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剣聖は、棺桶小隊に剣を教えない  作者: 今井 幻


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第7話「欠点は、武器になる」

 翌日の兵舎は、妙に静かだった。


 五人が長机の前に腰を下ろしている。いつもなら朝から野外に引きずり出されるはずの教官は、壁に背をつけたまま、腕を組んで立っていた。


 誰も口を開かない。


 昨日のことが、まだ空気に残っていた。


 王都の精鋭騎士が四人。磨き上げた鎧に紋章入りの胸甲。そのうち先頭の男が、教官のたった三手で地に転がされた。尻餅をついたまま立ち上がれず、失禁しかけていた。二人目と三人目は剣に手をかけたまま一歩も動けなかった。四人目だけは最初から口を開かず、その場に立ち尽くしていた。


 リシェルは自分のノートを膝に開いていたが、目は文字を追っていなかった。


 あの瞬間を思い出していた。蹴り飛ばされた台帳。泥に散った革表紙。そのあと教官が半歩だけ前に出た。たった半歩。それだけで、全てが決まった。


 ——今日は何が始まるのだろう。


 ノエルが椅子の背にもたれ、天井を睨んでいた。ガルトは大きな手を膝の上に置いて、時折指の関節を鳴らしている。テオだけが落ち着かず、壁の染みを数えるように視線をさまよわせていた。クレアは両手を膝の上で組み、背筋を伸ばして正面を見ていた。


 セラフィーナが壁から背を離した。


 五つの視線が集まる。


「昨日のことは忘れなさい」


 低く、短い一言だった。


 ノエルが目を細めた。忘れろと言われて忘れられるわけがない。あの三太刀を——鋼板の鎧を紙のように無力化した、あの速度を。


 だがセラフィーナは補足しなかった。長机の端に歩み寄り、広げてあった北境の地図を指先で叩いた。


「今日から、あなたたちの訓練の形が変わります」


「……変わる?」


 リシェルが顔を上げた。


「これまでは全員に同じことをさせていました。位置取り、呼吸、足運び。それは基礎です」


 セラフィーナの視線が、一人ひとりの顔を順に捉えた。品定めではない。もっと即物的な——部品の精度を確認する職人の目つきだった。


「基礎は終わりました。ここからは、一人ずつ違うことをやってもらいます」


 *


 最初に名を呼ばれたのは、テオだった。


「テオ」


 びくりと肩が跳ねた。椅子の上で背中が丸くなる。名前を呼ばれただけで、小型魔獣に遭遇した時と同じ姿勢になっている。


 セラフィーナは、それを見ていた。


「廃農場で、壁の亀裂から音が聞こえた時。あなたは三秒で風だと判断した」


 テオの目が泳いだ。覚えている。あの暗がりの中で、何かが動いた気がして——心臓が口から出そうだったけれど、耳を澄ませて、風だと結論づけた。


「泥の足跡を見つけた時も、声は震えていたが報告の形にはなっていた」


「……あれは、その、たまたま——」


「たまたまではありません」


 セラフィーナの声には抑揚がなかった。褒めているのでも、なだめているのでもない。事実を述べているだけだった。


「あなたは臆病です」


 テオの肩が、さらに縮こまった。


「恐怖を感じる閾値が、他の四人より著しく低い。些細な音、微かな気配の変化、空気の質の違い——あなたはそれら全てに怯える。そして怯えるから、誰よりも早く気づく」


 誰も息を吐かなかった。テオは俯いたまま、自分の指先を見ていた。


「斥候という役割があります」


 テオの指が止まった。


「部隊の耳と鼻になる仕事です。敵が来る前に気づき、罠がある前に匂いを嗅ぎ取り、危険の方角と距離を報告する。戦闘力は要りません。必要なのは、誰よりも早く怖がれることです」


 テオが顔を上げた。目が赤かった。恐怖ではなく、別の何かで。


「……俺の、ビビりが?」


「正確に言えば、あなたの感覚器の鋭敏さです。怖がることで研ぎ澄まされている。鈍感な兵士が十人束になっても、あなたの耳には勝てない」


 テオは何か言いかけて、口を閉じた。もう一度開いて、また閉じた。


 セラフィーナは待たなかった。次の名前を呼んだ。


 *


「ガルト」


 大きな体が、椅子の上で居住まいを正した。


「……教官」


 ガルトの声は低く、短かった。昨日の三太刀を見てから、口調が変わっていた。


「あなたは廃農場で魔獣の突進を受けた時、靴が泥を二寸滑っただけで退かなかった」


 ガルトの太い眉が動いた。あの時のことは、よく覚えている。指示通りに壁の切れ目に立って、幅広の剣を横に構えて——衝撃が腕を伝って背骨まで響いて——でも、足は動かなかった。動かなかったというより、動けなかった。重すぎて。


「足が遅い。動きが鈍い。それはそのまま残ります」


 ガルトの顔に、かすかな苦さが走った。


「ですが、あなたの体幹はこの五人の中で最も安定しています。受けた衝撃を地面に逃がす能力が高い。これは走る速さとは無関係の才能です」


 セラフィーナが地図の上に指を置いた。渓谷の隘路を示す細い線。


「戦場には、退いてはいけない場所がある。味方の陣形が崩れるかどうかの境界線。蝶番のような一点です。そこに立ってもらいます」


「……壁、ってことか」


「壁です。あなたが退かなければ、後ろの全員が生きます。あなたが一歩退けば、後ろが崩れる。それだけの仕事です」


 ガルトは自分の両手を見た。節くれだった、分厚い掌。剣を振り回すには遅すぎる手。だが——受け止めることだけなら。


「剣を振る必要はないんですか」


「必要な時が来れば振ります。ですが、あなたの本分は振ることではなく、立っていることです」


 ガルトは黙って頷いた。言葉は少なかったが、指の関節を鳴らす癖が止まっていた。


 *


「ノエル」


「……何だよ」


 椅子の背にもたれたまま、ノエルは視線だけをセラフィーナに向けた。顎を上げた姿勢。反抗の型。


 セラフィーナはそれを無視した。


「あなたは剣を一回振ると、二回目までに間が空く」


 ノエルの顎が下がった。ほんの少し。図星だった。


「筋力の問題ではありません。体の使い方の癖です。全身の力を一振りに乗せすぎている。だから反動が大きく、体勢の立て直しに時間がかかる」


「……わかってる。だから使い物にならないって、士官学校でも——」


「黙りなさい」


 ノエルの口が閉じた。セラフィーナの声は大きくならなかった。音量は変わらず、温度だけが下がった。


「あなたの一振りは重い。訓練場の丸太を一撃で割った時、私は計測していました。あの一撃を、この小隊の誰にも再現させることはできない」


 ノエルの目が、わずかに見開かれた。


「問題は『一撃しか打てない』ことではありません。問題は、その一撃を『いつ、どこで放つか』を誰も設計してこなかったことです」


 セラフィーナの声が、ほんの少しだけ遅くなった。言葉の一つ一つに、釘を打つような正確さがあった。


「盤面は私が作ります。敵の陣形に穴を開け、壁を崩し、あなたの前に一瞬だけ道をこじ開ける。あなたの仕事は、その一瞬に全てを叩き込むことです」


「……」


「一撃で十分です。二撃目は要りません。あなたは切り札です。この小隊の、最後の一手」


 一拍置いて、セラフィーナは付け加えた。


「それと——得物は剣とは限りません。全身の力を一点に乗せる癖は、投擲にも向いている。届く距離が変われば、戦場での役割が変わります。追々、試しましょう」


 ノエルは黙っていた。天井を睨む目は同じだったが、もたれかかっていた背中が、椅子の背から離れていた。


 *


「クレア」


 名前を呼ばれた瞬間、クレアの背筋がさらにまっすぐになった。元から姿勢は良かったが、呼ばれたことへの緊張で、もう一段階硬くなっていた。


「あなたの治癒魔法は、どの程度使えますか」


「……小さな切り傷を、塞ぐ程度です。深い傷には足りません。骨折の固定もできません。魔力が——」


「十分です」


 クレアの口が止まった。


「大きな魔法は要りません」


 セラフィーナが一歩近づいた。クレアの手が膝の上で白くなった。


「戦場で一番大事なのは、味方が倒れた時にあと一歩だけ動かせる力です」


 クレアの目が、少しだけ広がった。


「切り傷を塞ぐ。出血を止める。折れた骨は添え木で固定する。それだけでいい。派手な回復は必要ない。味方が動けなくなりかけた時に、もう三十秒だけ戦線に繋ぎ止める。その三十秒が、全体の崩壊を防ぐ」


 セラフィーナの声は相変わらず平坦だったが、使う言葉が変わっていた。テオやガルトに対してより、少しだけ丁寧だった。クレアの真面目さを認めているのか、あるいは——諦めが一番深いこの少女に、正確な輪郭を与えようとしているのか。


「あなたには薬草の知識がある。それを使ってください。魔力で足りない分を、知識で補う。戦場で即座に作れる応急処置の手段を、これから一つずつ叩き込みます」


 クレアは頷いた。声は出なかったが、組んでいた手の力が緩んでいた。


 *


 最後だった。


「リシェル」


 ノートを膝に開いたまま、リシェルは顔を上げた。


 四人への役割の再定義を、一言も漏らさず書き取っていた。テオの項目には「斥候——耳と鼻」、ガルトの項目には「壁——蝶番」、ノエルの項目には「切り札——一撃」、クレアの項目には「継戦——三十秒」。走り書きだが、教官の言葉がそのままの密度で残っていた。


 セラフィーナは、そのノートを一瞥した。


「あなたの剣は中途半端です。魔法も同じです。士官学校の評価は妥当でしょう」


 リシェルの筆が止まった。覚悟はしていたはずだった。わかっている。自分は何一つ突出していない。剣もガルトに劣り、反射もテオに劣り、一撃もノエルに劣り、魔法もクレアに劣る。


 全部が、少しずつ足りない。


「ですが」


 セラフィーナの声が、ほんのわずかに間を置いた。


「今、四人に伝えた内容を、あなたはそのノートに正確に書き取っている」


 リシェルは、反射的にノートに目を落とした。


「私の言葉を、崩さずに記録できる。意味を歪めずに再現できる。それは、剣の腕とも魔法の才能とも関係のない能力です」


「……書き取りが、ですか」


「書き取りではありません」


 セラフィーナが、初めてリシェルの正面に立った。他の四人の時は、横を向いていたり、地図を見ていたりした。だがリシェルに対しては、真っ直ぐ向き合った。


「戦場で私は指示を出します。短い言葉で、一度きりです。その指示を、全員に通す人間が要る。私の声が届かない場所にいる味方に、私の言葉をそのまま——意味も温度も変えずに——伝えられる人間が」


 リシェルのペンが、ノートの上で震えた。


「それは、副官の仕事です」


「……わたしが?」


「まずは真似でいい。私の言葉を聞いて、それを他の四人に伝える練習から始めます。判断は私がします。あなたは中継するだけでいい」


 リシェルは口を開きかけて、閉じた。ペンを握り直した。


「——はい」


 小さな声だった。だが、ノートの上の文字は震えていなかった。


 *


 五人に役割が与えられた。


 兵舎の空気が変わっていた。言葉にできる者はいなかったが、全員が感じていた。


 自分が「何もできない落ちこぼれ」から、「何かの理由でここにいる部品」に変わったこと。それが良いことなのかどうかは、まだ誰にもわからなかった。ただ——輪郭ができた。自分の形が、初めて見えた。


 ノエルだけが口を開いた。


「で、実際はどうなんだ。俺たちの一撃だの壁だの、本当に戦場で通用するのか」


 セラフィーナは答えなかった。代わりに、窓の外を見た。


「それは明日以降の訓練で証明します。今日は——」


 兵舎の扉が叩かれた。


 三度、強く。軍の正式な来訪を告げる叩き方だった。


 セラフィーナが「入れ」と応じる前に、扉が開いた。


 *


 入ってきたのは、将校の制服を着た男だった。


 棺桶小隊の面々は見覚えがなかった。北境の駐屯地にいる人間ではない。軍服の仕立てが違う。襟章の形も。王都か、その近辺から来た人間だった。


 男はセラフィーナを一瞥し、敬礼の形だけを作った。指先が額に届いていない。形式上の最低限。


「第零教導小隊教官、セラフィーナ・レイヴェルト」


「はい」


「北方管区司令部より命令書を預かっている」


 封蝋のついた書簡が差し出された。セラフィーナが受け取り、封を切った。


 兵舎の中に、紙を開く音だけが響いた。


 五人は教官の横顔を見ていた。文面を目で追う速度が変わらない。表情も変わらない。息の長さも、瞬きの間隔も。


 読み終えた。


 セラフィーナが、紙面から目を上げた。


「確認します。北東の街道沿いに位置する寒村——住民およそ三十名。現在、魔獣の群れが東方から接近中。この村を放棄し、街道の封鎖に兵力を集中せよ、という内容で間違いありませんか」


 将校は頷いた。


「管区司令部の判断だ。兵力が足りない以上、街道の確保を優先する。村一つに構っている余裕はない」


 セラフィーナの右手が、命令書を持ったまま下がった。


「村民の避難は」


「間に合わない。群れの速度と村までの距離を考えれば、到着前の退避は不可能だ」


「つまり、見殺しにしろと」


 将校の眉が動いた。不快を示す動きだった。


「命令は命令だ、教官殿。管区司令部の判断に、一介の教官が口を——」


「質問を変えます」


 セラフィーナの声は、平坦だった。平坦すぎた。五人の誰もが、その声の異質さに気づいていた。音量は変わらない。速度も変わらない。だが何かが——温度のようなものが、ごっそり抜け落ちていた。


「この命令書の発令者は、どなたですか」


 将校の口が一瞬止まった。それから、言い直すように答えた。


「管区司令部の決裁だ。それ以上は下に伝える筋合いではない」


「了解しました」


 セラフィーナが頷いた。


 将校は踵を返し、扉に手をかけた。


「命令の遂行を確認次第、報告を——」


 乾いた音がした。


 紙が、机の上に叩きつけられた音だった。


 将校が振り返った時、セラフィーナは命令書の上に手を置いて立っていた。指先が紙面を押さえつけている。皺が放射状に広がっていた。


 五人の視線が、教官の手に集中した。


 命令書を押さえる右手。その指先だけが、わずかに白い。他は一切変わらない。声も、呼吸も、姿勢も。だが五本の指だけが——紙を突き破りそうなほどの力で、文字の上に食い込んでいた。


「将校殿」


 声は低かった。


「この命令には従いません」


 将校の顔に血が上った。


「——何を言っている。軍命に——」


「私は第零教導小隊の教官です。小隊の判断権限は私にあります。そして、この小隊は管区司令部の正規戦力として計上されていない」


 言葉が正確だった。怒りに駆られた反論ではなかった。事前に、あるいは即座に、法的な根拠を組み立てていた。


「計上されていない部隊に正規の命令系統は適用されません。北方管区の規定第十七条三項。教導小隊の独自判断は、正規戦力が不在の緊急事態において例外的に認められる」


 将校の口が開いたまま止まった。


「……貴様、それは——」


「ご確認いただきたければ、駐屯地の書庫に規定集があります」


 セラフィーナは命令書から手を離した。


 将校は何かを言いかけ、口をつぐんだ。歯を噛む音が聞こえた。踵を鳴らして扉を開き、出て行った。蹴るように閉められた扉が、蝶番を軋ませた。


 *


 静寂が残った。


 五人は、まだ椅子に座ったまま動けなかった。


 セラフィーナは扉から視線を外し、机の上の命令書を見下ろしていた。皺だらけの紙面。読み取れなくなった文字もあった。


 その右手が——ゆっくりと上がった。


 軍服の胸元に触れた。


 今度ははっきりと見えた。前の晩、松明の脇で見た曖昧な所作とは違う。教官は軍服の内側に手を入れ、何かを握った。小さなもの。金属のような、硬い感触を指の隙間から想像させる何か。


 三秒。


 手が離れた。


 セラフィーナが振り返った。その目は、兵舎に集められた五人を——一人ひとりの顔を、静かに見た。


「明日から訓練の内容が変わります」


 声に、さっきまでの平坦さが戻っていた。だが、どこかが違った。リシェルにはわかった。温度が抜けたのではない。逆だった。何かが——熱が、静かに灯っていた。


「村ごと生かします」


 その一言に、説明はなかった。


 作戦の概要も。成功の見込みも。犠牲の可能性も。


 ただ六文字だけが、兵舎の空気を書き換えた。


 テオが息を呑んだ。ガルトの指が、膝の上で拳を作った。ノエルは何も言わなかったが、椅子の背にもたれ直すことはなかった。クレアが、組んでいた手を解いた。


 リシェルはペンを握り直した。


 ノートの新しいページに、一行だけ書いた。


「村ごと生かす」


 教官の言葉を、一字も変えずに。

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