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剣聖は、棺桶小隊に剣を教えない  作者: 今井 幻


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第2話「見限る理由」

 三日後。

 

 王都・騎士団本部。軍議室の扉は、外から閉められた。

 

 長い卓の奥に、五つの椅子がある。いずれも高い背もたれに王国紋章が彫り込まれ、座る者の格を主張している。その五席すべてが埋まっていた。

 

 卓の手前に、椅子はない。

 

 セラフィーナ・レイヴェルトは、立っていた。

 

 朝の光が高窓から斜めに差し込み、彼女の銀灰色の髪を白く縁取っている。正装の軍服には皺ひとつなく、姿勢は定規で引いたように真っ直ぐだった。

 

 五人の幹部の視線が、彼女の上に乗っている。

 

 その重さを、彼女は正確に量っていた。

 

 敵意ではない。侮蔑でもない。もっと厄介なもの――「関心の薄さ」だ。書類を処理するように人を裁く者の目。結論が先にあり、手続きだけが残っている。そういう目だった。

 

「――では、改めて経緯を確認する」

 

 中央の老将が口を開いた。白髪を撫でつけた痩身の男で、声に色がない。議事録を消化するだけの、乾いた声だった。

 

「先の国境会戦における左翼の混乱について。副団長ヴァルドー・グランセルトより、追加の所見が提出されている」

 

 セラフィーナは視線を動かさなかった。

 

 老将から一席空けた右隣――卓の端に近い位置に、ヴァルドーが座っていた。

 

 豪奢な鎧は脱いでいる。だが金の縁取りの入った礼装は十分に重厚で、五人の幹部の中で最も若く、最も体格が良く、そして最も声の大きい男であることを隠しようもなかった。

 

 ヴァルドーが立ち上がった。

 

 椅子が床を擦る音が、石壁に跳ね返る。

 

「諸卿。先の会戦において、我が騎士団は勝利を収めた。これは紛れもない事実であり、兵たちの勇戦の賜物である」

 

 声が、軍議室を満たした。低く、よく響く声だ。演説に向いている。中身がなくても、聞いている者に「何か大きなことを言っている」と錯覚させる種類の声。

 

「しかし」

 

 一拍の間を置く。芝居がかった仕草で卓上の報告書を手に取り、それをセラフィーナの方へ向けた。

 

「左翼グリュース中隊の一時混乱は、看過できない問題だ。先頭三十騎が泥濘に嵌まり、後続九十騎が渋滞した。突撃の勢いが完全に殺された」

 

 事実だ。

 

 セラフィーナは心の中で頷いた。そこまでは正しい。

 

 問題は、次の一文。

 

「その原因は――」

 

 ヴァルドーの視線が、まっすぐにこちらを射抜いた。

 

「セラフィーナ・レイヴェルトによる、追撃への過度な抑制指示にある」

 

 静かに、言い切った。

 

 嘘だった。

 

 左翼が泥に嵌まったのは、ヴァルドーの突撃命令そのものが原因だ。雪解けの低地に帯状の深い泥の筋が走っていることを、彼は知らなかった。知ろうともしなかった。「突撃しろ」と怒鳴っただけだ。

 

 そして崩壊しかけた百二十騎の左翼を救ったのは、セラフィーナの六つの指示だった。

 

「三歩下がれ」。それだけで、後続九十騎は固い地盤に足を取り戻した。

 

 だが――その事実を、この部屋にいる六人のうち、正確に認識している者はどれだけいるか。

 

 セラフィーナは、五つの椅子を順に見た。

 

 老将は報告書に視線を落としている。その隣の男は窓の外を見ていた。三人目は腕を組んで目を閉じている。四人目だけがこちらを見ていたが、その目は「早く終わらないか」と言っていた。

 

 五人目が、ヴァルドーだ。

 

「加えて」

 

 まだ続く。

 

 ヴァルドーは報告書を卓に戻し、代わりに自分の胸に手を当てた。

 

「セラフィーナは従来より、私の指揮に対して度々異を唱え、独断で部隊の配置を変更してきた。今回の混乱も、その延長線上にある。現場の指揮官である私の号令と、彼女の指示が競合したことで、兵は混乱した。――これが、私の所見です」

 

 声は穏やかだった。

 

 三日前の丘の上と、同じ声。大勢の前で怒鳴る必要がない。自分が正しいと確信している人間の、落ち着き払った声。

 

 いや――少し違う。

 

 セラフィーナは、ヴァルドーの目を見た。

 

 確信ではなかった。

 

 あれは、「忘却の速度」を計算している目だ。

 

 三日前の戦場で、自分が何を命じ、何を命じなかったか。それを正確に覚えている人間が、この部屋にどれだけいるか。兵の配置、泥の深さ、指示の順番――そんな「細部」を記憶している者はいない。ヴァルドーはそれを知っている。だから大きな声で「所見」を語る。細部は声の大きさで塗り潰せる。

 

 老将が顔を上げた。

 

「セラフィーナ。反論はあるか」

 

 軍議室に、静寂が落ちた。

 

 高窓からの光が、誇の粒子を照らしている。ゆっくりと漂うその動きだけが、時間が止まっていないことを証明していた。

 

 セラフィーナは、口を開きかけた。

 

 反論はある。

 

 事実を並べればいい。泥の帯は地図にない。ヴァルドーはそれを確認しなかった。突撃命令を出したのは彼だ。左翼を救ったのは「三歩下がれ」の一言だ。それを聞いた伝令兵は生きている。証人はいる。

 

 だが。

 

 五つの椅子を、もう一度見た。

 

 報告書を読む老将。窓の外を見る男。目を閉じた男。「早く終われ」の目。そしてヴァルドー。

 

 この五人に、セラフィーナは問いを投げた。声には出さず、自分の中だけで。

 

 ――泥の帯が、何歩分の幅だったか答えられるか。

 

 ――左翼後続が固い地盤に戻るまでに何秒かかったか、想像できるか。

 

 ――「三歩」がなぜ「二歩」でも「四歩」でもなく「三歩」だったのか、考えたことがあるか。

 

 答えは、分かっていた。

 

 ない。一人もいない。

 

 この五人は、勝利の「結果」しか見ない。過程を理解する能力がないのではない。過程に興味がないのだ。興味がない人間に、過程の精度を説いても意味はない。

 

「三歩」の理由を理解できない者に、「三歩」の価値は永遠に伝わらない。

 

 セラフィーナは、口を閉じた。

 

 飲み込んだのは、言葉ではなかった。

 

 期待だ。

 

 この組織に、自分の采配を正しく評価できる人間がいるかもしれないという、最後の期待。それを、今、静かに手放した。

 

「……ありません」

 

 その一言は、降伏ではなかった。

 

 決別だった。

 

 老将が頷いた。予定通りの反応を得た、という頷き方だった。

 

「では、本件の処分について――」

 

 ヴァルドーが、わずかに身を乗り出した。

 

「諸卿。私から一つ、提案がある」

 

 老将の眉が動いた。台本にない発言だったのかもしれない。だがヴァルドーは気にした様子もなく、声を張った。

 

「セラフィーナの技量そのものは、認めている。剣の腕は確かだ。ただ――」

 

 ここで一度、残念そうに首を振る。巧い芝居だった。

 

「独断の癖がある。指揮官の号令より自分の判断を優先する。これは大規模戦闘において致命的だ。ゆえに、彼女には――小隊規模での再教育が適切かと考える」

 

 再教育。

 

 その言葉の裏にある意味を、セラフィーナは即座に読んだ。

 

 大部隊を任せない。手柄を立てる機会を与えない。だが「追放」ではなく「再教育」と呼ぶことで、温情を示したように見せる。ヴァルドーは自分が「寛大な上官」であることを、この場に刻みたいのだ。

 

「北境に、第零教導小隊という部隊がある」

 

 ヴァルドーは、さも今思い出したように言った。

 

「落ちこぼれの新人を集めた部隊だ。教官の成り手がいない。セラフィーナの技量なら、適任だろう。――小隊規模なら、独断も害にはなるまい」

 

 その最後の一文に、嘲りが混じった。

 

 唇の端が、ほんの少しだけ持ち上がっている。この男にとって、これは処罰ではない。報復だ。三日前、丘の上で自分を見上げた銀灰色の瞳が気に食わなかった――ただ、それだけの理由で。

 

 老将が幹部たちを見回した。異論を求める形式的な間。

 

 窓の外を見ていた男が、小さく頷いた。目を閉じていた男は、目を閉じたままだった。「早く終われ」の目は、もう書類の束に手を伸ばしている。

 

「――異論なしと認める」

 

 老将が書類に羽ペンを走らせた。

 

「セラフィーナ・レイヴェルト。王国最強騎士団の所属を解き、北境第零教導小隊の教官に任ずる。着任は十日以内。以上」

 

 羽ペンが紙を離れる音が、やけに大きく響いた。

 

 セラフィーナは、敬礼した。

 

 背筋は真っ直ぐなままだった。

 

「拝命いたします」

 

 それだけを言い、踵を返した。

 

 扉に向かって歩く。背中に五つの視線が刺さっている――いや、おそらく三つか二つだ。残りはもう、次の議題の書類を開いている。

 

 扉の把手に手をかけたとき、背後からヴァルドーの声が聞こえた。

 

「さて諸卿、次の件だが――」

 

 もうセラフィーナの名前は、声の中になかった。

 

 処理済みの書類と同じだ。片づいた案件。次の議題に移る。それだけのこと。

 

 扉を開け、廊下に出た。

 

 閉まる扉が、石壁に反響した。その残響が消えるまでの数秒間、セラフィーナは動かなかった。

 

 廊下は長く、天井が高い。朝の光が左側の連窓から射し込み、石畳に格子状の影を落としていた。誰もいない。軍議の時間帯は、この区画への立ち入りが制限される。

 

 静かだった。

 

 軍議室の中のほうが、よほど騒がしかった。声の大きさで事実を塗り潰す男と、それを聞き流すことに慣れた椅子たち。あの部屋には、もう自分の呼吸すら置いてくる必要はない。

 

 ――第零教導小隊。

 

 名前だけは知っている。

 

 北境。魔獣の脅威に晒される辺境。正規の戦力として数えられていない寄せ集め。兵たちの間では「棺桶小隊」と呼ばれている、と聞いたことがある。戦死前提の囮に使われる部隊。

 

 つまり、捨て駒だ。

 

 廊下を歩き始めた。

 

 靴音が規則正しく石畳を叩く。速くもなく、遅くもない。乱れない歩調。それは戦場で声を出すときのリズムと同じだった。呼吸を整え、無駄を削り、必要な情報だけを必要な速度で届ける――そのための律だ。

 

 今は、誰にも届ける言葉がない。

 

 それでも歩調は変わらなかった。

 

 連窓の光が途切れ、廊下が薄暗くなる区画に入った。

 

 足を止めた。

 

 右手が、無意識に胸元へ伸びた。

 

 軍服の内側、布越しに触れる硬い感触。指先がその輪郭をなぞる。丸い環の、一部が欠け落ちたかたち。冷たい金属の、角の丸まった手触り。

 

 剣の鍔だった。

 

 柄もなく、刃もない。折れて、欠けて、鍔だけが残ったもの。

 

 誰のものか――それは、今は語らない。語る相手がいない。

 

 ただ、この鍔に触れるとき、セラフィーナの指先にはいつも同じ問いが甦る。

 

 ――あのとき、半手早ければ。

 

 その問いに答えはない。何年経っても出ない。出ないまま、指先だけが鍔の欠けた縁を覚えている。

 

 手を離した。

 

 歩き始めた。

 

  *

 

 王都の北門を出た馬車は、そのまま北へ延びる街道に入った。

 

 御者台には雇いの老人が一人。荷台には木箱がいくつかと、セラフィーナの私物が詰まった革鞄が一つ。護衛はいない。赴任先への移動に護衛をつける予算は、第零教導小隊の教官には計上されていなかった。

 

 馬車の揺れは一定ではなかった。石畳が途切れると土道になり、車輪が轍に落ちるたびに車体が跳ねる。

 

 セラフィーナは幌の中で背を預け、目を閉じていた。

 

 眠っているわけではない。

 

 瞼の裏に、軍議室の光景が再生される。五つの椅子。報告書を読む声。「再教育」という単語。ヴァルドーの唇の端。

 

 そのどれにも、もう怒りは湧かなかった。

 

 怒るには、相手に期待していなければならない。期待を裏切られたとき、初めて怒りが生まれる。

 

 あの部屋に座っていた五人に、もう何も期待していない。

 

 では――何が残っている。

 

 馬車が大きく揺れ、セラフィーナの体が傾いた。革鞄が滑り、靴の先に当たる。

 

 目を開けた。

 

 幌の隙間から、北の空が見えた。灰色の雲が低く垂れ込め、街道の先を覆っている。王都の空とは色が違う。冷たく、重い。

 

 北境。

 

 捨て駒の部隊。棺桶小隊。

 

 戦死前提の若者たち。

 

 ――若者。

 

 指先が、また胸元に触れていた。

 

 布越しの鍔の感触。欠けた環の輪郭。

 

 若者たちが、死ぬ前提で放り込まれている場所。

 

 セラフィーナは、幌の隙間から目を逸らさなかった。

 

 灰色の空を見つめたまま、唇が動いた。

 

 声は小さかった。御者には届かない。馬の蹄の音にかき消される程度の、吐息に近い音量。

 

「――今度こそ」

 

 鍔を握る指に、力がこもった。

 

「死なせない」

 

 馬車は北へ走る。

 

 街道の両脇に並ぶ樹木が、王都に近い白樺から、次第に針葉の暗い緑へ変わっていく。空気の温度が一段下がった。

 

 幌の中で、銀灰色の髪の女は目を閉じた。

 

 今度は本当に、少しだけ眠るために。

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