光る手
男は歩きながら、ふと風を感じて空を見上げた。紺色の空に数えきれないほどの星が光り夜を見守っている。その静かな空が揺れたように感じたのだ。
暗い空に風を探しながら、男が南の空に顔を向けたときに、ひと際明るく輝く星を見つけた。
「すげえな」
他のどの星よりも輝いて見えるそれは、紅く光っていた。男は魅かれるようにその星に見入って首を傾げていた。じっと見つめているその眉間が寄せられ、そしてだんだんと目が見開かれた。
「大きく、なって、る?・・・こっち来たー!」
その赤く見える星は、みるみる光りを増し、こちらに向かってきていることが分かると、男は大急ぎで走り出した。
≪ドラゴンだ!≫
まだ南の町にいると思っていたドラゴンが、こともあろうか、もう中央の町までやってこようとしているのだ。昼間聞いた「ひとっ跳びでもうすぐこの町に来ちまう」という商人の言葉が甦る。そうだ、あの大きなドラゴンはすぐにここまで来てしまうだろう。
そして男の頭上を越え、男を追い出した中央の村へと飛んでいくに違いない。食糧を求めて、殺戮を求めて。
暗い荒れ地を歩いている一人の旅人など、ドラゴンからは見えまい。
そのはずなのに、男は焦り走り出した。
≪あの西の方の森まで走って逃げよう≫
身を隠すもののない荒れ地よりは、木々の生えた森にいるほうが見つかりにくいだろう。たとえ、今ドラゴンに見つかっていないとしても、確実にドラゴンから逃れておきたい。
西へ向かって男は走る。
チラチラと南の空を見ると、ドラゴンを示す紅い光りは随分と近づいていた。
≪急げ、急げ。逃げろ、逃げろ≫
男は念じるように、呟きながら走り続けた。気が付けば光りは、もうドラゴンの翼の形が分かるほどに近づいてきている。
「は、は、は、は」
息が苦しくなっても走り続けた。
「ていうか、こっち来てないか?」
振り向き振り向き走っていると、ドラゴンは町へ向かっているというよりは、男に向かって飛んできている気がしないでもない。
なぜだ。
真っ暗な荒れ地を走る、ちっぽけな人間など、空を飛ぶドラゴンから見えるはずがないのに、どう考えても、ドラゴンはこちらに向かって飛んできているように感じる。
なぜだ。
何か自分の身の回りに、自分の居場所を示すようなものがあるのだろうか。振り返ったり、辺りを見渡しても、荒れ地には自分しかいない。生きているもの、動くものは他にはない。それなのに、なぜ。
男はハッとして自分の手の甲を見た。
そこは薄く発光していた。
「これか」
男は片方の手の甲をもう片方の手で押さえ、その押さえている手を、マントの裾で包んだ。
こればかりは仕方がなかった。
男の両手の甲には2センチほどの切り傷のような線が付いている。普段は単なるかさぶたのような線ではあるが、男が感情を揺らすとき、喜怒哀楽を表す時や、今のように焦ったり恐れたりした時、そこは開き光りを発するのだ。そういうものなのだ。少なくとも、男が生まれ育った場所に住む人たちはみんなそうだった。だから、それが特別なことだとは思っていなかったし、こういう時に光りを発してしまうのは、仕方のないことだとわかっていた。
しかしこれではこの暗闇で、自分の居場所を告げているようなものだ。
暗い荒れ地で光る手を振りながら走れば、ドラゴンにも見つかってしまう。
これは急いであの森にたどり着かなければ危険だ。男は走る速度をあげて、まだ見えてこない森へ向かった。
マントの布の織り目から、光りが漏れ出ている。
恐怖心が強いせいで、光りがどんどん強くなってしまうのだ。
しかも、両手を組んだ状態では走りにくい。さらに焦りを感じて、光りは増々強くなった。
「くそっ、光るなよっ」
そんな男の光りにおびき寄せられるかのように、ドラゴンは明らかにこちらを向いている。もう、お互いの姿が見える距離になってしまった。
「は、は、は、木だ!」
後ろにドラゴンの姿を認められるようになった時、目の前には森の木々の影も見えてきた。あと少しだ。なんとか森に身を隠したい。
ドラゴンだって、たった1人の人間を森の中から見つけるよりは、町へ行ってたくさんの人間を見つける方がラクだろう。だから、森だ。森へ急ぐんだ。
森の木が見えた安心感からだろうか、単なる疲れからか、それとも迫りくるドラゴンへの恐怖心からか、男は転んでしまった。
「ぐぎゃ!」
変な声が出て、ゴロゴロと転がる。
それでも痛がったり倒れ込んだりしているヒマはない。すぐに立ち上がって森へ走らなければ。
男は立ち上がり、ドラゴンの方へ振り向いた。
「まじで~?」
ドラゴンの熱を感じるほどに、距離は近づいていた。大きく羽ばたく尖った翼の音すら聞こえてくる。
このままでは、森に入る前に捕まるか焼き殺されてしまうだろう。
男はドラゴンに向かって両足を踏ん張って立つと、ドラゴンを睨んだ。ひとつ手を打って、ドラゴンから逃れる時間稼ぎをしなければならない。
「く・・・」
まじないを唱えようとした男の喉が、貼りついた。
≪焦るな。できる、俺は、できる≫
魔法の下手な男にとって、たった一つ使うことのできる魔術詠唱すら、こんな時にまともに喉から出てこようとしない。
焦る身体をたしなめるように、大きく息を吸い、そして息を吐こうとしても、息が出てこない。
ブルブル震え、出せない息を胸に溜めた男は意を決して叫んだ。
「くっつく靴!」
魔法は発せられた。
しかし、ドラゴンに変化はない。
ドラゴンの脚には靴など履いていないのだ。くっつくはずがない。
「靴がない!くそっ」
くっつく靴のまじないはドラゴンには通用しない。こういう時は応用だ。靴を履いていないのなら、靴じゃないものをくっ付けるしかない。
靴。靴、じゃなくて、脚。脚だ!
男はそれに気づくと、また息を吸い叫んだ。
「くっつく脚!」
魔法は発せられた。
しかし、ドラゴンに変化はない。
飛んでいるドラゴンの脚がくっついたとしても、何の影響もなかったのだ。
「お、俺のバカー!」
そう叫びながら、男は走って逃げだした。時間稼ぎをしようとしたのに、ドラゴンには何の影響もなく、単に自分の逃げる時間が過ぎただけだった。




