第2話
第2話です。
入学式から一週間。あらかたのオリエンテーションが終わり、いよいよ授業が始まった。アメリアは少しでも目立たないよう、後ろから3列目の席を見つけて、周囲に溶け込むようにそっと座った。
ここなら目立たず集中して授業を受けられる――と安心したその時、突然、教室がざわめき始めた。長い髪をかきあげながら教室に入ってきたのはアレクシオ・フォルツィ。今日はギリギリ授業に間に合ったようである。
アメリアはせっかく選んだ目立たない席で静かにしていたが、アレクシオはそんなことにはお構いなしに歩み寄り「ここ、座るね。」と、返事も待たず、アメリアの右に腰を下ろした。
こうしてアレクシオが隣に座ったことで、目立たないための小さな努力は無駄に終わった。その上、追い打ちをかけるように「わかんないところはアメリアに教えてもらおうっと!」と、エミリーがしたり顔で左に座った。彼女が面白がっている様子に、アメリアはそっとため息をつき、肩をすくめた。
授業が始まり、教師が前方で方程式の解法を説明する中、アレクシオは小声で「これってどうやって解くの?」とアメリアに質問した。
アメリアはいきなり話しかけられたことに驚きつつも「まず変数をまとめて……」と続けた。
「なるほどね。でも、ここもちょっとわからないんだよね。」
アレクシオはさらりと次の問題を指差す。
「ここはまず分母を払って……」
このようなやりとりをその後も続けていたが、途中でふとアレクシオが、じっと自分を見つめていることに気がついた。
「なに?」
アメリアが不安げに尋ねると、アレクシオはにっこりと笑い返した。
「いや、君の説明、本当にわかりやすいなって。教えるの慣れてるよね?」
「慣れているかどうかはわからないけれど、弟に勉強を教えているわ。」
「なるほど、それはもう家庭教師だね」
アレクシオは冗談交じりに言ったが、その目はどこか楽しげに輝いていた。
アメリアはノートをとりつつ「そんな大したことじゃないけど……」と返した。そして、ふと顔をあげると、アレクシオがまだ自分を見つめていることに気がついた。その視線はどこかからかうような色を含み、アメリアの心をざわつかせた。
「――ねぇ、さっきから授業をちゃんと聞いてない気がするんだけど……本当に分からないの?」
アメリアが疑いの目を向けると、アレクシオは一瞬目を丸くしたが、すぐに笑みを戻した。その様子を見て、アメリアは彼が本当は授業内容を理解していることに気づき、冷めた目で彼を睨んだ。
アレクシオは、その様子さえも楽しんでおり、まるでいたずらが成功した子供のようだった。そんな彼に対して、アメリアは「やられた」と心の中で嘆息しつつ、少しだけ頬を膨らませた。
一方、エミリーはそんな二人のやり取りを興味津々に見つめており、目を輝かせながらにやにやしていた。
–
放課後、アメリアは第2図書館へと向かった。学院の奥まった場所にあり、人の気配もまばらなその図書館は、静けさが際立つ場所だった。ひんやりとした石畳の階段を上り、コツコツと靴底が鳴る。重厚な木製の扉を押し開けると、古びた蝶番がわずかに軋み、図書館の静寂に吸い込まれるように消えていく。
中に入ると、3階建ての書架が左右に整然と並び、中央の吹き抜けが開放的な空間を生み出している。吹き抜けには、自習する生徒のために古びた木製のテーブルと年代物のランプが置かれ、柔らかな光が周囲を包んでいる。吹き抜け横の大きな窓から差し込む木漏れ日は、足元のラグに淡い影を落としている。その静謐な空間は、アメリアにとって、日々の喧騒から解放される心地よい安らぎの場となっていた。
アメリアは静かな図書館の中で、机に広げた教科書に目を落としていた。ノートにペンを走らせ、授業でわからなかった箇所を一つずつ丁寧に復習している。その時、微かに足音が聞こえた。
顔を上げると、ルーカス・グレイフォードが静かに近づいてきていた。
木漏れ日が透き通るブロンドヘアに柔らかく反射し、光が彼の髪をまるで金糸のように輝かせている。
淡い空色の瞳は、ランプの柔らかな灯りを映し込み、静かな温かみを感じさせた。
彼の気品のある姿は、この静謐な図書館の空間に自然と溶け込み、まるで一枚の絵画のように馴染んでいる。
彼は、微笑みながらアメリアに話しかけた。
「特待生のアメリア・ラクロワさんだね?お会いするのは入学式以来かな。」
「はい、そうですね。グレイフォード様。」
「知られているとは、光栄だよ。僕もこの空間は静かでとても好きなんだ。」
ルーカスは穏やかな笑みを浮かべ、「ここ、座っても?」と問いかけた。アメリアは突然の申し出に少し戸惑ったが、返事をする前にルーカスは既に彼女の向かいの席に腰を下ろしていた。その姿に、アメリアは授業中にアレクシオが同じように隣に座った瞬間を思い出し、どこか既視感を覚えた。
ルーカスは目の前に広がるアメリアのノートに目を留め、「君のノート、すごく見やすいね。要点がきちんと整理されていて、効率的だ」と感心した様子で言った。
「ありがとうございます。自分なりに理解を深めたくて、ポイントを整理しているんです。」
「その方法、理にかなっているね。僕はどうしても一つひとつの出来事を深く掘り下げたくなって、気がつくとページが随分埋まってしまうんだ。考察を重ねるのが好きでね。」
「グレイフォード様は歴史がお好きなんですね。」
ルーカスは静かに頷いた。
「そうだね。歴史はただの事実の積み重ねではなく、その裏には無数の選択や偶然が絡んでいる。その連なりが今の僕たちにどう影響しているかを考えるのが面白いんだ。たとえばこの学院が存在していることも、過去の誰かの思いや行動の結果だと思うと、感慨深いように。」
「歴史は、暗記科目だとばかり思っていましたが、そのように見てみると面白いですね。少し視点が変わった気がします。」
ルーカスは満足そうに微笑んで、「そう言ってもらえて嬉しいよ。君と話すことで、僕も新しい視点を得ることができた。」と続けた。
彼の言葉にアメリアは少し照れながらも、思いの外ルーカスが親しみやすい相手であったことにほっとした。そして、初対面の相手とは思えないほど、自然に会話ができることに不思議な感覚を覚えた。
会話がひと段落すると、図書館の静かな空気が二人を包んでいた。窓の外を見ると、淡いオレンジ色の光が建物の影を長く引き、夕暮れが近づいていた。アメリアがカタカタと机の上を整理し始めると、ルーカスは窓の外に目を向けて言った。
「もう夕方だね。馬車まで送ろうか?」
「お気遣いなく、大丈夫ですよ。」
アメリアは、過度な気遣いをされるのは苦手だ。そして何よりもルーカスはその容姿のせいかとても目立つ。しかし、せっかくの申し出を無下にするのも心苦しい。
ルーカスは少し困ったように微笑んで、「そう言わずに。せっかく楽しく勉強の話ができる友人ができたんだ。お礼にエスコートさせてくれないかな?」と続けた。
アメリアは一瞬考えた後、「では……お願いします」と控えめに頷いた。
彼の優しい提案に、断る理由が見つからなかった。それに、もう少しルーカスと話をしてみたいと思う自分にも気づいていた。
二人は並んで図書館を出て、学院の夕暮れの道をゆっくりと歩いていった。空には茜色が広がり、夕日が静かに沈んでいく。
学院の広い中庭を通り抜けると、鳥たちの声がどこか遠くから聞こえてきた。アメリアはルーカスの横顔をちらりと見たが、彼は変わらず穏やかな表情を浮かべていた。
歩きながら、ルーカスは学院での生活についてや、家族のことについても少し話してくれた。アメリアも、自分の家族や弟のことを話すと、ルーカスは興味深そうに耳を傾けている。
「彼は勉強を教えてもらえて幸せだろうね。きっと優しくて頼りになる姉なんだろうな。」
ルーカスがそう言うと、アメリアは少し恥ずかしそうに笑った。
「そんなことはないですよ。弟にはいつも振り回されていますから。」
「それも兄弟ならではの関係だね。僕も妹がいるけれど、彼女には時々手を焼かされるよ。」
そんなやりとりをしているうちに学院の門にたどり着いた。
門のすぐ横に止まっていたラクロワ家の馬車の前に到着すると、ルーカスは馬車の扉を開けてアメリアを見送った。
「今日はありがとう。またぜひ話そう。」
「こちらこそ、お付き合いいただいてありがとうございました。」
アメリアは馬車に乗り込んだ。馬車が静かに動き出し、アメリアは窓から彼に控えめに手を振った。
心が少し温かくなっているのを感じながら、アメリアは学院の景色が遠ざかるのを静かに見つめていた。
次回更新は2024年9月17日予定です。