第15話(ルーカス視点)
夜の帳が下りた頃、ルーカスは静かに自室の窓から庭園を見下ろしていた。月明かりが穏やかにバラの茂みを照らし、白く輝く花びらが風にそよぐ。昼間に訪れたガゼボの光景が頭をよぎる。
バラの香りが漂う中、アメリアと共に過ごした時間。だが、その優雅なひとときが、今、彼の心を曇らせていた。
(アメリア……。)
彼女の姿を思い出すと、胸がチクリと痛んだ。
アメリアは今日、一緒に過ごした時間を楽しんでくれただろうか。自身の言葉に笑顔で応じ、優雅に紅茶を口に運ぶ彼女の姿は、正に完璧なレディであった。だが、ふと見せる表情に「何か不安や迷いが隠されていたのではないか――」そんな気がしていた。
ルーカスは、部屋の中央に置かれたソファにゆっくりと腰を下ろした。胸の中で、言葉にならない感情が渦巻いている。アメリアとの会話――特にガゼボでのひとときを彼は何度も繰り返し思い出していた。
バラの香りや花の美しさ、彼女の丁寧な所作、そして一瞬見せたぎこちない笑みが思い返されるたびに、何かが胸に重くのしかかった。
(失敗したかもしれない。)
その時、ふと自分自身の言動に疑問を抱いた。
彼は常に「グレイフォード家の跡継ぎ」としての自分を意識してきた。家族の名誉を守り、貴族としての責任を果たすために、多くの知識や礼儀を身につけ、それを活かしてきた。今日のデートでも、彼はその役割を全うし、完璧にエスコートしようとした。アメリアに知識を披露し、彼女に尊敬の念を抱いてもらえるように努力したつもりだった。
だが、それは本当に正しかったのか。
(アメリアが僕に求めていたのは、そんな話ではなかったのかもしれない。)
彼女の優しい微笑みの奥に隠された気持ちを思い返すたびに、後悔の念に駆られた。
彼女はバラの美しさについて語った時、まるでその一つ一つの蕾に込められた前の家主の想いを感じ取るように、丁寧に花を慈しんでいた。彼女の目は、ただの装飾品や富の象徴としてではなく、そこに息づく命そのものを見つめていた。
(あの時、僕は何と言ったんだ?)
ルーカスは自分に問いかける。彼女がバラの話をした時、自分はどう答えただろうか。確か、バラの美しさを褒め、グレイフォード家の責任と誇りについて語ったはずだ。それが、彼女にとってどんな意味を持つのかを深く考えることなく、自分の知識と誇りを見せつけることに夢中だった。
彼女が心から求めていたのは、もっと別のものだったのかもしれない――そんな思いが、彼の胸を締め付けた。
(おそらく……彼女の心に寄り添えなかったのだろうな。)
その事実が、ルーカスの胸に重くのしかかった。手元に視線を落とすと関節が白くなるほど拳を握りしめている。ルーカスはため息をついて拳をそっと開いた。
彼は、自分の事ばかり考え、アメリアが何を感じ、何を考えていたのかを十分に理解しようとしなかったと自身を顧みた。彼女の繊細な感受性や、他者への思いやりにもっと目を向けるべきだったのかもしれないと、今さらながらに反省した。
(アメリアは、繊細で、誰かのために何かをしたいと願っている人だ。)
ルーカスは、自宅に帰ってからようやくそのことに気づいた。アメリアが語った前の家主の想い、バラの花を我が子のように大切に育てていたのでは?という話。彼女はその気持ちに深く共感し、ただ美しいものを愛でるのではなく、そこに込められた思いに心を寄せていた。
彼女のその姿に、ルーカスは胸を打たれた。思い返せば、彼女の言葉には常に誰かのためにという想いがあった。アメリアの真摯さと優しさは、ルーカスの心に響いていたのだ。誰に対しても誠実であり、決して自分だけのことを考えないその姿勢に、ルーカスは何度も心を奪われていた。
そして、図書館の木漏れ日の中、背筋をぴんと伸ばして集中してノートをとる姿や、こちらの反応を見て苦手な冗談でルーカスを和ませようとする姿、ルーカスの色をしたドレスを恥ずかしそうに身に纏った儚げな姿――こういったアメリアの様々な姿を見て育っていた彼の感情は、彼女がバラを慈しんでいる姿によってはっきりと形を持ったのだ。
(僕は……)
ルーカスは、自分の感情が何なのかをようやく理解した。彼はアメリアに対して、ただの好意ではない特別な感情を抱いていた。彼女の優しさ、純粋さ、そして他者を思いやる心に触れ、彼の中でそれまで感じたことのない感情が芽生えていたのだ。
(――僕は、そうか。彼女に惹かれているのか。)
だが、今更気付いても遅かったのだ。彼女がバラの話をしている間、彼は自分の知識と誇りを語り、貴族としての責任について話すことで、彼女に自分をよく見せようとしていた。しかし、彼女が求めていたのは、そんな話ではなく、もっと心に寄り添う言葉――彼女への共感と彼女の話に向き合うことだったのだ。
(そうか……。さて、これからどうしようか……。)
ルーカスは深く息を吐き出し、ソファの背もたれに体を預けた。彼女に対してもっと素直に、感情を込めて自分の心を開くべきだったことは理解できたが、グレイフォード家に恥じぬよう常に冷静であれと育てられた自分には、どうして良いものかいまいちわからない。
そうして途方に暮れていると、ふと、アレクシオ・フォルツィやエミリー・バートンと話している彼女の姿が頭をよぎった。学院で彼女が見せる無邪気な笑顔、特にアレクシオと軽口を叩き合う姿――その光景を思い出すと、胸が締め付けられるような感覚が彼を襲った。
(フォルツィ商会の嫡男か……。)
アメリアは、アレクシオと話している時、落ち着いた印象の彼女にはめずらしく表情をくるくると変える。それはとてもリラックスしている様子で、その時の彼女は、心の底から楽しそうなのだ。
だが、今日見た彼女の笑顔はどうだっただろうか。そこには、どこかぎこちなさがあったのではないだろうか。彼女が無理をしていたのではないかという疑念が確信を持って、彼の胸に深く突き刺さっていた。
(僕は……彼女の前では「グレイフォード家の跡継ぎ」でしかなかったんだな。)
その現実が、彼の自信を揺るがせた。ルーカスはこれまで、多くの令嬢たちと関わる中で、特に何を意識するでもなく相手から好意を寄せてもらってきた。そして、その好意を向けられることについて、疑問に思ったことはあまりなかった。それはグレイフォード家という家柄だけでなく、容姿もそれなりに優れていて、それに見合う貴族としての責任を負い、努力もそれなりにしてきたつもりであるからである。
だが、アメリアは違った。彼女はルーカスに対して、他の令嬢たちのように媚びることも、過剰に尊敬の念を示すこともなかった。それどころか、最初はあまり関わらないで欲しいようだった。しかし、言葉を重ねていくうちに心を少しずつ開いてくれた。そのような彼女がルーカスにとっては新鮮に感じたのだ。
そして、この自由恋愛の風潮の中で、その条件の良さからよりどりみどりであるにも関わらず、アメリアは特定の男子生徒と距離が近いこともなく、貞淑な印象があった。グイグイと迫ってくる令嬢が多い中、そうした雰囲気もルーカスにとってはとても魅力的であったのだ。
ただ、この前の校外学習でも見かけたとおり、アレクシオとは徐々に距離が近づいていることにもルーカスは気づいていた。
(もし、彼女がフォルツィを選んだら?)
その考えが頭をよぎると、ルーカスの胸はより一層締め付けられた。アレクシオの目に映る前に、アメリアを拐って第2図書館に閉じ込めてしまいたい気持ちに駆られた。
(嫉妬なんて、笑えないな。アメリア――僕にもまだ挽回のチャンスはあるだろうか。)
ルーカスは、左手で顔を覆い、盛大なため息をつきながら、心の中でアメリアに問いかけた。彼女に対してどう接すればいいのかが分からない。これまでの自分のやり方が間違っていたのなら、どうすれば彼女の心に届くのか――その答えが見つからないまま、彼は窓の外に目を向け、静かに夜空を見つめ続けた。
夜はますます深まり、静寂がルーカスを包み込んでいく。だが、彼の心の中では、アメリアに対する想いと、それにどう向き合えばいいのか分からない葛藤が、未だに渦巻き続けていた。
次回更新は2024年11月2日予定です。




