手紙と紡ぐ物語
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ひとつ、昔話をしましょうか。
昔々、僕、清川清一は、作家として生計を立てていました。紡さんと同じく児童文学を専門としていて、新作を出版した時にはあちこちの書店でサイン会を開いてもらったりと、それなりに名の知れた作家だったと思います。
仕事で執筆する物語とは別に、妻である杏子さんが営む駄菓子屋『杏子堂』にやって来る子ども達の為に、彼らがリクエストする内容の物語を、趣味として書いていました。
自分が勇者となって魔王を倒しに行く冒険譚、お姫様になって王子様と恋に落ちるラブストーリー…彼らがリクエストするのは、自分が主人公の物語でした。
そんなある日の夜、2人でお茶を飲んでいると、お茶請けのチョコレートの包みを開けながら杏子さんがぽつりと言いました。
「私もいつか、清一さんに私が主人公の物語を書いてもらいたいわ」
僕は心の底から驚きました。
杏子さんとはそれまで、僕の物語の話をしたことがなかったからです。そんな訳で、杏子さんが「自分が主人公の物語を書いて欲しい」なんて言ってくると思っていませんでした。
だから、驚きと共にほのかに嬉しさも感じました。
「わかった、絶対に書くよ。杏子さんが主人公の、とびきり素敵な物語を」
「絶対よ。どうか、忘れないでね」
それは2人だけの小さな小さな、しかしとても大切な約束でした。
僕は、その約束を忘れることはありませんでした。
しかし、約束を果たすよりも僕が天国に旅立つ方が先になってしまいました。杏子さんとの約束を果たせなかったことを、僕はずっと悔いていました。
そんな中、天国では最近、雲の下の世界で生きる人1人だけになら手紙を出せる、という仕組みが出来ました。神様もなかなか粋ですよね。
そんな仕組みが出来たからには、僕も誰かに手紙を出したくなります。勿論、真っ先に杏子さんの顔が思い浮かびました。そして、その後すぐに浮かんだのは、あの果たせなかった約束です。
そこに、今回たった1人しか出せない手紙の相手として紡さんを選んだ理由があります。
紡さん、どうか僕と一緒に、杏子さんが主人公の物語を書いてくれませんか。
僕が天国で物語を書いたとしても、雲の下にいる杏子さんに読ませてあげることは出来ません。そこで、これから僕が杏子さんにまつわる思い出を手紙に綴って送るので、紡さんにはそれを基に物語を書いて欲しいのです。
一方的なお願いということは重々承知しています。ですが、いつも優しさに満ちた、心が豊かになる物語を生み出している紡さんにしか出来ないお願いなのです。
どうか、力を貸してください。
清一
追伸。神様によると、僕から手紙を送ることは出来るけれど、紡さんからこちらへは返事を送ることが出来ないそう。どこまでも一方的な形になってしまって申し訳ない。
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夕暮れ時の駄菓子屋。
レジ台の椅子に腰掛けて、"もう10年も前に亡くなったおじいちゃんからの手紙"を読む。
これは現実?夢?
タチの悪いいたずらだろうか。その判断もつかない位に、私の頭はぼんやりとしていた。
どちらにしても、この手紙に綴られている願いを叶えてあげることは難しいだろう。
残念ながら、杏子おばあちゃんは、もうあと1ヶ月しか"雲の下の世界"に居られないのだから。
✳︎
「残念ですが、あと1ヶ月です」
無機質な部屋に浮かんだ現実味の無い台詞を、暖かい午後の日差しが差し込むバスに揺られながら反芻する。
今日も私が帰る前に「次に来る時は、何か甘いお菓子を持ってきてちょうだい。そうだ、久しぶりに金平糖が食べたいわ」と笑っていたおばあちゃんは、どうやら1ヶ月後にはこの世にいないらしい。
早くに両親を亡くした私を大切に育ててくれたおばあちゃん。私の唯一の家族。だけど1ヶ月後、私はついに独りぼっちになるのだ。
未だ飲み込めない現実と共にバスを降り、ふわふわした足取りで自宅である駄菓子屋『杏子堂』へ向かう。
私は大学卒業後、おばあちゃんが営むこの店を手伝いながら、児童文学作家として活動している。
特に実力がある訳でも無いのに幼い頃からの夢を諦めきれずにいたのは、生前、同じく作家として活躍していたおじいちゃんの存在に憧れていたからだろう。
小さな仕事ばかり引き受け続けてまともな収入が無い私を、おばあちゃんは黙って見守ってくれていた。そんなおばあちゃんには申し訳ない気持ちしかなく、せめてもの罪滅ぼしにと杏子堂を手伝い始めたのだ。
おばあちゃんとの日々は、本当に他愛のないものだった。そんな日々が一変したのは、つい3日前の事。
出版社との打合せから帰ってくると、台所でおばあちゃんが倒れていた。動揺して右往左往した後、私は震える手で119番の番号を押した。
病院に搬送されてからは検査が続き、今日、残りの時間が私だけに告げられたのだった。
なんとか店の前に辿り着き、軒先のベンチにドサっと腰掛ける。何の明るさも感じない未来を想うと身体に力が入らない。
おばあちゃんには、まだこの事実を伝えていないが、きっともう、病院に運ばれた時点で彼女は全部分かっている気がした。彼女は、そういう人だ。
✳︎
どれ位の時間が経ったのだろう。
気がつくと目の前に「つーむーぎーちゃーん!」と叫ぶ、ランドセルを背負った一軍がいた。この店の常連客である、近所の小学校の子ども達だ。
見舞いに来る日でも、子ども達の下校時間の15時までには店を開けなさい、というおばあちゃんの指令から『ほんじつ、3じかいてん』の貼り紙をしておいたのだが、いつの間にかその時間を迎えていたようだ。
「紡ちゃん、こんにちはー!」
「お店の前で何してるの?中に入らないの?」
「あのね、今日学校でねー」
物凄い勢いで話しかけてくる彼らは、まるで小さな怪獣だ。けれど、今日はその騒がしさが何だか有り難かった。
「あー、ストップストップ!今開けるから!」
鍵を開けて店の中に子ども達を入れると、楽しそうに駄菓子を選び始めた。
飴玉、ビスケット、お煎餅…それから、金平糖。これはおばあちゃんが1番好きなお菓子で、何かにつけて子ども達にオススメしている内にいつの間にか人気商品になっていたそうだ。キラキラとした見た目が彼らの心を掴むのだろうか。
子ども達は店内をぐるぐる巡り、思い思いの駄菓子を購入して外へ駆け出して行った。そんな中、1人の女の子が店内に残って小粒のチョコレートが入った箱をじっと見つめている。彼女は確か、先月転校してきたという2年生の桜ちゃんだ。
「どうしたの?何かあった?」
「これ…」
箱の中を覗くとクリーム色の封筒が不自然に刺さっていた。今朝、掃除をした時には無かったのに、と首を傾げながらそれをつまみ出すと、そこには『清川 紡 様』と私の名前が書いてあった。
「誰が入れたんだろう…あ、見つけてくれてありがとうね」
そう言うと、彼女はにっこり笑って、自分が買ったチョコレートを手に友達がいるベンチへ駆けて行った。
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閉店時間より少し早かったが店を閉めて、奥のレジ台の椅子に腰掛ける。
チョコレートの箱の中に入っていた封筒には住所も送り主も無く、ただ私の名前だけ記されており、その文字に私はなぜだか懐かしさを感じていた。
それをじっくりと眺めた後、封を剥がして中の便箋を開いた瞬間、私は思わず息を呑んだ。
そこに書かれていたのは、亡くなったおじいちゃんの名前だったからだ。
手紙を乱暴にレジ台へ置き、奥の自宅スペースの押入れから段ボールを引っ張り出した。そこに入っているのはかつて作家としておじいちゃんが生み出した物語の原稿達。1枚引き抜いて急いでレジ台に戻る。手元の手紙と原稿の文字を見比べると、それらは同一人物が書いたとしか言いようがない程酷似していた。
煩い程激しく鼓動を打つ心臓を落ち着けるべく短く息を吐き、私は手紙を読み始めた。
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清川 紡 様
まずは、お元気ですか。
この手紙を読んで、さぞ驚かれたことでしょう。しかし、これを書いているのは正真正銘、貴女の祖父である清川清一です。
豊かな想像力を持つ紡さんだったら、この手紙がいたずらではないということを信じて貰えると思い、筆を取った次第です。
僕がこの世に別れを告げて10年程の時間が経ちますね。僕が今居るのは所謂天国という場所で、それはとても穏やかな生活を送っています。だけど杏子さんも紡さんも居ないのはとても寂しいです。
さて、突然ですが、今日はここでひとつ、昔話をしましょうか。
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穏やかな語り口調に、読み手を引き込む文章構成。それは、全て紛れもなくおじいちゃんの言葉だった。
加えて、滑らかな美しい文字。
ここまでの材料が揃っているのに、未だ本物か判断がつかないのは、天国から手紙が届く、というあまりにもメルヘンすぎるシチュエーションのせいだろう。
しかし、私のおじいちゃんであれば、天国からだって手紙を寄越してきそうな気がしてしまう。何せ生前は子どもたちに夢を与える児童文学作家だったのだから。
それにしても「おばあちゃんが主人公の物語を書いて欲しい」というおじいちゃんの願い。これを叶えるとしたら、やはりおばあちゃんに物語を読んでもらうまでがセットだろう。
だとしたら、期限は1ヶ月。
しかし、今日突然突きつけられた現実に頭が追いつかず、今の自分が新しい物語を書くことはもはや無謀に思えてしまう。
1日の間に色々なことが起こって、思考は既に停止状態だった。
私はもう考えることを諦め、手紙と1枚の原稿を手に、ふわふわした足取りで自宅スペースへ戻った。
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おじいちゃんの手紙は毎日届いた。まるで、本当に天国でおじいちゃんが手紙を書いていることを裏付けているかのように。
2通目の手紙には、おじいちゃんとおばあちゃんの2人の出逢いが綴られていた。
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杏子さんと出逢った日のことは絶対に忘れません。
ある日町を歩いていると、前方に重たそうな荷物を抱えた女の子がよろよろと歩いていました。坂道になると彼女の歩速はさらに落ちていきます。正直、僕は気が気じゃありませんでしたが、声をかけられず後ろから見守っていました。
やっと彼女が坂を上りきり、ほっとした次の瞬間、彼女はくるりと振り返って今上ってきた坂を見下ろし、おもむろに抱えていた荷物をひっくり返したのです。飛び出してきたのは、林檎でした。
僕はびっくりして、次に、林檎を拾う為に坂道を駆けて下りました。ごろごろ転がる林檎をなんとか拾っていると、女の子がこちらへ駆けてきて、「ごめんなさい!」と、大層申し訳なさそうに謝ってきました。先程の潔さはもうすっかりありません。
「ええと、どうしてこんなことを?」
僕が尋ねると彼女は少し黙った後、意を決したように顔を上げてこう言いました。
「私、最近こっちに越してきたばかりで友達もいなくって。何だか世界に独りぼっちになってしまった気がして不安になって…それで、林檎をこうやってばら撒いたら、誰かに当たってその人と友達になれるかなあって。そんなことを突然思いついたんです。そして気が付いたら、本当に行動に移していたんです」
それを聞いた僕は、なんて面白い発想を持つ子なんだろうと、一瞬にして心を奪われたのです。
「それじゃあ、僕と友達になろう」
その言葉を聞いた瞬間、彼女の表情は一気に明るくなりました。
「本当に?こんなに迷惑をかけてしまったのに」
「確かにびっくりしたけれど、君はすごく面白そうだからね。僕は清川清一。君の名前は?」
「田中杏子。よろしくね。ああ、とっても嬉しい!」
それが、杏子さんとの出会いでした。
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このエピソードはとても2人らしく、読みながら笑ってしまった。
おばあちゃんは歳を重ねても少女のような天真爛漫さとユニークさを持つ人だった。なので、この手紙に描かれている当時の様子がありありと目に浮かんだ。
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手紙は毎回ポストではなく、決まって駄菓子屋の店内に届き、さらに不思議なことに、その時の手紙の内容に関連したお菓子の箱に入れられていた。例えば、2人の出会いについての手紙では、林檎がキーワードになる為か、林檎あめの箱に入っていた。
手紙は閉店後に自分で見つけることもあったし、店に来る子ども達が見つけてくれることもあった。彼らの中でも特に、1通目の手紙を見つけてくれた桜ちゃんが気づいてくれることが多い気がする。
彼女は他の子ども達より大人しいが、どこか遠くから皆を見守っているような、落ち着いた穏やかさを持つ子だった。
そして彼女は手紙を私に渡してくれる度に、未だ店に不在のおばあちゃんの容態を訪ねてきた。
「いつも通りだよ」とやんわりとした返答をしていたが、日を重ねる毎におばあちゃんが弱っていった。
この間はおばあちゃんの希望通り、おやつに金平糖を持って行ったが、それを口にすることはなく、にこにこしながら眺めるだけだった。窓からの光を浴びてきらきらと光る金平糖を眺めるおばあちゃんは、なんだか儚くて、本当に消えてしまいそうだった。
そして、おじいちゃんの手紙で綴られる昔のおばあちゃんの様子からは遠く離れている気がして、胸が締め付けられて、私はなかなか物語を考える気持ちにはならなかった。
それでも手紙は届き続けた。
私が好きな、小さなドーナツのお菓子が入った箱に届いた時は、2人が結婚した時の話が綴られていた。
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僕たちは、やがて友達から恋人になりました。それはとても自然な流れで、その時は僕も杏子さんもお互いに「好き」という気持ちを確認し合っていませんでした。
デートらしいデートは殆どせず、休日は近場を散歩したり、どちらかの自宅でお喋りをしていました。2人で居られるなら何処でも良かったのです。
杏子さんは時折、おやつにドーナツを作ってくれました。紡さんも食べたことがあるでしょう。揚げたてのふわふわのそれに砂糖を振りかけただけのシンプルなもの。僕はあのドーナツがとても好きでした。
あの日も杏子さんは、僕の家の台所でドーナツを作っていました。
窓から差す柔らかい午後の光、それを浴びてほんのり輝いて見える杏子さんの後ろ姿、そしてドーナツが揚がる香ばしい香り。その時、僕はふと思ったのです。「この人とずっと一緒に居たい」と。そして次の瞬間、こう口にしていました。
「杏子さん、僕達、結婚しよう」
振り返った杏子さんは最初、目を丸くして僕を見ていましたが、すぐにくすくす笑いました。
「あら、私はまだ、あなたに好きだなんて言ってないわよ?」
僕はあまりにも図星すぎて一瞬口を噤んでしまいました。(それにしたって、折角のプロポーズを受けているのに、何て意地悪を言う方なんでしょう。まあ、それが杏子さんの可愛いところなのですが)
「でも、僕は杏子さんのことがとても大切ですし、杏子さんも僕のことをとても好いてくれているとお見受けするのですが?」
「あらあら、随分と自信満々ね。でも正解よ。私も清一さんのことが大好きですし、仮に清一さんが私のことを好いていなくても「はい、そうですか」って、諦めてなんかあげないんだからね」
「じゃあ、僕と結婚してくれるね?」
「はい、これからもよろしくお願いします。末永く」
こうして僕たちは夫婦になったのです。
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手紙は15通届いた。
そこからは、おじいちゃんが如何におばあちゃんを大切に想っていたかが伝わってきた。
しかし、ここまで読んでも私はまだ物語を書けずにいた。仕事で考えている物語は順調に進められるのに、このことになると思考がぱたりと止まってしまうのだ。
そして、15通目の手紙が届いた後、おじいちゃんからの手紙はぱったり止まってしまった。
それはきっと、その翌日におばあちゃんが亡くなったからだ。
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余命1ヶ月という時間よりも少し早く、おばあちゃんは天国に旅立った。
最期の日、連絡を受けて私が病院へ駆けつけた時には、既におばあちゃんの呼吸は途切れ途切れだった。
しかしそんな中、私が病室に着いた瞬間、気配に気が付いたのかおばあちゃんは薄っすらと瞳を開けた。
「おばあちゃん…?」
「…私はまた、清一さんに会えるのかしら…」
その目は遠くを見ていて、何処かへ行ってしまいそうで、私は思わずおばあちゃんの手をぎゅっと握った。
「…うん、絶対に会えるよ。…おじいちゃんも待っているよ」
「そう…そしたら清一さんに…あの約束…今度こそ叶えてもらわないとねえ…」
弱く微笑んだおばあちゃんを見て、私の胸はずきんと痛んだ。
違う、おじいちゃんはちゃんと約束を叶えようとしている。なのに、私がそれを妨げているのだ。
「紡ちゃん…」
もう、殆ど掠れた声で呼ばれる。
「私が居なくても…紡ちゃんは…独りぼっちなんかじゃ…ないからね…」
そう言って、ひとつ息を吐いてから、おばあちゃんはゆっくりと永い眠りについた。
それからは本当にあっという間で、気がついたらお通夜が終わっていた。
自宅である杏子堂で行ったお通夜には大勢の人が集まり、おばあちゃんの昔話で盛り上がっていた。私は、その様子をただぼんやりと眺めていた。
その夜、つまりおばあちゃんの肉体がこの世に存在する最後の夜、私はおばあちゃんが眠る棺から離れられずにいた。
おばあちゃんの最期の言葉が、未だに頭の中で流れ続ける。
「清一さんにあの約束、今度こそ叶えてもらわないとね」
おばあちゃんもあの約束を覚えていたのだ。
そしてその約束は、私のせいであっさりと叶わずに終わってしまった。
一体どうすればよかったのだろう。何故、私はこの物語だけ書けなかったのだろう。
暗い何かが延々と胸の中で渦巻いていた。
その時、店の方からガタン!と大きな音がした。はっとして振り向くと、自宅と店を隔てるガラス戸にぼんやりと小さな影が見えた。
…泥棒?
うっかり店側の鍵を閉め忘れたのだろうか。泥棒だとしたも、おばあちゃんがいなくなった今、もう殺されたってどうなったっていい。だってもう、私を心配する人はいないのだから。
そう思って半ば自暴自棄気味にガラス戸を開けると、そこに居たのは、なんと桜ちゃんだった。明らかにまずい、という表情で、こちらを向いて立っている。
「こんな夜遅くどしたの…?」
時刻は0時過ぎたばかりで、当然子どもが1人で出歩いて良い時間ではない。
桜ちゃんは動揺しているのか少し目を彷徨わせていたが、その後すぐ、意を決したかのように何かをずいっと私に差し出した。
見慣れたクリーム色の封筒だった。
「…紡ちゃんの…お、おじいちゃんからのお手紙」
そう告げられた瞬間、私はすぐにその言葉の意味を飲み込めず、暫く桜ちゃんの顔を見つめてしまった。
「え、っと…?」
「紡ちゃんのおじいちゃんからのお手紙。私が預かって届けていたの。…それで、これは新しいお手紙」
そこでやっと、私は差し出されていた封筒を受け取った。表にはこれまでと同じく、綺麗な字で私の名が記されていた。
沢山の「何故」が頭を駆け巡る。これは桜ちゃんが仕掛けたいたずらだったということ?だとしたら、小学生の女の子がやるものにしてはタチが悪すぎだ。
「…桜ちゃん、私のおじいちゃんはね、もう生きていないんだよ」
「うん、知っているよ」
そこまで言って彼女はまた何かを考え、そして私に向き直った。
「紡ちゃん、今から私が話すこと、嘘みたいなお話なんだけど、でも、本当のことなの。聞いてくれる?」
彼女の真剣な眼差しに圧倒され、私は黙って頷く。
「私は、もう生きていないの。本当は、紡ちゃんのおじいちゃんと同じ天国にいるの」
突然の発言に、私は目を丸くする。
「おじいちゃんからの一番最初のお手紙の中で、神さまがこの世界の人にお手紙を出せる仕組みを作ったって書いていたでしょう?私は神さまのお手伝いをしていて、天国からこの世界の人へお手紙を届けているの」
これは、彼女の作った壮大なお伽話なのだろうか。しかし、目の前の少女の瞳は、これが彼女の嘘でも空想でもなく、紛れも無い事実であることを告げていた。
「…えーと、じゃあ、あなたは天使ってこと?」
「う、うーん…そんな感じなのかなあ」
我ながらメルヘンな問いに、首を傾げつつも答えてくれた。
その後の時間は、これが現実だという確証を得る為の答え合わせだった。
「天使だけど、普通に学校に通っているよね?」
「神さまから、この世界の日常に紛れ込んで、手紙の相手の様子を見てくるように言われていて。紡ちゃんに会うなら、杏子堂に通う小学生になるのが自然かなって」
「様子を見て、どうするの」
「手紙の送り主に伝えるの。だから紡ちゃんのおじいちゃんにも紡ちゃんのこともおばあちゃんのことも伝えてるよ」
「そっか…ポストじゃなくてお店の中に手紙を届けていたのは?ほら、その時の手紙の内容に関連したお菓子の箱に入れていたでしょう?」
「お店の中なのは、毎日みんなと帰りに寄った時に届けていたから。お菓子の箱の件は、おじいちゃんから「今日はこの箱に入れてきて」って、頼まれていたから」
まるで夢のような話が、どんどん現実味を帯びてくる。この話だけで、物語1つ書けてしまいそうだ。
「もう1つ聞いていい?」
「なあに?」
「その…おじいちゃんは今、元気?」
「うん…私にもとても優しくしてくれるよ」
「そっか。良かった」
例え天国でも、おじいちゃんはおじいちゃんらしく暮らしている。そう思うと少しだけほっとして、ちょっとだけ笑ってしまった。
そんな私を見て、桜ちゃんはもう一度真剣な表情で語りかけてきた。
「おじいちゃんは、ずっと紡ちゃんとおばあちゃんのことを気にかけていたし、おばあちゃんとの約束のこと、ずっと気にしていたの」
そこで私の胸はまた、ギジリと軋んだ。
「それで迷って迷って、紡ちゃんにお願いをしたの。紡ちゃんの負担になることも心配していたし、おばあちゃんがもうすぐ天国に来るとは何となく感じていたみたいだけど、この世界で生きている間に、何とか形に出来ないかって…」
「…うん…」
そこで桜ちゃんは私の手にそっと触れた。とても、冷たい手だった。
「紡ちゃん、私からもお願いします。どうか、物語を書いてください。もうおばあちゃんは亡くなってしまったけれど、紡ちゃんの手で、この世界におじいちゃんとおばあちゃんが望んだ物語を生み出すことに意味があると思う」
私は黙っていた。
そう、物語を読んでもらう相手は、もう読める状況にないのだ。それなのに物語を作って意味があるのだろうか。
その時、「…新しいお手紙」と桜ちゃんが口にして、再び自分の左手に握っていた手紙の存在を思い出した。
彼女の手をそっとほどき、私は封筒を開いた。
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紡さんは、杏子堂がどのように開店したかご存知ですか?
あれは、杏子さんが突然「清一さん、私、駄菓子屋さんを始めてみたいの」と言ったことから始まりました。
思えば彼女の中ではずっと燻り続けていた何かがあって、突然のことではなかったのかもしれません。
その頃、僕は病を患い、あまり外を出歩くことが出来ず、自宅で作品を書き続ける日々でした。優しい杏子さんはいつも僕のことを優先してくれていました。とても迷惑をかけていたと思います。そんな彼女からの突然の発言に僕はとても驚きました。
「…場所に当てはあるのかい?駄菓子屋だったら、問屋だって探さないといけないだろう」
「準備はまだ全然。だけど場所だけはここが良いというところがあるの。ここからとても近いところよ。清一さんの体調が良ければ、これからお散歩がてら一緒に見に行ってもらえないかしら」
そこは、当時僕達が住んでいた場所から15分程歩いた場所にありました。商店街からは少し外れた、でも微かに人の賑わいを感じる場所にあったのは、古びた民家でした。
「実は、不動産屋さんに少し話を聞いたのだけど、今ならこのお家を安く改装して商店ができるようにしてくれるらしいの」
僕は何も言わず、その民家を見つめていました。とても陽当たりがよく、明るい杏子さんにぴったりだと思いました。
「学校帰りの子ども達が集まってきて、とても賑やかになるわよ。そしたら清一さんも、もっと元気になると思うわ」
僕は驚いて彼女を見ました。
「…僕はそんなに元気がないように見えたかい?」
「いいえ、でも、今はなかなか外に出れないでしょう。自分達が外に出れないのだったら、向こうさんから来てもらえるような場所を作れば良いと思ったの」
悪戯っ子のように笑う杏子さんを見て、僕は彼女と出逢った日のことを思い出しました。林檎を転がして友達を作ろうとした彼女なら思いつきそうな考えだと、思わず笑ってしまいました。
「それでね、お店には絶対、金平糖を置くの」
「金平糖?」
「そう、金平糖ってお星さまみたいで綺麗で、食べているみたいで幸せな気持ちになれるの。私、とても好きなのよねえ。それで、清一さんにも、子ども達にも金平糖を食べてもらって、ずっと笑顔でいて欲しいなあって。そういうお店を作りたいの」
それを聞いた僕は、堪らなく彼女の事が愛しくなって、ここが外だということをうっかり忘れて彼女をぎゅっと抱きしめました。
「杏子さん、ありがとう」
うふふ、と笑って杏子さんは僕の背中にそっと腕を回しました。
それから杏子さんは、殆ど僕の手伝いなしに杏子堂を開店させました。杏子さんの思い通り、店には毎日沢山の子ども達がやって来て、僕も杏子さんもとても楽しい日々を過ごしました。
やがて、金平糖は(杏子さんがひたすらおススメしていた甲斐があったのか)杏子堂の人気商品となりました。
それから時は経ち、僕は一足先に天国へと旅立つことになりました。
杏子さんをまた独りぼっちにしてしまうことは、とても申し訳なく思いました。何せあの方は、重度の寂しがりやですから。
だけどここには、紡さんもお店に来る子ども達もいる。そうだ、彼女はもう独りぼっちじゃないんだ。そう思うと少し安心出来ました。
そう、誰だって独りぼっちなんてことは、きっとないのです。
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読み終えた時、私の目の前は涙でぐしゃぐしゃになっていた。そんな私を、桜ちゃんは小さい身体でそっと抱きしめてくれた。
「私もいるよ、紡ちゃん」
「…うん」
そしてひとつ深呼吸をして、私は言った。
「書く、今から」
桜ちゃんは優しく微笑んで「ありがとう」と呟いた。
それから私は、自分の机に原稿用紙を広げ、鉛筆を握った。
どうにか明日の火葬の時間までには間に合わせたい。せめて棺の中に物語を入れてあげて、天国に持って行って欲しいと思ったのだ。
そして、これまで散々書けずに悩んでいたのが嘘のように、なぜか今は自然と鉛筆を握る手がどんどん進んでいく。私は天からアイデアが降ってくるというタイプでは無いので、これは初めての体験だった。
私が物語を書いている間、桜ちゃんはずっと隣に座ってくれていて、それは本当に不思議な時間だった。
全て書き上げた時、外はすっかり明るくなっていた。時計を見ると、8時を少し過ぎたところだった。何とか間に合ったようだ。
表紙を付け、原稿用紙の上部に穴を開けて紐を通した簡単な製本。だけど、私の心は満ち足りていた。
おばあちゃんの棺にそっと寄り、出来立ての物語を置く。
「おばあちゃん、おじいちゃんはちゃんと約束覚えていたよ。私のせいで待たせちゃって、ごめんね。でも、私なりにおじいちゃんの想いを沢山詰め込んだよ。だから、天国に行ったら、おじいちゃんと読んでね」
それは永遠に感想を聞くことが出来ない物語。だけど、おばあちゃんはきっと喜んでくれる。何故かそんな確信があった。
桜ちゃんにもお礼を言わねば、と一息ついて後ろを振り向くと、そこに彼女はもう居なかった。
✳︎
葬儀も終わり、いつもの日常が戻ってきた。今日も杏子堂は賑やかだ。
1つだけ変わったことがあるとすれば、あの夜以降、桜ちゃんの姿を見ることはなかった。そしておじいちゃんから手紙が届くことも、もうなくなった。
どういう仕組みかわからないが、私がおじいちゃんのお願いを叶えてあげられたからだろうか。だとしても、あの不思議な手紙がもう読めないのは、何だか少し寂しい。
…なんて、こんな風に考えられるのは児童文学作家として日々空想を紡ぎ続けているからだろうか。
今日も私は独りぼっちだ。
だけど、おばあちゃんが残してくれたこのお店があるから寂しくなんかない。
そして、未熟ながらもおじいちゃんと同じ作家として、天国へ行くまでに沢山の物語を生み出したい。そんな想いがむくむく膨れて、私はまだ見ぬ未来が楽しみになっていた。
そういえば、天国へ行ったからには、おばあちゃんもいつか手紙を出すのだろうか?出すとしたら誰に出すのだろう。私だったら、嬉しいなあ。
そんなことを考えて、1人くすくす笑いながら、今日も私はこの世界で生きるのだ。
☆☆☆
『金平糖の花』 きよかわ つむぎ
その昔、とある王国に可愛らしいお姫さまが暮らしていました。
お姫さまは、いつも独りぼっちでした。
正確には、お城で働く召使いや兵隊達がいたのですが、恥ずかしがり屋なお姫さまは素直な心を見せることが出来なかったのです。
ですから、独りで過ごしていた方が心底楽だと思っていました。
ある日、お姫さまは森の中を散歩していました。
お姫さまは散歩が大好きでした。静かな森の中に広がる風の音や小鳥のさえずり。これを聞いている時だけ、お姫さまは「自分は独りではない」と思うことが出来たのです。
しかし、その日はなぜか木の葉が触れ合う音ひとつさえ聞こえず、お姫さまが慣れ親しんだ森とは全く違うもののようでした。
不安になったお姫さまは、どうにかしてこの静かな森の中に音を生み出さねば、と思い、自分が身に付けていた綺麗な真珠のネックレスを引きちぎり、土の上にばら撒いてしまいました。
ぱらぱらぱら、と土の上に真珠が落ちる音が聞こえて、お姫さまはほんの少しだけ安心しました。
そこでお姫さまは我に返りました。お姫さまが引きちぎったネックレスは、亡くなった女王さまから貰った大切なものだったのです。
お姫さまは慌ててばらばらになった真珠を集めはじめました。
その時、目の前にゆらり、と、1つの影が現れました。
お姫さまが顔を上げると、紺色のローブを纏った見知らぬ男が立っていました。
「…あなたはだあれ?」
「僕は、魔法使いですよ」
あまりにも胡散臭い台詞に、お姫さまは思わず顔をしかめました。
「魔法使いだなんて、お伽話の世界にしか存在しないのよ。あなた、私が世間知らずな姫だと思ってからかっているのね」
「おやおや、僕はあなたがお姫さまだということは知らなかったですし、ましてや初対面のお嬢さんをからかうなんて悪趣味はありません。時に可愛いお姫さま、何かお困りのようですね」
魔法使いと名乗る男に、今自分が困っているということを言い当てられてしまったお姫さま。
困っていることは事実なので、正直に魔法使いに話してみることにしました。
「大切な真珠のネックレスを壊してしまったの…」
「それは大変だ。では、お姫さまの為に僕が魔法で直してあげましょう」
そんなことが出来るのかと、疑うような目で魔法使いの顔を見ると、魔法使いはにっこり笑ってウインクをしました。
そして、右手に持っていた杖をひとつ、ぐるりと回すと、不思議なことにネックレスは元通りになったのです!
これにはお姫さまもびっくりです。
「これで僕が、魔法使いだということを信じてもらえましたね?」
「ええ、ええ、すごいわ!ありがとう!」
気がつくとお姫さま笑顔になっていました。人前で笑ったのはいつぶりでしょうか。
そして、お姫さまはこの魔法使いともっと仲良くなりたいと思いました。
「ねえ、あなたはこの近くに住んでいるの?」
「そうですね。そうとも言えるし、そうとも言えない」
「なあに、それ。よく分からないわ。…けれど、また明日ここに来たら、あなたに会えるのかしら?」
その問いに、魔法使いは微笑んで
「お姫さまが望めば、いつでも会いに参りますよ」
と答えました。
その言葉に、お姫さまがどれだけ喜んだことか。
それから2人は毎日森の中で会いました。
散歩をしたり、絵を描いたり。
中でもお姫さまは、大好きな『金平糖』というお菓子を食べながら、魔法使いとお喋りをする時間がとても好きでした。
「それにしても、この金平糖、というお菓子はとても綺麗ですね」
魔法使いは感心したように言いました。
「そうでしょう?お星さまを食べているみたいで、幸せな気持ちになれるの。ほんのり甘いのも良いのよね」
お姫さまはうっとりして言いました。その姿を見て、また、魔法使いは微笑みました。
魔法使いと一緒にいる時のお姫さまは、自分の素直な気持ちを言うことが出来ましたし、何より独りぼっちだと感じることは全くありませんでした。
しかし、そんな日々にも終わりが来てしまいます。
「突然ですが、僕は違う国へ行くことになってしまいました」
いつものように2人で並んで散歩をしていると、魔法使いが言いました。彼にしては珍しく、少し沈んだ声色です。
「そんなの、突然すぎるわ。どうしてなの?」
「偉い魔法使いからの命令です。僕は逆らうことが出来ません」
「…どうしてもなの?」
「ええ。お姫さまとは、ずっと一緒にいたいのですが」
「でも、私をまた独りぼっちにして、あなたは行ってしまうのでしょう?」
お姫さまは、大きな瞳に涙をいっぱい溜めて言いました。
「お姫さま。突然いなくなってしまうこと、本当に申し訳ありません。ですが、どうか、忘れないで。僕がいなくなっても、あなたは決して独りではないことを」
魔法使いはぎゅっとお姫さまを抱きしめました。
「お姫さまと一緒にいた時間は僕にとって宝物です」
「…私もよ」
そう、お姫さまが言った瞬間、魔法使いはふわりと風のように消えてしまいました。
また、独りになってしまった。
お姫さまは悲しくて悲しくて、わんわん泣きました。同時に、自分を独りにした魔法使いが何だか憎らしくなってしまい、気がつくと、2人でいつも一緒に食べていた金平糖が入った瓶を思いっきり地面に叩きつけていました。瓶はあっさりと割れて、地面には金平糖が広がりました。
そのまま、お姫さまは泣き疲れて森の中で眠ってしまいました。
次に目が覚めた時、お姫さまは自分の目の前に広がる光景に目を疑いました。
そこには沢山の綺麗な花が咲いていたのです。
それらは、ピンク・青・黄色…様々な色があり、お星さまのようにきらきらしていて、お姫さまが大好きな金平糖にとてもよく似ていました。
よくよく考えると、それらは金平糖が散らばった場所から生えていました。
そう、まさにそれは『金平糖の花』だったのです。
お姫さまはその輝く花畑を眺めていました。
すると、その花の甘い香りに誘われたのか、蝶々や小鳥、リスや子鹿たちが次々に集まって来ました。
ぱたぱた、ちゅんちゅん、とことこ。お姫さまの周りは次第に賑やかになって来ました。
次に、ばたばた、と地面が響く音と共に「お姫さまー!どこですかー!」という叫び声が聞こえて来ました。
そう、なかなか帰ってこないお姫さまを心配して、城の兵隊たちが探しに来たのです。
「ここよ…私は、ここ」
か細い声でお姫さまは応えました。
その声を聞き駆けつけた1人の兵士は、お姫さまの無事を確認するなりぎゅっと抱きしめて
「ああ、良かった…心配したんですよ」
と言いました。
そこで、お姫さまは魔法使いの言葉を思い出したのです。
《どうか、忘れないで。僕がいなくなっても、あなたは決して独りではないことを》
ああ、どうして気がつかなかったのでしょう。
お姫さまの周りには、沢山の動物達がいます。
そしてお姫さまを大切に想う、お城で働く人々がいます。
独りだなんてことは全くないのです。
「みんな、ごめんね。そして、ありがとう」
お姫さまは、微笑んで言いました。
それからお姫さまは、魔法使いの言葉を胸に、いつまでも笑顔で楽しく暮らしました。
おわり