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剣聖は、棺桶小隊に剣を教えない  作者: 今井 幻


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第6話「三太刀」

 夜が白む気配は、まだなかった。


 セラフィーナの靴底が砂利を踏む音だけが、門前の広場に響いている。彼女は精鋭騎士たちの脇を、呼吸一つ変えずに通り過ぎようとしていた。

 背中に浴びせられた嘲りは、風のようにやり過ごした。


 だが、嘲りは風ではなかった。


 先頭の騎士が、腕を広げるようにして一歩横に出た。門の脇から――セラフィーナの後方を歩いてくる棺桶小隊の方へ。


「おい、お前」


 声が変わっていた。さっきまでの芝居がかった嘲笑ではない。格下を値踏みする、素の声。

 リシェルが足を止めた。


「その手に抱えてるのは何だ?」


 胸に抱いた革表紙の台帳を、騎士の目が捉えていた。

 リシェルは答えなかった。台帳を抱く腕に力が入っただけだ。


「聞いてるんだ。落ちこぼれが命がけで持ち帰った『戦利品』とやらだろう? 見せてみろよ」


 二人目の騎士が横から笑いを足した。


「台帳だぜ、台帳。よりにもよって補給台帳を宝物みてえに抱えてやがる」


 三人目が声を合わせた。


「それで死んだら傑作だな。『棺桶小隊、台帳を守って全滅』――」


 リシェルの唇が、白くなるほど引き結ばれていた。

 泥だらけの軍服。ボロボロの装備。それは事実だ。補給台帳を命がけで持ち帰ったのも事実だ。


 反論する言葉が、出てこなかった。

 出てこないのは、悔しいからではない。本当に「それだけ」に見えるのだと理解してしまったからだ。あの廃農場で教官がどれほど精密に全員を動かしたか。魔獣の巡回を読み、壁の切れ目で一頭ずつしか来られないよう誘導し、全員を無傷で帰還させた――その一切は、知らない人間の目には映らない。


 結果だけが見える。泥だらけの新兵が台帳を一冊持って帰った。それだけだ。


「黙ってないで何か言ったらどうだ。それとも――」


 先頭の騎士が、片手を伸ばした。

 リシェルの腕から台帳を引き剥がそうとしたのではない。もっと雑な動きだった。鬱陶しいものを払うように、手の甲でリシェルの胸元を叩いた。


 台帳が落ちた。

 革表紙が砂利の上で跳ね、泥に半分沈んだ。


 リシェルが息を呑んだ。台帳を拾おうとしゃがみかけた、その頭上を――騎士の靴底が通過した。

 蹴ったのだ。

 台帳を。


 革表紙が泥の上を滑り、三歩先で止まった。

 リシェルの手が、中途半端に伸びたまま止まっていた。しゃがんだ姿勢のまま。声も出なかった。


 その瞬間、後ろからノエルが一歩前に出かけた。拳を握り、歯を剥いて――


「黙れ」


 声は、ノエルの後ろからではなかった。

 前方から。門の方から。

 正確には、門の前で足を止めたセラフィーナの、背中から。


 セラフィーナはまだ、振り返っていなかった。

 だがノエルも、精鋭騎士も、棺桶小隊の全員も――動けなくなった。


 声の温度が違った。

 これまでセラフィーナが出してきた声の、どれとも違う。廃農場で「三歩下がれ」と指示した声でも、訓練場で「遅い」と切り捨てた声でもない。

 温度がない。

 感情を消したのではなく、感情がどこかへ「行った」あとの、空洞の声だった。


 セラフィーナが振り返った。

 松明の光が、銀灰色の髪の半分だけを照らした。目が見える。瞳の色は変わっていない。表情も変わっていない。

 なのに――


 先頭の騎士が、半歩だけ後ずさった。鎧の金属が擦れて、小さな音が鳴った。

 セラフィーナの右手が、ゆっくりと軍服の胸元に入った。


 今度は、触れて離す、ではなかった。

 指が何かを掴んだ。胸の内側にある、小さく硬い何か。握った。強く。指の関節が白く浮いた。


 三秒。

 手が離れた。


 そのまま、歩き始めた。門の前から、精鋭騎士たちの方へ。松明の光を背に受けて、影が長く広場に伸びる。

 靴音が一歩ごとに砂利を噛む。規則的で、一定。速くもなく、遅くもない。


 精鋭騎士たちの背中が、三歩先に迫った。騎士たちは門脇からリシェルの方へ出ていたため、セラフィーナが戻る道の途上にいた。

 リシェルは、しゃがんだ姿勢のまま――精鋭騎士の向こう側から近づいてくる教官の影を見ていた。松明を背負った細い輪郭が、騎士たちの鎧の隙間から見え隠れする。


 先頭の騎士が振り返った。背後から迫る靴音に。

 セラフィーナは、騎士の正面に立った。三歩の距離。


「――あの台帳は」


 セラフィーナの声が、落ちた。先頭の騎士に向けて。


「私の部下が、命を賭けて回収した物資記録です」


 声は低く、短く。いつもの教官の声と同じ構造だった。具体的で、無駄がなく、感情がない。

 だが、中身が違った。


 この声は――命令ではない。

 宣告だ。


「もう一度訊きます。今の行為を、撤回しますか」


 先頭の騎士の喉が、小さく鳴った。生唾を飲む音。だが彼の虚勢は、まだ折れていなかった。王都の精鋭としての自負と、上等な鎧が背骨の代わりをしていた。


「撤回? ――はっ」


 笑った。引きつっていたが、笑った。


「落ちこぼれの台帳一冊で何を――」


「結構です」


 セラフィーナが遮った。

 同時に、左手が佩剣の鯉口を切った。


 空気が、変わった。

 テオが両手で自分の腕を抱えた。肌が粟立っていた。理由がわからなかった。ただ――空気の圧が変わったことだけが、全身の産毛で理解できた。


 先頭の騎士が剣を抜いた。

 速かった。精鋭と呼ばれるだけの、充分に鋭い抜刀。鞘走りの音が高く、刃が松明の光を一瞬だけ跳ね返した。

 二人目と三人目の騎士の手も柄にかかった。


 セラフィーナは、まだ剣を抜いていなかった。

 鯉口を切っただけだ。柄に手をかけてすらいない。ただ、先頭の騎士の正面に立っている。三歩の距離。


 松明の光が、二つの影を広場に落とした。

 一秒。


 先頭の騎士が踏み込んだ。斜めの軌道。右肩から左腰へ――正規の騎士が最初に教わる、最も確実な袈裟斬り。

 速い。


 セラフィーナの体が、半歩だけ動いた。

 右へ。

 たった半歩。だがそれは、騎士の踏み込みの「到達点」のちょうど半歩外だった。刃が空を切る。鎧の重さに引きずられて、騎士の体幹がわずかに前方に流れた。


 振り下ろした腕が、伸びきった瞬間――

 セラフィーナの剣が鞘を離れた。


 音がしなかった。いや、音はあったはずだ。だが広場にいた全員の耳には、金属が砂利の上に落ちる音だけが残った。


 先頭の騎士の右手が、開いていた。

 剣が、手の中にない。三歩先の砂利の上で、刃を上にして転がっていた。


 騎士は自分の手を見た。

 右の手首――小指側の側面に、横一文字の赤い線が走っていた。出血ではない。皮一枚が裂けてすらいない。だが手首から先に力が入らなかった。痺れが、肘の上まで昇っている。


 何が起きたか。

 騎士本人にもわからなかった。


 袈裟斬りを半歩で外された。それは――見えた。だが、そこから先が繋がらない。いつ抜刀された? いつ手首を打たれた? いつ剣を弾かれた?

 工程が二つ、記憶から消えている。


「――は?」


 騎士の口から出たのは、疑問ですらなかった。ただの呼気だ。

 首元に、冷たいものが触れた。


 剣の腹が、喉仏の半寸下に添えられていた。刃は立てていない。だが金属の温度が、肌から脳へ直接届いた。


 先頭の騎士の膝が、折れた。

 自分の意志ではなかった。体が勝手に地面を選んだ。尻餅をつく形で砂利の上に倒れ、両手が後ろに突いた。上等な鎧の背が砂利を削った。


 セラフィーナは、見下ろしていた。

 剣は下ろされていた。もう喉元にはない。その必要がなかった。


 先頭の騎士の瞳が、限界まで見開かれていた。口が開閉している。声は出ない。股間のあたりから、じわりと濃い色が広がりかけたが、松明の光と泥が覆い隠した。


 二人目の騎士の手が、柄から離れていた。三人目も。二人とも一歩も動けなかった。動こうとしなかったのではない。動く前に終わっていた。

 四人目の騎士だけが、最初から手を柄にかけていなかった。壁に背をつけたまま、セラフィーナの足運びを凝視していた。


 広場が静まり返った。

 松明の爆ぜる音。

 それと――テオの歯が震えて噛み合う、かちかちという小さな音だけが聞こえた。恐怖ではない。恐怖とは違う何かだった。テオ自身にも名前がつけられなかった。


 ガルトの幅広の剣を持つ手が、柄を握ったまま石のように止まっていた。

 ノエルは拳を握ったまま、一歩も踏み出していなかった。さっき前に出ようとした自分が、とてつもなく滑稽に思えた。


 クレアの両手が、胸の前で固く組まれていた。息を止めていたことに、今やっと気づいた。


 セラフィーナが剣を鞘に戻した。

 音がした。鍔鳴り。その一音で、広場に張りつめていた何かが切れた。


 セラフィーナは砂利の上に座り込んでいる騎士を一瞥もせず、その脇を通り過ぎた。精鋭騎士たちの間を抜け、しゃがんだままのリシェルの前まで歩いた。

 泥に半分沈んだ台帳を見下ろし――自分では拾わなかった。


「リシェル」


 名前を呼んだ。

 リシェルは、まだしゃがんだ姿勢のままだった。教官を見上げた。


「あなたの荷です。あなたが拾いなさい」


 声がいつもの温度に戻っていた。

 具体的で、短く、感情がない。教官の声だ。


 リシェルの手が動いた。台帳の革表紙を掴み、泥を袖口で拭った。立ち上がった。膝が震えていたが、台帳を胸に抱き直した。


 セラフィーナは五人の方へ向き直った。

 棺桶小隊の五人。泥にまみれ、ボロ装備で、誰一人まともな武勲もない新兵たち。

 全員が、教官を見ていた。


 セラフィーナの目が、五人を一度だけ等しく見渡した。それから――砂利の上で背中をつけている騎士に一瞬だけ視線を送り、戻した。


「今のを、見ていましたか」


 問いかけは淡々としていた。


「肩です」


 五人の誰も、返事ができなかった。


「あの人は右肩から入りました。右肩が沈んだ瞬間に、振り下ろしの軌道は一つに決まる。軌道が決まれば、到達点が決まる。到達点が決まれば、半歩で外れます」


 教官はいつも通りだった。訓練場で「三歩下がれ」と指示するのと同じ声で、今起きたことを説明している。


「外れた相手は、体幹が流れます。体幹が流れた瞬間、手首は固定できない。だから手首の腱を横から叩けば、剣は落ちる」


 ノエルの口が、かすかに動いた。何かを言いかけて、やめた。


「剣を失った人間の体は、一つしかできることがありません。後退です。だから、後退する前に一歩詰めれば――もう終わりです」


 セラフィーナは、自分の佩剣に手を触れなかった。抜きもしない。

 ただ、言った。


「廃農場と同じです。肩を見れば、次の一手がわかる。人も、魔獣も」


 広場に風が通った。松明の火が大きく揺れ、影が躍った。


 セラフィーナが踵を返した。門の方へ歩き出す。今度こそ、振り返らなかった。


「寝なさい。明日も訓練です」


 背中越しに落とされた言葉は、もう完全に「教官」のものだった。


  *


 靴音が門の向こうに消えるまで、誰も動かなかった。


 最初に動いたのはリシェルだった。台帳を抱き直し、教官の後を追うように門へ向かう。ただし、足は震えていた。


 ノエルが、自分の手を見下ろした。

 鞘に入ったままの自分の剣。研いだ刃。一度も抜かなかった剣。


 さっき見たものは――剣を抜いて振るって当てる、という三つの動作を「一つ」でやった人間の剣だ。自分が研いだ刃で何度素振りをしても、永遠にあの距離にすら届かない。


 届かない、と思った。はずだった。

 だが教官は言った。「肩を見ろ」と。


 あれが――何か特別な才能の話をしていたのではないことだけは、わかった。教官は理屈を喋っていた。肩が沈めば軌道が決まる。軌道が決まれば外れる。外れれば崩れる。崩れれば――終わる。


 理屈だ。

 理屈なら、覚えられる。


 ノエルの拳が、ゆっくりと開いた。


 ガルトが砂利の上に突き立てていた剣を引き抜き、黙って門に向かった。言葉はなかった。ただ――背中の丸め方が、さっきまでと少し違った。


 テオは、まだ歯が鳴っていた。だが足は動いた。門へ。松明の光から離れ、駐屯地の暗い廊下に入っていく仲間の背中を追った。


 クレアが最後だった。組んでいた手を解き、一度だけ――砂利の上に座り込んだままの精鋭騎士を振り返った。

 目が合った。

 騎士の瞳は、まだ見開かれたままだった。

 クレアは何も言わず、目をそらして門をくぐった。


  *


 広場には、精鋭騎士だけが残された。


 先頭の男は、まだ立ち上がれなかった。痺れた右手を左手で押さえ、自分の指を動かそうとしている。動く。動くが――力が入らない。


 二人目が口を開きかけたが、何も言えなかった。三人目も同様だった。

 四人目の騎士が、壁から背を離した。

 砂利の上に転がった剣を拾い上げ、先頭の男の前に差し出した。


 先頭の男は剣を見上げ、それから四人目の騎士の顔を見た。

 四人目は何も言わなかった。ただ剣を差し出し、先頭の男が受け取るのを待って――松明に背を向け、門の方へ歩いていった。


 広場に、松明だけが残った。


  *


 兵舎への廊下を歩きながら、リシェルは自分の胸に抱いた台帳の重さを感じていた。

 泥がこびりついている。革の匂い。この台帳は、命をかけて持ち帰るほどの価値があったのか。正直、わからない。


 でも教官は「あなたの荷です」と言った。

 あなたが拾え、と。

 教官は台帳を代わりに拾ってはくれなかった。


 あの圧倒的な剣で精鋭を叩き伏せておきながら、泥の中の台帳一冊を弟子の代わりに拾うことはしなかった。

 教官には教官の理屈がある。それがどこまで続いているのか、底がどこにあるのか――まだ、わからない。


 わからないが、一つだけ確かなことがある。

 この人は、後ろにいても化け物だった。

 前に出れば――もっと、化け物だった。


 リシェルの手が、台帳の革表紙を強く握った。

 そしてもう一つ。


 あの三太刀を振るう直前――教官の右手が、胸の内側の何かを握りしめていた。

 廃農場から戻った時に見た仕草と同じ場所。ただし今度は、触れて離す、ではなかった。握っていた。指が白くなるほど強く。


 あれは何だったのか。

 まだ、わからない。

 でもリシェルの中で、小さな確信が芽を出し始めていた。


――この人が本当に怒るのは、自分が嘲られた時じゃない。


 兵舎の扉が見えた。リシェルは台帳を抱え直し、暗い廊下を進んだ。

 背中を見つめた。もう見えない教官の背中を、記憶の中で見つめていた。

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