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【完結】織りなす糸の先は  作者: 牧之原うに


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第30話

保健室の扉を静かに閉めると、外の空気はすっかり冷たくなっていた。


西の空には、溶けるような朱が広がり、雲の縁が淡く金に染まっている。生徒たちの賑やかな声が去った広場には、わずかな足音さえ響くほどの静けさが戻っていた。


アメリアは、一歩、また一歩と歩みを進める。胸の奥で、さざ波のようなざわめきが繰り返し立ち上がっては消える。先ほどのルーカスとのやりとりを思い返しながら、彼女の視線はふと、観覧席の方へと向いた。


赤茶の髪が風にほどけて、やわらかく揺れていた。


そこにいたのは、アレクシオだった。


結っていた髪をほどいて、背もたれに軽く体を預けている。


夕陽を浴びた髪は、まるで溶けかけた琥珀のように艶やかで、風が通るたび、やわらかに波打った。


競技服の上着は脱ぎかけて無造作に背もたれにかけられ、シャツの袖は肘までたくし上げられている。


彼の周囲だけ、まるで時の流れがゆるやかになったように、穏やかで静謐な空気が流れていた。


(……アレク。)


彼の存在に気づいた途端、胸がぎゅっと締めつけられる。


風がアメリアのスカートの裾をさらりと揺らす。足が自然と、彼の元へと向かっていた。


アレクシオは、アメリアの足音に気づいても、すぐには振り向かなかった。夕暮れの空を見上げたまま、どこか遠くの世界を眺めているようだった。


アメリアが彼の隣に立つと、アレクシオがそっと問いかけた。


「……グレイフォードは、大丈夫だった?」


アレクシオはゆっくりと目を閉じ、静かに息を吐いた。そして、視線を彼女に向けた。


夕陽の光が斜めに差し込み、彼の睫毛と頬を柔らかく染める。瞳の奥に揺れる光は、どこか切なげで、そして、懐かしいような色だった。


「うん。医務室でちゃんと処置を受けたわ。」


その言葉にアレクシオは、ほっとしたように小さく頷いた。


アレクシオは、彼女が自分の隣に立ち続けていることに気づいて、少しだけ視線を外す。


「……ついていてやらなくて良かったの?」


彼の声は、普段の飄々とした調子ではなく、どこか優しさをにじませた、低く穏やかな響きだった。


アメリアはそっと、風に揺れる自分の前髪を押さえながら言った。


「うん。私、あなたに会って……話したいことがあったから。」


その一言で、アレクシオの瞳がわずかに揺れる。まるで胸の奥にしまっていた期待が、そっと目を覚ましたかのように。


アメリアはそっと口を開いた。その声は風に溶けそうなほど静かで、けれど確かな意思を含んでいた。


「……さっきね、ルーカス様に“好きだ”って言われたの。」


アレクシオの表情がわずかに動いた。彼のまつげがふるえ、瞳が夕陽にきらめく。だが彼は、黙って耳を傾けていた。


「ルーカス様は、本当に素敵な方よ。」


アメリアは、言葉をひとつひとつ選びながら続けた。


「礼儀正しくて、誰に対しても優しくて。とってもハンサムで、でも決してそれを誇るようなことはなくて……。頭も良くて、私のことを、ちゃんと理解しようとしてくれていたの。」


彼女は、そっと微笑んだ。けれどその微笑みには、ほんの少しの哀しさが滲んでいた。


「話していると、とても穏やかで、落ち着くの。私のことを大切に思ってくれているのも伝わってきたの。」


そして、アメリアはそっと、アレクシオの方を見つめた。その瞳は、まっすぐで、曇りがなかった。


「でも……。」


アメリアの声が、少し震えた。


「でもね……私は、幸せに“してもらう”ことを望んではいないの。」


彼女はアレクの方に、そっと視線を向けた。


「私が、幸せに“したい”と思ったのは、あなたなの。アレク。私が私らしくいられて、一緒に幸せになりたいと思ったのはあなたなの。」


風の音すら聞こえなくなったような、静寂が落ちる。アレクシオは驚いた様子で目を見開いて、ゆっくりとまばたきをした。


「私、最初はあなたに翻弄されてばかりだった。軽口ばかりで、何を考えているか分からなくて。 でも、ふとしたときに見せるあなたのまっすぐな優しさに、気づいたら心を揺さぶられてた。」


アメリアの頬を風が撫で、深い緑の瞳に光がきらりと差し込む。


「養蚕場で、真剣な顔で職人さんたちと話していたあなた。 未来のことを、誰よりも真摯に考えているんだなって思ったの。」


アメリアは握っていた掌にきゅっと力を込める。


「託児所で、子どもたちの名前をちゃんと呼んで、しゃがんで目線を合わせていたあなたを見たとき、ああ、この人は、ちゃんと誰かの“声”を聞ける人なんだって、胸が温かくなった。」


アメリアは、少しだけ遠くを見てから、まっすぐアレクを見つめる。


「困っている人を見つけると、自然に手を差し伸べてくれる。誰かのことを考えて動けるあなたの背中を、気づいたらずっと、目で追ってた。」


アメリアは少し困ったように笑った。


「あなたが笑うと、こっちまで心がほどけるようで、そばにいるだけで、勇気が湧いてきて。あなたのことを想うと、胸がぎゅってなるの。 嬉しくて、切なくて、でも愛おしくて。そんなふうに思う自分に、いつしか気づいたの。」


アメリアの声は、もう震えてはいなかった。その瞳には、静かな熱が宿っていた。


「私、あなたのことが、好き。誰かに幸せにしてもらうんじゃなくて、あなたと一緒に、同じ歩幅で、未来を歩いていきたいって思ったの。」


アメリアの言葉が静かに夕闇に溶けていく。


風が、ふたりのあいだをふわりと通り抜けた。アレクシオはしばらく黙ったまま、どこか遠い場所を見つめていた。


その視線が、ゆっくりとアメリアへと戻る。


「……そんな君に、僕は恋をした。」


彼の声はかすかに震えていた。けれど、その瞳はまっすぐ彼女を捉えていた。


「最初は……君はすごく綺麗で優秀なのになんでそんなに自信がなさそうなんだろう?って、教室で目立たないようにしている君がとっても不思議で、だから、話しかけることでそれで距離が縮まればいいって、軽い気持ちだった。――でも。」


アレクシオは視線を落とした。


「話しかけてみると、想像以上に気さくで年相応なところもあって、でもお姉さんなんだなと思うところもあって。何より、人のために頑張りすぎてしまうところがいじらしくて。だから、とても尊敬できて。君のことを一つひとつ知るたびに惹かれていったんだ。」


アレクシオは拳をきゅっと握った。


「そうして君のことをひとつずつ知っていくうちに、君が相手を見て、真剣に考えて、そして笑うとき……。僕はね、この気持ちはずっと秘めておこうと思っていたんだ。君に僕はふさわしくないんじゃないかって思っていて。」


彼の声が少しだけ震える。


「僕は、ずっと人を信じることが怖かった。父さんが信じた相手に裏切られたのを、小さかった僕は見ていたから。どこかで、誰も信じられないよなって、驕っていたと思うし、そうして自分を守っていたんだ。でも――君だけは、違った。」


アメリアが、そっと息をのむ。


「君の言葉も、優しさも、まなざしも、どれひとつ嘘がないって……。不器用な君が、我が身を顧みずに頑張っているのを見ると、それだけは、不思議とすぐにわかったんだ。」


アレクシオは、アメリアの手をとる。そっと、けれど確かに。


「そんな君に惹かれてしまうのは自然なことで、僕のことを信じてくれたのも本当に嬉しくって。弱いところもごく自然に受け入れてくれて。でも、君に僕が並び立つのは烏滸がましくて、きっと君は、誰かの隣で、立派な夫人として歩いていくんだろうなって――。」


「でも今、君はここにいる。僕を見ている。――それだけで、どうしていいか、わからなくなるくらい僕は……。」


彼は笑った。泣きそうなほど優しく、弱く。


「アメリア。君が言ってくれた“未来を一緒に歩いていきたい”って言葉……それは、僕が心にしまい込んだ僕の願いそのものだった。」


「だから、もう一度言わせて。僕は、君のことが好きだ。心から。君と生きたいと、心から思ってる。」


アメリアの瞳に、光が揺れた。溢れそうな涙を必死にこらえながら、彼の手をぎゅっと握り返す。


「私もあなたが大好きよ。アレク。返事を待たせてごめんなさい。」


ふたりの距離が、音もなく縮まっていく。アレクシオは、彼女の頬にそっと触れた。指先に触れる温もりが、彼女の想いを伝えてくれた。


「泣いてる?」


「……泣いてないわ。ちょっと、風が強いだけ。」


「そっか。」


アレクシオは微笑み、自身の額をそっとアメリアの額に重ねた。


「なら、これも風のせいってことで――」


ふたりの影が、夕闇にそっと重なって、互いの唇が触れた。


甘く、柔らかく、そして、静かに――


空には、最初の星が滲んでいた。

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