第11話「朝霧の中で」
朝霧が、地面を這っていた。
白く冷たい空気が足首まで沈み、焚き火の残り火が霧の中でぼんやりと赤い。夜が明ける少し前——空の端だけがわずかに紺から灰へ変わりかけた、その境目の時間。
リシェルは毛布から這い出して、野営地の外縁を歩いていた。
見回りだった。
教官に命じられたわけではない。ただ、昨夜の戦闘のあと、どうしても目が冴えて眠れなかった。二度寝しようとして天幕の中で目を閉じたが、闇の中でリシェルの声を飛ばしたあの瞬間が何度も蘇ってくる。
喉が、まだ熱い。
あの時、教官の「声を出しなさい」という指示を聞いた瞬間——体の奥で何かが弾けた感覚があった。恐怖でも勇気でもなく、もっと単純な何か。教官の声がいつもと同じ温度だったから、自分もそうしなければと思っただけ。
それだけのことが、こんなに胸の中で暴れている。
リシェルは息を吐いた。白い。冬の朝だ。
見回りに異常はなかった。灌木帯の南東側、昨夜ガルトが「蓋」として立っていた場所。街道の西側、ノエルが窪地に伏せていた位置。どちらにも人の気配はない。男たちが残した足跡が、霜の降りた地面にうっすらと残っているだけだった。
報告しよう、と思った。
教官はまだ起きているはずだ。昨夜、焚き火の番をしながら朝まで一度も目を閉じなかった——テオがそう言っていた。一時間寝ろと言われて横になったテオは、教官の背中が焚き火の向こうで微動だにしなかったのを覚えていると。
焚き火の方へ足を向けた。
霧が濃い。十歩先がぼやける。冬の北境の朝はこうだ。地面に溜まった冷気が夜明け前に霧になって、太陽が昇るまでの短い間だけ、世界を白い布で覆ってしまう。
焚き火の残り火が、霧の中で赤く滲んでいる。
その手前で——
リシェルの足が止まった。
街道のそば。背の低い枯れ木の下。朝霧の中に、人影があった。
教官だった。
リシェルは街道沿いに歩いてきていた。セラフィーナは街道に面した枯れ木の根元に立ち、道の先——北東の方角を向いている。リシェルの位置からは、教官の斜め後ろ姿が見えた。銀灰色の髪を束ねたうなじ。軍服の肩。佩剣の鞘が霧に濡れて、鈍く光っている。
いつもと同じ姿。
——いや。
何かが違う。
両手の位置がおかしい。普段なら体の横に下ろしているか、腕を組んでいるか。今は両手が胸の前にある。何かを包むように。
あと数歩、街道を進んだ。
霧の中を、音を殺して。自分でもなぜそうしたのかわからなかった。ただ、声をかけてはいけないという直感が足を慎重にさせた。
角度が変わった。
斜め後ろから、斜め横へ。
教官の横顔が見えた。
——息を、飲みそうになった。
目を伏せていた。
軍服の襟元から取り出したのだろう——両手の中に、小さな金属片があった。手のひらに収まるほどの、古びた、欠けた何か。霧越しにかすかな光沢が見える。
剣の鍔だった。
それが何であるか——リシェルにはわからなかった。誰のものか、いつからそこにあるのか、何も。
ただ、教官の横顔が見えた。
伏せた目。
唇が、わずかに動いた。声にならない言葉。祈りなのか、呟きなのか、この距離では聞こえない。朝霧が音を吸い込んで、何も届けてくれなかった。
リシェルは動けなかった。
呼吸すら止めていた。見てはいけないものを見ている——そういう直感が、足を縫いつけていた。
教官の横顔。
冷徹で、理性的で、感情を表に出すことがほとんどない人。指示は常に具体的で短く、精神論は一切口にしない人。「三歩下がれ」「肩を見ろ」——その言葉だけで五人の命を守り続けてきた人。
その人が。
古い金属片を両手で包むように握って、目を伏せている。
声にならない言葉を、朝霧の中に落としている。
リシェルは、胸が痛かった。
——この人は、冷たいんじゃない。
漠然とした直感だった。根拠はない。ノートに書けるような理屈もない。ただ、あの横顔を見た瞬間に、リシェルの中で何かが繋がった。
教官が若い兵の死に人一倍敏感な理由。
「死なない位置取り」を誰よりも執拗に教え込む理由。
「強くなれとは言わない。生き残る位置取りだけを教える」——赴任初日のあの言葉。
あれは、教育方針なんかじゃなかった。
——あの人の中に、誰かがいる。
もう、いない誰かが。
リシェルの目の奥が熱くなった。泣きそうだった。泣く理由がわからないのに、涙腺が勝手に緩んでいる。
声をかけようとした。かけられなかった。
この沈黙を壊してはいけない。あの祈りは自分に向けられたものではない。教官が一人で抱えている何かに、土足で踏み込む権利はリシェルにはない。
だから——ただ、見ていた。
朝霧の中で、教官が古い金属片を軍服の内側にしまうまで。
背筋を伸ばし直して、いつもの教官に戻るまで。
その一連の所作を、リシェルは街道脇の霧の中から見つめていた。
ノートには書かなかった。
これは記録するものではない。
ただ——覚えていよう、と思った。
*
夜が白み始めた頃、テオが毛布から顔を出して鼻をひくつかせた。焚き火の残り火の匂い。霧に混じる草の匂い。異臭はない。獣の気配もない。
「異常なし」
誰に言うでもなく呟いて、テオは上体を起こした。隣で丸まっているガルトの巨体が、規則正しく上下している。
「おい、でかいの。朝だぞ」
返事はない。ガルトは寝息を立てている。テオは足でガルトの背中を軽く蹴った。
「——ぅ」
「起きろ」
「……もう朝か」
「朝だ。鼻が言ってる」
「お前の鼻は時計か」
ガルトがのろのろと身を起こす。寝癖が盛大についている。大柄な体に似合わない、子供のような寝ぼけ顔だった。
少し離れた場所で、ノエルが一人で右腕を回していた。ぐるぐると、大きく。昨夜の一撃の反動が残っているのだろう。回すたびに顔をしかめるが、振り切れなくはなさそうだった。
「痺れてんのか」
テオが声をかけると、ノエルは振り向かずに答えた。
「もう治った」
「嘘つけ。顔しかめてたろ」
「うるせえ。お前こそ、昨夜は怖くて泣いてたんじゃねえのか」
「泣いてねえよ。俺は怖くなかった」
テオがそう言い切ると、ノエルが初めて振り返った。少し驚いたような顔だった。
「……マジで?」
「マジで」
テオは胸を張った。嘘ではなかった。昨夜の夜襲で、初めて恐怖が足を縛らなかった。教官の声が聞こえている間だけは、怖くない。その発見が、テオの中でまだ熱を持っている。
クレアが焚き火のそばで水筒の水を小鍋に移していた。干し肉と穀物の粥を作るつもりらしい。朝食の準備。こういう時、一番最初に動くのはいつもクレアだった。
「テオ、水場の方角」
クレアが聞いた。水が足りないのだ。
テオは鼻をひくつかせた。「北西。百歩くらい。沢の匂いがする」
「ありがとう」
クレアが小鍋を持って立ち上がりかけた時——
「水は私が汲みます。クレアは火の番を」
声が降ってきた。
セラフィーナだった。
いつの間にか焚き火のそばに立っている。朝霧の中から現れたように、音もなく。銀灰色の髪は束ねたまま。軍服に乱れはない。一晩中起きていた人間の顔ではなかった。
——いや。
リシェルだけが気づいた。
教官の目の下に、ごく薄い影がある。疲労の色。ほんの少しだけ。他の四人は気づかないだろう。気づけるほど、この人の顔を見ていない。
リシェルは気づいた。
朝霧の中で見たあの横顔を、まだ覚えていたから。
「リシェル。見回りの報告を」
「——はい」
声が一瞬遅れた。教官の目がこちらを見ている。いつもの温度。感情の読めない、冷ややかな瞳。
リシェルは呼吸を整えた。
「南東の灌木帯、西の街道沿い、ともに異常ありません。昨夜の男たちの足跡が霜の上に残っていますが、新しい痕跡はなし。撤退後の追跡の気配も確認されませんでした」
短く。具体的に。教官がいつもそうするように。
セラフィーナは一つ頷いた。
「上出来です」
たったその一言。
リシェルの胸が、また痛んだ。
この人は変わらない。朝霧の中で何を祈っていても、誰の前でも、同じ温度で「上出来です」と言う。その一貫性が——今のリシェルには、痛いほど眩しかった。
*
粥が煮えた頃、街道の東から蹄の音が聞こえた。
テオが最初に反応した。
「馬。一頭。速い。——軍馬だ」
鼻ではなく耳で判別した。蹄鉄の打音が硬い。野馬や荷馬の走り方ではない。
セラフィーナの目が細くなった。
朝霧が薄れ始めた街道の向こうから、砂埃を蹴立てて一頭の馬が駆けてくる。背に軍の伝令服を着た男が伏せるように乗っている。馬は息を切らしていた。泡を吹きかけている。相当な距離を、休みなく走ってきたのだろう。
伝令は野営地の前で馬を止めた。飛び降りるように下馬し、膝をついた。
「第零教導小隊——セラフィーナ・レイヴェルト教官殿に、北方軍司令部より緊急命令書をお届けいたします」
息が荒い。伝令の顔は赤く、額に汗が浮いている。冬の朝に、馬と一緒に走り通してきた男の顔だった。
セラフィーナが歩み寄り、封書を受け取った。
封蝋を割る。
中の紙を広げる。
リシェルの位置からは文面が読めなかった。ただ、教官の指が紙の上を滑るのが見えた。一度だけ、端から端まで。読み返さなかった。一読で内容を把握したのだ。
セラフィーナは命令書を折り畳んだ。
表情は変わらなかった。
「——全員、集合」
その声で、リシェルの背中が冷えた。
教官の声の温度が、ほんの一段だけ下がっていた。他の誰にもわからない差。けれどリシェルには聞こえた。「上出来です」と言った時と、今の声は違う。
テオが粥の椀を置いた。ガルトが立ち上がった。ノエルが腕を回すのをやめた。クレアが鍋から手を離した。
五人が焚き火の前に並ぶ。
セラフィーナは命令書を掲げた。
「本日付で、第零教導小隊の駐屯地が変更されます。新たな配属先は——北境最前線、ノルトエイン砦」
沈黙。
一拍。
リシェルは、その名前を知っていた。
士官学校の講義で聞いたことがある。北境最前線の防衛拠点。魔獣の侵攻路の真正面に位置する砦。配属された部隊の生還率が著しく低いことから、兵士たちの間では別の名で呼ばれている。
——死地。
テオの顔から血の気が引いた。
「ノルトエイン……」
ガルトの拳が、太ももの上で握りしめられた。
ノエルが歯を食いしばった。何か言おうとして、言葉が出なかった。
クレアの目が揺れた。唇が震えている。
リシェルは——動けなかった。
ノルトエイン砦。配属先の変更。文面上は通常の人事命令。だが、その実態を知らない兵士はいない。ここに送られるということは、「ここで死ね」と言われているに等しい。
棺桶小隊。
その名前の意味が、今、本当の重さで圧しかかってきた。
「……教官」
リシェルの声がかすれた。
「これは……」
セラフィーナはリシェルを見た。
それから、テオを。ガルトを。ノエルを。クレアを。
五人の顔を、一人ずつ。
沈黙が長かった。焚き火の爆ぜる音だけが、朝の空気を裂いている。
テオが膝を折りかけた。ガルトの巨体が、わずかに揺らいだ。クレアが目を伏せた。ノエルだけが歯を食いしばったまま教官を睨んでいた。怒りなのか恐怖なのか、自分でもわかっていない顔だった。
セラフィーナは命令書を畳み、軍服の内側にしまった。
それから——振り返った。
朝霧がまだ肩に残っていた。
その目が、五人を射抜いた。
冷たい目だった。
いつもと同じ、感情の読めない目。
けれど——
「ならば」
声は静かだった。怒号でも激励でもない。ただ、事実を告げるように。
「そこを、生き残る場所に変えるだけです」
一拍。
「出発の準備を」
リシェルの鼓膜が、その声を刻んだ。
精神論ではなかった。「頑張れ」でも「負けるな」でも「信じろ」でもない。
——変える。
生き残る場所に、変える。
この人は、そう言った。死地を死地でなくすと。それが可能であるという前提で、準備を命じた。
理屈だった。
この人は、いつだってそうだ。精神論を口にしない。「三歩下がれ」と言う。「肩を見ろ」と言う。具体的な行動だけを指示する。そしてその通りにすれば、生き残れる。
廃農場で。寒村で。昨夜の夜襲で。
三度。三度とも、教官の言葉の通りだった。
テオが顔を上げた。
膝に力が戻っていた。教官の声を聞いた瞬間に、体が勝手に反応していた。「教官の言う通りに息をすれば絶対に死なない」——昨夜、自分で言った言葉が、胸の中で燃えている。
ガルトが拳を握り直した。揺れが止まった。大きな体が、もう一度まっすぐに立った。
クレアが顔を上げた。目はまだ揺れていたが、鍋の火を消しに動いた。出発の準備。教官がそう言った。ならば、まず火を消す。粥を分ける。荷を纏める。
ノエルが吐き捨てるように言った。
「……ったく」
誰にでもなく。
「行きゃいいんだろ」
歯を食いしばったままだった。けれど、その足は動いていた。自分の荷物の方へ。
セラフィーナはそれ以上何も言わなかった。
五人が動き始めたのを確認して、教官は伝令の方を向いた。
「馬を休ませなさい。水場は北西に百歩ほど。沢があります」
伝令が目を丸くした。
なぜ、と聞きたそうな顔だった。死地への辞令を受け取ったばかりの部隊の教官が、伝令の馬の心配をしている。その温度差に、伝令は何も言えなかった。
「は——はい」
セラフィーナは頷いて、焚き火の方へ戻った。
リシェルは、その背中を見ていた。
*
荷台に揺られながら、リシェルは膝の上のノートを閉じたまま、窓の外を見ていた。
街道が北へ伸びている。
駐屯地に着いた頃はまだ春の泥が残っていた。それから半年余り——訓練と実戦を重ねるうちに季節は巡り、今はもう冬枯れの平原と灰色の空しかない。遠くに雪を被った山脈の稜線が見える。馬車の車輪が石を踏むたびに、体が小さく跳ねた。
向かいではテオが首を傾げたまま浅く眠っている。その隣でガルトが腕を組んで目を閉じていた。ノエルは荷台の端に背を預けて、黙って空を見上げている。クレアは膝の上で指を組んで、何かを数えるように唇を動かしていた。薬草の在庫を頭の中で確認しているのかもしれない。
御者台にセラフィーナが座っている。背中だけが見えた。
銀灰色の髪が、冬の風に揺れている。
リシェルは、朝霧の中の光景を思い出していた。
古い金属片を両手で包む、教官の手。
目を伏せた横顔。
声にならない言葉。
——あの人は、冷たいんじゃない。
それだけは、もう疑わなかった。
冷たく見えるのは、同じ過ちを繰り返さないためだ。感情を出さないのは、感情に飲まれれば判断が鈍るからだ。精神論を口にしないのは、精神論では人が死ぬからだ。
全部、理由がある。
全部——誰かを、もう失いたくないから。
リシェルにはまだ、その「誰か」が見えなかった。教官が握っていた古い金属片が何なのかも、誰のものなのかも、何も知らない。
知らなくていい。
今は、知らなくていい。
ただ——
「……あの人は」
リシェルは唇だけで呟いた。声にはしなかった。荷台の振動に紛れて、誰にも聞こえない。
——同じ後悔を、二度としないために戦っている。
その確信だけが、リシェルの中で静かに、けれど確実に根を張った。
ノートは開かなかった。
これは言葉にするものではない。書いて整理するものでもない。
胸の中に、そのまま置いておくものだ。
馬車が揺れた。車輪が石を踏んだ。テオが寝言で鼻をひくつかせた。
リシェルは窓の外に目を戻した。
北へ続く街道。灰色の空。雪山の稜線。
その先に——死地がある。
でも。
リシェルは、拳を握った。
教官が「変える」と言った。
ならば——変わる。
リシェルは窓枠に額を押し当てて、目を閉じた。
御者台から、教官の声は聞こえない。
けれど——銀灰色の髪が風に揺れているのが、閉じた瞼の裏に見えた気がした。




