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剣聖は、棺桶小隊に剣を教えない  作者: 今井 幻


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第3話「棺桶の中身」

 一週間で、世界の色が変わった。

 

 白樺の並木は三日目で途絶え、四日目には道の両脇を占めるすべてが針葉樹に変わっていた。五日目から空は低くなり、六日目には陽光が幌の隙間から消えた。七日目の今日、馬車を降りたセラフィーナの靴底が踏んだのは、薄く凍った泥だった。

 

「――ここで終わりだ、お嬢さん」

 

 御者の老人が馬の鼻面を撫でながら言った。北境に用のある人間を七日も乗せた疲労が、声にそのまま出ていた。

 

「ご苦労様でした」

 

 セラフィーナは革鞄を肩に掛け、木箱を片手で持ち上げた。残りの荷は馬車の荷台から自分で降ろすしかない。護衛も従者もいない赴任に、荷降ろしの人手がつくはずもなかった。

 

「あんた、本当にここに用があるのかい」

 

 老人の視線が、門の向こうを指した。

 

 門、という呼び方は正確ではないかもしれない。木の柱が二本立っていて、その間に横木が渡してある。横木は中央で折れかけ、縄で括りつけてあった。門扉はない。左の柱が傾いでいて、右の柱の根元には雑草が膝の高さまで茂っている。

 

 その奥に、石造りの建物が三棟。屋根の板が何枚か剥がれている。壁に這った蔦が窓の半分を覆っていた。

 

「――ええ」

 

 木箱を一度地面に置き、荷台に戻った。残りの箱を二つ降ろす。革鞄を肩に掛け直し、三つの木箱を両腕に積んで抱え上げた。重いが、二往復するほどではない。

 

 セラフィーナは門を潜った。

 

 靴底が凍った泥を踏むたびに、薄い氷が割れる音がした。それ以外に、音がない。

 

 人の気配は、ある。

 

 兵舎の前――正面の棟の入口にあたる場所に、人影が見えた。五つ。

 

 近づくにつれて、輪郭が明確になった。

 

 五人の若者が、兵舎の前に立っていた。

 

 ――立っている、というのも語弊がある。

 

 壁に背をもたれている者。地面に視線を落としている者。腕を組んで何かを睨んでいる者。全員が、同じ方向を向いていない。隊列でもなければ、出迎えでもなかった。「そこにいる」という事実だけが、五人に共通する唯一の要素だった。

 

 装備が目に入った。

 

 胸当てを着けている者が二人。そのうち一人の胸当ては中央が大きく凹んでいて、もう一人のほうは革紐が切れかけ、肩の留め具が外れたまま垂れ下がっていた。腰に剣を佩いている者が三人。うち一本は鞘の先端が割れている。残りの二人は武装らしい武装をしていない。

 

 全員の靴が泥で汚れていた。ただし、訓練の泥ではない。手入れをしないまま放置された汚れだ。

 

 セラフィーナは、二十歩の距離で足を止めた。

 

 五人のうち、最も前にいた一人が顔を上げた。

 

 腕を組んだまま、こちらを見た。体格は五人の中では中背。ただし肩の入り方に力がある。筋繊維が腕に浮いている。身体能力自体は低くない――だが、それ以上に目についたのは、目つきの険だった。

 

「――誰だ、あんた」

 

 声が飛んだ。低く、硬い。若い声だが、甘さが削り取られている。

 

 セラフィーナは答える前に、残りの四人を視界に入れた。

 

 壁際の大柄な影。この五人の中で明らかに最も質量がある。肩幅が広く、手足が太い。だが姿勢が丸まっていて、その体格を持て余すように縮こまっている。地面を見ている。

 

 大柄の右隣にいる痩せた若者は、こちらを見ていない。視線が左右に揺れている。兵舎の屋根、門の方向、セラフィーナの背後――何かを探すように、あるいは何かに怯えるように、目だけが忙しなく動いていた。

 

 その奥。兵舎の壁に片手をついて立っている少女。小柄で線が細い。控えめな顔立ちだが、五人の中で唯一、セラフィーナの顔をまっすぐ見ていた。視線に敵意はない。かといって期待もない。ただ――観ている。何かを確かめるように。

 

 最後の一人。少し離れた位置に立つ少女。姿勢は正しいが、それが生真面目さの発露なのか、もう何に対しても弛緩する気力がないのか、この距離からは判断がつかない。目に光がなかった。諦めた人間の目は、一定の角度で止まる。

 

 五人。

 

 怯える目。丸まった背中。焦点のない敵意。消えかけた瞳。そして――こちらを観る視線。

 

 壊れた装備。手入れされない靴。隊列の形すら成していない立ち位置。

 

 ――棺桶小隊。

 

 名前の意味が、視覚だけで理解できた。

 

 セラフィーナは荷を地面に置いた。革鞄の底が凍った泥に触れ、小さな音を立てた。

 

「第零教導小隊の教官として着任した。セラフィーナ・レイヴェルトだ」

 

 声は抑揚がなかった。遠くもなく、近くもない。五人全員に届くだけの音量を、正確に計算した声量。

 

 反応は、五通りに分かれた。

 

 大柄の若者が、のろのろと顔を上げた。目が合ったが、すぐに逸らされた。

 

 痩せた若者の目の動きが一瞬止まり、それからさらに忙しくなった。

 

 奥の少女――姿勢の正しい方――は表情を変えなかった。

 

 そして、正面の若者が口を開いた。腕組みを解かないまま。

 

「教官?」

 

 繰り返しではなく、確認でもなかった。言葉の形をした嘲りだ。

 

「俺たちに教官なんざ、何人目だよ」

 

 右の壁際にいた大柄の若者が、小さく口を動かした。聞き取れない声量だった。ただ唇の形から、数字を呟いたのは読み取れた。三か、四か。

 

「どいつもこいつも、顔見て一週間で消えた。二週間もったやつが一番マシだったな」

 

 正面の若者が、一歩前に出た。腕組みが解ける。

 

「で、あんたは何日もつかな。一週間か? 三日か?」

 

 声量が上がっていた。だが声が震えているわけではない。怒りに似ているが、怒りではなかった。

 

 怒りには対象が要る。この若者の声は、対象を持っていなかった。何もかもに向けられた、焦点のない攻撃性.壊れた方位磁針のように、針がぐるぐると回っている。

 

「――どうせ体裁だけだろ。前の奴らもそうだった」

 

 言い切った。

 

 兵舎の前に、沈黙が落ちた。

 

 五人の視線が――視線を向けていなかった者も含めて――セラフィーナに集まった。

 

 大柄の若者が、また顔を伏せた。答えを聞く前に目を逸らす。「どうせ」の結論が自分の中にすでにあるから、確認を必要としていない。

 

 痩せた若者は目を泳がせたまま、両手を握りしめていた。怯えだ。新しい人間が来るたびに、同じことが起きてきたのだろう。

 

 奥の少女の片方は、微動だにしない。

 

 そしてもう片方の少女――小柄で、最初からセラフィーナを観ていた少女――は、唇を僅かに引き結んでいた。何かを堪えるような、あるいは何かを待つような。

 

 セラフィーナは、五つの顔を順に見た。

 

 甘い言葉が浮かばないのではなく、最初から持っていなかった。

 

「――前の者たちのことは知りません」

 

 正面の若者の眉が動いた。

 

「ただし」

 

 セラフィーナの声は、気温と同じだけ冷えていた。

 

「あなた方が死にかけの捨て駒であることは、事実だ」

 

 空気が止まった。

 

 大柄の若者の肩が強張った。痩せた若者が息を止めた。正面の若者の目が見開かれ、次の瞬間、歯を食いしばった。

 

 慰めでもなく、激励でもなかった。

 

 診断だ。

 

「装備は最低限以下。訓練記録は存在しない。補給の優先度は最底辺。戦力として数えている指揮官は、この国に一人もいない」

 

 一文ごとに、事実を並べた。声に感情はない。怒りも、哀れみも、同情も混ぜなかった。混ぜれば、事実が歪む。

 

「あなた方は、次の戦闘で死ぬ確率が最も高い人間として、ここに配置されている」

 

 正面の若者が、拳を握った。

 

「だったら――!」

 

 言いかけて、止まった。

 

 セラフィーナが続けたからではない。

 

 セラフィーナが黙っていたからだ。

 

 反論を封じたのではなく、続きを待った。ただ、視線だけが正面の若者を捉えたまま動かなかった。何かを見定めるように。

 

 数秒。

 

 正面の若者は、何も言えなかった。「だったら何だ」の先を、自分で持っていなかった。

 

 セラフィーナが口を開いた。

 

「――私は、あなた方に強くなれとは言わない」

 

 五人の表情が、それぞれの形で揺れた。

 

「今の剣速、今の魔力、今の体格。それを変えるには年単位の時間がいる。あなた方に、その猶予はない」

 

 残酷なまでに、正確だった。

 

「だから、一つだけ教える」

 

 セラフィーナは、五人の間に一歩踏み込んだ。

 

 全員の距離が縮まる。正面の若者の攻撃的な立ち位置と、壁際の若者たちの逃避的な立ち位置、その中間。ちょうど、五人全員が見上げる角度が最も浅くなる位置に、足を止めた。

 

「生き残る位置取りを」

 

 声は小さくなっていなかった。だが柔らかくもなっていなかった。

 

 同じ温度、同じ音量。事実を伝える声。ただし今度の事実は――まだ起きていない事実だった。

 

「正しい場所に立てば、剣速は要らない。正しい間合いを取れば、魔力は要らない。正しいタイミングで動けば、体格は要らない」

 

 大柄の若者が、顔を上げた。今度は逸らさなかった。

 

「強さではなく、位置。技術ではなく、間合い。――それだけを教える」

 

 誰も声を出さなかった。

 

 さっきとは質が違う沈黙だった。さっきの沈黙は諦めの空白だった。今の沈黙は、処理が追いついていない間だった。

 

 正面の若者が口を開きかけ、閉じた。

 

 壁際の大柄な若者は、セラフィーナの顔と自分の手を交互に見ていた。

 

 痩せた若者は目を泳がせるのをやめていなかったが、その動きがさっきより遅くなっていた。

 

 奥で微動だにしなかった少女が――初めて、僅かにまばたきをした。

 

 そして。

 

 小柄な少女が、一歩前に出た。

 

 出た、というほどの動きではなかった。つま先が半歩前に出て、止まった。ただそれだけ。

 

 だがセラフィーナはその半歩を捉えた。

 

 他の四人は動いていなかった。後退も前進もしていない。反発か、困惑か、無関心か――いずれにせよ、立ち位置を変えなかった。

 

 この少女だけが、前に出た。

 

 顔を見た。

 

 引き結ばれていた唇が、僅かに開いている。目の奥に、さっきとは違うものが灯っていた。

 

 期待ではない。信頼でもない。

 

 ――問い、だ。

 

「この人は何者なのか」という問いが、目の形で立っている。

 

 セラフィーナはその視線を受け、受け流した。

 

 応える段階ではない。まだ、名前すら聞いていない。

 

「明朝、日の出に訓練場に集合。持ち物は今の装備だけでいい」

 

 言い切って、荷物を拾い上げた。

 

「質問は」

 

 正面の若者が低い声で言った。

 

「俺たちの名前ぐらい、聞くもんだろ。教官ってのはそういうもんじゃないのか」

 

 セラフィーナは足を止めなかった。

 

 兵舎の入口に向かいながら、肩越しに答えた。

 

「名前は明日聞く。――今日は、寝ろ」

 

 背中に五つの視線が刺さっていた。

 

 その中に一つだけ、温度の違うものがあった。

 

 攻撃でも困惑でも諦めでもない。何かを見定めようとする、静かな熱。

 

 セラフィーナはそれに振り返らなかった。

 

 兵舎の中は、外より冷えていた。壁の石が冷気を溜め込んでいる。窓は一つ。蔦が半分を覆い、残りの半分から夕暮れの灰色の光が差し込んでいた。

 

 寝台が一つ。毛布が一枚。それ以外に、この部屋を「人の居室」にしている要素はなかった。

 

 革鞄を寝台の上に置いた。木箱を壁際に並べた。

 

 それだけで、荷解きは終わった。

 

 腰を寝台の縁に下ろし、息をひとつ吐いた.

 

 七日ぶりの、馬車ではない座面。

 

 ――五人。

 

 目を閉じた。

 

 さっき見た五つの姿が、瞼の裏で再生された。装備の状態。立ち位置。視線の動き。声の震えと、震えなさ。握った拳と、俯いた首と、泳ぐ目と、動かない表情と。

 

 そして――半歩。

 

 あの少女の半歩だけが、残った。

 

 正しい位置に立てば生き残れると言った。

 

 それは嘘ではない。

 

 だが、正しい位置に立つことと、正しい位置に「立ち続ける」ことの間には、戦場一つ分の距離がある。

 

 立ち続けるには、信じるものがいる。指示を、教官を、あるいは自分自身を。

 

 あの五人は、まだ何も信じていない。

 

 当然だ。信じるに足る何かを、誰一人として与えられていない。

 

「――」

 

 指先が、無意識に胸元に触れていた。

 

 布越しの金属。欠けた環の輪郭。

 

 冷たかった。北境の空気と同じ温度に冷えきっている。

 

 握らなかった。触れただけで、手を下ろした。

 

 窓の外に目をやった。灰色の空の下端が、僅かにだけ、橙に滲んでいた。日没まであと少し。

 

 明日の朝には、五人が訓練場に立つ。

 

 立たなければ、それで終わりだ。来なかった者にかける言葉を、セラフィーナは持っていない。

 

 だが――来るだろう。

 

 根拠はない。ただ、あの正面の若者の目には、諦めきった人間にはない摩擦があった。諦めた人間は噛みつかない。噛みつくのは、まだ何かが残っている証拠だ。

 

 大柄の若者は、顔を上げた。二度目に。

 

 痩せた若者は、目の動きが遅くなった。

 

 そして、あの少女は前に出た。

 

 来る。

 

 セラフィーナは毛布を引き上げ、軍服のまま寝台に横になった。

 

 ブーツは脱がなかった。北境の夜に、靴を脱いで眠る余裕のある兵舎ではない。

 

 天井の石に、蔦の影が揺れていた。

 

 目を閉じる直前、もう一度だけ――あの半歩のことを考えた。

 

 五人の中で、たった一人だけ前に出た少女。

 

 名前は、明日聞く。

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