぬ速さで石を弾き、捨て、あるいは引き寄せる。
ハクはその背中越しに、レンが何やら不吉な呪文のように「平和」や「一気通貫」と呟きながら、無機質な石を弄り回す姿を凝視していた。
(平和……。管理監は、この不毛な後宮の権力争いの中で、それほどまでに安寧を求めているというのか)
ハクは、レンが呟く麻雀用語を、後宮の平和を願う術者としての孤独な祈りだと完全に勘違いしていた。
石を並べる動作は、未来の吉凶を占う儀式。時折見せるニヤリとした不敵な笑みは、逆境の中でも希望を見出した術者の確信。ハクの瞳には、レンという女が背負う国家機密という名の重圧が、彼女をこうした「奇行」に駆り立てているのだと、深い同情の念が芽生え始めていた。
「……ロン。跳満だわ。ハク、あんたのその堅実さが、かえって隙になったわね」
レンが石の一つを卓に叩きつける。
石の中に宿る精霊が、和了の衝撃に歓喜して黄金色の火花を散らした。
レンの脳内では、仮想のハクが「……不覚だ」と唇を噛んでいる姿まで再生されている。
「管理監。先程から、私に何を言っている。誰と戦っているんだ」
「ふふ、世界よ、ハク。私は今、この後宮という巨大な盤面と戦っているのよ」
「……そうか。貴殿がそこまで一人で背負い込んでいるとは。……無理はするな。私がいる限り、貴殿の身に刃は届かせん」
ハクの重々しい、かつ慈愛に満ちた言葉に、レンは思わず指を止めた。
(……この男、何勘違いしてるのかしら。まあいいわ、護衛がやる気になってくれるなら、それは私の勝ちだもの)
レンは再び石をかき混ぜ、次の局へと移る。
東屋の朽ちた天井から漏れる陽光が、レンの指先で躍る精霊たちを神々しく照らし出していた。
一人での脳内対局。だが、この「仮想の勝負」を繰り返すことで、レンは後宮内の複雑な勢力図や、妃たちが放つ僅かな殺気の出どころを、驚くほど冷静に把握していく。誰がどこの牌を欲しがり、誰が場を荒らそうとしているのか。
「レン様。休憩時間は終了です。徳妃様がお待ちです」
セツの声が、現実の秩序を携えて東屋に響いた。
レンは一瞬で勝負師の顔を消し、全ての石を鮮やかな手つきで袋へと回収した。立ち上がった彼女の瞳には、公務の疲労など微塵もなく、ただ冷徹に次の一手を見据える「職人」の光だけが宿っている。
「行きましょう。……いい『調整』になったわ」
レンはハクの横を通り過ぎる際、彼の逞しい腕に軽く触れた。
「ハク、次はもっと攻めてきなさいよ。守ってばかりじゃ、和了れないわよ?」
「……善処しよう。だが、私の盾は、貴殿を守るためにのみある」
噛み合わないまま、深まっていく信頼。
後宮の端、朽ちた東屋に吹き抜ける風が、レンの薄絹を力強く揺らした。
聖域は完成した。レンは、次なる公務という名の盤面を、かつてないほど鮮明な「読み」で切り拓くべく、力強い一歩を踏み出した。




