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剣聖は、棺桶小隊に剣を教えない  作者: 今井 幻


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第1話「三分の沈黙」

 泥が、戦場を喰っていた。


 春先の雪解け水が地表を溶かし、国境の平原はどこもかしこも茶色い粥のようにぬかるんでいる。馬蹄が沈む。車輪が軋む。歩兵の革靴は(くるぶし)まで埋まり、一歩ごとに泥が舌打ちのような音を立てて足首を掴んだ。


 丘の上から見下ろせば、その泥の海に二つの軍勢が(ひし)めいている。


 手前が王国最強騎士団。奥が魔獣の混成群。


 魔獣どもは低地の際で足を止めていた。牙の長い四足獣が横並びに唸り、その後列では二足歩行の大型種が苔むした巨岩のように身を揺すっている。統率された動きではない。ただ、本能的に泥を嫌って高い地盤に留まっている――それだけだ。


 セラフィーナ・レイヴェルトは、その光景を銀灰色の目で読んでいた。


 髪を一本に束ね、装飾のない軽鎧を纏ったその女騎士は、指揮位置である丘の中腹に立ったまま、微動だにしない。視線だけが戦場を走査する。左翼の騎兵中隊。中央の槍歩兵。右翼の弓兵。そして――低地の縁に並ぶ魔獣の前列、その足元。


 泥の色が変わる境界線を、彼女は正確に見ていた。


 平原の低地は、どこもかしこも同じ深さではない。雪解け水の流路に沿って、ひときわ黒く湿った泥の帯が蛇行している。馬の腹まで沈むような、底なしの筋だ。そしてその帯の手前と奥には、浅く柔らかいだけの泥地が広がっている。


 この差を、丘の上から読み取れる人間が何人いるか。


「ヴァルドー副団長」


 声に抑揚はない。報告書を読み上げるような、乾いた声だった。


「魔獣は低地に入りません。四足種は泥を嫌う。しかし――」


 視線が右へ流れた。魔獣の群れの最右翼。二足歩行の大型種が三体、体重を前に傾けている。


「――右端の重装種だけが違います。あの三体は体重で泥を踏み固められる。三分以内に、低地を横断して我が右翼へ到達する」


 つまり。


「三分待ってください。重装種が低地に踏み込んだ瞬間に、右翼の弓兵が足を止めた的を撃てます。同時に、四足種は泥を避けて左右に散る。散ったところを中央の槍兵が受ければ、こちらの被害は最小で済む」


 三分。


 その三分間、騎兵は動かさない。馬は泥に弱い。低地へ突っ込めば足を取られ、味方が最大の障害物に変わる。


 丘の上で、セラフィーナの横に立つ巨躯の男が鼻を鳴らした。


 ヴァルドー・グランセルト。王国最強騎士団・副団長。


 金の縁取りを施した重厚な鎧が、曇天の下でも鈍く光っている。マントの裾には騎士団の紋章が刺繍され、兜の頂には鷲の羽飾り。一目で「偉い人間」だとわかる装いだ。


 鎧の重量に似合わぬ落ち着きのなさで、ヴァルドーは丘を二歩、三歩と歩き回っていた。


「三分、三分と言うが、セラフィーナ」


 低い声だが、語尾が微かに上擦っている。


「見ろ。敵は足を止めている。これは好機だ。好機に待てというのか?」


「好機ではありません。罠です」


「罠?」


 ヴァルドーの顎が持ち上がった。


「どこが罠だ。敵は怯えて動けんのだろう。ならば今、騎兵を突撃させれば一息に蹴散らせる」


「騎兵が低地に入れば泥で足を――」


「泥ごときで王国最強の騎兵が止まるものか!」


 遮るように吐き捨てた声が、丘の斜面に反響した。


 周囲の伝令兵たちが首をすくめる。ヴァルドーの怒声は、この騎士団では天気と同じだ。予測不能で、避けようがなく、ただやり過ごすしかない。


 セラフィーナは口を閉じた。


 反論しても無駄だと判断したのではない。反論が通る相手かどうかを、とうに計測し終えているのだ。


 ヴァルドーはすでに伝令兵を振り返っていた。


「左翼のグリュース中隊に伝えよ。即時突撃。敵陣中央を貫け!」


 伝令兵が駆け出す。


 セラフィーナの視線が、低地の泥へ戻った。


 あの黒い帯の位置を、もう一度確かめるように。


  *


 轟音。


 左翼から百二十騎の突撃が始まった。


 馬蹄が泥を蹴り上げ、騎兵の怒号が平原に響く。先頭の旗手が長槍を掲げ、鎧の内側から唸るような鬨の声が上がった。


 壮観だった。


 浅い泥を蹴散らしながら、騎馬が低地を駆け抜けていく。序盤は勢いがあった。泥は(くるぶし)を越える程度で、馬足は鈍りながらも止まらない。


 だが。


 先頭の三十騎が、あの帯に突っ込んだ。


 丘の上からでも色の違いが見えていた、あの黒く湿った泥の筋。雪解け水の流路が削った、低地で最も深い溝だ。


 先頭の馬が前脚から沈んだ。膝まで、腹近くまで。騎手が手綱を引くが、馬は後脚でもがくだけで身動きが取れない。二頭目が先頭を避けようとして横に逸れ、同じ帯のさらに深い箇所に突っ込んだ。三頭目が二頭目に衝突し、騎手が鞍から放り出された。


 泥の帯の中で、先頭の三十騎が完全に動きを失った。


 後続の九十騎は、前が詰まって止まるしかない。帯の手前――浅い泥のエリアで、馬同士が押し合い、騎手が怒鳴り合い、隊列が折り重なるように膨れ上がった。


 前へ進めない。しかし後ろからの勢いは止まらない。渋滞した騎兵の塊が、泥の中でぐずぐずと崩れていく。


「――馬鹿な」


 ヴァルドーの唇が震えた。


 そして。


 魔獣は、待っていなかった。


 四足種が動いた。泥を避け、低地の縁を大きく迂回して左翼へ殺到する。身動きの取れない騎兵の横腹へ、弧を描くように。


「左翼が!」


 伝令兵の悲鳴が丘を駆け上がった。


 ヴァルドーの顔から血の気が引いた。ほんの一瞬――だが確かに、その巨体が揺れた。


「な、なぜ押される!? 踏み止まれ! 左翼は踏み止まれ!」


 怒号が飛んだ。


 しかし、それは具体的な指示ではなかった。「踏み止まれ」と言われても、泥に嵌まった馬はどうにもならない。どこへ退くのか。どの方向に陣形を組み直すのか。何も示されていない。


 兵士たちは怒鳴り声を聞いた。だが、体をどう動かせばいいのかは、誰にもわからなかった。


「根性を見せろ! 王国最強の名に恥じぬ戦いをせよ!」


 丘の上から振り下ろされる言葉は、泥の中でもがく兵には何の足場にもならない。


 左翼が崩れかけていた。深い泥帯で嵌まった先頭の三十騎は完全に孤立し、その手前で渋滞した後続の九十騎も前にも後ろにも動けないまま、横合いから四足種が突っ込んでくる。馬から落ちた騎士が泥の中で立ち上がれず、獣の牙が鎧の継ぎ目を探った。


 中央の槍兵にも動揺が走った。左翼の騎兵が呑まれていくのが、目の前で見えている。浮足立った歩兵の列が、わずかに後退し始めた。


「――」


 セラフィーナは、丘の中腹から一歩も動いていなかった。


 戦場を見ていた。


 泥帯の正確な位置。先頭三十騎と後続九十騎の間にある距離。後続が嵌まっているのは帯の手前――浅い泥であって、深い溝ではない。四足種の迂回速度。中央の槍兵が後退を始めた距離。右翼の弓兵がまだ射線を保っている角度。


 すべてが、目の前に開いた盤面だった。


 彼女の口が開いた。


「左翼後続、三歩下がれ」


 声は大きくない。だが、よく通った。


 丘の斜面に控えていた伝令兵が、条件反射のように復唱して駆け出す。数秒後、浅い泥の中で渋滞していた後続の騎兵たちの耳に届いた。


 三歩。


 後続の九十騎は、深い泥帯の手前で詰まっていただ毛だ。浅い泥のわずか数歩先が、もう固い地盤だった。前へ突っ込んだのではなく、前が詰まって止まっていただけ。だから――三歩の後退で、馬の脚が乾いた土を踏んだ。踏ん張りの利く地面に、ようやく足が届く。


「馬を捨てて盾壁を組め」


 二つ目の指示。後続して固い地盤を確保した後続騎兵へ。


 馬を降り、歩兵として盾の壁を組む。泥の中での機動力は捨て、防御に徹する形へ切り替える。固い地盤の上なら盾が機能する。迂回してきた四足種が突っ込んできても、受け止められる。


 そして、三つ目。


「前列、降りてその場で構えろ」


 深い泥帯に嵌まったまま身動きの取れない先頭三十騎への指示。退けないなら退かなくていい。馬を捨て、泥の中に膝をついてでも盾を掲げろ。深い泥に沈んだ人間の壁は、魔獣にとっても越えにくい障害物になる。


 退ける者は退かせ、退けない者はその場で壁にする。


 二系統の指示が、同時に左翼を組み替えた。


「中央、槍を寝かせろ」


 四つ目。中央の槍兵への指示。


 通常、槍は立てて構える。だが今、左翼が後退したことで、浅い泥地帯に空白が生まれている。魔獣がその空白を追えば――。


 槍兵が槍を水平に構え、地面すれすれに穂先を並べた。泥に踏み込んだ魔獣の足元を、横薙ぎに刈り取るための配置。


 四足種が泥へ入った。


 左翼を追って勢いづいた魔獣が、退いた騎兵を追って空白地帯に雪崩れ込む。追撃の本能に駆られて、泥を嫌っていたはずの獣が自ら浅い泥を踏み、さらにその先の深い帯へ突っ込んだ。


 先頭三十騎が泥の中で掲げた盾の壁が、魔獣の前進を一瞬だけ鈍らせる。その一瞬で、四足種の後脚が深い泥を踏み抜いた。


 敵と味方の立場が反転した。


 泥に足を取られた魔獣の群れに、寝かせた槍の穂先が突き刺さる。動けない的に、正確な刺突が次々と吸い込まれていく。


「右翼、仰角を落とせ」


 五つ目。


「低地の中心へ撃て」


 六つ目。


 弓兵の矢が放物線を描いて低地に降り注いだ。泥で動けない魔獣の背に、矢の雨が突き立つ。


 後退した騎兵の盾壁が四足種の迂回を受け止め、泥に沈んだ先頭組の盾が魔獣の前進を堰き止め、中央の槍が泥に嵌まった群れを刈り、右翼の弓が頭上から止めを刺す。


 四方向からの殺陣。


 戦場を上から見れば、それは精緻な幾何学だった。退ける者を退かせて固い地盤を確保し、退けない者を壁に変え、空いた泥地帯に敵を誘い込み、包囲して潰す。


 指示は全部で六つ。どれも一文。


 兵士たちは何が起きたのか理解する前に、体が動いていた。三歩下がれと言われたから下がった。馬を捨てろと言われたから捨てた。槍を寝かせろと言われたから寝かせた。それだけだ。それだけで、崩壊しかけた戦線が嘘のように立て直された。


 低地の中心で、魔獣の断末魔が泥と混じり合っていく。


「……は?」


 伝令兵の一人が、声を漏らした。


 丘の上から見下ろす戦場は、三十秒前とまるで別の景色だった。


 潰走寸前の左翼が二重の盾壁に変わっている。暴れ回っていた四足種が泥に沈んで身動きが取れない。中央の槍兵が機械のように規則正しく刺突を繰り返し、右翼の弓が淡々と矢を注いでいる。


 ほんの六つの指示で。


 視線が丘の中腹に吸い寄せられた。


 銀灰色の髪の女騎士は、もう何も言っていなかった。腕を組み、ただ戦場を見ている。まるで最初からこうなると知っていたかのような、凪いだ横顔。


「あの方の声一つで……」


 呟きは誰にも拾われなかった。


 戦場の騒音がそれを呑み込み、勝利の歓声に塗り替えられていく。


  *


 泥まみれの平原に、静寂が降りた。


 魔獣の死骸が低地を埋め、泥と血と獣脂の匂いが春の風に乗って丘まで届く。


 兵士たちは武器を下ろし、あるいは泥に膝をつき、あるいは隣の仲間の肩を叩いていた。怒号と悲鳴が支配していた空気が、疲労と安堵の吐息に変わっていく。


 丘の上では、ヴァルドーが大きく胸を張っていた。


「見たか!」


 その声は、戦場の静けさを切り裂くように響いた。


「これが王国最強騎士団の力だ! 私の果断な突撃命令が敵の虚を突き、一気に勝利を引き寄せた!」


 周囲の幕僚たちが頷く。正確には、頷くしかない空気が、そこにはあった。


 副団長の命令で突撃し、騎兵が泥に嵌まり、左翼が崩壊しかけた。それを立て直したのは――。


 幕僚の一人が、ちらりとセラフィーナを見た。


 女騎士は、丘の中腹に立ったまま、表情を変えていない。口を開く気配もない。訂正する気も、抗議する気も、端から持ち合わせていないような、静かな佇まい。


「セラフィーナの小細工も多少は役に立ったがな」


 ヴァルドーが付け加えた。声に余裕が戻っている。自分の失態が忘却される速度を、この男は本能的に知っていた。


「まあ、ああいう姑息な手は戦場の華ではない。戦を決するのは、常に大胆な判断力と――」


 言葉が続く。自画自賛の演説。


 幕僚たちの視線は、もう女騎士には向いていなかった。副団長の言葉に相槌を打ち、勝利の報告書の草案に意識を移している。報告書には「ヴァルドー副団長の指揮により」と記される。いつも、そうだった。


 セラフィーナは振り返らなかった。


 丘を下り始める。乾いた草が軽鎧の足甲の下で折れる、小さな音。戦場の泥は、ここまでは届いていない。


「セラフィーナ」


 背後から声が飛び、足を止めた。


 振り向くと、ヴァルドーがこちらを見下ろしていた。幕僚たちの視線も、それに倣って集まる。


 距離にして十歩。丘の勾配が、そのまま二人の高低差になっていた。


 豪奢な鎧に身を包んだ巨躯の男が、泥一つつかない指揮位置から、同じく泥一つつかない女騎士を見下ろす。


 どちらも前線には立っていない。だが片方は何もしなかった男で、もう片方は声だけで戦場を動かした女だった。


 その差を知る者は、この丘の上にはいなかった。


 ヴァルドーの目に浮かんでいたのは、怒りでも感謝でもなかった。


 冷たい、値踏みの視線。


「お前の指示は小賢しいだけだ。兵はな、明快な号令に従うものだ。姑息な小手先で戦場を弄ぶな」


 声は穏やかですらあった。大勢の前で怒鳴る必要がない。自分が上で、相手が下だと確信している人間の声だ。


 セラフィーナは、その視線を受け止めた。


 銀灰色の瞳には何も映っていないように見えた。怒りも、悲しみも、諦めも。ただ、丘の上の男を正確に捉えている。


「……左翼の負傷兵を確認して参ります」


 それだけ言って、背を向けた。


 丘を下る足取りは、乱れない。


 勝利の歓声は、まだ続いていた。兵士たちが拳を突き上げ、互いの健闘を称え合っている。その喧騒の中を、銀灰色の髪が一筋、静かに遠ざかっていく。


 誰も、見ていなかった。

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