小悪魔少女の無理難題
ーーーひとつ、昔話をしましょうか?
「わーい」「未柚おねえちゃん、早く早く!」「話して! 話して!」
集まってきた小学生たちが口々に急かしてくる。妹の花梨も期待に満ちた表情だ。
「うん、わかった。じゃあねえ…」
途端に私の脳裏に元気な男の子が飛び出してきた。私はその子の様子を語りだす。
「昔、あるところに少年がいました。彼は…」
私が話し出すと子供たちの目が輝きだした。みんな熱心に耳を傾けてきた。
五月の公園は初夏の暖かな日差に包まれていた。放課後、妹の花梨を迎えにやってきた私の姿を見つけると、花梨と一緒に遊んでいた子供たちが集まってくる。ここでお話をしてあげるのが日課になっているのだ。
話すのは毎回その場で思いつく即興話。だから話してみないと私自身どんなお話になるのか分からない。ただ不思議と物語はするすると出てきた。頭の中で勝手にキャラが動き出し世界が形作られていく。今日出てきた少年は外国の路地の奥で綺麗な輝く卵を見つけ出した。でもすぐにそれを奪おうとする悪漢たちが現れる。追われた彼は地下迷宮に逃げ込んで、そこに住む奇妙な住民たちの助けを借りてあわやと言う所で地下から脱出。辿り着いたその場所は……
「お姫様のお部屋だったのよ」
その途端、息を詰めて聞いていた子供たちが一斉にほーと息を吐いた。
「やったあ!」「よかったあ!」「助かった!」
子供たちの笑顔がはじけた。その時
「見つけた!」
背後で大きな声が響いた。驚いて振り返ると幼い少女が立っている。知らない子だった。一瞬、妹の友達の小学生? と思ったけれど、よく見ると私と同じ高校の制服を着ていた。え? 高校生なの? 小柄で童顔なので、どう贔屓目に見ても中学生にしか見えない。けれど、大きな瞳と意志の強そうな口元がとても印象的な綺麗な子だった。その瞳が何かを期待するように私を見つめている。心臓がにわかに騒ぎ出した。もしかして子供たちに話してたの聞かれた?
「あの、先輩は……木崎未柚先輩ですよね?」
いきなり名前を呼ばれてびっくりする。
「どうして、私の名前?」
「先輩を探してました」
悪い予感が頭をよぎる。
「なんで?」
「えっとですね、実は先輩に……”お話”を書いてもらいたくて」
その言葉に心臓がきゅっと縮んだ。
「あたし、春乃まゆみって言います。聞いたことありませんか?」
「……分からないけど」
「あちゃあ、そうですか。やっぱりあたしそんなに売れてなかったんだなあ。これでも子役として結構活躍してたんですけど」
「ごめんなさい。私あんまりテレビ見ないの」
「そうですか。まあ、いいです。それで話は、今度、映画のオーディションがありまして、一人芝居のプロモーションビデオを送らないといけないんですよね。いろいろ脚本を探したんですけどいいのが見つからなくて。それで先輩に頼みたくてですね」
「ど、どうして私なんかに?」
それは聞いちゃいけないと思った。でも聞かずにおれなかった。
「だって、先輩、”みさき柚先生”、ですよね?」
その瞬間、心臓を鷲掴みにされた気がした。
「ち、ちがう! そんな人、知らない!」
「先輩?」
彼女は不思議そうに首を傾げる。でも私はかまっていられなかった。何で知ってるの? と言う疑問と、見つかってしまったという恐怖が体を震わす。
「先輩、どうかしました?」
彼女が心配げな声を掛けてくる。
「未柚おねえちゃん?」
異変に気付いて覗き込んできた花梨の手を掴んで、そのまま一目散に走り出した。
「あ、先輩、どこ行くんですか? ちょっとー」
私はただ彼女から逃げる事だけを考えていた。
◁▶
やーい、嘘つき! おまえなんかに書けるはずないだろう! 嘘つきは泥棒の始まりなんだからな! ち、違う。私は泥棒なんかじゃない。私が書いたの。本当に私が書いたの。だから、もうやめて!
夢を見ているという自覚があった。これは夢だ。でも現実だ。忘れてしまいたい現実。なのに、なんで夢にまで出てくるのよ。早く覚めて欲しいのに。まだ覚めない。
小さいころから私は”物語を見る事”が出来た。ふとした瞬間に頭の中に登場人物が現れて、まるでアニメを見ているようにお話が紡がれていく。それが楽しくて仕方なかった。そのお話を何度も楽しみたくて、残したくて、小さい頃からいっぱい文字を覚えた。文字に不自由しなくなった時、私は夢中でお話を書き留めた。それを見て、お母さんが本の出版を思いついたのはちょっとした思い出作りのような軽い気持ちだったのだろう。でも六年生の時、出版された私の本はたちまち話題になってベストセラーになった。驚異の十二歳。天才現る。とマスコミが騒ぎ立てた。もちろん『みさき柚』という本名をもじったペンネームを使っていたので当初は身近に変化はなく、どこか遠い所の出来事という感覚だった。その後の二作目、三作目も続けてベストセラーになった。
そんなある日、家の前に知らない男の人がいて、いきなり言われた。
「キミ、みさき柚だろう」
「え? あ…はい」
びっくりして思わず答えてしまったのがいけなかった。その人は『みさき柚』という作家の正体を暴いて有名になるのが目的で私の情報をネットにあげてしまった。それからは、いきなり玄関で待ち伏せされたり、勝手に写真を取られたり、記事を書かれたりした。
学校の友達にも知られた。最初は驚かれたり褒められたりしたけれど、その内、私が書いたとは思えないという人が出てきた。それはネットの影響だったらしい。教えられて見たネット掲示板には「ゴーストライター乙!」「売名行為」「嘘つき」「しね!」などとひどい言葉が溢れていた。怖くなってそれ以来、私はネットを見れない。
学校での私に対する非難や暴言はどんどん激しくなって、私は卒業を機に泣く泣く引っ越した。それから私はお話を書いてない。ううん、書けない。お話は今も私の中に生まれてくる。でもそれを文字にする事ができなかった。しようとすると手が震えて胸が苦しくなる。でもそれでよかった。もう書くつもりはない。あれから六年、私のことを、私が書いた本のことを知っている人は現れなかった。なのに……
夢の中で私を非難していた小学生の顔が、不意に突然現れた少女に変わる。
「あなた、みさき柚でしょう?」
「わああああ!」
声をあげて飛び起きた。心臓が嫌な感じでどくどくと脈打っている。膨れ上がる不安に身体が震えていた。
◁▶
同じ高校にいるはずのあの子に会うのが怖かった。でもそれ以上に私の事を誰かにバラされるのが恐ろしかった。なんとか彼女にくぎを刺さなきゃ。そうしないと……。私は勇気を振り絞って学校に向かった。
「アーヤあぁぁぁ」
「わぁ、どしたの未柚?」
教室で仲のいい友達を見つけて急いで彼女の事を聞いてみる。
「あのね、春乃まゆみっていう子、知ってる?」
「うん? 誰?」
「昔、子役でテレビに出てたらしいんだけど」
「あー、あれかな? 昨日来た転校生の事でしょう?」
「転校生?」
「うん。変な時期の転校生だから、芸能人が来るって噂になってた」
「そうなんだ。どんな子?」
「さあ、直接会ったことないけど昔テレビで見た時は、幼いのに演技派だった印象かな」
アーヤが首を傾げる。
「なに、未柚、その子に興味あるの?」
「そういう訳じゃないんだけど……」
「あー! 未柚先輩、見っけ!」
教室に大きな声が響いて、体がビクンと跳ねた。出入口から彼女が覗き込んでいた。
「あれ? あの子じゃない?」
アーヤが指さしている。慌てて扉の所に駆け寄った。
「なんでこんなところに来るのよ!」
「だって、先輩、昨日急にいなくなっちゃうし。あ、それで、昨日の話なんですけど」
「ちょ、ちょっと待って! ここじゃだめ! こっち来て!」
私は彼女の腕を掴んで強引に歩き出した。
人気のない屋上に続く階段で彼女と向かい合う。
「なんだか内緒話みたいですね」
彼女がくすっと楽しそうな笑みを浮かべた。カチンときた。人の気も知らないで。
「当たり前でしょ!」
「えー、どうしてですか? みさき柚先生に執筆依頼したいだけですけど」
「その名前を言わないで!」
大きな声が出た。彼女が驚いた顔をしている。
「あれ? 先輩……柚先生ですよね?」
「どうして、そう思うの?」
なぜ、彼女が知っているのか気になった。もしまたネットにさらされて、それで突き止められたのだとしたら……。気になるけど自分でネットを見る勇気はなかった。
彼女はにこっと微笑むと
「そこはほら、あたし、これでも芸能関係の伝手がありますし」
ああ、ネットじゃないのか。
「それ誰かに言った?」
「言ってませんけど」
その言葉にほっとする。それなら……私は精一杯恐い声で告げた。
「その事、誰にも言ったらだめよ。もし言ったら、あなたの事、許さないから」
内心ではドキドキだった。これで釘を刺せただろうか?
「先輩がそう言うんなら……分かりました。約束します」
はあ、と力が抜ける。よかった。
「それで先輩、あたしのお願いの件なんですけど、お話書いてもらえますよね?」
そうだった。その話が残っていた。
「そ、それは、無理」
「え? なんでですか?」
「もう、お話は書けないの」
「えー? でも昨日、子供たちに、お話、してましたよね?」
心臓がドクンと跳ねた。やっぱり聞かれていた!
「あれは……私のお話じゃないわ」
嘘だけどそんなこと分かるはずない。でも彼女は
「うそだあ。あれ、絶対先輩のお話です」
「な、なんでそんなことわかるのよ?」
「だって、あたし、先輩のファンですから」
あっけらかんと告げられたその言葉に固まった。面と向かってファンだなんて言われたのは初めてだ。ハッと我に返った。
「だめ。もう書けないの。諦めて」
それだけ言うと踵を返した。
「あ、ちょっ、先輩!」
彼女の声を無視して階段を駆け下りる。
「あーもう、先輩、あたし、諦めてなんかあげませんからねー!」
私は逃げるように教室に急いだ。
とりあえず彼女から言質を取って依頼も断ったので気が抜けていた。そしたら一時限目の休み時間
「未柚せんぱーい」
「なっ!」
思いっきり名前を呼ばれて飛び上がった。教室の出入り口で彼女が手を振っている。私は聞こえないふりをした。それでも何度も私の名前を呼ぶ。
「あれ、放っておいていいの?」
「い、いいの」
アーヤが聞いてくるけど私は知らん顔を通した。流石に彼女も上級生の教室に無断で入ることは出来ず、チャイムが鳴ると「先輩、また来ますー」と迷惑な言葉を残して帰っていった。
仕方がないので休み時間ごとに教室を離れて適当に時間を潰して戻った。アーヤに聞くと彼女は懲りずにやってきているようだった。なので昼休みもお弁当を持って急いで校庭のベンチに避難した。はあ。いつまで逃げればいいんだろう。さっさと諦めてくれないかなあ。そう思いながらお弁当を食べているとお昼の校内放送が始まった。放送部によるお昼の定期放送。その日の連絡事項やリクエスト音楽を流したり、文化祭の時期は各団体のアピール放送が流されたりする。今日は何だろう? と思って聞いていたら
「それでは今日は、一年生、春乃まゆみさんの希望で本人による本の朗読です」
「え?」
突然告げられた名前にびっくりする。彼女なにを? と思った時、その言葉が耳に飛び込んできた。
【初めて見たその場所は由美には夢の世界に見えた】
瞬間、心臓が嫌な音を立てた。
【光り輝く舞台の上でキラキラと妖精が舞っている。幼い由美は手をいっぱいに伸ばしてその光を掴もうとした。あたしもあそこに行きたい。一緒に舞ってみたい。由美はぴょんぴょんと飛び跳ねて……】
聞きながらドンドン鼓動が速くなった。息が苦しい。冷や汗が流れ出す。なぜなら今彼女が朗読しているお話は…『あした輝く』は…私の処女作だ!
やめて! もう、読まないで! せっかく、みんなが”みさき柚”の名前を忘れてるのに! もう、思い出させないで!
居ても立ってもいられなくなって、私は放送室に向かって駆け出した。
「なにしてるの!」
放送室の扉を乱暴に開いて叫んだ。中にいた放送部の人たちが驚いたように私を見る。
「やっと来ましてね、先輩」
でも彼女は、にやりとした笑顔を浮かべていた。背筋にゾクッと寒気が走る。まるで悪魔の笑みだ。
「ちょっと来て!」
私は彼女の腕を掴んでまた屋上階段を目指した。
「なにやってるのよ!」
彼女に詰め寄る。でも彼女は平気な顔で
「だって、先輩、逃げてばかりで話聞いてくれないじゃないですか」
「それは……」
「昨日も言いましたけど、あたし、今度重要なオーディション受けるんです。そのためにプロモーションビデオを作らないといけなくて、だからぜひ先輩のお話で演じたいんです」
「私も言ったよね。もう、お話は書けないの」
「嘘です! あんなに生き生きと話してたじゃないですか」
「それは……」
こうなったら書けない理由をちゃん説明して諦めてもらおうと思った。でも話そうとすると喉の奥がぐっと詰まって言葉が出てこない。いやな記憶が脳裏を駆け巡る。私は目を閉じて胸の前で両手を組んだ。強く握りしめる。言葉を絞り出した。
「ダメなの。文字にしようとすると手が震えて書けないの! だから無理なの!」
声が震えた。息が苦しい。胸が痛い。
その時、両手に暖かい感触がして、驚いて目を開けると彼女の手が重ねられていた。彼女が私を覗き込んでくる。
「先輩になにがあったか、あたし、少しは知ってます」
びくっと肩がはねる。
「でも、先輩は、もう十二歳の子供じゃないですよね?」
「それは、そうだけど」
「それに物語が創れないわけでもないじゃないですか」
「でも」
「だから、書くべきです」
真っ直ぐな眼差しで見つめてくる。その眼差しが怖かった。だから逃げるように顔を背けた。
「そんな簡単に言わないで」
「簡単じゃないです」
あっさりと返された。
「それに、あたしからしたら先輩は贅沢です」
「なにが?」
「あたしは子役ではちやほやされましたけど、ほらこの通り、高校生になってもちっとも成長しなくて、でもこの歳じゃ、さすがに子役なんかできません。だから、役も取れなくなって仕事もなくなりました。悔しいです。あたしは全然できるのに! 演技ならだれにも負けないのに! だから諦めたりなんかしません! あたしは絶対に女優になって見せます!」
彼女は宣言するように胸をそらした。
「なのに、なんで先輩は諦めてるんですか?! 今でもあんなすごいお話が創れるのに!」
その言葉が胸に刺さった。
「そんなこと言われても出来ないものはできないの!」
「先輩はできます。あたしには分かります」
「いい加減なこと言わないで!」
「いい加減じゃないです。それに、あたしには先輩の本が必要なんです」
「勝手なこと言わないでよ。どうして、そこまで私に拘るのよ?」
「それは……先輩のファンだからです」
彼女はなぜか切なそうな表情を浮かべた。
「だから書いてください」
「む、無理だって」
「むぅ、ここまで言っても駄目ですか?」
「だって」
「じゃあ、あたしにも考えがあります」
その言葉に背筋が冷たくなる。
「まさか、私の事をばらすとか」
「いやいやいやいや。そんなことしません、って約束したじゃないですか」
「じゃあ、なに?」
「毎日昼休みに先輩の本を朗読します」
「え?」
「エンドレスで」
「や、やめて!」
そんなことしたら『みさき柚』の事を思い出す人がいっぱい出てくる。
「いやなら、書いてください」
「うぅ~」
彼女がニヤッと笑う。やっぱり悪魔の笑みだと思った。私は文字通り悪魔の選択を迫られている。昼休みに自作を朗読され続けるか、お話を書くか。自分の正体がばれる恐怖を考えた時、渋々だけどお話を書くことを選ぶしかなかった。
「……分かった。書いてみる」
「やった! 嬉しいです! 先輩、ありがとう!」
私を脅したくせに満面の笑みを浮かべる彼女を見ていて私の気持ちはどんどん重くなっていった。
家に帰って、ひどく後悔した。あんな約束しなきゃよかった。書けるはずがない。それでも、とりあえず新しく買ってきた大学ノートを広げた。
お話自体はもう見えていた。悪魔の彼女が色んな人に悪さをしていくのだ。無理難題を押し付けて人々が右往左往するところを例のニヤッとした笑顔で眺めている。でも最後には自分も罠に嵌められて退治されてしまう、そんなお話。
きっとこれを書けたら少しは気が晴れるだろうなあ。そう思ってノートに向かう。けれど、いざ書こうとすると手が震えだした。吐き気もしてくる。だから無理だって言ったのに。それなのに脳裏の悪魔の彼女が許してくれない。だんだん腹が立ってきた。なんでよ。なんでこんなつらいことしなきゃいけないの! もうやめてしまおうかと思った。でも、約束を破ったら今度こそ彼女が何をしでかすか分からない。それが怖かった。もう、わかったわよ! さっさと書いて、この苦しみから解放されるんだ!
私は震える右手を左手で押さえつけ、込み上げてくる吐き気を飲み込んで一文字目を記した。そのまま一気呵成に続ける。そうしないと手が動かなくなってしまいそうだった。脳裏に浮かぶ物語に意識を集中させる。そうして私は六年ぶりに物語を綴った。
◁▶
「お、終わったあ」
ふうと深く息を吐いた。ようやく書き終わったのだ。初めは震えや吐き気を我慢しながら書いていたけど、いつの間にか忘れてしまった。それよりも途中から脳裏に現れるお話を書き写すのに夢中になっていた。真っ新だった大学ノートはほとんど全部埋まってしまった。書き終わった余韻で頭がボーとしている。胸が熱い。私はのろのろと顔をあげた。カーテンの外が明るい。もう朝だった。
「はい、これ」
昼休みの屋上階段。彼女に大学ノートを突き付けた。
「え? もう書いたんですか!?」
彼女が驚いた声を出した。ちょっと気分が良かった。受け取ったノートをぱらぱらとめくった彼女は え? ちょっ? これ? と変な声を上げて
「ノート一冊分? 一晩で?」
まじまじと私を見た。それからはぁと息を吐く。
「ったく。先輩はバケモノですか?」
「え? なんて?」
「いや、いいです」
「これでいいわよね」
「今晩読ませていただきますが…」
「が?」
「お芝居用に直してもらいたい所が出るかもしれないので、また連絡します。なので先輩、ライン交換してください」
これで終わりだと思ったけど、確かにそういう理由なら仕方ない。それでもなんとか書き終わって私はほっとしていた。
ところが翌日。
「これはだめです」
「え? どうして?」
いつもの階段で彼女がダメ出しした。
「確かにすっごく面白くって、なんどもドキッとしたりハラハラしたり、途中に挟まれるギャグにお腹抱えたり、最後はスカッとして普通に傑作だと思いますけど」
「なら、いいんじゃ?」
「ダメです。なんですかこの主人公? 性悪すぎます。これを私に演じろと?」
「え、でも、良く似合って」
「なにか?」
彼女にギロリと睨まれた。
「……いえ」
「と言うことで別の話を書いてください。性悪女禁止です」
「そんなあ」
「それでは、お願いします」
どっと気持ちが重くなる。また書くのか。ただ最初ほどはイヤじゃないことを自覚していた。
仕方ないので今度は幼い少女が大人顔負けの度胸と頭の良さで宮廷の小間使いから王妃にまで出世する話を書いた。書き始めはやっぱり手が震えたけれど書いているうちに気にならなくなった。この話なら彼女に適役だし納得するだろう。そう思って渡した翌日。
「却下です」
彼女が無慈悲に言った。
「え? どうして?」
「いや、このお話も、すごーく面白くてわくわくしたんですけど」
「なら、いいんじゃ?」
「ダメです! そもそも主人公子供じゃないですか? もうあたし子役をするつもりないですし、それじゃ評価されないんです」
「えー、ぴったりなのにぃ…」
「なので、もっと大人の女性で書いてください」
「うぅ」
注文多いなあ。無理難題だよ。でも私は次も書けることが少し楽しくなっていた。
それから書いた『妖艶な大人の女性がその美貌で次々に資産家を虜にしていくサスペンス』は「あたしへの嫌がらせですか?」ときつい目で睨まれて却下され、次の『家出女子高生と雪男のファンタジーラブコメ』は「設定が無茶すぎます!」とダメを出された。もう、なんなのよ。演技ならだれにも負けないんじゃなかったの? だったら、なんでも演れるでしょうに! なんどもダメだしされて、さすがに腹が立ってきた。見てなさい! 今度こそOKと言わせてあげるんだから!
「これ、すごく良いです!」
「やったあ!」
一作目から一週間。五作目は『ある事情から性別を偽った男装少女の青春物語』だった。
「この女なのに男として振舞わなければいけない少女を演じることを考えたら、あたし、ぞくぞくしてきます。それに同級生男子とのひそかな恋。絵ずら的には腐ですし、いいですねえ」
「え?」
「いや、こっちの話です」
よく分からないけど、彼女がいいと言うのならいいんだろう。ほっとした。もう書かなくていいんだ。けれどそう思うと少しだけ残念な気もした。
「では、お芝居用に直してもらう時には連絡しますね」
そう言って分かれた。その夜。
スマホが震えて、さっそく彼女が掛けてきたのかなと思った。
「あれ? 芒羊會出版さん?」
それは以前私の本を出してくれた出版社さんだった。今頃なんだろう? なんとなく悪い予感がした。
「もしもし、みさき柚先生でしょうか?」
その名前で呼ばれて鼓動が速くなる。
「はい。そうですが…」
「ああ、先生、御無沙汰しております。芒羊會出版のヨウと申します」
「はあ」
「この度は、弊社に先生の新作をお任せいただき、大変、嬉しく思っています」
「え?」
何を言われたかよくわからなかった。私の新作って何?
「いやあ、一読させていただきましたが、悪魔少女の悪戯が実に愉快でした。流石先生です」
あ、それは、彼女に渡した最初のお話だ! そう気づいた時、体がぶるぶると震えてきた。私の作品が、私の名前が、またみんなに知られてしまう。また、酷いことが起こる! 脳裏に悪魔の様な笑みを浮かべた彼女の顔がよぎった。その瞬間、理解した。だまされたんだ! カッと怒りがわいてきた。
「……つきましては、近日中にお伺いし」
プチっと通話を切った。構ってられなかった。急いで彼女に電話を掛ける。呼び出し音がもどかしかった。
「はい、まゆみで…」
「欺したのね!」
繋がるなり叫んでいた。
「はい? 先輩、なんのことです?」
驚いたように彼女が聞いてくる。そのわざとらしさにまたカチンときた。
「あなたがやったんでしょう? 私の原稿を出版社に送ったのは!」
一瞬の沈黙。そのあとで、
「あー、バレちゃいましたか」
「なっ!」
余りにあっけらかんとした声音に言葉が詰まる。
「……なんでそんなことしたのよ! バラさないって約束したでしょう!」
「ええ、しました」
「だったらなぜ?! 嘘ついたの!」
「嘘なんかついてないですよ。だって、あたし、先輩の正体を誰かにバラしたりしてませんし。ただ先輩の作品を先輩の事を良く知っている出版社に送っただけです」
「どうしてそんな余計なことするのよ?! そんな事ことして欲しいなんて一言も言ってない!」
「確かに、そうですね」
「じゃあ、なぜ?」
スマホの向こうでスーと息を吸う気配がした。
「だって、あんな面白いお話、埋もれてしまっていいはずないじゃないですか!」
「なっ」
「読者があたし一人だけなんて残念過ぎます。あたしはそんなこと我慢できません。たくさんの人に読んでほしいです!」
その言葉に頭が真っ白になる。
「勝手なこと言わないで! その結果、どれだけ私が苦しめられることになるか、あなた分からないでしょう!」
「そんなこと起こるかどうかなんて分からないじゃないですか!」
「分かるわ!」
「いいえ、分かりません。それに先輩は、先輩のお話をどれだけたくさんの人が待っているか分かってないです」
「そんなのいるはずないじゃない!」
何を言っても反論が返ってくる。私がこんなに苦しんでるのに! 彼女は少しも分かってない。
「もう、やだ!」
スマホを投げ捨てて、ベッドに突っ伏す。布団を頭からかぶった。もう何も聞きたくなかった。
◁▶
三日、部屋から出なかった。またひどい言葉を浴びせられ、いじめられる未来が見えた。恐くて体の震えが止まらない。眠ろうとしても眠れなくて朦朧としていた。
ダダダダダダダン!
すごい勢いで部屋の扉が叩かれてびっくりして身体が跳ねた。
「先輩、起きてますかあ? 起きてますよね? 入りますよ!」
バンと開いた扉の向こうに彼女が立っていた。心臓がぎゅっと苦しくなる。慌てて布団にくるまった。
「来ないで! 不法侵入!」
「先輩のお母さんに許可もらいました」
彼女はつかつかとベッドに近づいてくる。ガバッと布団をめくられた。彼女は一瞬、驚いた表情を浮かべ、それから心配げに瞳を揺らした。
「なにやってるんですか、先輩。どうしてたら、こんなにボロボロになるんですか?」
言いながら私の髪に手を伸ばして梳き始める。私は動けなかった。その気力もなかった。ただ言葉だけは零れ落ちる。
「あなたのせいよ。あなたがあんなことするから……私はまたいじめられるの……また辛いことがいっぱい起こるの……また」
「先輩、泣かないでください」
いつの間にか頬を涙が流れ落ちていた。その雫を彼女の指が優しく拭き取っていく。
「そんなこと、分からないじゃないですか?」
今まで聞いたことのないぐらい優しい声だった
「それに先輩のお話がたくさんの人に待ち望まれてたのは本当なんですよ」
「うそよ」
「本当です」
「何を根拠に…」
「じゃあ、これを見てください」
彼女が自分のスマホを差し出してくる。そこに、とあるSNSの画面が写っていた。とっさに顔を背けた。イヤな記憶が蘇ってくる。
「いや。見たくない」
「そう言わず。ここです」
それでも見ないでいると彼女が言い始める。
「ほらこのツイート。先輩の、みさき柚先生の新作決定のツイートなんですけど」
「やめて! 言わないで!」
「たった3日間で50万いいね、30万リツイートですよ」
「え?」
その言葉にのろのろと画面を確かめる。確かに大きな数字が並んでいた。
「それから、こっちもあります」
彼女が画面を操作する。『冒頭10ページ試し読み』と書かれた原稿用紙を映していくだけの動画が再生回数1万回を超えていた。
「なにこれ?」
一万人の人が読んだという事?
「どうですか? この凄い反響? コメントも歓迎ムード一色です。みんな先輩の新作を待ち望んでたんですよ」
「そんなこと……」
少しだけ呆けていたけどハッと冷静になった。
「こんなのネットの中の事じゃない。みんな流行に乗りたくて集まってるだけ。ほんとの事なんか分からないわ」
私が言うと彼女は肩をすくめて
「はあ、そう言うと思ってました。だから先輩、ちょっと後で付き合って欲しいんですけど」
「え?」
「さあ、起きてください。それから顔洗って綺麗にして出かけましょう」
いきなりの提案に私はしばらくポカンとしていた。
◁▶
「ここどこ?」
連れてこられたのは街中のごく普通のマンションの部屋の前。
「いいですか。これから入りますからね。先輩の呼び名はミユにしますよ。あたしはまゆまゆです」
「どういう事?」
なにがなんだか分からない。
「ネットだけじゃ実感わかないかと思って読書家たちのコミュで緊急読書会を提案したんです」
「読書会?」
「はい。みさき柚の新作決定を記念して集まっていろいろ話そう、という趣旨です」
「ええ?!」
途端にドキドキしてきた。
「だから先輩は本人と分からないように誤魔化してくださいよ」
「帰っていい?」
「なに言ってるんですか! ダメです!」
彼女が私の腕をつかんで扉を開ける。
「入りますよ」
「あ、ちょっと!」
強引に部屋の中に引っ張り込まれた。中には男女合わせて10人以上の人が集まっていた。緊張に足がすくむ。
「みなさん、こんにちは」
「あ、まゆまゆさん来た」
「主催の登場ですな」
「遅かったですね」
「あぁ、遅れてすみません。緊張しちゃって〜」
「まゆまゆさんに限ってそれはあり得ない」
「あはは」
「それでそちらの方は?」
一斉にみんなの注目が集まって顔がこわばった。
「こちらはミユさんです。みさき柚先生の作品に興味があると言う事でお誘いしました」
みさき柚の名前が出て緊張が高まる。どんな反応をされるんだろう?
「それは嬉しいですね」
「え?」
「歓迎しますよ。彼女の作品を読む人が増えるのは嬉しいです」
ポンと背中を叩かれて横を向くと彼女がにこっと頷いていた。
「彼女の処女作『あした輝く』にはびっくりしましたよ」
「そうそう」
「普通の家庭に生まれた少女がアイドルになる話なんだけど、ヒロインの由美が色んな困難に負けそうになってもいつも前向きに努力して頑張る姿は泣かされたなあ」
「俺も俺も」
「あたしもです!」
「これが十二歳の少女の作だと思うと私、素直に感動しました」
「だよねえ」
なんて恥ずかしい! 頬がカーと熱を持った。自分の小説を目の前で色々語られて穴があったら入りたくなる。
「でも、二作目がまたすごいんだよなあ。一作目と全然違ったファンタジー作品なんだ」
「そう! 全然別ジャンルもいけるんだよな!」
「二作目の『ユリアと七人の王国』は自分が誰かもわからず目覚めたユリアが自分の素性を求めて旅を続けるうちに七人の同じ境遇の人物に出会う訳ですが、その出会いの多彩さと鮮烈さ、複雑に組み立てられた構成、謎の正体と感動のラスト、もうね、どこのベテラン作家かと思いましたよ」
「俺も感動したなあ。この世界に行きたいと思ったよ」
「あたしもです」
初めてだった。面と向かって自分の作品の感想を聞くのは。だから、こんなにも心が震えるものなのかと思った。こんなにも恥ずかしくて、こんなにも嬉しくて、こんなにも胸が熱くなるのか。私はみんなの顔が見れなかった。
「新作楽しみだなあ」
「待っててよかったです。六年間は長かったですけど」
「もう、書いてくれないのかと諦めかけてたよ」
「俺も」
「あたしは諦めてなかったですけど」
「さすがまゆまゆさんですね」
「まゆまゆさんの”みさ柚”愛、半端ないですもんね」
「いやまあ、それほどでも」
彼女を見ると、ちょっと恥ずかしそうにそっぽを向く。なんだか初めて可愛く思えた。
「どうでしたか?」
帰り道、彼女に聞かれた。自分の作品について直接色々言われていっぱいいっぱいになっていた。
「つ、疲れた。もう、恥ずかしくて死ぬかと思った」
「あはは」
彼女はにこにこと笑いながら
「でも、楽しかったんじゃないですか?」
「それは……」
少し迷ってから素直に答える。
「うん。とっても楽しかった。こんなに楽しかったのは初めてかもしれない」
「それは、よかったです」
それから彼女は
「世の中には先輩のお話が好きな人がこんなにいるんです。ネットの幻想じゃなくリアルな存在として」
「うん」
「確かに、先輩の作品や先輩自身のことを悪く言う人もいるでしょう。でも先輩、それ以上に何万倍も先輩のお話を楽しみに待ち望んでいる人がいるんです」
「そう、かな」
何万倍は言い過ぎだと思うけど。
「そうです。だから先輩、お話を書いてください。これからも、いっぱいいっぱい書いてください。お願いします」
彼女が深々と頭を下げた。驚いて見つめてしまった。
「ちょっと、なにやってるの。顔上げてよ」
彼女のおじぎは終わらない。
「か、書くから。お話書くから、だから、もう、そんなことやめて」
ぴょこんと彼女の頭が上がる。顔には満面の笑み。
「聞きましたからね! 約束ですからね!」
あっと思った。また彼女にしてやられた気がした。だけど、その笑顔を見たら、それでもいいかと思った。
「じゃあ、先輩、明日からプロモーションビデオ作製しますから撮影よろしく」
「え?」
「スマホの動画撮影でいいですからねー」
「ちょ、ちょっと待って」
そのまま彼女は走って帰ってしまった。私は呆気にとられ、それから笑いが込み上げてきた。まったく、いつも振り回してくれる困った小悪魔だ。
◁▶
家に着いたら出版社から荷物が届いていた。中くらいの段ボール箱。なんだろう、もしかして原稿のゲラ? 開けてみると一番上に出版社からの手紙。それを読んで一瞬固まった。
「なんでファンレター?」
昔のいやな記憶が蘇る。ひどい手紙が多くて、ある時期から受け取らないようにしていたのだ。それなのになんで今頃送ってきたの? 出版社からの手紙には、それを承知した上でこの手紙は送った方がいいと判断したと書いてあった。どういうこと? 中を見ると届けられた順に仕分けられた大量の手紙の束が入っていた。恐る恐る一通、手に取ってみる。差出人を確認した。
「え?」
『春乃まゆみ』という文字が目に飛び込んできた。慌てて他の手紙も確認してみる。どれもこれもすべて『春乃まゆみ』からだった。
「いったい何通あるのよこれ?」
受け取りを拒否してから五年間。ざっと150通近くある。なんでこんなにたくさん? とりあえず一番古い手紙を開いてみた。拙い文字が踊っている。このころ彼女はまだ小学生だろうか。
【みさき柚先生へ 先生のご本『あした輝く』読みました。すごーく面白かったです。由美が頑張ってアイドルになれて嬉しかったです。あたしも、まゆみなので、お仕事頑張ってすごい女優さんになりたいです】
うわー、微笑ましい。あの子がこんなかわいいお手紙を書いてたのかあ。
次も読んでみると今度は二作目をせっついて買ってもらって読んだことが書いてあった。それからの何通かも作品の感想が微笑ましい言葉で書かれていた。そして次第に彼女の手紙はまるで交換日記のようになっていった。
【みさき柚先生、お元気でしょうか? あたしは元気にやってます。でもこの頃、全然身長が伸びないことが悩みです。もっと大きくなりたいなあ。大人の女優さんになるためには身長も必要みたいなんです。でも小さいままでも由美の様に頑張ります】
【今度、ドラマに出演することが決まりました! やった! 先生、見てくださいね】
【先生はお元気なのでしょうか? なかなか新作が出ないので心配してます。大丈夫ですか?】
【今度舞台のオーディションに行きます。頑張ってきますので応援していただけたら嬉しいです】
【オーディション落ちてしまいました。悔しいです。でも、由美のようにあたしも諦めません。先生の新作も待ってます】
【もうほんとに悔しいです。最近全然役をもらえません。あたし、大人の女優さんになれないのかなあ?】
【先生の新作が読みたいなあ。ずっとずっと待っています】
【先生、ごめんなさい。あたし、先生にあった事、何も知りませんでした。色々調べて人にも教えてもらって知りました。一杯辛いことがあったんですね。あたしも色んな事をネットに書かれてます。才能ないのにとかブスとかチビとか。悲しくなりますよね。でも、あたしには先生の本があるから、由美がいるから大丈夫です。由美は、あたしの全てでした。落ち込んだ時、いつも勇気をもらいました。悲しい時にはいつも励まされました。そんな存在をくれた先生だから、絶対大丈夫だと信じてます】
【先生のために、あたしにできることなにかありますか?】
【先生、あたし決めました。先生の本を一杯広めて先生のファンをたくさん増やそうと思います。そうすれば、ひどい評判なんかかき消すほど良い評判が広まると思います。そしたらまた書いてくれますか?】
【今度映画のオーディションで一人芝居をすることになりました。良い台本を探してるんですが、なかなか見つかりません。どこかに良い本ないかなあ? あ、そうだ! 先生、なにか書いてもらえないでしょうか? 書いていただけると嬉しいです】
【わがまま言ってごめんなさい。でも、台本云々は置いておいて、やっぱり先生の新作が読みたいなあ。あたしそのためなら何でもします。したいです】
【先生、やっぱり、無理なのでしょうか?】
【先生、すみません。あたし諦めきれないから、ちょっと強引な手を使ってしまいました。ごめんなさい。でも、これで無理なら諦めます】
【すごくドキドキしています。来週です。運命の日です。あたしは先生のお役に立てるでしょうか? それだけが心配です】
全てを読み終えた時、彼女に出会ってからの幾つもの記憶が蘇ってきて、驚きと共に胸が熱くなった。
彼女が私に会うために転校して来たという事実。私の為にしてくれたこと。私のファンを増やすために読書会でしていただろう努力。そのくせ私の前ではその事をおくびにも出さず、私に憎まれることも厭わず、私を過去のトラウマから引っ張り出そうとしてくれていたのだ。
涙が溢れてきた。こんなにも長い間、彼女は私のファンでいてくれて、私のお話を愛してくれて、私のお話を待ち望んでくれていたんだ。手紙を胸に抱きしめる。ちょっと得意そうな彼女の顔が浮かんだ。あは。私、これからどんな顔をして彼女に会えばいいんだろう? 知らない振りできるかな? それともちゃんとお礼を言おうか? そしたら彼女、どんな顔するだろう? その顔を想像して笑みが漏れる。温かな涙が頬を零れ落ちていった。
◁▶
「せんぱーい、上手く撮ってくださいよー」
「私こういうの苦手なのに」
「じゃあ、いきますからね。先輩が、スタートって言ってください」
「えー」
「はやく!」
「わかったわよ」
スマホを動画モードでかまえながら彼女を見る。小柄な体に男物の服を着て、まるで少年のようなきりっとした表情で立っていた。それは、なにがあっても諦めず、私まで闇の中から引っ張り出してしまった小悪魔少女の姿。すごくかっこいいと思った。彼女と交わした約束を思い出す。私も、もう一度、ここから始めてみよう。
だから、胸に湧き上がる想いを込めて私はその言葉を告げた。よーい
ーーースタート!