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剣聖は、棺桶小隊に剣を教えない  作者: 今井 幻


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第4話「位置が良ければ、死なない」

 夜が明けた。


 正確には、空の色が変わった。灰色の底に薄い青が混じり、石壁の表面が微かに白んだ――その程度の変化だった。北境の夜明けに、劇的なものは何もない。


 セラフィーナは兵舎の裏手に立っていた。


 訓練場と呼ぶには語弊がある。雑草の合間に灰色の砂利が覗き、所々に拳大の石が転がっているだけの空き地だった。兵舎の石壁がそのまま背面の仕切りになっており、残る三方は腰丈の灌木と、傾いた木柵の残骸で区切られている。木柵の杭は半分以上が朽ちて、もはや何も仕切っていない。


 地面は硬い。昨夜の薄い凍結が溶けきらず、踏むと砂利の下で泥が鳴った。


 およそ十五歩四方。


 この広さで五人を動かす。十分だ。


 東の空に、ようやく橙が差し始めていた。日の出まであと少し。


 セラフィーナは訓練場の中央に立ち、四方を見渡した。灌木の高さ、石壁の角度、地面の傾斜。風は北東から。微かに湿り気を含んでいるが、足元を滑らせるほどではない。


 確認は、それだけで済んだ。


 あとは、来るか来ないか――それだけの問題だった。


  *


 最初に現れたのは、小柄な少女だった。


 兵舎の角を曲がって、訓練場に足を踏み入れる。息は白い。頬が赤い。軍服の上に何か羽織ろうとして、結局何も見つからなかったのだろう――袖口を握りしめて寒さを堪えている。


 昨日の位置取りよりも、三歩ほど前。


 セラフィーナの前に来ると、少女は立ち止まった。まっすぐに目を合わせた。昨日と同じだ。怯えも媚びもない。ただ、見ている。


「名前は」


「リシェル・アルノー」


 声が小さい。だが、聞き返す必要はなかった。北境の朝の静けさが、その声を正確にここまで運んでいた。


 セラフィーナは頷きもせず、視線だけで「そこに立て」と示した。訓練場の東端。石壁寄り。


 リシェルは黙って移動した。


  *


 次に来たのは、痩せた若者だった。


 テオ。名乗るとき、視線が二度左右に振れた。訓練場に入る前に、入り口の灌木を一度振り返っている。何を確認したのかは分からない。だが確認する行為そのものが、この若者の身体に染みついていた。


 東端に立つリシェルの隣を指し示す。テオは小走りで移動した。必要のない小走りだった。


 三人目。大柄な体が、兵舎の角から現れた瞬間にそれと分かった。


 ガルト。口数は昨日と同じく少ない。名前だけ言って、あとは黙った。指示された場所――リシェルとテオの左、石壁から二歩の位置――に立つとき、足音が重かった。砂利が深く沈む音。体重がそのまま地面に伝わっている。


 四人目は、姿勢の正しい少女だった。


 クレア。声に抑揚がない。昨日と同じ、光の薄い目。だが来た。日の出前に、ここに来た。それだけが事実だった。


 セラフィーナはクレアをガルトの右隣に配置した。


 そして――


 日の出の光が、石壁の上端を舐めた。


 橙の線が、訓練場の地面を斜めに切った。


 五人目は、まだいない。


 リシェルが一度だけ兵舎の角を見た。テオの目がまた泳ぎ始めた。ガルトは動かない。クレアは正面を向いたまま、瞬きの間隔がわずかに短くなった。


 セラフィーナは待った。


 日の出の線が、砂利の上を一歩分だけ這った頃――


「……遅れたわけじゃねえ」


 声が先に来た。低く、硬い。昨日と同じ。


 兵舎の角から現れたノエルは、腕を組んだまま訓練場に入ってきた。


「日の出に来いって言っただろ。日の出だ。今が」


 セラフィーナは答えなかった。


 ノエルの目がわずかに揺れた。反論が来ると身構えていたのだろう。来なかったことで、拳の置き場を失った顔をしている。


「――名前は」


「ノエル」


「姓は」


 一瞬の間。


「……いらねえだろ。棺桶に姓は彫らない」


 セラフィーナは、その言葉を聞き流した。東端、リシェルの斜め前方を指す。


「そこに」


 ノエルは舌打ちをした。だが、動いた。


 五人。全員が来た。


  *


 セラフィーナは五人の前に立った。


 距離は四歩。全員の顔が見え、全員の足元が見える位置。風は相変わらず北東から。石壁に当たって跳ね返る気流が、五人の背中側を撫でていた。


「剣を佩いている者は、抜け」


 短い命令だった。


 三人が反応した。ノエルが最も速い。腰の剣をぎこちなく、だが躊躇なく引き抜いた。ガルトはやや遅れて、重たげに鞘から刃を出した。三人目――鞘の先端が割れた剣を持つ者は、テオだった。割れた鞘から刃を引き抜くのに手間取り、がちゃりと音を立てた。


 リシェルとクレアは武装していない。二人はその場で動かなかった。


 セラフィーナは三振りの刃を見た。


 一瞬で十分だった。


 ノエルの刃。研ぎは甘いが、刃毀れは少ない。自分でやったのだろう。手入れの意志はある。ただし握りが浅い。手首の角度が開きすぎている。振れば肘に負荷が集中し、二撃目で精度が落ちる。


 ガルトの刃。重い。体格に見合わない幅広の片手剣を、それでも片手で持っている。握力だけで保持している形だ。刃は曇っている。手入れの意志が薄い。だが刃毀れも少ないということは、ほとんど振っていないということだ。


 テオの刃。最も状態が悪い。刃先が二箇所で欠け、柄の革紐がほどけかけている。だが、刃の曇り方は均一だった。まんべんなく、しかし弱く振っている。何を斬ろうとしたのでもない。ただ不安を紛らわせるように、空を叩いていた痕跡。


「――構え」


 三人が構えた。形はばらばらだ。ノエルは前傾。ガルトは剣を正面に突き出す。テオは剣を胸の前で立てて、自分の体を隠すように。


 セラフィーナは、それ以上何も言わなかった。


 二拍。


 三拍。


「鞘に収めろ」


 ノエルの眉が動いた。


「……は?」


「収めろ」


 ノエルは刃を収めない。収める理由がないからだ。抜けと言われたから抜いた。構えろと言われたから構えた。なのに収めろと言う。


「聞こえなかったか」


 セラフィーナの声に温度はなかった。怒りも苛立ちもない。事実を確認しているだけの声だ。


 ノエルの歯が鳴った。だが――刃を鞘に叩き込んだ。ガルトがそれに続く。テオは、割れた鞘に刃を戻すのにまた手間取った。


「今日から、剣は振らない」


 声が消えた。


 北東の風が砂利を鳴らす音だけが、五人の間を抜けていった。


  *


 最初に口を開いたのは、ノエルだった。


「――待て。剣を振らないなら、何をする」


「立つ」


「は?」


「私が指示した場所に、立つ。それだけです」


 ノエルの目が細くなった。怒りではない。理解の拒絶だ。言葉の意味は分かるが、それが訓練であることを脳が受け付けていない。


「ふざけてんのか」


「ガルト」


 セラフィーナはノエルの言葉を無視し、大柄な若者の名を呼んだ。


 ガルトが顔を上げた。


「あなたは何を教わりたい」


 ガルトの口が開き、閉じ、また開いた。


「……剣だ。魔法でもいい。戦い方を――」


「今のあなた方の剣速では、何をしても死ぬ」


 言い切った。


 ガルトの口が止まった。ノエルの拳が白くなった。テオの視線が足元に落ちた。リシェルは動かない。クレアも動かない。


「誤解のないように言っておきます。侮辱ではなく、計測の結果です」


 セラフィーナは一歩も動かなかった。声も上げなかった。風の音に混じる程度の音量で、事実だけを並べた。


「先ほどの抜刀。最も速かったノエルでも、抜ききるまでに二拍半。構えの完成まで三拍。通常の魔獣――この北境で最も多い中型犬ほどの獣であっても、突進の着弾は一拍半。構えが完成する前に、喉を噛み切られて終わりです」


 数字だった。感情ではなく、数字。


「ガルト。あなたの剣は重すぎる。片手で保持しているため、振りの初動で肩が先に回る。肩が回ってから刃が追いつくまでに半拍の遅延がある。その半拍で、正面の敵は間合いの内側に入る」


 ガルトの肩が、言われた通りに強張った。


「テオ。あなたの剣の柄紐がほどけかけている。振れば柄が手の中で回転し、二振り目で握りを失う。失った瞬間、あなたは丸腰で獣の前に立つことになる」


 テオの手が、腰の剣に触れた。触れて、離した。


「――じゃあどうしろってんだ」


 ノエルの声が低い。怒りの底に、問いがある。


「位置が良ければ、死なない」


  *


 訓練が始まった。


「リシェル。三歩下がれ」


 リシェルが三歩下がった。


「テオ。右へ半歩」


 テオが右に動いた。半歩。


「ガルト。そのまま」


 ガルトは動かなかった。


「ノエル。左へ一歩、前へ半歩」


 ノエルが動いた。動きながら、口の端が歪んでいた。


「クレア。ガルトの右斜め後方、二歩」


 クレアが移動した。


「戻れ」


 全員が元の位置に戻った。


「もう一度。リシェル、三歩下がれ」


 同じ指示だった。


 同じ動き。同じ結果。同じ「戻れ」。


 これが繰り返された。


 太陽が石壁を越え、訓練場の地面全体に光が行き渡る頃には、同じ指示が十七回繰り返されていた。セラフィーナは数えている。五人は数えていない。数える余裕がないのではなく、数える意味を見出していないからだ。


 十八回目。指示が変わった。


「リシェル。二歩下がれ」


 リシェルが止まった。昨日までの指示は三歩だった。


 一拍の躊躇。それから、二歩下がった。


「テオ。右へ一歩」


 半歩ではない。一歩。テオは動いた。目が泳いでいたが、足は正確だった。


「ガルト。前へ一歩」


 ガルトが前に出た。その一歩で、砂利が深く鳴った。


「ノエル。動くな」


 ノエルは動かなかった。だが、顎が上がった。動くなと言われたことへの不満が、姿勢に出ている。


「クレア。ガルトの背中が見える位置まで左へ」


 クレアが横に移動した。三歩分。ガルトの広い背中が、クレアの正面に来た。


「――戻れ」


 そこから、また反復が始まった。


  *


 陽が高くなり、空気の冷たさが薄れてきた頃――ノエルが止まった。


「……おい」


 セラフィーナは指示を止めなかった。


「リシェル、右へ――」


「おい、聞いてんのか」


「――半歩」


 リシェルが半歩動いた。ノエルの声を聞いていないわけではない。だが、教官の指示が先に来た。そちらに従った。ただそれだけの選択だったが、ノエルの顔に血が昇った。


「俺は、てめえに聞いてるんだ!」


 セラフィーナが、ようやくノエルを見た。


「聞いています」


「じゃあ答えろ! 何時間こんなことやらせるつもりだ! 俺たちはここに戦い方を教わりに――」


「教わりに来たのですか?」


 ノエルの言葉が止まった。


「あなた方は棺桶小隊です。教わるために来たのではなく、死ぬために集められた。違いますか」


 反論が出ない。事実だからだ。


「ならば問い方を変えなさい。『何を教わるか』ではなく『何をすれば死なないか』」


 ノエルの歯が噛み合った音が、四歩先のセラフィーナにまで聞こえた。


「――位置が良ければ死なないっていうなら、見せてみろよ。なんでこの位置なんだ。なんで三歩なんだ。なんで半歩なんだ。理由を言え」


 セラフィーナは答えなかった。


 代わりに、リシェルを見た。


  *


 リシェルは、ノエルの問いに答えを持っていなかった。


 ただ――持っていないことを、不思議に思い始めていた。


 十七回の反復。「三歩下がれ」。毎回同じ指示で、毎回同じ場所に立つ。


 同じはずだった。


 だが二十回目あたりから、自分の体が覚え始めていた。三歩下がった位置。そこから見える景色。ノエルの背中がちょうど視界の左端に収まり、ガルトの肩が右端に見える。テオは死角に入る――が、テオが右へ半歩動くと、視界の外縁にテオの肘だけが映る。


 全員が見えるわけではない。全員の一部が見える。


 それが何を意味するのか、まだ分からなかった。


 だが指示が二歩に変わったとき、景色が変わった。


 一歩分近い。ノエルの背中が大きくなる。ガルトの肩が視界の中央に寄る。テオの肘が見えなくなる代わりに、テオの足先が見えた。


 違う配置。違う景色。だが――


 同じものを感じた。


 言葉にできない。まだ何かが足りない。ただ、この位置にいると、「何かが届かない」感覚がある。


 何が届かないのか。


 リシェルは、訓練場の砂利を見つめた。自分の足元。三歩下がった足元。そこに立ったとき、もし正面から何かが来たら――


 ノエルとガルトの間を抜けてくる何か。


 それが届く距離は――


 届かない。ここには、届かない。


 顔を上げた。セラフィーナがこちらを見ていた。


 目が合った。


 セラフィーナは何も言わなかった。何も頷かなかった。ただ視線を外し、次の指示を出した。


「――全員, 戻れ」


 リシェルは、自分の心拍が速くなっていることに気づいた。寒さのせいではない。反復の疲労でもない。


 何かの輪郭に、指先が触れた感覚。


  *


「肩を見ろ」


 それは、正午近くになって初めて出た指示だった。


 五人は疲弊していた。肉体的な疲労とは少し違う。走らされたわけでも、素振りをさせられたわけでもない。だが同じ場所で何十回も立ち位置を変え、「戻れ」で元に戻し、また動かされることの単調さが、精神を削っていた。集中しようにも集中する対象がない。意味を見出しようにも、意味が見えない。


 その疲労の底で、セラフィーナの声が変わった。


「ガルト。前に出ろ」


 ガルトが前に出た。セラフィーナとの距離が二歩になった。


「私の肩を見なさい」


 ガルトが顔を上げた。


 セラフィーナの肩。軍服に包まれた、細い肩。銀灰色の髪が一筋だけ肩口にかかっている。


「右の肩が動いたら、刃は左から来る。左の肩が沈んだら、突きが来る」


 言葉だけだった。剣は抜いていない。セラフィーナは両手を体の脇に下ろしたまま、微かに右肩を動かした。


「今の動き。これが見えたら、あなたは左に半歩動く。それだけで、刃は空を切る」


 ガルトの目が、セラフィーナの肩に固定された。


「半歩? たったそれだけで――」


「それだけです」


 セラフィーナの左肩が、僅かに沈んだ。


「今。突きが来た。あなたはどちらに動く」


 ガルトは動けなかった。正解が分からなかったのではない。「肩の動きだけで攻撃を読む」という概念そのものが、まだ体に入っていなかった。


「右へ半歩。突きの軸線から外れる。答えはそれだけです」


 ガルトが半歩、右に動いた。遅い。だが動いた。


「三拍遅い」


 セラフィーナは告げた。


「だが――三拍遅くても、位置さえ正しければ死なない。三拍の遅れは、位置の正しさで帳消しにできる。剣速では帳消しにできない」


 ガルトの口が、何かを言いかけて閉じた。閉じたまま、もう一度セラフィーナの肩を見た。


 今度は自分から見た。言われたからではなく。


  *


 その後も、反復は続いた。


「肩を見ろ」が、すべての指示の頭に付くようになった。


 リシェルは見ていた。教官の肩ではなく――教官が五人に指示する、その配置の全体を。


 二歩目の変化で気づいた「届かない」感覚。それが「肩を見ろ」と繋がった。


 肩が動けば、刃が来る方向が分かる。方向が分れば、避ける位置が分かる。避ける位置が――教官が最初から指示していた、あの「三歩」であり「半歩」だった。


 教官は最初から、攻撃の軌道を見せずに、「攻撃が届かない位置」だけを教えていた。


 理屈が先にあったのだ。


 言葉にはしなかった。まだ確信がない。だが足の動きが変わった。「三歩下がれ」と言われたとき、ただ三歩下がるのではなく、自分がどこから離れているのかを意識して三歩下がるようになった。


 セラフィーナは、それに気づいていた。


 リシェルの歩幅が三ミリほど短くなっている。正確に「外れる位置」に、自分の足で調整を始めている。言われた歩数ではなく、位置そのものを捉え始めた。


 だが口は開かなかった。


  *


 昼が過ぎようとしていた。


 五人の顔に泥はないが、額には薄く汗が浮いていた。北境の冷気の中で汗をかくほどの運動はしていない。精神の消耗が体温を上げている。ノエルは不満を口にしなくなった――不満が消えたのではなく、反復に呑まれて言葉を組み立てる余裕がなくなっていた。


 そのとき、兵舎の角から人影が現れた。


 五人の誰でもない。セラフィーナでもない。


 駐屯地の管理兵だろう。軍服は五人のそれよりましだが、北境の辺境らしい草臥れ方をしている。手に一枚の紙を持っていた。


「第零教導小隊、教官殿」


 声が乾いていた。伝令の声ではなく、面倒な雑用を押し付けられた者の声だった。


「上からの命令です。本日中に、西の廃農場へ出向き、放棄された補給台帳と残存物資の回収を行うこと」


 セラフィーナは紙を受け取った。目を通すのに二拍。


 管理兵は、もう背を向けていた。用は済んだとばかりに兵舎の角に消えていく。その背中に、セラフィーナは一つだけ問うた。


「廃農場の現状は」


 管理兵が肩越しに振り返った。


「小型の魔獣が住みついてるって話ですよ。何匹かは知りませんが――まあ、棺桶の連中なら、ちょうどいい仕事でしょう」


 笑いを含んだ声だった。振り返りもせず、消えた。


  *


 空気が変わった。


 訓練場の空気ではない。五人の空気だ。


 テオの目が、一気に左右に暴れ始めた。視線が訓練場の外――灌木の向こう、兵舎の壁、空を順番に走査して、どこにも安全を見つけられずに戻ってくる。


 ガルトの肩が丸まった。さっき「前に出ろ」と言われて伸びかけていた背筋が、また元の姿勢に縮んでいた。


 ノエルは黙った。黙ったまま、腰の剣の柄に手を置いた。握ってはいない。触れているだけだ。だが指が白い。


 クレアは――動かなかった。動かなかったが、それは覚悟ではなく諦めの動かなさだった。目の光が、朝よりもさらに薄くなっていた。


 リシェルだけが、セラフィーナを見ていた。


 紙から目を上げたセラフィーナと、視線がぶつかった。リシェルの目に問いがある。朝と同じ問いだ。ただし、朝よりも鋭い。


「――教官」


 テオの声だった。かすれている。


「廃農場って……魔獣が、いるんですよね」


 セラフィーナはテオを見た。


 テオの手が震えていた。寒さではない。腰の割れた鞘に触れようとして、触れられずに、空を掴んでいる。


「います」


 セラフィーナは肯定した。慰めも、軽視もしなかった。


「小型。おそらく三頭から五頭。住みついているなら縄張りを持っている。縄張りの境界は廃農場の外壁沿い。中庭に入らなければ接触は避けられる。台帳は管理棟にある。管理棟は外壁の北側」


 情報だけを並べた。テオの震えが止まったわけではない。だが――目の動きが、わずかに遅くなった。情報を処理しようとしている。恐怖ではなく、地形を頭に描こうとする動きだ。


「中庭に入らなければって――入っちまったらどうすんだ」


 ノエルの声は低い。だが訊いている。訊くということは、生き延びる方法を探しているということだ。


 セラフィーナは、五人の顔を順に見た。


 テオ。ガルト。ノエル。クレア。リシェル。


「今日の訓練で、あなた方は何度も同じ場所に立った」


 唐突だった。脈絡がないように聞こえた。


「あの位置は、正面から来る攻撃が届かない場所です」


 五人の空気が、僅かに変わった。


「明日の廃農場も同じです。私が指示を出す。あなた方は、指示された場所に立つ。それだけでいい」


 テオの手が、まだ震えていた。だが空を掴む手ではなくなっていた。自分の腿を掴んでいた。体に触れている。現実に繋がっている。


「今日の訓練通りに動けば――傷一つ負わない」


 断言だった。


 希望ではなく。激励でもなく。


 数字に裏打ちされた、計測結果の提示。


 ノエルが口を開きかけた。閉じた。もう一度開いた。


「――そう言い切れる根拠は」


「あなた方の足は、もう覚えている」


 セラフィーナの声は変わらなかった。


「三歩の距離。半歩の幅。体が覚えたものは、頭が忘れても裏切らない」


 風が吹いた。北東から。朝と同じ風だ。だが五人の背中を撫でる感触が、朝とは違った。


 何が違うのか――それは、五人自身にもまだ分からなかっただろう。


 セラフィーナは命令書を折りたたみ、軍服の内側に収めた。


「本日の訓練は終わりです。午後、装備の確認を行います。出発は明朝」


 背を向けた。


 兵舎の角を曲がる直前――視界の端で、リシェルが自分の足元を見ているのが映った。


 砂利の上に残った、自分の靴跡を。


 何度も同じ場所を踏んだ、その痕を。


 セラフィーナは歩調を変えなかった。


 来る。


 あの五人は――明日も来る。

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