第5話「足は覚えている」
廃農場の外壁が見えたのは、最後の陽が稜線の向こうに落ちてから、さらに一刻ほど経った頃だった。
月は薄い雲の裏にいる。輪郭だけがぼんやりと滲み、地面に影を作るには足りない光だった。
セラフィーナは五人の背中を六歩後ろから見ていた。
行軍中、誰も口を利かなかった。朝の出発時にはまだノエルが「夜まで歩かされるのか」と噛みついていたが、道の両脇の森が深くなるにつれて声は消えた。今は五人分の足音と、装備が擦れる乾いた音だけが続いている。
テオが三度目の振り返りをした。
茂みを見ている。何もいない。だが彼の目は左右に動いた後、わずかに上を見た。鳥が飛んでいないことを確かめている。無意識の所作だった。
――臆病は、死ぬ理由にはならない。
セラフィーナはそう判断した。それ以上は、まだ考えなかった。
「止まれ」
五人の足が止まった。昨日より半拍速い。
前方、枯れた垣根の隙間から、崩れかけた石壁の輪郭が見える。廃農場の外壁だ。高さは人の背丈ほど。所々が崩れて瓦礫になっている。
風は北西から。
セラフィーナは鼻腔に入る空気を読んだ。湿った土。腐った藁。そしてその下に、かすかに獣脂に似た匂い。薄い。外壁沿いに散らばっている個体の残り香だろう。中庭の方が濃いはずだ。
「管理棟は外壁の北側です。中庭には入らない。外壁に沿って東から回り込み、北面の窓から入ります」
囁き声だった。だが五人全員に届く。風下だからだ。
「松明は使いません。目が慣れるまで三十数えなさい」
リシェルが小さく頷いた。他の四人は黙ったままだった。
三十を数え終える前に、ガルトの呼吸が荒くなった。恐怖ではない。体格に見合わない浅い呼吸は、大柄な者が音を殺しようとして逆に苦しくなる典型だった。
「ガルト。口で吸って、鼻で吐きなさい。音は鼻の方が小さい」
呼吸が変わった。一拍の間を置いて、少しだけ静かになった。
セラフィーナは前に出ず、六歩の距離を保ったまま歩き始めた。
*
外壁の東面に沿って移動する間、テオは二度立ち止まった。
一度目は、壁の亀裂から微かに漏れた音に対して。風が石の隙間を通る音だった。セラフィーナにはすぐにわかったが、テオが自分で判断するのを待った。三秒。テオの肩から力が抜けた。正しい判断だった。
二度目は、足元の泥が不自然に踏み荒らされている箇所で。獣の足跡だ。爪の幅と深さから小型――体高は膝丈程度。新しい。だがテオはそこまで読めていない。ただ「何かが通った」という事実に足を止めた。
ノエルが後ろから低い声を出した。
「何だよ、さっさと行け」
「……足跡」
テオの声は震えていた。だが報告の形にはなっていた。
セラフィーナは足跡を一瞥した。三頭分。方向は壁沿いに西へ。つまり今、北面に向かっている自分たちとは逆方向に移動した痕だ。時間は……泥の乾き具合から、半刻以内。
戻ってくるまでに猶予はある。だが帰路は別だ。
「進みます。足音を殺して」
*
管理棟の北面に窓があった。
板が一枚外れている。中は暗い。月の光が窓枠の形に床を照らし、それ以外は闇だった。
「リシェル。中に入って台帳を探しなさい。棚は右奥。テオ、窓の外で見張り。残りはここで動かないこと」
リシェルが窓枠に手をかけた。躊躇は一瞬だけだった。体が小さい分、音を立てずに滑り込めた。
内部から微かな足音が聞こえる。板張りの床。靴底が埃を踏む乾いた音。
ノエルが壁に背を預け、剣の柄に手を置いた。ガルトは幅広の剣を体の前に立てかけるように持ち、入口の方を見ている。クレアは壁際にしゃがんだまま動かない。
テオだけが落ち着きなく首を動かしていた。左。右。上。壁の向こう。石の隙間。地面。
セラフィーナは五歩離れた位置から、壁と空と地面を同時に見ていた。
風が変わりかけている。北西から北へ。このまま北寄りに振れれば、自分たちの匂いが西側――魔獣が移動した方向へ流れる。
まだ、猶予はある。
窓の中からリシェルの声がした。
「……ありました」
革表紙の台帳を抱えて窓枠に現れたリシェルの顔は、月明かりの中で白く見えた。セラフィーナが手を差し伸べる前に、自分で窓枠を越えて降りた。着地の音は小さかった。
「回収完了。撤退します。来た道を戻る。足音……」
言いかけた時、テオが硬直した。
首が左に固定されている。目が見開かれている。
セラフィーナの耳にも、届いた。
壁の向こう。西側から。爪が石を引っ掻く音。一つではない。
三頭が、戻ってきた。
*
最初に動いたのはノエルだった。
柄を握り、鞘から刃を引き抜こうとした。
「抜くな」
セラフィーナの声が刺した。低く、短く、壁に反射しない音量で。
ノエルの手が止まった。反射だった。命令に従ったのではない。声の質が、体を凍らせたのだ。
壁の向こうの爪音が近づいている。二頭は壁沿いに東へ。一頭は少し遅れている。
セラフィーナは壁の崩れた部分――瓦礫が低く積もった箇所から、向こう側の影を見た。月の薄い光に、三つの輪郭が浮かぶ。膝丈。犬のような体躯だが、肩の盛り上がりが不自然に大きい。鱗か、甲殻か。
正面からぶつかれば、この五人の装備と技量では一人は噛まれる。
だが、正面からぶつかる必要はない。
「ガルト」
名前だけ呼んだ。声は吐息に近かった。
「私の右手を見なさい」
右手を腰の横で開いた。掌を下に向け、前方をゆっくり指した。
ガルトの目が右手に集まった。
「壁の切れ目まで三歩。そこに立って、剣を横に構えなさい。振らなくていい。来たものを受けて、半歩だけ押し返す。それだけ」
ガルトの喉が動いた。唾を飲む音。だが足は動いた。一歩。二歩。三歩。壁が途切れて瓦礫が散る場所に、幅広の剣を横にして立った。
「テオ。右へ二歩。壁に背をつけろ。動くな」
テオの足が石を踏んだ。音が出た。小さな音だ。だが――
壁の向こうで、先頭の一頭が止まった。
耳が音を拾った。
セラフィーナは構成を読んだ。先頭の一頭が探りに来る。残りの二頭が遅れて続く。群れではなく、縄張りを巡回する三頭の習性的な隊列。
先頭だけ止めれば、後続が詰まる。詰まれば互いの体が邪魔になる。
「ノエル。リシェルの前に立て。剣は鞘のまま」
「……は?」
「鞘のまま。抜くな。あなたの仕事は立っていることだけ」
ノエルの顎が引き締まった。怒りだ。だが昨日の訓練が残っている。手は柄から離れなかったが、刃は抜かなかった。
「クレア。リシェルの後ろにつきなさい。二人で壁沿いに東へ。走らず、歩いて」
リシェルが台帳を胸に抱えた。クレアがその背中に近づいた。二人の足音は砂利を踏んだが、意識して音を殺していた。セラフィーナが教えたわけではない。恐怖が、自然にそうさせた。
先頭の一頭が瓦礫を越えた。
ガルトの前に、月光に濡れた甲殻が現れた。犬ほどの体。背に沿って硬い鱗。目は暗闇に慣れた夜行性の黄。
ガルトの腕が震えた。
「受けろ」
魔獣が跳んだ。低い突進。地面すれすれに体を射出する、小型種の典型的な初撃。
ガルトの幅広の剣が、横向きのまま、その突進の軌道に立った。
衝撃音。金属と甲殻がぶつかった鈍い音。ガルトの靴が泥を二寸だけ滑った。だが――退かなかった。体重が違う。
「半歩。押せ」
ガルトが踏み込んだ。押されて姿勢の崩れた魔獣が、横向きに弾かれた。壁の瓦礫に突っ込む。
そこへ二頭目が駆け込んできた。
壁の切れ目は狭い。一頭分の幅しかない。弾かれた一頭が瓦礫の上でもがいている。その体が、二頭目の進路を塞いだ。
三頭目は二頭目の背中にぶつかった。
三頭が、壁の切れ目で団子になっている。
「全員、東へ。歩け。走るな」
セラフィーナの声は変わらなかった。
五人が動いた。ガルトが最後に壁から離れ、剣を横に構えたまま後退した。足の運びが訓練と同じだった。半歩ずつ。視線は正面。
魔獣が態勢を立て直す頃には、六人は外壁の東面を回り込んでいた。風は北に変わっている。彼らの匂いは南へ流れ、魔獣の鼻からは遠のいた。
追ってこなかった。
縄張りの外に出た匂いを、追う理由がない。
*
駐屯地の灯りが見えた時、最初に足を止めたのはテオだった。
自分の手を見ていた。
月明かりの下で、五本の指が細かく震えている。だが手のひらには擦り傷一つない。
「……俺、」
声が掠れた。
「……傷、ない」
当たり前のことを言っている。だがその「当たり前」が、今まで一度も彼の人生に存在しなかったことを、声の震え方が語っていた。
ガルトが幅広の剣を地面に突き立てた。柄に両手をかけ、額を押し当てた。肩で息をしている。
ノエルは鞘に入ったままの剣を見下ろしていた。一度も抜かなかった。一太刀も振らなかった。それで――生きている。
「馬鹿な」
呟いた。誰に向けた言葉でもなかった。
リシェルだけが台帳を抱えたまま、振り返った。
六歩後ろに立つ教官の顔を見た。
月の光がセラフィーナの銀灰色の髪を薄く照らしていた。表情は見えない。最初から最後まで、何も変わっていなかった。
――この人には、最初から見えていたのだ。
壁の切れ目の幅。魔獣の突進の軌道。風向きが変わる時刻。三頭の巡回間隔。ガルトの体重で受け止められる衝撃の上限。テオが音を立てる確率。ノエルが剣を抜く衝動。
全部。
全部、計算の中だった。
リシェルの腕の中で、革表紙の台帳がかすかに軋んだ。抱える力が、強くなっていた。
クレアは何も言わなかった。ただ、自分の両手をじっと見つめていた。傷がないことを確認するように。それが当然であると信じることが、まだできないように。
セラフィーナが五人の脇を通り過ぎた。
「任務完了です。台帳は明朝、管理棟に提出します」
それだけだった。
「傷一つ負わない」と言った。
その通りになった。
約束ではなかった。予測だ。実現された、計測結果だ。
五人の胸の中で、まだ言語化できない何かが形を変え始めていた。信頼、ではない。もっと原始的な何か。暗闇の中で声を聞き、足を動かし、生きて戻った――その事実だけが体の中に刻まれている。
駐屯地の門が近づいた時――
拍手が聞こえた。
ゆっくりとした、嘲りの間合いで手を打つ音。
門の脇に、人影が立っていた。三人。いや、四人。松明の光を背に受けて、装備の輪郭だけが見える。
上等な鎧だった。
棺桶小隊のボロ装備とは、鋼の質が違う。月光を反射する表面処理。紋章入りの肩当て。磨き上げられた鞘。
王都の、騎士団章。
先頭の男が、拍手をやめないまま口を開いた。
「お帰りなさい、棺桶の諸君。――全員揃って戻ってくるとは、台帳拾いに命懸けとは恐れ入る」
笑い声が続いた。三人分。四人目は笑わず、セラフィーナの顔を見ていた。
セラフィーナは足を止めなかった。
五人の横を通り、門へ向かう。
その背中に、男の声がもう一つ飛んだ。
「なぁ、『剣聖』殿。落ちこぼれの囮が泥まみれでご苦労なことだ」
セラフィーナの歩調は、変わらなかった。
だが六歩後ろを歩いていたリシェルは見た。
教官の右手が――一瞬だけ、軍服の胸元に触れたことを。
触れて、すぐ離した。握らなかった。
リシェルにはその意味がわからなかった。
まだ、わからなかった。




