第3話
馬車は夕暮れの街並みを進み、アメリアは窓の外を眺めていた。賑やかな商店やカフェの明かりが通りを照らし、道行く人々の笑い声や足音が聞こえる。馬車の揺れに身を任せながら、アメリアは一日の出来事を思い返し、少しだけ疲れを感じていた。柔らかなオレンジが街を包み込み、その光が建物や木々の影を長く引き伸ばしている様子はアメリアの心を落ち着けてくれた。
街の中心を抜け、静かな住宅街に差し掛かると、喧騒が次第に遠のき、周囲の風景は穏やかに変わっていく。馬車の車輪が石畳を踏む音が心地よく響き、アメリアは窓越しに見える景色に目を細めた。手入れの行き届いた緑豊かな木々や、鮮やかに咲き誇る花々が両脇に並ぶこの道は、幼い頃から何度も通った馴染み深い景色で、この道を通ると、自分の居場所に戻ってきたという感覚になる。
ラクロワ家の邸宅が見えてくると、家の窓から漏れる温かな光が彼女を迎え入れているように感じられた。白い壁は空の色を受けとめてほんのりと薄むらさき色に染まり、その柔らかな色合いが疲労と緊張をほどいていく。馬車がゆっくりと門を通り抜けると、広がる庭の芝生がふわりと風に揺れ、家の前で待っていた使用人たちが恭しく出迎えた。
アメリアが馬車から降り立つと、玄関先にテオドールが駆け寄ってきた。彼はアメリアと同じフォレストグリーンの瞳を輝かせ「お帰りなさいませ、姉さま!」と元気よく声をかける。その姿に、アメリアは自然と微笑んだ。弟の無邪気な笑顔を見ると、どんな疲れも忘れられるような気がした。
「ただいま、テオ。」
アメリアはテオドールの頭を優しく撫で、彼の温もりを感じながら自分の家に戻ったことを実感した。
「姉さま、学院は楽しい?」
「毎日、色々なことが学べて楽しいわ。数学も応用まで詳しく教わることができるし、今しがた歴史も様々な解釈があることを知ったわ。」
「うそ!勉強なんて絶対楽しくないよ!」
テオは目を丸くして首を振った。
「テオが言うように確かに大変なこともあるわ。でも知らなかったことに出会えるのはとても新鮮で面白いわよ?」
「姉さまは、すごいなぁ。僕は絶対そんな風になれないよ……。ねぇねぇ、それよりエミリーは元気?」
「テオは相変わらず勉強のお話は苦手ね。あまりシドリー先生を困らせないようにね。もちろん、エミリーは元気よ。学院でも楽しそうにしてるわ。」
「そっかぁ、僕もエミリーに会いたいなぁ。」
「きっとまたそのうち遊びに来ると思うわ。楽しみにしててね。」
「うん!」
テオドールは満面の笑みを浮かべた。
アメリアとテオドールはそのままダイニングへ向かった。ダイニングの大きな窓の外には、夜の静けさが広がっている。薄暗くなった外の景色とは対照的に、室内はシャンデリアの柔らかな光に包まれていた。クリスタルの装飾が揺れるたびにきらめき、テーブルの上には揺れるキャンドルの炎が幻想的な陰影を作り出している。
食卓には季節の花がさりげなく飾られ、重厚な木製のテーブルには、銀のカトラリーと真っ白な食器が並べられ、夕食の始まりを静かに待っている。
ふたりが席に着くと、両親もやってきて、皆が席に着くと前菜のコーンポタージュスープが運ばれてきた。スープの優しい香りがダイニングいっぱいに広がり、口に含むとまろやかでクリーミーな味わいがした。
「ミー、学院での勉強はどうだい?成果はでているかい?」
「はい、お父様。学習範囲が広いので少し大変ですが、成績が落ちないよう努めております。」
父が穏やかに尋ねるとアメリアはわずかな緊張を隠して微笑んだ。
「君ならできるさ、期待しているよ。」
(期待に答えられるようにしないと……。)
続いて、鶏もも肉のコンフィがテーブルに運ばれた。ハーブの華やかな香りが立ち上り、ナイフを入れると肉汁がジュワッとあふれ出す。
母が見惚れるような所作で口を拭い、話しかける。
「そういえば、ウェストウッド家のハロルド様や、リッチモンド家のフィリップ様も同級生だと聞きましたわ。関わりはあるの?」
アメリアは、心の中でため息をついていた。母の期待はわかっているが、恋愛に対して、今は、まだ心が向かないのだ。
「ええ、同級生ですけれど、あまり接点はないです。」
「急ぐことはないけれど、デビュタントまでに良いご縁があればいいわね。それにしても、入学式でグレイフォードのご長男を見ましたけど、さすがに彼のような方を……というのは期待していないから安心してね。」
アメリアは、先ほど別れた彼のことを思い、苦笑いを浮かべた。
父は、少し目を丸くしながら言った。
「いやいや、アメリアは賢くて美しいのだから、全然高望みなんかじゃないさ。もっと高位の子息でも引けを取らないと思うよ。」
アメリアは、両親のやり取りを聞き複雑な心境だったが、それを振り払うように、目の前に運ばれたデザートに手を伸ばした。フルーツが添えられた鮮やかなタルトを一口頬張ると、甘酸っぱい味わいが口いっぱいに広がり、少し気持ちがすっきりとするのを感じた。
–
次の日、アメリアはエミリーと学院の食堂でランチをとっていた。窓から差し込む日差しがテーブルを明るく照らし、食堂内には生徒たちの楽しげな声が響いていた。高い天井にはシャンデリアが吊るされ、窓からは学院の広い庭が見渡せる。生徒たちはそれぞれの席で談笑しながら食事を楽しみ、給仕たちが忙しなく料理を運んでいる。アメリアとエミリーは特に明るく景色が良い窓際の席を選び、並んで座っている。
アメリアはテーブルの上の色とりどりの前菜の中からハーブのドレッシングがかかったサラダを選び、口に運んでいた。
「ねえ、ミー!昨日ルーカス様と一緒に帰ってるのを見たって噂があるんだけど、本当なの?!」
エミリーは嬉しそうに目を輝かせ、アメリアのほうに身を乗り出した。
アメリアは少し動揺し、フォークを置いた。食堂のざわめきが一瞬遠のくように感じる。
「あ、そんなことじゃないの。たまたま図書館でお会いして、ちょっと話しただけ。それで彼が親切に馬車まで送ってくれたのよ。」
視線を外しながら、窓の外に目を向けた。庭の花々が風に揺れて、優雅に踊っている。
「つまり、それって図書館デートってことじゃない?どうだったの?あんなに素敵なルーカス様だもの!ドキドキしなかった?」
エミリーは目を大きく開いてアメリアに迫る。
楽しげな声が響き渡り、周りの生徒たちが振り向く中、アメリアは戸惑いながらも答えた。
「エミリー!ちょっと静かに!デートなんかじゃないわ。本当に偶然お会いしたまでよ。あとはお互い特待生だから頑張ろう、って話しただけよ?」
「ふーん、そうなんだぁ。でも、てっきりミーとルーカス様が……!って期待しちゃったのにな!」
エミリーはアメリアの反応を見てにやりと笑みを浮かべた。
「でもでも、私のミーが取られちゃうのはイヤだよぅ!そんな簡単にお嫁には行かせないんだからっ!」
「もう、エミリーったら大げさなんだから。」
アメリアは苦笑いを浮かべ、エミリーの冗談交じりの反応に少し気まずさを感じていた。
その時、給仕がメインの魚料理を運んできた。白身魚のムニエルは香ばしいバターの香りをまとい、レモンのスライスが添えられている。ふわりと立ち上る香りが食欲をそそり、二人はその香りを楽しむように深く息を吸い込んだ。エミリーは嬉しそうにフォークを手に取り、一口食べると目を閉じて頷いた。
「うーん、やっぱり美味しいわね!」
アメリアも静かに料理を楽しみながら、「それよりエミリーはジャックとはどうなの?」と話題を変えた。その途端、エミリーの表情がぱっと明るくなり、ジャックの話や他の男の子の話を夢中で語り始めた。彼女の声はさらに明るさを増し、食堂の喧騒に紛れることなく響いていた。
「あのね、ジャックは相変わらず騎士団で大活躍してるのよ!鍛錬場にも何度か通っているけれどもいつも笑顔が爽やかでもう見てるだけでドキドキするわ。はぁー、あんな素敵な騎士様に窮地から守ってもらいたいわ!」
エミリーは、騎士団が毎週日曜日に行っている公開鍛錬にかかさず通いつめているらしい。鍛錬でのジャックの様子を語る彼女の表情はくるくると変わり、キラキラと輝いていた。
「でも、他にも気になる人がいて……選べないわ!この前もダズール先生のお手伝いで大きな教材を運んでいたら、フィリップ様がわざわざ声をかけてくれて……その時も心臓がバクバクしたの!」
「エミリーったら、もう!」
アメリアは少し呆れたように微笑んだ。
「でも、どんな相手でも、エミリーらしくいてね。」
「もちろんよ!安心して!私は私らしくときめきを追い求め続けるわ!!」
エミリーは笑い、また次の恋愛話に夢中になっていった。食堂のざわめきの中で、エミリーの明るい声がひときわ楽しげに響いていた。
その時、給仕がデザートを運んできた。エミリーの楽しげな様子から目をそらすと、アメリアは自分の前に置かれたガトーショコラが目に入った。チョコレートの深い香りが漂い、しっとりとしたケーキにフォークを入れると、甘さの奥にほろ苦さが広がった。そのほんの少しの苦みはアメリアのどこかもやもやした気持ちと重なるようであったが、彼女自身がその感情に気づくのはもう少し先のことだった。
次回更新は2024年9月21日予定です。