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先生のおまじない

 ひとつ、昔話をしよっか。静かな声でそうつぶやいて、わたしは席を立った。紅茶を淹れよう。少し前に保健室を訪れた女生徒は、その涙の理由も明かさずにいつまでも泣き続けている。

「昔話って?」

 制服のセーターの袖口でぐいと涙を拭って、女生徒はガラス棚から茶葉を取り出すわたしに問いかけた。やっと顔を上げてくれた。そのことに少し安堵しながら女生徒のほうに向き直ると、彼女は真っ赤に充血した目に光を宿してこちらを見上げていた。頬には、涙の通ったあとが渇いている。

「わたしが、あなたと同じくらいの女の子だったときの話」

 聞きたい? 彼女に問いかけながら、なるべくその痛々しい顔を見ないようにして、紅茶のカップを机に置く。うつむいたまま、臙脂(えんじ)と紺のチェックのプリーツスカートをぎゅっと握りしめる手が透き通るように青白い。この話題はひょっとして、逆効果だっただろうか。

「…聞く」

 わたしが自分の言葉を後悔しはじめた頃、彼女は小さな声でそう答え、紅茶のカップを両手で握りしめた。食い入るように凝視しているその紅茶の表面には、どんな顔が映っているのだろう。わたしは自分用のミルクティーを用意して彼女の隣の椅子にそっと腰かけ息を吐いた。体育の授業中なのか、体操服姿の少女がポニーテールを揺らして窓の外からわたしに手を振った。それに微笑んで手を振り返す。春だな、と思った。

「じゃあ、話そうか。わたしが、あなたと同じように、何もかも上手くいかなくて、どうしようもない女の子だったころの話」

 隣の少女の視線を感じながら、思い出す。わたしが、何も持たないただの女の子だったときのことを。そう、始まりはやはり、今日のような春の日ことだった。


――


 どうして、と聞かれたら困るけれど、つまらなくてたまらなかった。わたしの話を聞いてくれない両親のせいかもしれないし、同じ人間だとは思えないほど言葉の通じないクラスメイトたちのせいかもしれないし、将来に何の希望も見出だせない自分のせいかもしれない。でも、そうやって明確に言葉にしてしまうとそのどれもが違うような気もした。ただ訳もなく、何に理由付けされることもなく、わたしはただ消えたかった。

 四月に入って新しいクラスになっても、封鎖された屋上に通ずる暗くて(ほこり)っぽい階段が、唯一わたしが学校で息をつける場所だった。制服のスカートが汚れてしまうのも気にせず、階段のいちばん上に腰を下ろす。遠くのほうから、さざめきのような笑い声が聞こえた。反射的に、スカートをぎゅっと握りしめ、細く長い息を漏らす。巷ではかわいいと人気らしい、臙脂と紺のチェックのプリーツスカートも、好きになれないままもう三年目の春を迎えてしまった。

 わたしはこれから、どうなるのだろう。この学校を卒業したら、何になるのだろう。何か明確な絵を思い浮かべようとしてみても、ぼんやりと仄暗い闇が視界を遮っているように何も見えない。どこか違う場所で生きている自分を、想像できない。だから、高校を卒業したら、死んでもいいか、と思う。今年は、ゆるやかに死んでいく一年にしてしまおうか、とも思う。

一色(いっしき)か?」

 ふいに名を呼ばれた。顔を上げると階段の下に人影が見えた。まず、面倒だな、と思った。そして、その影の正体が担任の櫻井先生だと気がついた瞬間、やばいな、という苦々しさが胸のうちにあふれた。今までの担任教師たちは、わたしに休み時間を共に過ごす友人がいないことを知ると、いらぬお節介を焼いてきたものだった。櫻井先生は、どうだろうか。今年度になって初めて教わることになった担任教師の、女子ウケの良いその顔を思い出しながら、わたしは膝のうえに頬杖をついて階段の隅に転がるまるく育った埃を見つめた。

「ここ、静かで涼しくていいなあ。はじめて来たよ」

 先生はゆっくりと階段をのぼって、わたしの一段下に腰をおろした。いつも目に優しい笑みを浮かべているその穏やかな顔は、わたしからは見えない。ただ、黒くて柔らかそうな髪の毛だけが見える。

「でも、ちょっと埃っぽくないか?」

「いえ、別に」

 なるべく返事をしないでいようと思っていたのに、急に振り向いた先生に驚いてつい反応してしまった。先生は何かを見定めるように戸惑ったわたしの顔をじっと見つめ、それから突然よし! と大きな声を出して立ち上がった。先生の顔を見上げると、なぜかまぶしくて、思わず目を細めてしまう。

「一色、ここ掃除しよう。きれいにして、すこしでも居心地よくしよう」

「え、でも」

「一色」

 先生は三度わたしの名前を呼んだ。まだ新しいクラスになって一週間しか経っていないのに、先生がわたしの名前を知ってくれていることが意外で、聞き慣れたはずの自分の名字がなぜだか特別な余韻でこだました。

「大丈夫だから」

 先生の根拠のない言葉はやけに力強く響き、気が付くとわたしはゆっくりとうなずいていた。座ったまま見上げた先生の背後からはこぼれるような光が差していて、先生のその細長いシルエットはまるで天に伸びる一本の若木のように潔く真っ直ぐだった。どうして、こんなにまぶしいのだろう。

「あ…」

 先生を何かの恩寵のように照らす光源を見つけて、思わず声が漏れた。この暗い階段の突き当たりの踊り場に四角い小さな窓があることを、そしてその窓からは咲きほこる桜が見えることを、三年目の春にしてわたしはいまはじめて知ったのだった。


 けたたましい蝉の鳴き声が耳をつんざき、青々と茂る木々もこころなしかぐったりとしてその葉脈を暴力的な太陽の光に透けさせている。暑い夏だった。先生は、棒アイスを舐めとるわたしをうらやましそうな顔でちらりと見て、またため息をついた。

「さすがに暑いな…」

 さっきから同じことを何度も言っている。大して涼しくもないだろうに、先生は気崩れたYシャツの胸元に性懲りもなく風を送り続けている。

「職員室は冷房効いてるんじゃないですか。戻ればいいじゃないですか」

 わたしがその汗ばんだ猫っ毛に答えると、先生は黙り込んで頬をぽりぽりと掻いた。桜が春の日差しによく映えたあの日から、わたしと先生は時折こうやってこの階段で一緒に過ごすようになった。何を話すというわけでもなく、ただ先生はいつもわたしよりも一段低い階段に腰かけて、あの小さな窓の外を見つめた。そして、わたしたちはたまに思い出したように言葉を投げ合っては、気まぐれのように口をつぐんだ。前触れもなく降りだしてはすぐに止む真夏のスコールのようなこの関係が、わたしは嫌いではなかった。

「なあ、一色」

 蒸し風呂のような暑さのなか、蝉の声だけが聞こえる。きっと、屋上が近いから余計暑いのだろう。じっとしているだけでこめかみから汗がしたたる。

「お前だけだぞ、進路希望調査表出してないの」

 わたしは食べ終えた棒アイスがはずれだったことを確認して、甘い汁が染み込んだ木の棒をくわえて前歯でへし折った。このアイスのくじ、当たったためしがない。本当に当たりなんて入っているのだろうか。

 あからさまに無視を決め込むわたしの汗まみれの素顔を、先生がずっと見つめているのがわかる。授業やホームルームのときはいつも嘘くさく笑っているのに、たまにこういう真剣な顔をするのが、ずるい。わたしはこの顔に弱かった。口の中に溜まってしまった唾液を飲み込んで、ずっとくわえたままだったアイスの棒を袋にしまう。先生は、意外と頑固だ。わたしがこのまま何も言わなかったら、きっと日が暮れるまでわたしたちはこのままだ。

「どうでもいいんで、先生が適当に書いといてください」

 根負けしたのはわたしだった。進路なんて、どうでもいいに決まっていた。だって、わたしはこの十七歳の一年をかけて、死ぬのだから。ひとりぼっちの狭い暗い階段の秘密基地に先生が加わってから、学校は昔ほどつまらないものではなくなっていた。だからといって、私はこの世界が大嫌いで、そこに生きる自分が消えたほうがいいと思ってしまうことを、否定する気にはなれなかった。わたしには進路なんてないのだ。目を閉じれば頭の中で反響する父の酒くさい罵倒と母の呆れたようなため息が、わたしの人生のすべてだ。

「本当に俺が決めていいのか」

 先生の真っ直ぐな声で悪夢から覚めたような思いがした。ここは、この狭い階段には、わたしを罵倒するひとも、うんざりしたように冷ややかな目で見るひともいない。汗ばんでいたはずの手足の先がひどく冷えていて、わたしは膝を両腕で抱え込むようにして顔をうずめた。それを肯定と取ったのか、先生はいつもの声音で一色、とわたしの名を呼んだ。

「お前、大学に行けよ。俺と同じ大学に」

「なんで…。わたし別にやりたいこととかないし…」

「だからこそだ。やりたいこともない、生きる気力もない。お前、そうなんだろ。そういうやつこそ、勉強したほうがいい。一色がいま見ている世界は、あまりにも狭いから」

 正しい言葉は、いつだって痛い。この世界がそう悪くないだなんて、わたしは思いたくない。わたしが見ているものだけが世界のすべてで、それはわたしが身ひとつで生き抜くにはあまりにも残酷で醜悪だと、ずっと信じていたかった。わたしはスカートに顔をうずめたまま、蝉の鳴き声だけに耳を澄まそうとした。それなのに、耳のうちでは先生の言葉だけが先生の言葉だけがぐるぐると何度も繰り返されている。わたしは奥歯を噛みしめてから顔を上げ、意外にも広い先生の背中を人差し指でつついた。

「…説教のつもり? おじさんくさ」

 わざと小ばかにしたような口調で言い捨てると、先生は目を丸くしてこちらを振り向いた。

「おじさん!? 俺はまだ今年二十八だぞ、三十歳にもなってないの! お前とほとんど変わらないんだからな」

「だってわたしまだ十七歳だもん。わたしからしたら、二十八なんて立派なおじさんだよ」

 立ち上がりスカートのお尻を手ではらって、ぶつぶつと文句を言っている先生を置いて階段を駆け下りる。踊り場の小さな窓から見える外の世界は、真っ白な真夏の激しい光に満ちていた。ついこの前まで薄紅色の雲のようだった桜の木は、鮮緑の枝葉を風に揺らしている。

「…ねえ、櫻井先生」

「なんだ、一色」

「大人ってどう?」

 先生のほうを振り向く。上から二段目の階段に腰かけたままの先生は、少し思案顔になって、それから歯を見せて笑った。

「そう悪いもんでもないぞ」

 二十八歳。今年、十八歳になるわたしが先生の年齢にたどり着くには、ちょうどあと十年かかる。そのとき、世界はどうなっているのだろう。少しはマシになっているのだろうか。また鳴き始めた蝉の夏を惜しむ声と、運動部の威勢のいい掛け声。思わず緩みそうになる頬が先生にばれないように、わたしは顔を伏せた。


 階下から漂ってくる香ばしいにおいは、焼きそばだろうか、それともたこ焼きだろうか。どんなに学校が喧騒につつまれても、ここだけは変わらず静かでひんやりしている。風の中にどこか寂しい気配が混じり始め、窓の外に小さく見えるピンクや白のコスモスが揺れるたびにわたしの心もざわざわした。それは、ただ秋だからかもしれないし、いまが文化祭の真っ最中だからかもしれなかった。

 おなかが空いていた。しかし、浮かれた生徒たちに交じってどこかの模擬店のものを買う気にはなれなかった。はあ、と漏らしたため息は、誰もいない薄暗い階段に想像よりも大きく響いた。本当は文化祭なんて放っておいてばか騒ぎの学校を一刻も早く立ち去りたかったが、最後にホームルームで出欠を取られることになっていたからおいそれと帰れなかった。わたしの姿がなかったら、あとで先生にどんな嫌味を言われるかわかったものではない。

「随分でかいため息だな」

「…先生」

 階段の下から、両手に透明なパックを持った先生が顔をのぞかせた。いつもの白いYシャツの上に、真っ赤なTシャツを着ている。いま一番見たくなかったものだ。わたしはそっぽを向いて、その派手すぎるTシャツから目を背けた。

「なんだ、拗ねてるのか。自分の名前がクラスTシャツになかったくらいで」

「別に、気にしてませんけど」

「一色、ろくにクラスの話し合いにも参加しないから。みんなも悪気があったわけじゃない」

「だから、どうでもいいんですってば」

 クラスのみんなの名前と似顔絵を描いたクラスTシャツを作る ――― そんなものがあったこと自体、わたしは今日になるまで知らなかった。こんな悪目立ちするTシャツを着るのなんてごめんだ。でも、みんながおそろいのTシャツを着ている中でひとり味気ない制服のままの自分が、どうしようもなく不正解に思えて居心地が悪かっただけだった。

 先生はいつも通りわたしの前に腰を下ろしながら、黙ってわたしに焼きそばとたこ焼きのパックを差し出した。

「ありがとうございます」

「俺のおごりだからなー。ありがたく食せ」

 焼きそばもたこ焼きもすこし冷めてしまっているが、文化祭が終わるまでひとりでここにいようと思っていたわたしにはひどく染みた。目の前の先生の背中には、クラスメイトたちの顔と名前がプリントされている。知らない名前、知らない顔。それでも、このひとたちはみんなわたしの知らないところでつながっているのだ。Tシャツのいちばん上には、先生の似顔絵があった。柔らかそうな髪の毛、すこし垂れた穏やかな目、口角のあがった唇。よく特徴をとらえている。

「さくちゃん先生、だって。そんな呼ばれ方してるの、先生」

 似顔絵の下の文字を見とがめて指でなぞる。先生は背筋を強張らせて、わざとらしい咳ばらいをした。

「やめろって言ってるのに聞かないんだよ、あいつら」

「ふうん」

 先生の言う『あいつら』というのは、誰を指しているのだろう。この、先生の近くに名前がある『みっちょん』だろうか、それとも真ん中にある『カオリ』だろうか。この暗い階段でわたしと過ごしてくれる先生は、きっと先生のなかのわずかな部分だけで、先生の大部分はきっとこのクラスTシャツに名前のある子たちのためにあるのだろう。わたしの知らない先生のことを思うと、なぜか子どものように泣きたくなった。

「先生、わたしの名前しってる?」

 みっちょん、カオリ、ゆかこ、まりっぺ。Tシャツに刻まれた名前のひとつひとつを爪で引っ掻きたい衝動にかられながら、わたしは先生に問いかけた。

「一色藍子、だろ」

 先生は当然のような顔をしてわたしの名前を呼んだ。それだけのことがどうしようもなく嬉しくて、わたしは先生のその広い背中にすがりたくなる気持ちを焼きそばを頬張ることでこらえた。クラスTシャツに刻まれなかったわたしでも、ここにいていいのだという証明をもらった気がした。

「櫻井宏樹、先生」

「なんだ、一色藍子」

 ここには、名前を呼べば返事をしてくれるひとがいる。名前を呼んでくれるひとがいる。この階段は、どこにも居場所がなくて逃げ込んだこの暗くて狭い階段は、わたしが否定されるための場所じゃないのだ。ここは、わたしがすこしだけ世界を好きになれる、そんなおまじないをかけてもらえるための場所だ。

「先生、わたし」

 言いたいことは、たくさんあった。それでも、いま言うべき適切な言葉は、何もなかった。この気持ちを簡単に口にしてしまえば、きっと、先生のおまじないは解けてしまう。

「やっぱり大学、行こうかな」

 それだけを必死の思いで紡ぐと、先生は満面の笑みで振り返って、何度も大きくうなずいた。すっかり冷めてしまった焼きそばとたこ焼きは先生と半分こして、そうやってわたしの高校最後の文化祭の日は暮れていった。


 進学する、そして家を出る。それが、先生に相談してわたしが決めたことだった。進路の相談と称して父親をなんとか学校に呼び出したとき、先生は言ってくれた。藍子さんは、成績もよいですし、勉強したいという意欲もある。奨学金制度も使えます。進学するのが良いと、私は思います。そう熱く説明する先生を、父親は鼻で笑った。この子が大学に行きたいと、そう言ったんですか? 先生がそそのかしたんじゃないですか、まったく。まあ、授業料くらいは出しますよ。しかし、家を出ていくんだ、生活費は自分で払いなさい。

 父親の侮蔑的な言葉には、もう慣れている。それでも、短い面談を終えて父親を見送るときは、思わず指先が震えた。結局、父親はわたしのほうを一度も見なかった。あのひとは、刃こぼれした(なまく)ら刀だ。あの暗い光のない目に、幾たびも傷つけられてきた。子どもの頃からずっと、わたしはあのひとが怖かった。

「一色」

 先生は立ち尽くすわたしの前にしゃがみこみ、強張っていた肩の力をほぐしてくれるかのように、わたしと目を合わせた。

()()()()()()()()()()()。お前は、大丈夫だってこと」

「大丈夫…?」

「そうだ。お前は、大丈夫。大丈夫だから」

 子どもに言い聞かせるように何度も大丈夫を繰り返す先生の前で、わたしは小さな女の子に戻ったように、セーターの裾を握りしめた。ただ、それしかできなかった。

 年の瀬が迫る十二月になると、教室はピリピリとした空気が流れるようになった。ほとんど教室にいないわたしですらそう感じるのだから、本当にそうなのだろう。年が明ければ、すぐにセンター試験だ。

 いつもの階段も、この時期はさすがに底冷えしている。足元から迫る冷気が太ももをくすぐって、わたしは身をすくめた。マフラーをして顔をうずめても、素足が冷えるのは防げない。施錠されっぱなしの屋上に続く鉄扉からも、隙間風が吹き込んでいる。さすがに身体が冷えてきたので、図書館に移動しようかとも思ったが、あと十分だけここにいることにした。

「ひー、寒いなあ。お前、本番前に風邪引くなよ」

 やっぱり、来た。思った通りの時間にやってきた先生に、マフラーに隠した顔が緩む。先生はわたしに使い捨てカイロとホットミルクティーのペットボトルをを投げて寄越すと、よいしょ、と声を出してわたしの隣に腰かけた。いつもは前に座るのに、今日に限ってどうしたのだろう。ちらりと横目で様子をうかがうと、先生はジャケットのポケットに手を突っ込んで細く息を吐いていた。その横顔に、好きだと思った。その感情はあまりにも唐突で、鮮烈で、けれど当たり前のようにわたしのなかにしっくりと収まっていた。このひとが、好きだ。この場所で過ごす、このひととの時間が好きだ。いつだってわたしのほしいものをくれる、先生が、すごく好きだ。

 こんなところにいていいのか、勉強はやっているのか。きっと聞きたいことはたくさんあるだろうに、先生は何も言わずにただわたしの隣に座ってくれていた。宙ぶらりんだ、と思った。先生のことを好きだと臆面もなく言えるほど子どもじゃないし、好きだと言ってもらえるほど大人でもなかった。三十センチ隣にいる先生に、どうしても手が届かない。触れることができない。

「櫻井先生、」

 マフラーから顔を上げて先生のほうを向く。先生は目だけでこちらを見た。

「わたし、受験がんばるよ」

「おう、頑張れよ」

「先生、あれ言ってよ。いつも言ってくれるやつ」

 先生は一瞬だけ虚を突かれたように目をしばたき、それからポケットから手を出して、わたしの頭をぐりぐりと撫でた。

「一色、お前は大丈夫だよ」

 先生の大きな手でかき乱される髪の毛を両手でおさえて、わたしは思わずくすくす笑った。先生も、つられたように小さな声で笑った。太陽が落ちた薄闇の中で、わたしたちのひそやかな笑い声は白い吐息になって溶けていった。それはまるで触れればすぐに溶けてしまう儚い雪が舞っているようで、きれいで、わたしはきっとこの光景を一生忘れないだろうと思った。


 息が切れる。足がもつれる。それでも、あの階段を目指して走った。胸元の安っぽいピンク色の造花が、かさかさと音を立てる。廊下は、別れを惜しんで写真を撮り合う生徒たちで溢れかえっている。

「あの、櫻井先生は、どこにいますか?」

「さあ…。でもさっき、なんか鍵持ってどこかに行ったわよ。あれ、屋上の鍵だったかしら」

 さっき職員室でそう教えてもらって、すぐに駆け出した。一度も開いたことのない、あの錆びた鉄扉。三年間、ずっとあの階段で扉を背に座り続けて、もう開けようとすら思わなくなっていた。

 見飽きた階段を駆け上って、踊り場で足を止めた。小さな窓の外には、冬の終わりを告げる柔らかな光が差していた。きっともうすぐ水仙が、木蓮が、菜の花が、そして桜が咲くのだろう。あの日先生と最初に見た、薄紅色の桜の花がまた咲くのだ。

 いつもわたしと先生が座っていた階段には、誰もいない。わたしは息を整えてゆっくりと階段を上り、一番奥の錆びた扉の取っ手に手をかけた。体重をかけて開けた重い扉の向こうに、白けた青い空がぱっと広がった。

「おう、遅かったな」

「…ここ、開いたんだ。初めて入った」

「教師特権だな」

 突き当たりの柵に寄りかかるように立つ先生の元へ向かう。先生は腕を組みながら、穏やかな笑みでわたしを待ち構えている。

「合格おめでとう。それから、卒業も」

 わたしは黙ってうなずいて、先生の隣に立った。隣に立つこのひとは、二十八歳。わたしは、十八歳。わたしが大人になる前に、この人に追いつく前に、先生は誰かのものになってしまうのだろうか。わたしが卒業したら、先生はわたし以外の誰かの特別になるのだろうか。

「先生、わたしがいなくなったら、もうここには来ないの」

「どうだろうな」

「先生」

 何を言えばいいのかわからない。今日で、お別れなのに。先生とこうやって過ごせるのは、今日が最後なのに。喉元をせり上がる塩辛さに上を向くと、三月の空はほの白く淡く、わたしたちの上で春の気配を(たた)えていた。

「なあ一色。お前が仮にいま、全然大丈夫じゃないと思っていたとしても、それはいつか終わるんだ。たとえばお前が俺のことを好きでも、それだっていつかは大丈夫になるんだ」

「…()()()()()()()()()()()()()()()

「そうか、そうだったな。悪い」

 本当に、大丈夫になるのだろうか。いまわたしの中にある、恋心と呼ぶには拙すぎる執着も、これからの生活への言葉にできない漠然とした不安も、学校なんて大嫌いだったはずなのに最後の最後で心に宿ってしまった寂寥も。

「…本当に、大丈夫になるのかな」

「なるよ。俺が保証する」

「そうかな…」

()()()()()()()()()

 先生は腰を折ってわたしと目を合わせ、右手の小指を差し出した。

「俺は、ずっとここにいるから。もしお前がつらくなったら、また戻ってこい」

 わたしは自分の小指を先生のそれをそっと絡ませ、一粒だけこぼれた涙が先生に気づかれないように、そして先生の記憶にいつまでもわたしの姿が残り続けるように、大きく返事をして笑った。


――


 長い昔話を終えて、わたしは隣の女生徒の様子をうかがった。環境が変わる四月は、調子を崩しやすい季節だ。この女生徒は、四月に入ってからよく保健室にやってくるようになった。この子の詳しい事情は知らない。でも、そういう子の居場所を作ってあげたいと思った。かつてのわたしが、先生からしてもらったように。

 ひとりで話し続けて喉が渇いてしまった。すっかりぬるくなってしまった紅茶を口にふくむ。

「一色先生、その先生とはいま…?」

 すっかり泣き止んだらしい女生徒が、わたしの顔を見て眉尻を下げた。わたしはくすりと笑ってはらりと落ちた髪の毛を片耳にかけた。

「櫻井先生? 先生はね、ちゃんと約束を守ってくれたよ」

 そうだ、先生は、嘘なんてつかなかった。大人になって、わたしは色々なことが大丈夫になった。もちろん、大人になればすべて上手くいくなんてことはない。両親との確執は年を経るにつれてますますひどくなったし、今でも時折すべてを投げ出したくなる夜が前触れもなく訪れる。けれど、世界はそこまで悪いものではないことを、わたしはもう知っている。ねえ、と心の中で少女に語りかける。

 あなたの生きる世界はつまらないことばかりで、目に見えるすべてがあなたを傷つけようと牙をむくかもしれない。夜には自分の指先すら見えないおそろしい闇があなたの頭を押さえつけ、朝になれば傲慢で無遠慮な光があなたの癒えない傷口に侵食するかもしれない。それでも、わたしは思うのだ。そんなひとりぼっちの夜や朝に、あなたが打ちのめされて動けなくなったときに、根拠のないこんな言葉が、ひょっとしてあなたを救うのではないだろうかと。

「あなたも、きっといつか大丈夫になるよ。わたしが、保証する」

 女生徒は真っ赤な目にまたじわりと涙を浮かべ、それがこぼれる前に乱暴に手の甲でぐいとこすった。そして、笑みを浮かべて大きくうなずいた。その笑顔は無理やりつくられた痛々しいものではあったけれど、わたしのおまじないが彼女の心のすみっこに刻まれたことを確信させるものだった。

 壁にかけた時計に目を遣ると、もう三限目が始まる時間だった。わたしは席を立って、ガラス棚からとっておきの茶葉を取り出した。女生徒はきょとんとした顔で、わたしの一挙一動を見ている。

「先生、その紅茶、誰の?」

「そろそろ、時間だから」

 訝し気な顔で首を傾げる女生徒に微笑みかけ、いつもよりも丁寧に茶葉を蒸らす。

「時間…?」

 あのひとは、いつも時間に正確だから。若く華やいだ声がこだまするなか、保健室の外のリノリウムの廊下を鳴らす硬質な靴音に耳を澄ませる。わたしがあのひとに会いたいと願えば、あのひとはわたしに会いに来てくれる。わたしを大丈夫にするおまじないを携えて。遠慮がちなノックのあと、ゆっくりと開く扉から覗いた猫っ毛の、垂れ目の、優しいそのひとに笑いかけた。

「先生、待ってた」

 目が合って微笑み合う。窓の外で春風に吹かれて花びらを散らす薄紅色の桜の花が、見つめ合うわたしたちの顔に明るい影を落とす。それはまるでこの世界を美しく照らす魔法のようで、わたしはじんわりと温もる心をはやく届けようと、彼の名前を呼んだ。

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