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剣聖は、棺桶小隊に剣を教えない  作者: 今井 幻


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第8話「流れを、作る」

 夕方の光が、街道の先を赤く染めていた。


 村が見えた。


 北東の街道を一時間ほど歩いた先に、それはあった。三十人ほどの住民が暮らす寒村。畑と家畜小屋と、中央に鐘楼が一本。石壁はなく、柵もない。守るための構造が、何ひとつ存在しない場所だった。


 セラフィーナは村の入口で足を止めた。


 五人が、その背中に追いついた。駐屯地を出てから、教官は一度も振り返っていなかった。


「テオ」


 名前を呼ばれた瞬間、テオの肩が跳ねた。癖だった。だが、もう縮こまる前に声が返る。


「——はい」


「風を嗅ぎなさい」


 短い指示だった。テオは鼻をひくつかせた。風は東から吹いている。乾いた草の匂い。土。それから、ほんの微かに——獣脂のような、酸っぱい何か。


「……東です。獣の匂いが混じってます。たぶん——群れが来てる」


「距離は」


「わかりません。でも、薄い。まだ遠い」


 セラフィーナは頷いた。視線は村全体を這い回っていた。鐘楼。畑の柵。家畜小屋。街道が村を貫く角度。東側に広がる緩やかな傾斜。荷車が二台、畑の脇に止めてあった。


 それから——空を見た。西に傾いた太陽。地平線に近い雲の流れ。風がほんの僅かに弱まりつつあることを、リシェルの頬の皮膚も感じていた。


 その目が、何かを計算し終えた。


 リシェルにはわかった。教官の目の動きが止まるときがある。それは「見ている」のではなく「読み終えた」合図だった。


「全員、聞きなさい」


 セラフィーナが振り返った。夕陽を背に負って、五人の顔を見た。


「この村には壁がない。柵もない。堀もない。正面から受ければ、三十人の村人は一人も残らない」


 ガルトの拳が、太腿の上で握られた。


「だから正面からは受けない」


 セラフィーナの声に力みはなかった。いつもの、平坦で冷たい温度。だが、前夜の兵舎で聞いた「村ごと生かす」の六文字が、リシェルの耳の奥にまだ残っていた。あの声には、確かに熱があった。


「魔獣の群れは東から来ます。およそ——」


 教官は東の空を見た。土煙は、まだ視認できなかった。


「テオの鼻が正しければ、半刻もかからない。退避の時間はない。群れの速度が村人の脚を上回る」


「じゃあ——」


 ノエルが口を開きかけた。


「戦う、ってことですか」


 セラフィーナは首を横に振った。


「戦いません」


 五人が息を止めた。


「この村を、通過させます。ただし、村を通らせるのではない。村の外側を通らせる。魔獣の足を、私たちが決めた道に流す」


 リシェルのペンが止まった。ノートに書こうとした手が、教官の次の言葉を待って宙に浮いたままになっている。


「テオ」


「はい」


「あなたはこれから、村の東側——畑の外縁に沿って走りなさい。足跡を深く、はっきりと。十五歩ごとに、地面を踵で強く踏み砕いて。その後、南東の斜面を下りて、家畜小屋の裏手まで戻ること」


 テオは一瞬、言葉の意味を探るように瞬いた。だが、すぐに口を閉じた。


 聞き返さなかった。


 リシェルはその変化を見逃さなかった。三日前なら「な、なんでですか」と怯えた声が出ていた。今は違う。斥候は、教官の言葉をまず飲み込む。


「ガルト」


「はい」


「あの荷車を——」


 セラフィーナの指が、畑の脇の二台を指した。


「一台を、村の東側の入口に横倒しにしなさい。街道を完全に塞ぐ必要はない。三分の二だけ。残りの隙間は開けておく」


「三分の二、だけ……」


「もう一台は、家畜小屋と鐘楼の間に。角度は——」


 教官が三歩ほど歩いて、地面に靴の先で線を引いた。


「この向き。これ以上でもこれ以下でもなく。ずれたら意味を失う」


 ガルトは荷車を見て、地面の線を見た。


「……了解しました」


 椅子の代わりに指の関節を鳴らそうとして、途中でやめた。大きな体が荷車に向かって歩き出す。


「ノエル」


「……なんだよ」


「家畜小屋の戸を開けなさい。中の山羊を、全部外に出す。ただし縄は解かない。繋いだまま、小屋の南側に移動させる」


 ノエルの眉が寄った。


「山羊を?」


「匂いが必要です」


 それだけだった。ノエルは数秒、教官の顔を見ていた。それから舌を打って、家畜小屋に歩き出した。文句は言わなかった。


「クレア」


「はい」


「村人を集めなさい。全員、鐘楼の北側——畑と反対側の窪地に。毛布と水だけを持って。荷物はすべて置かせて。子供を抱えられない老人がいたら、あなたが運ぶ。動けない者がいたら、先に報告しなさい」


 クレアの背筋が伸びた。


「了解です」


 走り出す前に、一度だけ振り返った。何かを言いかけて、やめた。代わりに頷いて、村の中へ消えた。


 残ったのは、リシェルだった。


 セラフィーナの視線が、正面からリシェルに向いた。


「リシェル」


「はい」


「あなたは、四人の進捗を見て回りなさい。全員の準備が終わったら、私に報告すること。それだけでいい」


 リシェルはペンを握ったまま立っていた。


 それだけでいい。


 教官の言葉はいつも短い。でも、足りないことは一度もない。「四人の進捗を見て回る」。それは副官の仕事だった。まだ真似の段階。でも、これが第一歩なのだと、リシェルは思った。


「了解しました」


 ノートを閉じて、走り出した。


 *


 テオの足跡は、想像以上に正確だった。


 畑の東縁に沿って、深い靴跡が十五歩ごとに刻まれていた。踵で踏み砕かれた土が、乾いた地面にくっきりと残る。まるで道標のように等間隔に並ぶその足跡は、まっすぐ南東の斜面へ向かっていた。


 リシェルが確認に来た時、テオはもう家畜小屋の裏手に戻っていた。息が上がっている。だが、目が違った。怯えの色ではなく、自分の脚で走りきった後の、少しだけ熱を持った目。


「——やった。言われた通りに」


「ありがとう。次、ガルトを見てくる」


 荷車はすでに一台が横倒しになっていた。村の東側の入口。街道の三分の二を塞ぐ形で、残りの隙間が南側に開いている。


 ガルトは二台目を押していた。家畜小屋と鐘楼の間。教官が地面に引いた線の上に、正確に車輪を乗せようとしている。汗が額から落ちていた。


「……ここでいいのか」


「教官が引いた線は、もう少し右——」


「ああ」


 ガルトが荷車の角度を微調整した。巨体が荷車を片手で押す。車輪が土を噛んで、線の上にぴたりと止まった。


 リシェルは家畜小屋に走った。ノエルが山羊の縄を引いていた。五頭。南側の杭に繋ぎ直す作業の途中だった。小屋の戸は開け放たれ、中から濃い獣の匂いが流れ出していた。


「匂いが必要だってよ」


 ノエルは不機嫌そうに言った。だが、手は止まっていなかった。


「何に使うのかは、まだわからねえけど」


 最後にクレアを探した。鐘楼の北側——畑と反対の窪地。そこに、村人たちが集まりつつあった。三十人ほど。毛布を抱えた老婆、水壺を持った女、泣く子供を背負った男。クレアが一人ひとりに声をかけながら、窪地の奥へ誘導している。


「——大丈夫です。ここに座っていてください」


 その声に、教官のような冷たさはなかった。でも、震えてもいなかった。


 一人の老人が足を引きずっていた。クレアが膝をついてその腕を肩に回し、ゆっくりと歩き出した。体格差がある。華奢なクレアの膝が、一瞬だけ揺れた。だが、崩れなかった。


 リシェルは踵を返した。


 教官のもとへ走った。


 *


 セラフィーナは鐘楼の上にいた。


 梯子を登り、鐘のすぐ下の踊り場に立っている。東を見ていた。風が銀灰色の髪を揺らしていた。


「教官、全員の配置が完了しました」


 リシェルは梯子の途中から声をかけた。


 セラフィーナは東の空を見たまま、小さく頷いた。


「見えますか、リシェル」


 リシェルは梯子を登りきって、踊り場に立った。東を見た。


 土煙が——あった。


 地平線の少し上、夕陽の赤に薄く混じる、灰色の靄。それが、ゆっくりと近づいてくる。


「……あれが」


「魔獣の群れです。数はおそらく二十から三十。小型の群れですが、壁のない村には十分すぎる」


 セラフィーナの声には、感情がなかった。あるのは情報だけだった。


「リシェル。これから私が言うことを、四人に伝えなさい。一字も変えずに」


「——はい」


 ペンを握った。ノートを開いた。風でページが煽られる。左手で押さえた。


「テオは家畜小屋の屋根に上がること。音を出してはいけない。群れの先頭が東の入口に到達したら、片手を挙げなさい」


 リシェルは書いた。


「ガルトは横倒しの荷車の裏に。音を立てず、息を殺して。何があっても動かないこと。荷車に体当たりする個体がいても、押さえるだけ。剣は抜かない」


 書いた。


「ノエルは鐘楼の西側——鐘の縄の位置に。私が合図をしたら、三回だけ鐘を鳴らす。鳴らした後は縄を離して、すぐに鐘楼から降りなさい」


 書いた。


「クレアは村人のそばに。窪地から出さないこと。泣く子供がいたら、口を手で塞いでもいい。音が漏れれば、全てが壊れる」


 ペンが止まった。


 四人分の指示。それぞれの「役割」が、そのまま配置になっている。テオは斥候。ガルトは壁。ノエルは——切り札ではなく、鐘を鳴らす係。クレアは、村人の命を繋ぐ。


「……教官」


「何ですか」


「私は」


 セラフィーナは初めて、東から目を離した。リシェルを見た。


「あなたは、四人に伝えた後、私のそばに。この踊り場で、私が見ているものを見なさい」


 リシェルは唇を引き結んだ。


 書いた。最後に一行。


「私は——教官のそばに」


 梯子を降りた。走った。


 *


 四人に伝え終えた時、土煙はもう肉眼で見えていた。


 鐘楼の踊り場に戻ったリシェルの横で、セラフィーナは微動だにしなかった。東の斜面を見つめている。


 風が——止みかけていた。


 到着した時は東から吹いていた。だが、日が傾き、空の赤が深くなるにつれて、頬を撫でていたあの風が薄れていた。夕凪だ。リシェルの髪がもう揺れていなかった。ノートのページも、さっきのようには煽られない。


 空気が澱み始めている。


 そして——家畜小屋の開け放たれた戸口から、山羊の匂いが濃く立ちこめていた。風があった時は東へ吹き散らされていたはずのその匂いが、今は行き場を失って、小屋の周囲にじっとりと溜まっている。獣脂と草と糞が混じった、重い匂い。リシェルの鼻にも、はっきりと届いた。


「——教官。風が」


「止みましたね」


 セラフィーナの声は、講義のように淡々としていた。だが、そこには微塵の驚きもなかった。


「夕刻に風が凪ぐのは、この地形では珍しくありません。東の斜面が日陰に入れば、地面が冷えて上昇気流が弱まる。風は止む」


 リシェルは息を飲んだ。


 到着した時、教官が空を見上げた理由。太陽の位置、雲の動き、風の弱まりを確かめていた——あの一瞬で、風が止む時刻まで読んでいたのだ。


「魔獣は嗅覚で動きます」


 教官は東の土煙を見たまま続けた。


「視覚は鈍い。聴覚は中程度。だが嗅覚は鋭い。群れで移動する小型魔獣は、鼻を地面に擦りつけて走る。先頭の個体が地面の匂いを辿り、後続がそれに追従する」


 リシェルの目が、東の畑の縁に向いた。


 テオの足跡。畑の東縁に沿って南東へ向かう、十五歩ごとの深い靴跡。踵で踏み砕かれた土。


「テオにつけさせた足跡は——」


「掘り返されたばかりの土は、強い匂いを放つ。風がなくても、いえ、風がないからこそ——地表に張りついた匂いは散らされずに残る。鼻を地面に擦りつけて走る魔獣にとって、あの足跡は"何かが通った道"の目印になる」


 テオが畑の東縁に沿って走り、南東の斜面へ向かう足跡をつけた。十五歩ごとに踵で踏み砕いた土。それは、地面に刻まれた匂いの道しるべ——風に左右されない、地表レベルの偽の獣道だった。


「荷車は」


「流れに壁を作るためです。水路と同じ。完全に塞げば溢れる。三分の二だけ塞いで、残りの隙間に流す。獣は本能で開いた方へ走る」


 東の入口を三分の二塞いだ荷車。その隙間は南側に開いている。足跡の匂いに気づかずまっすぐ突っ込んできた個体も、荷車に阻まれて南側の隙間に流れ込む。


「そして、隙間を抜けた先に——」


 セラフィーナは家畜小屋の方を見た。


「山羊の匂いが溜まっている。風がない今、匂いは発生源の周囲から動かない。隙間を通った魔獣は、至近距離で濃い獣の匂いに突き当たる。その匂いとテオの足跡が、同じ方向——南東の斜面へ導く」


 リシェルのペンが走った。書きながら、頭の中で地図が組み上がっていく。


 東から来る群れ。先頭が地面の足跡を辿って南東に逸れる。逸れ損ねた個体は荷車にぶつかり、南の隙間に流れ込む。隙間の先に凪いだ空気の中で濃く溜まった山羊の匂い。足跡の列が南東の斜面へ続く。群れは村を通過せずに、南東の斜面を駆け下りていく。


「……でも」


 リシェルの声が震えた。


「群れの全部が、本当にそう動きますか」


 セラフィーナは答えなかった。代わりに、東を見た。


 土煙が近い。もう、その中に蠢く影が見える。凪いだ空気を震わせるように、低い唸り声が鐘楼まで届いた。


「鐘は、何のために」


「三回鳴らす。それで十分です」


 教官は土煙を見たまま言った。


「魔獣は突然の大きな音に弱い。鐘の音は山や斜面に反響して方角を掴みにくくする。匂いの道と音の壁で挟まれた群れは、開いている方——南東の斜面だけが安全だと判断する」


 リシェルは書くのをやめた。


 ペンを下ろして、東を見た。


 教官が見ているものを見なさい。


 そう言われた。だから見た。


 ——群れの先頭が、畑の向こうに現れた。


 *


 灰色の体毛。四つ脚。犬よりも大きく、馬よりも小さい。牙の長い、猪に似た魔獣だった。先頭の一頭が鼻を地面に擦りつけながら走っている。その後ろに、二頭、三頭、五頭——数え切れない影が続く。


 二十では利かなかった。三十に近い。


 リシェルの膝が震えた。鐘楼の踊り場の木が軋んだ。


「動かないで」


 セラフィーナの声は、変わらなかった。


「音を出さないこと。あなたの体重で踊り場が軋む音が、今の距離では届く可能性がある」


 リシェルは膝を固めた。震えが止まった——正確には、止めた。教官の声が体を通るとき、筋肉が勝手に応じる。三日前から繰り返してきた訓練の反射だった。


 家畜小屋の屋根の上で、テオが伏せていた。その目が、群れの先頭を追っている。怯えていた。体が小さく丸まっている。


 だが、手は挙がっていなかった。まだ東の入口に到達していないから。


 先頭の魔獣が——畑の東縁に差しかかった。


 鼻が地面を擦った。


 一瞬、走る速度が落ちた。鼻先が、掘り返された土の匂いを捉えたのだ。テオが踵で踏み砕いた、あの足跡。凪いだ空気の中で散らされずに地表に残り続けている、強い土の匂い。


 先頭の個体が、首を南に向けた。


 足跡の列が続く方向——南東の斜面へ。


 後続が、先頭の方向転換に引きずられる。五頭、八頭、十二頭——群れが緩やかに弧を描いて南東に逸れ始めた。


 だが、全部ではなかった。


 群れの一部——七、八頭ほどが、足跡に気づかず直進の惰性で街道をまっすぐ村に向かってくる。先頭とは別の個体が鼻を鳴らしながら、東の入口に突っ込んできた。


 荷車にぶつかった。


 横倒しの荷車が衝撃で揺れる。木が軋む。だが動かなかった。ガルトが裏側から両手で押さえていた。大きな背中が荷車にめり込むように踏ん張っている。歯を食いしばる音が、リシェルの耳にも微かに届いた。


 荷車は動かない。


 ぶつかった個体が、苛立ったように鼻を鳴らした。後続の数頭が重なるように荷車に押し寄せる。だが——南側の隙間が開いている。


 一頭目が隙間に鼻を突っ込んだ。凪いだ空気の中に溜まった、濃い山羊の匂いが鼻腔を打った。地面には、踵で踏み砕かれた足跡の列が南東に続いている。匂いと足跡が、同じ方向を指していた。


 走った。


 二頭目が続いた。三頭目。四頭目。荷車にぶつかった七、八頭のすべてが、隙間を通って南東の斜面へ流れていった。


 セラフィーナの右手が上がった。


 合図だった。


 三秒の間があった。


 ——鐘が鳴った。


 鐘楼の鐘が、低く重い音を村に落とした。一回。


 山肌に反射して、音が跳ね返る。方角がわからなくなる。


 二回。


 群れの中に動揺が走った。まだ東の斜面にいた後続の魔獣たちが、首を振り、互いにぶつかり始めた。進路を見失った個体が隣の個体に噛みついた。


 三回。


 鐘の残響が空気を震わせている間に、群れの最後尾が南東の斜面に流れ込んだ。先頭はすでに斜面の下——村から遥か離れた窪地に駆け下りていた。


 混乱した個体同士が体をぶつけ合い、転がり、牙を剥き合っている。


 同士討ちだった。


 村には、一頭も残らなかった。


 *


 静寂が落ちた。


 鐘の残響が消え、唸り声が遠のき、蹄の音が斜面の向こうに消えた。


 リシェルは鐘楼の踊り場から、南東の斜面を見下ろしていた。斜面の底で、数頭の魔獣がまだ噛み合っている。だが、村からはもう見えないほど遠い。


 村の中に、傷ひとつなかった。


 畑の柵は無事だった。家畜小屋の壁に魔獣の体がぶつかった跡もない。横倒しの荷車には衝突の痕があったが、それだけだった。


 一滴の血も、流れていなかった。


「——終わりです」


 セラフィーナの声がした。


 リシェルは隣を見た。教官は東を見たまま、腕を組んでいた。表情に変化はなかった。土煙が去った空を見る目に、安堵も高揚もなく、ただ——確認を終えた人間の、静かな目だけがあった。


 まるで、最初から結末を知っていたように。


「降りましょう」


 梯子を降りた。


 地面に足がついた瞬間、リシェルの膝の力が抜けかけた。ずっと張り詰めていた。鐘楼の上で震えを止めてから、一度も体が緩んでいなかった。


 教官はすでに歩き出していた。鐘楼の北側——窪地へ。


 リシェルは追いかけた。


 窪地から、声が聞こえた。


「——終わったのか」


「音が、止まった——」


「もう、出ていいのか」


 クレアが窪地の入口に立っていた。村人たちを外に出さないように、両手を広げて。その顔は少し蒼かったが、足は動いていなかった。


 セラフィーナが窪地の前に立った。


「避難は完了しています。怪我人は」


「いません」


 クレアの声は、小さかったが、明瞭だった。


「一人、足の悪いおじいさんがいましたが、運びました。子供は三人——泣きそうになった子は、お母さんが抑えてくれました」


 セラフィーナは一つ頷いた。


「上出来です」


 クレアの肩が揺れた。唇が薄く開いて、何かを言おうとして、結局うまく出てこなかったらしい。代わりに、深く息を吐いた。


 村人たちが窪地から出てきた。


 最初に出てきた老婆が、街道を見た。畑を見た。家畜小屋を見た。倒れている荷車と、その向こうに広がる無傷の村を見た。


「——壊れてない」


 呟きだった。誰に向けたものでもない。ただ目の前の事実を確認するための、震えた声。


「家が……あるぞ」


 男の声がした。村人が一人、二人と窪地を出て、自分たちの村が無事であることを確かめていく。


 老婆の膝が折れた。地面に座り込んで、手で顔を覆った。


 泣いていた。


 声は出さなかった。ただ肩が揺れていた。毛布を握る手が白かった。


 若い母親が、背中の子供を下ろして抱きしめた。子供はまだ何が起きたかわかっていない顔で、母親の首にしがみついている。


「——あんたたちが」


 男が一人、セラフィーナの前に歩いてきた。中年の、日に焼けた顔。農夫だろう。手が震えていた。


「あんたたちが、守ってくれたのか」


 セラフィーナは、わずかに顎を引いただけだった。肯定とも否定ともつかない、微かな動作。


 男の目が潤んだ。振り返って、鐘楼の脇に立っているノエルを見た。荷車の前に立つガルトを見た。家畜小屋の屋根から降りてきたテオを見た。窪地の入口のクレアを見た。


「——ありがとう」


 声が、割れた。


「ありがとう……!」


 その声が引き金になった。


 老婆が顔を上げた。若い母親が振り返った。子供が手を振った。村人たちが、口々に——


 ガルトが最初に動けなくなった。


 荷車の前に立ったまま、拳を開いたり握ったりしていた。大きな体が、微かに震えていた。泣いているのではない。泣き方がわからないのだ。口を開けたが何も出てこなかった。また閉じた。


 ノエルは、壁に背中をつけていた。腕を組んで、横を向いていた。表情はリシェルからは見えなかった。ただ、組んだ腕の指先が、自分の二の腕を強く掴んでいた。


 テオは家畜小屋の横で、膝を抱えて座り込んでいた。何か呟いている。声にならない声で、何度も同じことを繰り返している。


 クレアは窪地の入口で、老婆に手を取られていた。しわだらけの手が、クレアの手を包み込んで、何度も何度も頭を下げている。クレアは何も言えずに、ただ手を握り返していた。


 リシェルは、立っていた。


 ノートを抱えたまま、教官の少し後ろに立って、全部を見ていた。


 ——捨て駒。


 三日前まで、そう呼ばれていた。


 棺桶小隊。死ぬための部隊。囮。消耗品。


 その五人が、今——。


 ガルトの声が聞こえた。独り言のように、低く。


「……俺たちが」


 拳を見下ろしていた。自分の大きな手を。


「俺たちが……やったのか」


 誰にも向けていない問いだった。だが、隣を通りかかった農夫の男が、笑って頷いた。


「あんたがやったんだよ。あの荷車を押さえてたのは、あんただろう」


 ガルトの指が震えた。拳が、ゆっくりと開いた。


「……俺たちはもう」


 声が詰まった。飲み込んだ。顎を引いて、もう一度。


「捨て駒じゃ、ないかもしれない」


 ノエルが壁から背を離した。ガルトの方を見た。何か皮肉を言いかけて——言わなかった。代わりに、低い声で。


「——かもな」


 たった二音だった。だがノエルの声から、いつもの刺がひとつだけ抜けていた。


 セラフィーナは、誰にも声をかけなかった。


 村人の間を静かに歩き、荷車を確認し、家畜小屋を確認し、東の斜面を一度だけ見た。戻ってきて、五人の前に立った。


「撤収します。駐屯地に戻る前に荷車を起こしていきなさい。村の方々の日常を元に戻してから帰るのが筋です」


 褒めなかった。労いもしなかった。


 ただ「筋」という一語だけが、リシェルの耳に残った。


 村の日常を元に戻すのが筋。それは、この村を守ったのが当然の仕事であるという——捨て駒の仕事ではなく、兵士の仕事であるという、静かな定義だった。


 *


 帰路は、夕焼けの中だった。


 街道を歩く六人の影が、赤い光に長く伸びていた。


 誰も口を開かなかった。だが、沈黙の質が変わっていた。三日前——駐屯地から廃農場に向かった時の沈黙は、諦めの温度をしていた。今は違う。疲れてはいる。足は重い。だが、黙っている理由が違うのだ。


 言葉にする前の何かを、五人がそれぞれ胸の中で転がしていた。


 テオは歩きながら、時折鼻をひくつかせていた。癖だった。だがその仕草が、怯えではなく確認に変わっていた。風の匂いを嗅いで、異常がないことを確かめている。


 ガルトは大きな歩幅で歩いていた。足が遅い。いつも隊の最後尾だった。だが今日は、その鈍重な足取りに焦りがなかった。振り返らない。ただ、前を歩く教官の背中を見ている。


 ノエルは相変わらず少し離れて歩いていた。だが距離が、半歩だけ縮まっていた。


 クレアは背筋を伸ばして歩いていた。手を組む癖が出ていない。代わりに、両手が体の脇で自然に揺れている。


 リシェルは——セラフィーナの背中を見ていた。


 銀灰色の髪が夕陽を透かして、淡い橙に染まっていた。背筋はまっすぐだった。戦場に立った後でも、教官の姿勢は一つも崩れていなかった。


 あの人は、最初から全部見えていた。


 村を見た瞬間に。地形を読んだ。風を読んだ。風が止む時刻まで読んだ。荷車の位置、足跡の間隔、鐘の回数。三十頭の魔獣の動きを、すべて事前に設計していた。


 一滴の血も流さずに。


 リシェルの手が、ノートの表紙を撫でた。中には今日の記録がある。教官の指示、配置、理由。一字も変えずに書き写した言葉。


 でも——と、リシェルは思った。


 書き写しただけだ。


 教官の言葉を「崩さずに通す」。それが自分に与えられた役割だった。今日、四人に指示を伝えたのも、その延長線上にある。


 だが、鐘楼の上で教官が見ていたもの——群れの流れ、個体の反応、空を一瞥しただけで風の変化を見切る眼力——それは、ノートには書けなかった。


 教官の目が何を読んでいるのか。


 まだ、わからない。


 リシェルは夕陽に染まるセラフィーナの背中を見た。


 その背中が見ている先に何があるのかを、まだ自分は追いかけてすらいない。言葉を通す。指示を伝える。それは「真似」の段階だと教官は言った。


 なら、その次がある。


 真似の先に、何がある。


 教官と同じものが見える日が来るのか、来ないのかはわからない。でも——。


 リシェルはノートを胸に抱えた。


 ——追いつきたい。


 この人の見ている未来に。


 夕焼けの街道を、六つの影が歩いていく。伸びた影が、赤い地面の上で一列に並んでいた。


 先頭の影だけが、一度も振り返らなかった。

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