俺が白衣を羽織るまで
「…うわ、あれ絶対やばいだろ」
俺は立花卓。私立○○高校に通う、ごく普通の高校二年生で、これからもごく普通に、無難に暮らしていく予定…だったのだが。
俺は今、人生一六年と少しの中で、最も判断力が試される状況にある━━━━━━━━━━━━━━
蝉の声が鳴り響く夏の朝。七月といえど、気温は真夏日のそれだ。
「ふざけんなよ、温暖化…」
俺はそう悪態をつきながら、今日も普通に家を出る。
自転車を走らせて、約三キロ先の学校をめざす。ちょっと遠いが、自転車は嫌いじゃないから、苦痛ではない。
そしてその道中で、俺は「そいつ」を見つけた。
いつもほぼ確実に止まる、カードショップ前の信号。そのカードショップは、一か月くらい前に店を閉めて、もうほとんど倉庫のようなものだった。
その倉庫の前に、倒れた自転車と、女の子の影があった。
よく目を凝らして見ると、そいつは左腕にグロテスクな赤と青のグラデーションを大きく作り、その腕を抱えるようにして蹲って泣いていた。
「…うわ、あれ絶対やばいだろ」
しかし、彼女に手を差し伸べようとする人はいない。明らかに目を向けているのに、無視している人もいた。
「…クソッ」
別に、俺が行かなくても、いつか誰かが助ける。それは分かっていた。でも、なぜか俺が行かなきゃならないと思った。
「おい、大丈夫か?」
俺が声をかけると、そいつは泣きっ面をこっちに向けながら、口をパクパクさせた。
「これは大丈夫じゃねぇな…しょうがねぇ」
俺は慣れた手つきでスマホのロックを解除して、
「お前の母親と救急車を呼ぶ。母親の電話番号、わかるか?」
そう言うと、そいつはか細い声で、一一桁の番号を言った。言う通りの番号で電話をかけると、俺のスマホは中年の女性らしき声で鳴いた。
「…あの、どちら様で…」
「○○高校の生徒です。あなたの娘さん…えっと、お前、名前は?」
隣のそいつに聞いた。
「…凪…」
「凪さん…が、△△通り沿いのカードショップの前で、多分、事故で骨が折れて、動けない状態です。救急車を呼びますから、同伴者として来て欲しいんです。」
「本当ですか!?すぐに行きます!カードショップの前ですね!?」
「はい、そうです。よろしくお願いします」
と言って通話を切った。次は救急車だ。三桁の番号をおして、電話をかけると、今度は若そうな男性の声でスマホが鳴いた。
「はい、こちら一一九番です。救急ですか、消防ですか」
「救急です。女の子が一人、事故で骨折しているっぽいので、△△通り沿いのカードショップまでお願いします」
「はい、ではあなたの名前と職業を教えてください」
「○○高校の生徒の、立花卓です」
「次に、患者の年齢は分かりますか?」
「詳しくはわかりませんが、高校生です」
「分かりました。救急車を向かわせていますので、わかりやすいところに立っていてください」
「分かりました」
一度同じような事で救急車を呼んだことがあったから、焦りとかはあんまりなかった。でもやっぱり、救急車を呼ぶのは緊張する。
「腕動かせないだろ?とりあえず仰向けに寝転んで」
そう言って俺は、カバンを枕にしてそいつ…凪を寝かせた。すると、そいつの口から、蚊の鳴くような声がした。
「…あり…がと…」
「あ…あぁ、もういいから、あんま喋んな」
それどころではないはずなのに、少し、ほんの少しだけ、「かわいいな」と思ってしまった。
しばらくすると、凪の母と救急車が、ほぼ同時に到着した。凪の家は、ここから結構近いのだろうか。
「じゃあ、よろしくお願いします」
そう言って俺は背を向けたが、その背中に向かって、
「あの、よろしければ、後でお礼がしたいから、電話番号を教えて貰ってもいいかしら…?」
声の主は凪の母だった。しかし、早く学校に行かないといけないし、ちょっと照れくさいのもあって、
「いえ、気にしないでください。じゃあ、急ぐんで」
そう微笑んで、俺はまた自転車を走らせる。
「これは、間に合わねぇな…」
人生初の遅刻になりそうだ。
「失礼します、遅刻届を書きに来ました」
案の定、俺は学校に遅刻した。今まで皆勤賞だったのに…
「あら、おはよう立花くん。君が遅刻なんて珍しいね…なにかあった?」
「あぁ、えっと…ね、寝坊です」
「あらー、気をつけなさいね?」
「は、はい…はは…」
なぜあの時寝坊と嘘をついたのか、それは俺にも分からない。人助けをしたと言えば遅刻を見逃してくれたかもしれないのに。
それから昼まで、俺は日常に戻ってごく普通に生活した。
俺は四限が終わり、数少ない友人の信也と一緒に、昼飯を食べる準備をしていた。
「でさー、その時からその子のことが気になって気になって…」
「おーそうかそうか、それはよかったな」
「…お前そんなだから友達も女も出来ないんじゃねぇの?」
「うるせぇな、ほっとけよ。だいたいお前は…」
しょうもない話題で会話に花を咲かせていると、教室の前方から耳を突くようなチャイムの音。その音が終わると、朝礼でしか聞かないような、恐らく教頭の声がした。
「二年B組、立花卓くん、至急職員室まで来なさい。繰り返します…」
「…え、今俺呼ばれた?」
「お前何しでかしたんだよ…ドンマイ」
「いや、俺なんもしてねぇし…まぁとりあえず行ってくるわ」
「あーい」
正直全く身に覚えがなかった。悪いことはしてないし、ましてや犯罪なんて記憶のどこを探っても出てこないだろう。じゃあなんで…
「失礼します。二のBの立花です…呼ばれてきました」
「あ、君!」
目に飛び込んできたのは、朝少し手を差し伸べた女の子の、母親だった。
「あ、今朝の」
このとき、多分俺は相当嫌そうな顔をしていたと思う。だって、後々こういうことになるのを恐れて、電話番号も名前も言わなかったのに…
「あの、今朝はありがとうございました!娘は骨折しているそうで、二、三ヶ月で完治するとの事でした」
「あ、あぁ、そうなんですか。それはよかったです」
「それで、何とか君にお礼がしたくて、気がついた凪に聞いてみたら、思った通りあの子色んなこと覚えてて…」
「え?凄いですね…直接自己紹介とかはしてないと思うんですけど…」
思い返すと、一一九番に電話した時に名前と学校は言ったし、俺の自転車には、学校指定のステッカーが貼ってあり、そこにクラスは分かりやすく書いてあったが…そんなこと普通覚えてるものか?
「あ、そうだ、凪は県営の病院で入院しているんです。あなたと一度会って話がしたいと言っていたので、今日の放課後に来てくださるとありがたいです。では、今日は本当にありがとうございました!では」
「あぁ、はい、お気をつけて…」
なんだか自分だけで全部解決して帰っていってしまった。まぁいいけど。
「…へぇ〜?」
「…げっ」
そうだ、朝、俺は遅刻の理由は寝坊だと嘘をついた。叱られるのだろうか…
「いいとこあるじゃない、立花くん!なかなか学校までお礼言いに来るなんてないよ!」
「え?あぁ、はい…」
良かった、叱られるかと思ったが、そうではなかった。先生はまるで我が子が賞を取ったかのように、俺のことを褒めた。そしてその褒め言葉は、帰りのホームルームでも言われた。もちろんクラス全員の前で。
「おい、お前マジかよ!すげぇな、ヒーローじゃん!」
振り返って信也が言った。こういう雰囲気も嫌いだ。
「うるせぇよ、前向け」
ホームルームが終わり、信也と喋りながら帰る用意をして、正門を出る頃に思い出した。
「あ…わりぃ、信也、俺ちょっと寄るとこあるから」
「あ、そうなの?おっけーじゃあな」
「おう」
凪が入院しているという県病院は、学校からはさほど遠くなかった。ものの五分くらいで到着した。すると、数時間前に見たのと同じ顔の女性が呼んでいるのが見えた。
「あ、君君〜!こっち〜!」
凪の母親に連れられて、俺は凪の病室に行った。病室に着いた途端、凪の母親は、「あとは若いおふたりで」とかなんとか言って、どこかへ行ってしまった。初対面なんだが。
「し、失礼しま〜す…」
恐る恐るカーテンを開けると、そこにはギプスを巻いた、今朝の女の子がいた。
「あぁ!君だぁそうだよ!えーと…」
「立花卓です」
「あぁそうそう、立花くんね。来てくれたんだ」
「まぁ、呼ばれたので。元気そうですね。よかったです」
「あぁ、敬語いらないよ。私ら同い年だし」
とはいえ、俺はあまり女子と話すことがないから、自然と敬語が出てしまう。
「それはそうと、なんで俺を呼んだんですか?話がしたいと聞いてますけど」
「はは、抜けないねぇ敬語。まぁいいけど。その件に関しては、深い理由はないよ」
「…はい?」
正直、少しだけムッとした。人の大事な自由時間を…
「友達になりたいってだけだよ。君はいい子だって、私の本能が言ってたから」
「なんですかそれ」
「あー!今ちょっとバカにしたでしょ」
「イエソンナコトハ」
「棒読みなんですけど」
口に手を当てて笑うその姿は、夕焼けに照らされて、いっそう綺麗に見えたような気がした。
それからは、放課後たまに病室に顔を出すようにした。行っては他愛もない話をして、バカみたいに笑いあった。それだけで、結構楽しかった。
あれから約三ヶ月が過ぎ、凪は無事退院した。退院の日は休みだったから、祝ってやろうと病院に行った。
「あ、立花くん」
「よぉ、佐藤。退院おめでとう」
「ありがと〜、来てくれたんだ」
「ま、まぁ、暇だしな」
「あ、そうだ」
なにか思いついたように、凪は彼女の母親の所に走って行った。
「…ね?いいでしょ?」
「あら、いいじゃない。いってらっしゃいな」
「ありがとう!」
一番大事そうなところが聞こえなかった。なんだったのだろう?考えていると、凪がまたこちらへパタパタと走ってきた
「立花くん!ご飯いこ!」
突然の凪の誘いに、少し戸惑った。
「め、飯?なんで急に」
「いいでしょ、退院祝いってことで」
「まぁ構わないが…」
俺は暇だし、暇じゃなくても、多分この誘いには乗っていただろう。
「じゃあ決まり!さ、行こ!」
時刻はちょうど昼時なので、近くのファミレスで食事をすることにした。女子と二人でご飯なんて、最初で最後かもしれない。
「準備いいか?」
「おっけーだよ!」
自転車の荷台に凪を乗せて、俺は自転車を走らせる。これほど大きな荷物を載せたことは、今まで無かった。
ほんの三分程で目的地に着いた。ちょっと惜しいような、でもお腹すいてるしいいか、みたいな。
「ありがとね〜」
「まぁ、構わねぇよ」
「入ろっか」
「おう」
席につき、メニューを見て、注文してから、ドリンクバーを取りに行った。お互いに落ち着いてから、凪はこう切り出した。
「立花くんさ、最近やっと敬語抜けたよね」
「慣れるとな。普段も友達とかに敬語は使わねぇよ」
「今思うと数週間前の立花くん、かわいかったねぇ」
凪はちょっと意地悪そうな顔をして、上目遣いで俺を見る。うん、かわいい。凪が。
「う、うるせぇよ。それよりさ、お前、どこの高校なの?」
ずっと気になっていた。もしかしたら通学路同じかもとか、家近いのかもとか。
「あ、言ってなかったね。××高校だよ。県立の」
「…え、まじ?」
××高校といえば、ここ周辺では結構偏差値的には高いところだ。こいつ、記憶力がいいのは話から分かったけど、もしかして普通に学力高いのか…?
「まじだよ〜。私こう見えて結構勉強はできるんだから!」
「へぇ、意外だったな」
「どういうことよ」
頬をふくらませる凪の前に、料理が運ばれてきた。同時に俺のも。
「ま、まあまあ、とりあえず、食おうぜ?」
「流された〜…けど、お腹すいてるから食べよ」
それから雑談しながら凪と食べたミートスパは、少し甘めで、酸味が控えめだった気がする。
「一〇月ともなると、さすがに涼しくなってきたな」
独り言を呟きながら、俺は今日も普通に家を出る。いつもの道を通って、いつもの信号に引っかかった。そして、ある信号で止まった時、横で自転車が急停車しながら、耳障りな声で鳴いた。そして今度は、俺が一番聞きたい声で、
「よっ、奇遇だねぇ、立花くん」
といった。そっちに目を向けると、自転車に乗った凪の姿があった。
「な…佐藤、もう自転車も大丈夫なのか?」
「まぁ、退院してからまるまる二ヶ月くらい経ってるからね、少しずつ慣らしていく意味でも」
信号が青になった。自転車を走らせる。
「たしかお前××高校だよな?そっか、なら通学路一緒かもな」
俺の高校は、凪の高校から、もう少し行ったところにある。ほとんど通学路が同じだからか、××高校の生徒は、通学中よく見る。
「あ、そうそう」
なんだか凪が変な切り出し方をした。
「立花くんさ、勉強苦手でしょ」
「うっ…」
言い訳のしようがない事実だった。定期考査では毎回中の下、模擬試験とかでは偏差値五二という、とても頭がいいとは言えない成績だった。しかし、何故それを凪が知っている…?
「なんでそんなこと分かるんだよ」
「ん?まぁさっきまで勘だったんだけど、立花くんの反応見て確信したよね」
「カマかけたのか…」
「ごめんごめん(笑)あぁ、でも、バカにしようっていうんじゃなくてさ」
成績悪いやつの成績探るのって、バカにする時か、一緒に勉強する時くらいだと思っていたんだが。
「今度、一緒にお勉強しない?…あぁ、もちろん、二人で…ね?」
「…へ?」
本当にこいつは急に誘って俺を戸惑わせる。予想外の誘いと、隣の子の照れ顔のあまりのかわいさに、つい、変な声が出てしまった。
「や、だからさ、私、お勉強しかできることないし、でも、立花くんには恩返ししたいし…」
あぁ、なんっていい子なんだろう…この子。俺は思わず天を仰いだ。
「そんなこと、今更どうだっていいよ。佐藤が無事に退院出来たんだから、俺はそれだけでいい」
「…そういうとこなんだよなぁ」
「…え?なんて?ごめん、聞こえなかった」
なにしろ自転車を漕ぎながら話しているから、風の音に邪魔されて聞こえづらい。
「まぁいいや、そういうことだから、今週の土曜、駅前のカフェね!」
「あ、おいおい、時間とかどうすんだよ」
なんだか全てを凪の一存で決められた気がするが、俺は基本暇人だから、そこはいい。けど、細かい予定を決めておかないと、気が済まない。
「あ、じゃあ、えーと…もうちょっと先にコンビニあるでしょ?あそこで停まって」
「はいはい」
こいつは恩返しする相手をどれだけ振り回せば気が済むんだろう。そんなことを思いながら、俺は言う通りにコンビニに停まった。素数が二つならんだような名前をしたコンビニだった。
「スマホ出して!連絡先あげるから」
「お、おう…」
凪は俺のスマホを受け取ると、自分のも手に持って、その二つを振り出した。「ふるふる」ってやつか。
「…はい、できた!これでいつでも連絡できるね」
「おう…」
朝から凪のテンションに振り回されて結構疲れた。まぁ幸せだったが。昼までの授業を終え、いつも通り、信也と飯を食う。しかし、今日はなんだか信也の方が様子がおかしい。
「…おい…卓…」
「な、なんだよ…」
覚えはないが、なんか怒られてる。どんなお叱りを受けるのかと生唾を飲んだ。
「お前!今朝女の子と登校してただろ!!」
「…はぁ…」
心の底からため息が出たのは初めてだった。
「なんだ『はぁ…』って!これは重大な問題だぞ、卓!今まで女っ気の欠片もないような生活してきたはずの卓が、今朝通学路で見たら、女の子と並走してんじゃん!結構かわいかったし!それにお前…」
「あぁもうはいはい、ストップだ、信也。もうわかったから。とりあえず誤解を解こう」
まずは凪と俺がそういう関係でないことを説明し、次に凪は俺が助けた女の子だったことを明かした。仲良くなった経緯も話し、その上で、今朝会ったのは偶然だったことも説明した。
「…ということだ。たしかに女の子といたが、そういう関係じゃない」
「いや、もうお前それ一歩手前じゃん」
「…は?」
信也が急に、誰もが嫌うあの黒い虫を見るかのような目で見てきた。
「なんだよ、一歩手前って」
「お前まじで!?もうその鈍感さと純粋さは国宝級だな!」
「ん?何か知らんが褒められたか?」
「褒めてねぇよ!これっぽっちも!」
結局意味がわからないまま、その日が終わり、そんな感じのコピーペーストのような日々は、あっという間に過ぎて、週末になった。
集合場所に一〇分早く着いてから、俺は一人でこんなことを思った。
「これ、デートってやつじゃ…」
そう、男女が待ち合わせて、ある目的を持って二人で行動する。これはすなわち…
「…デートじゃね?」
「…そうかもねぇ」
「うわああ!」
背後から近づいてきていた凪の気配を全く感じなかった。こいつ何者…
「何身構えてんの?驚きすぎでしょ」
相変わらず、凪は意地悪そうに笑う。
「う、うるせぇよ!ほら、行くぞ!」
「…うん」
俺たちは予定通り、駅前のカフェに入った。
緑色の背景に人形か何かのロゴが有名なカフェだ。
どうやら新作が出ているらしく、まあまあ人が並んでいた。俺たちも同じように並んでいると、
「メニューをどうぞ〜」
と、店員がメニュー表を渡しに来た。
「ほら、メニュー。決めとけよ」
「あ、大丈夫、私新作頼むから」
「ふーん、じゃあ俺もそれにしよ。お前席とっといてくれ」
「え?でも、まだ注文してないし」
「俺が聞いた」
「いやでも、お金…」
「任せろ」
…こういうことがしてみたかったんだよ!カッコつけてみたかったんだ!スルーしてくれ!
そう心の中で凪に懇願した。
「…そっか、じゃあお言葉に甘えちゃおうかな」
「おう。その代わり席はよろしくな」
「わかってるよ〜」
ありがとう、凪。俺の茶番に付き合ってくれて。
「次のお客様〜」
「あ、はい!」
俺は二人分の飲み物を注文し、受け取り口で受け取ってから、凪が待つ席へ向かった。
「ほんとごめんね〜。ありがと!」
「まぁ、俺バイトしてるけど、趣味とかに金使わないから結構余ってんだよ。だから気にすんな」
まぁ本当は、今月でかい出費があって、あんまり使えないんだけど。これから先を我慢すればいい話だ。
「じゃあ、始めよっか。まず、苦手な教科とかある?」
「うーん、数学かな。二次関数とか、あんましわかってねぇ」
「あぁ、わかる。ややこしいよね、あれ」
それから一時間ちょっとくらい、凪に教えてもらいながら問題を解いていった。とても身になる一時間だったと思う。
「そろそろやめてもいい?私ちょっと疲れちゃった」
「あぁ、そうだな、俺も結構疲れた」
ちょっと項垂れてから、凪がこう言った。
「ねえねえ、これからちょっと、買い物付き合ってよ」
「買い物?何の?」
「いや、目的があるわけじゃないんだけど、ちょっとね」
どういうことだ?なんのために?…とか、そういう質問は、今はしてはいけないと思った。
「わかった。じゃあ早速行くか」
「うん、ありがと!」
「あ、でもさ、もう昼」
「あぁ、ほんとだね。どこ行こうか」
とりあえず、ぱっと済ませられるようにということで、ファストフード店に入った。赤地に黄色で「M」と書いてある。
二人で別に並び、注文、受け取りをしてから席に着いた。
「立花くんさ」
凪がこう切り出したのは、席について、サイドメニューに手を付け出した頃だった。
「立花くん、私が事故ってた時、めっちゃスムーズに救急車呼んだりしてたよね」
「あぁ、前に父親がぶっ倒れてな、その時に聞かれたことを何となく覚えてたから」
俺の父親はアルコール中毒で倒れた。一命をとりとめ、なんとか社会復帰を果たしたが、まだ油断はできない。
「そうなんだ」
「どうしたんだよ?」
「いや…その…」
「気になるじゃん、早く言えって」
「かっ、こよかった、って、それだけ!はい!ご飯食べよ!」
俺はなんとなく、今の自分の顔が恥ずかしいことになってるのを、体感温度で察知し、顔を伏せながら、
「お、おう!そうだな!早く買い物行こうぜ!」
そう言って、頑張って顔を見られないようにした。
その日は夕方くらいまでショッピングを楽しみ、お互い帰路に着いた。
「今日はありがと、立花くん!」
「おう、俺も勉強教えて貰えて、ためになったよ。ありがとな、佐藤」
俺がそう言うと、凪は何故か顔を伏せて言い出した
「あ、あのさ」
「ん?どうした?」
「あの、またこうやって、一緒にお勉強して、一緒に遊びたいって言ったら…わがまま…かな…」
一気に心臓の音がうるさくなった。周りのガヤガヤした音も、電車の遮断機の音だって、聞こえないくらいに。
まるで、凪と俺だけの空間になったみたいに。
「…やっぱ、だめ…?」
自信なさげに聞く凪を、どうしようとしたのかは分からないけど、俺は無意識に、凪の頭を撫でていた。
「だめなわけないだろ?また勉強教えてくれ。そんで、また一緒に遊ぼう。な?」
すると、凪は顔を上げて、
「…うん!これからも、よろしくね!」
そう、満面の笑みで答えた。
凪の後ろで、夕焼けが始まる頃だった。
俺たちはそれから、よく二人で遊ぶようになった。俺は勉強を教えて貰いに、凪は、俺に荷物持ちを任せるなど、お互い支え合っていた。そんな、ある日。
「立花くんさ、ぶっちゃけ、彼女とかいるの?」
いつものように意地悪そうに聞く凪は、少しいつもより笑っていなかった。
「はぁ?いるわけねぇだろ。もしいたら、こんなにお前に付き合ってねぇよ」
「うわ、薄情なやつ。彼女が出来たら私なんてポイなんだ」
「そんなこと言ってな…」
驚いた、びっくりしたっていうのが率直な感想だった。だって、凪が、今まで見た事のないくらい、
綺麗に見えたから
「そっか、いないんだ、彼女」
あまりに嬉しそうに笑う、綺麗すぎる彼女に、戸惑いを隠せない
「お、おう…それがどうしたんだよ…」
「…察してくれないの…?」
正直、俺の中では八〇パーセントくらい、答えは決まっていた。
でもやっぱり、一歩踏み出せない。勇気がない。怖い。
「ねぇ、立花くん…」
いつも一緒に来ていた、ショッピングモールの屋上。綺麗な夜景が広がっている。
怖いなんて、言ってられない。
勇気がないなんて、俺の事情は関係ない。
俺は一人の男として、一人の女の子の想いを、間違えても踏みにじる訳にはいかない。
「佐藤、あのさ」
「…はい」
「俺は、お前のことが、初めて会ったあの日からずっと…」
━━━━━ずっと、好きだった━━━━━
「…うん」
「だから、だから俺と…」
「私と…付き合って貰えませんか…?」
「……へ?」
あまりの衝撃に、声が裏返る。手汗がにじみ出る。
「私もね、実は、助けてもらったあの日から、最悪の日だったはずのあの日から、ずっと、ずーっと好きだった!」
「…マジで?」
「マジだよ、大マジ!だからさ、立花くん」
━━━━━━私と、付き合って?━━━━━━
「…っはぁああ!」
俺はあまりの衝撃と照れのせいで、蹲ってしまった。
「た、立花くん!?大丈夫!?」
「ったく、大丈夫なわけあるか、誘っといて自分で言うとかありかよ?」
「えへ、待ち切れなくて」
なんだ、「えへ」って、かわいすぎか。
でも待たせてしまったのは俺のせいだな…
「悪かったよ…」
「それで…返事はもらえないの…?」
「ばかか、そんなの決まってるだろ?元々俺が言おうとしてたんだぞ」
「じゃあ、いいの?」
「ああ、喜んで」
「ほんと!?」
「ほんとだよ」
「んふふ、嬉しい!」
「なんだその笑い方。気持ち悪いぞ」
凪がはしゃいでるその姿が、背景の夜景と相まって、いっそう可愛く見えたのは、多分、俺だけだろう。
「これから、よろしくね!」
俺たちはそれからというもの、毎日のように通学を共にし、通話をし、ときどき一緒に出かけた。急に変化した日常に慣れるのは少し苦労したけど、それでも、今までの人生の中で、最高に幸せで、最高に楽しい日常だった。
それから、今までお互いのことを苗字で呼び合っていたが、お互い名前で呼ぶようになった。俺が心の中ではずっと名前呼びしていたのは、墓の中まで持っていくとしよう。
そんな、順風満帆な生活を送っていた、ある日。
二人で出かけ、二人で食事をし、二人で楽しみあった、そんな、幸せだった土曜日。
時刻は午後七時を回り、夕飯をどこで食べようか決めるところだった。
「凪、夕飯何食べたい?」
「……」
「…凪?」
「あぁ…えっと、そうだね…私は…」
明らかに様子が急におかしくなったのに気づいた時には、もう遅かった。
凪は、全身の筋肉を一瞬で取り除かれたように、その場にうつ伏せに倒れた。
「凪!?おい、凪!どうしたんだ!?」
俺はすぐに救急車を呼び、病院に同伴した。
あとから来た凪の親御さんには、しっかりと断り、断った上で、一発殴られた。凪の父親の、涙と、凪への思いが詰まった、重たい一発だった。
「君は凪と付き合っていたのだろう…?その君がついていながら、なんだこのザマは?どう落とし前をつけてくれるんだ?…もういい。帰りなさい」
「……はい、申し訳ありませんでした…」
言い返す言葉はなかった。凪は急に様子を変えた。その変化に、即座に気づけなかった俺に、すべての責任がある、そう思っていたからだ。
「…凪…ごめん、ごめんな……」
口から溢れ出た懺悔の言葉の数だけ、俺は空知らぬ雨を零した。
家に帰った俺は、凪と付き合っていたこと、その凪が今日、卒倒して病院に運ばれたことを、両親に説明した。
「…なるほどな。それは、さぞかし辛かったろう?悔しかったろう?なんたって、大切な彼女だもんな…」
親父がそう言ったその時、枯れるまで出たと思っていた俺の涙が、また目から溢れ出た。
それは多分、俺がたしかに『辛かった』し、『悔しかった』からだ。
それを、親父に改めて教えられたからだ。
「でもお前は、気づいてやれなかった自分にも責任がある、そう思っているだろう。それを否定したりはしない。けどな、自分を責めているだけでは、前には進まない。じゃあ、お前はどうするべきだと思う?」
突然の質問に、少し戸惑ったが、実は俺が両親にこの話をしたのは、元々これを言うためだったことを思い出した。
「親父、それから母さん、俺、やっと夢が決まったんだ」
俺は、凪の父親の、「どう落とし前をつけてくれるんだ?」という質問に、答えることが出来なかった。それは、今の俺では、凪に何もしてやれないことを理解していたからだと思う。だから、俺は、俺の手で凪を救えるようになりたい、そう思った。
「俺、医療系に進もうと思う。凪の母親に聞いたんだけど、凪の卒倒は原因不明らしい。昏睡状態が続くんだって。だから、俺が研究者になって、原因を突き止める。もしかしたら、俺が研究者になるまでに原因はわかるかもしれない。けど、絶対わかるとは限らない。だから、俺は一人の大切な女の子を救うために、医療の道に進みたい」
正直、今の俺の学力では、難しいことはわかっていた。しかし、凪と勉強した時の定期試験は点数がよく、先生にも褒められるほどだった。凪にはもう教えて貰えないけど、自分でやっても、今より学力が上がると思えた。
「…そんなに熱い目線で論じられたら、否定なんて出来ないよな〜」
親父は、ただ朗らかな笑顔でそう言ってくれた。ただ、その後に、真面目な顔でひとことだけ、
「信じるぞ」
そう言った。
それからというもの、俺は今までより、はるかに多く、はるかに真面目に、集中して勉強をした。文理選択では、なんとか理系に進み、必死に、ただひたすらに勉強をし、偏差値はそこそこだが、大学は医学部へ進学した。過去の俺から考えると、それだけで大きな進歩だ。しかし、それでも油断はしなかった。人より多く勉強するために、合間を見つけては自主学習を積んだ。そして、俺はついに、医学研究者になった。
その間、約四年と少しの間、凪は一度も目を覚ますことは無かった。
「ねぇ、たっくん?寝るならベッド行きなよ、風邪ひくよ?」
「あぁ、悪い。少し昔のことをな」
研究者になって、約六年が経った。俺は三年間の研究を経て、ようやく凪の昏睡の原因を突き止めた。すぐに治療を開始し、約七年間の昏睡から、凪は奇跡的に目を覚ました。
「昔のこと?」
「あぁ、俺らが出会って、付き合って、凪が倒れて、目覚めるまでのことをな」
「そんなに昔じゃないじゃん」凪は笑った。
「いやいや、俺からしたら、長い長い六年間だったよ」俺も笑った
「それより、私は、たっくんが私のリハビリ中にプロポーズした時のことの方が…」
「あぁ、もういい。やめよう、その話は」
そう、俺は約二年前、何を血迷ったのか、リハビリ中の凪にプロポーズをした。今までで最も黒い歴史となった俺のプロポーズは、見事に成功し、今は、ひとつ屋根の下で生活している。
「やだよ、もっと話そ?」
「なんでだよ、よりによってそんな話」
「なんでって…」
━━━━━━━━━私の人生で、多分一番嬉しかったからだよ━━━━━━━━━
俺は、その時の凪の笑顔を、きっと一生、忘れない。
初投稿の作品、いかがだったでしょうか?
私自身そこまで文才は無いので、言葉を間違ってたりするかもしれませんが、ご了承くださいm(*_ _)m
人気があったら次回も考えてます。あんまり期待せず待っててください。
では