第27話
――昼休み。競技祭の準備に追われる日々の中で、校舎はいつもより騒がしかった。
アメリアは講堂の隅で、ひとり机に向かっていた。競技祭実行委員の資料に目を通しながら、昼食を取るタイミングをすっかり逃していたことにようやく気づく。お腹が小さく鳴ったのを聞いて、彼女はこめかみを押さえた。
(また、食べそびれちゃった……。)
その時、勢いよく開いた扉の音が響いた。
「ミーっ!ここにいたー!」
弾けるような声とともにエミリーがやって来た。ふわふわの明るいブロンドを揺らしながら、彼女は鼻息荒く両手を腰に当てて仁王立ちしていた。
「お昼ごはん、もう食べたの?まさか、また書類とお友達してたわけじゃないでしょうね?」
「……ちょっとだけね。あとで食べようと思ってたの。」
「ダメダメ!身体は資本よ!ということで、今日はミーをサボりに連れ出しに来ました!」
「えっ、サボりって……。」
「午後の授業じゃないわよ?夕方の"自主"練習を”自主的に”をサボるってこと!」
あまりに強引な言い分に、アメリアは思わず笑ってしまった。
「ふふっ、わかったわ。少しだけ、息抜きしようかしら。」
「よかった!じゃあ、ちょっと素敵なカフェを見つけたから一緒に行こうね……ってそれよりも、とにかくご飯、ご飯!ランチボックス頼んでおいたから一緒に中庭で食べよう?」
エミリーが手を引くと、アメリアは資料を整えて机に置き、少し頬を緩めながら立ち上がった。窓の外にはランチボックスを食べながら談笑する生徒がちらほら見えた。
(こんな風に気を抜けるのも、エミリーがいてくれるからなのかもしれないわ。)
アメリアはふっと口角をあげながら、元気に先を歩く親友の後を追った。
–
午後の陽射しが傾きはじめた頃、ふたりは学院から少し離れた街角のカフェにいた。石造りの建物に囲まれた小さな広場に面したテラス席は、陽に照らされた花々が咲き誇り、静かに風鈴のようなグラスの音が響く、穏やかな時間の流れる場所だった。
「このケーキ、季節限定なんだって!ね、ミーも食べよう?」
エミリーがウキウキとした声でアメリアに小さなプレートを差し出す。その上には淡いベリー色のムースと、ハーブを添えた白いチーズケーキが乗っていた。
「おいしそう……ありがとう、エミリー。」
アメリアはそっとフォークを取ると、目の前のスイーツに視線を落としながら、やわらかく笑った。
「ふふ、ミーがこんなに疲れてる顔してるの、初めて見たかも。最近、本当に頑張ってるよね。競技祭の準備もそうだけど……。それだけじゃない、でしょ?」
「え……?」
「わかるもん。ミーって、すごく真面目で、一人でいろんなことを抱えちゃうでしょ? でも、今のミーはちょっと違う。なんていうか、胸の中が、ふわふわ?ざわざわしてる感じ?」
エミリーがじっとこちらを見つめてくる。
「……何か、あったの?」
アメリアは小さく息をのんだ。フォークがケーキの上で止まる。
「……あった、のかもしれない。」
エミリーは何も言わずに、うんうんと頷く。
「ルーカス様とのことでしょ?」
その名前が出た瞬間、アメリアの指先が微かに震えた。
「それもあるけど、それだけじゃないの。」
「じゃあ……。アレク?」
その問いには、アメリアはすぐに答えなかった。けれど、ふと見上げた空の色に目を細めながら、小さく呟いた。
「自分でも、わからないの。どちらも優しくて、まっすぐで。とても素敵な2人だし、私なんかで釣り合うのかしらとか。家のこともあるし、どうしたら家族が幸せに思うんだろうとか。どうしたらいいのかなって。」
「うん、そうだよね。ミーは、誰に対してもちゃんと向き合おうとする人だから。だから、迷うんだろうなって思った。」
エミリーの声は優しかった。まるで、アメリアの心の揺らぎそのものを包み込むように。
「でもね、ミー。私は、ミーが“ミーでいられるほう”を選んでほしいなって思うの。誰かに気を遣い続けたり、背伸びし続けたりじゃなくて、自然でいられる相手。ミーが幸せにしたいって思える相手。そういう人と一緒にいたほうが、きっと幸せだよ?」
アメリアは、ゆっくりとエミリーの方を見た。
「ミーはね、すごく真面目だから、たぶん家のこととか、相手のこととか色んなことを尊重しすぎてわからなくなっちゃうんだよ。でもね、こと恋愛においては、きっと”誰も傷つかない”なんて選択肢はなかなかなくって、何かを選ぶと何かを選ばないことになるんだと思う。」
そこで一口紅茶を口にすると、エミリーはいつになく真剣なトーンで語り続けた。
「私はね、素敵だなぁと思った人にお相手がいると知って、すごーくショックで、それこそ、大好きなケーキが全く食べれなくなったこともあるんだけど。でもね。その人がお相手と一緒にいる時に本当に幸せな顔をしているのを見るとね、『あぁ、私はこのひとにこの顔をさせてあげられなかったなぁ』って思うの。だからね、私は自分にそんな表情を見せてくれて、そして自分もそんな表情を見せられる相手がいいなぁって思うんだよね。」
エミリーは、顔をあげてアメリアのほうに向き直った。
「だからね、ミーにもそんな風に幸せになってほしいんだよね。ミーがとっても”いい顔”でいられる相手と。それが私の願いかな。でもミーは家族のことも大事だと思うから、実際に相談するのもいいんじゃないかな?ミーのお父様ならきっと解決策をくれるよ。」
「ありがとう、エミリー。」
胸の奥がふんわりと暖かくなって絡まっていた何かが、少しだけほどけた気がした。
「……ふふっ、わたし、すっかりあなたに見透かされてるのね。」
「そりゃあ、親友ですから!」
ふたりは笑い合い、カフェのテラスに爽やかな笑い声が広がった。
–
カフェを出たあと、ふたりは並んで学院への帰路を歩いていた。街の石畳を照らす夕陽は、ほんのりと金色がかっていて、夏の終わりを感じさせる静けさがあった。
「それにしても、ほんとに久しぶりだったね、こんなふうにゆっくりお茶するの。」
エミリーが楽しげに言うと、アメリアも思わず笑ってしまう。
「そうね。でも、とてもいい時間だったわ。」
「でしょでしょ? たまにはミーにも息抜きしてほしいの。ねぇ?また私とも出かけてくれる?」
エミリーはあざとく上目遣いでアメリアを見つめる。
そんな姿を見て「もちろん」と思わずアメリアが笑うとエミリーもにっこりと笑った。
学院の門が見えてきた頃、エミリーはふと足を止めて言った。
「私、少し学院に寄るからミーはそのまま馬車で帰ってね。また明日! 」
「ええ、気をつけてね。ありがとう、エミリー。」
手を振る彼女の後ろ姿を見送ってから、アメリアはひとり馬車に乗った。馬車の窓から差し込む夕陽はどこか優しくて、胸の奥に残っていたモヤモヤを洗い流してくれるようだった。
(そうね。お父様と少し話してみようかしら。)
ふいに浮かんだその考えに、自分でも驚いた。でも、今日はそんな気分だった。
–
夕食の席には家族が揃っていたが、アメリアはどこか落ち着かない様子で、黙々と食事を口に運んでいた。
母の穏やかな声と、テオの楽しげな話が食卓を彩る中、父は何も言わずにそれを見守っていた。
食後、アメリアは父が書斎へ向かう後ろ姿を見つけて、ほんの少し躊躇ったのち、意を決して声をかけた。
「お父様、少しだけ。お話、できますか?」
振り返った父は、一瞬驚いたように目を開いたが優しく微笑んでそれから静かに頷いた。
–
書斎はいつものように整然としていて、柔らかなランプの灯りがどこか安心感を与えてくれる。
「何か悩んでいるのかい?」
深くは問い詰めず、ただアメリアの心に触れるような父の声だった。アメリアはゆっくりと椅子に腰を下ろし、言葉を選びながら答えた。
「迷っているんです。大切な選択を……。自分がどうすべきなのか、それがまだわからなくて。」
父はしばらく考えるように目を伏せ、そして一言ずつ、確かめるように口を開いた。
「アメリア、なぜ悩んでいるのかは考えたかい?」
そして、ランプの明かりの中で微笑むように言った。
「悩んでいる理由がわかっているのであれば、それを取り除けばよいだけだよ。僕に相談したということは家族も関係しているのかな?」
「そう……なりますね。」
アメリアは正直に言っていいものか言い淀んだ。そんな彼女を見て、父はアメリアの頭をぽんと撫でた。
「君が生まれてきた時、僕は本当に嬉しくてね。僕がこれまで努力をしてきたのは妻と出会うため。僕が生まれてきた意味は、君に会うためだったんだ、と思ったよ。」
父は目を細めて懐かしむように言った。
「僕はね、実は今、自分が死んでしまうことは怖くないんだ。日々、後悔のないように過ごしているからね。でもね、僕が死んだ後、何年後になるかはわからないけども、アメリアやテオが死んでしまうことは本当に悲しくて、怖くて、辛いんだ。それでも死は誰にでもやってくるんだけどね。」
「お父様……。」
「だからね、僕は、僕がいなくなった後にも、君のことを心から大切にしてくれる人と出会って、君自身が心から笑って泣いて、人生を謳歌してほしいと思っている。そしてね、あの世で会ったときにでも、僕が見れないであろうひ孫の話でも聞かせてほしいな、と思っているよ。」
父の言葉が胸の奥にストンと落ちてくる。
「家のことはどうにでもなるさ。幸いにもウチは領地なしだ。テオも順当に行けば文官になりそうだし、僕はならなくてもいいと思っている。いつまでも貴族が世の中を仕切っていくとは思えないしね。未来は誰にもわからないものさ。だからね、君は心から欲しいものを求めてくれて良い。僕の自慢の娘だ。絶対に素敵な選択をすると思う。そしてね、気づいたかな?君は、この相談をしてきている時点で、選びたいものが決まっているんだよ。じゃなきゃ、家のことを気にする必要はないからね。」
父は、いたずらが成功したかのように下手なウインクをした。
アメリアは涙ぐみながら、そんな父を見て、胸に手を当てる。
温かくて、でも少しだけ痛い――そんな気持ちが、彼女の中に確かに存在していた。
(私。もう、本当は気づいていたのかもしれない。)
どちらが正しいとか、どちらがふさわしいとか、そんな理屈じゃない。
ただ、誰の前でも自然体でいられて、いつの間にか心が惹かれていた相手――。
「ありがとう、お父様。」
アメリアは静かにそう言って、父の目を見た。
「私、ちゃんと向き合ってみます。自分の気持ちに。」
父はそれだけで十分だとばかりに、にっこりと微笑んだ。
「うん。君なら、きっと大丈夫だ。」
書斎のランプの灯りがゆらゆらと揺れる。
その光の中で、アメリアの心の中にも、ひとつの小さな答えが、やっと輪郭を持ち始めていた。




