円環
ひとつ、昔話をしようじゃねえか。
その男は東京生まれ、東京育ち。頑固な父とお節介な母、口煩い姉が居る、ごく一般的な家庭で育った。子供の頃から元気が取り柄。運動神経抜群で、喧嘩は負け知らず。性格は明朗快活、曲がったことは大嫌い。
小学校では苛めや悪さを働く奴ならば年上であってもコテンパンに潰す、男子の中心的存在であり、みんなのヒーローだった。顔はかっこよく、お洒落にも気を遣い、話も上手いとなれば、女子にモテるのは当然だ。
その人気ぶりは中学でも変わらず、剣道部では関東大会決勝まで進む成果も残した。地元の中学を卒業した後、幼馴染と同じ都立高校に入学。男女から慕われ、仲の良い友人たちと共に青春を満喫する。勉強は苦手だったが、第一志望の大学に気合いで合格。2020年3月1日、卒業の日に友人を目の前で亡くした。
それが俺、川村遼平の生きてきた過去だ。
そして今、俺は一学期の始業式が行われる体育館で、数秒前に死んだ友人の背中を見ている。この後ろ姿を見るのは四回目だ。俺にとってここは、昔であり、今でもある。俺は高校三年生を繰り返している。
【式辞】
『―――これから始まる一年が君たちの人生において掛け替えのない時間であることをどうか、忘れないでもらいたい』
頬を伝う温かさに唇を噛みしめる。伸びた髪で隠しながら涙を拭う行為が、隣りの幼馴染に見過ごしてもらえないことは分かっていた。
「遼ちゃん眠いの?」
顔を覗き込みながら小声で問い掛けてくる光博は、さっきよりもピアスが2個少ない。高校三年一学期の始業式。この時の光博の髪はまだ赤かった。
「欠伸してたでしょ!」
「してねえよ」
「嘘!ボク見てたもん」
周りの生徒と同様に、光博も同じ内容を繰り返すだけの校長の話に飽きている。こっちは卒業式で散々同じ話を聴かされた直後なんだと言ってやりたくなるが、前々回を思い出して堪えた。ここで話すと更に面倒なことになる。
校長の話は一年中どの行事でも変わらない。毎回30分も同じ話を繰り返せることに最近は呆れを通り越して感心してきた。この校長なら円環に囚われても繰り返していることに気付かない可能性もある。
遼平は同じ月日の繰り返しを<円環>と呼んでいた。三年の始業式から卒業式までを何度も過ごし、人が持つ影響力の大きさに驚いている。自分の行動一つで周囲は変化し、毎回まるで違う学生生活を経験してきた。だが、どんな円環であっても最後に待ち構える友の死だけは避けられない。
紺色の制服が並ぶ体育館の最後尾から、同級生の背中越しに友人の姿を見つめる。物憂げに自分の爪を眺める俊輝と背筋を伸ばして校長の話を聴く純也。俊輝は初めて使ったネイルの色が気に喰わず、今日は一日ずっと不機嫌だ。純也は昨晩遅くまで本を読んでいたため、今は眠気と戦っている。
今回はどうしようか。三人と距離を置いて過ごしても結果は変わらなかった。むしろ今までで一番酷い死に方をさせてしまった。どうすればいい。自分は何をすればいい。
睨みつけるように友の背中を見ていると、ふわふわと跳ねる色素の薄い髪がビクッと大げさに揺れた。
「あ、純ちゃんも寝てる!」
「だから俺は寝てねえよ」
隣りに座る幼馴染に小突かれて赤面する純也はあどけなく、一年後に自らの手で命を絶つ可能性もあるとは想像つかない。こちらを振り返って見せる照れた笑顔に、遼平は上手く応えてやれなかった。陰惨な死顔がまだ焼き付いている。
『えー、これからの一年が君たちの一生において何物にも代えがたい時間であることを―――』
【ミライトワ】
梅雨のじめつきを物ともせず、今日も光博は元気に騒いでいた。青く染めた頭を抱え、スマホを睨みながら苦悶の叫びを上げる。
「ああ!キミは、ボクの全てだったのに!」
来年に迫った東京五輪。その観戦チケットの当落メールが届き、光博は見事に撃沈した。『二兎追うものは一兎も得ず!』と意気込み、サッカーの決勝戦一点張りで申し込んだ幼馴染の潔さを神様は評価してくれなかったらしい。
「二次もあるから諦めんなよ」
だが、決して神様は見捨てたわけではない。光博は11月の二次募集で当選する。恐らく今回も当たるだろう。遼平の行動で抽選結果が左右されることは無い。
「真夏にわざわざ暑苦しいものを見るなんてさー、ほんとムリ」
湿気のせいで髪が纏まらない上に、人混みもスポーツも嫌いでオリンピックが東京で開催されることに未だ納得していない俊輝はいつも以上に気だるげだ。
「アキラの予言、当たっちゃうかな」
不安そうな声に反して、純也の大きな瞳からは期待感が溢れ出ている。オリンピックに対する人並み程度の興味以上に都市伝説マニアの血が騒いでいた。
「誰それー」
まるで興味のない俊輝の問いに、純也は大好きな都市伝説を語りだす。6月20日に毎回交わされる話題が始まった。
「30年以上前に出版された『AKIRA』という漫画で2020年に東京五輪が開催されるって描かれてるんだ。勿論当時、東京でオリンピックが開かれるなんて誰も予想してなかったから、作者が予知をしたとか未来から来たとか言われていて。漫画だと東京五輪は中止になっちゃうんだよ」
来年二月、ウイルスの流行により五輪中止の世論は起こるが、予言の結果は遼平も知らない。
「未来から来て漫画描くだけなんて勿体ない!ボクだったらもっと大きいことする!」
喚きながらも聴いていたらしい光博が話に喰いついた。
「例えば?」
「宝くじ当てる!」
「ありきたりー」
一言も聴き漏らさぬよう、神経を研ぎ澄ます。ここでの会話は重要な可能性が高い。<円環>という言葉が出たのは、ここが初めてだったからだ。
「とっしーは?」
「面倒が起きないように適当に合わせて、おじさんになる前に死のうかなー」
「もし死ねなかったらどうする?」
「はあ?」
疲れた顔で不思議そうに見返してくる俊輝に、遼平は再度問い掛けた。
「死んでもまた過去に戻って、同じ時代を繰り返して、いつまでも未来へ進めなかったらどうする?」
「未来から過去へ跳ぶタイムリープじゃなくて、同じ時間を繰り返すタイムループってことだね。僕は<円環>の方がかっこいい言い方で好きだな」
両手の親指と人差し指を合わせ、胸の前で円を作った純也が嬉しそうに語る。まさか友人がそこに囚われているとは、しかも自分の死が契機だとは想像もしていまい。
「毎回違うことしたい!色んな国に行ったり全部の部活をやったり!」
「いつまでもおじさんにならないのは嬉しいかなー」
「僕は悲しくなっちゃうと思う」
三人の答えは以前と概ね変わらない。この二ヶ月で大した変化は起こせていないようだ。
「遼ちゃんは?」
「俺は」
違う展開へ進ませるために答えはいくつか用意していた。だがどうしても自分の信念を曲げられない。
「円環から抜け出す方法を考える。同じ時間を繰り返しても意味がねえ。前を向いて生きていかねえとな」
同じ台詞をまた繰り返す馬鹿正直さに多少の悔恨はあるものの、嘘は付きたくなかった。嘘の先にある出口なんて通りたくもない。
「かっこいい!ボクもそれにする!」
「熱血すぎー」
「僕も遼君みたいに強くなりたいな」
叶えられずにいる約束を今度こそは絶対に果たしてみせる。来年の7月、四人で予言の答え合わせをしよう。
【SN 1604】
「総員、出撃せよ!愛する人を守るため、我らの誇りを守るため、宙へ羽ばたけ!星となれ!我々は自由を手にするのだ!」
艦隊旗艦ラサルハグェより告げられた総司令官の下知に応え、天球自由軍宇宙空母から空戦部隊が一斉に飛び出す。攻撃対象は黄道十二帝国軍蠍座の総旗艦アンタロス。この瞬間、宇宙の静寂が破られた。
突然のSF展開に読者諸氏は驚かれたと思う。どうか安心していただきたい。これは2019年12月3日、本作の主人公・川村遼平が見た一夜限りの夢だ。本筋に影響を与えるものではなく、読み飛ばしても差し支えない。だが、円環に囚われた苦しみは虚構じみた現実のみならず、夢の中ですら彼を苛んでいたことが伝われば著者として幸甚の至りである。
「最高にかっこよく決まったぜ」
通信を切り、遼平は満足げに笑みを溢した。典型的な内装の宇宙船、軍服に身を包む隊員、巨大モニターに映る華やかな爆撃戦。夢は人によってモノクロとカラーで分かれるらしい。遼平はカラー派だ。しかし限られた字数内に色彩描写を盛り込むのは些か厳しい。色、音、匂い、その他諸々は各自の補填を切に乞う。加えて、著者も遼平もSFに疎く、『黄道十二宮』や『宇宙空母』といった言葉に心を昂らせるだけの中二病患者に過ぎない。未熟な点は何卒ご容赦いただきたい。夢に戻ろう。
天球自由軍は黄道十二帝国の公式奴隷として長きに渡り苦役に服してきた蛇遣座が、奴隷制度の廃止と帝国からの独立を求めて立ち上がった小規模集団だ。北天星連合の多大な協力を得ることで、帝国軍との直接対決に踏み切った。
遼平は類い稀なカリスマ性により、若くして蛇遣座のリーダーに抜擢され、自由軍結成後は総司令官として戦場に立っている。時は2319年。医療の劇的な発達は人々の寿命を伸ばし、高校生だった彼も今や318歳となった。見た目は18歳の頃と変わらないが、紛れもなく318歳。円環に囚われ、高校三年生を繰り返してきた遼平が、卒業式より先の未来にいるのだ。
冒頭で開戦を布告したラサルハグェの艦橋から移動し、現在は司令室で円卓を囲んでいる。四人で囲む円卓は中華料理店を彷彿させるが、絶妙なライティングにより、アーサー王物語にも負けぬ崇高さを醸し出していた。四人とは勿論、遼平・俊輝・光博・純也だ。
「現状の報告をしまーす」
黒魔導士のローブをお洒落にアレンジして身に纏う俊輝が、設定とあらすじを簡潔に話し出す。
「黄道っていうのは地球から見た空を太陽が通る道のことで、大きな円になってるの。黄道上に星座が13個あるんだけど、占星術だと12の方が便利だから黄道を12分割して、それぞれの領域をそこにある星座の名前で呼ぶことにしたわけ。そうしたらへびつかい座とさそり座が同じ所に入っちゃったから何となくさそり座が選ばれて黄道十二星座になったんだって。黄道十二宮は西洋占星術限定の言葉だから気を付けてー」
「さそり座に勝ってたら『蛇遣宮』って言えてかっこよかったのに!」
角と尻尾が生え、先端にハートの付いたステッキを持つ光博が足をバタつかせる。20歳の誕生日に魔王と契約を結び、彼は悪魔となったのだ。
「へびつかい座が黄道十二星座から外されたように、黄道十二帝国で『国民』から外された僕たちは蛇遣座と呼ばれ、無理な医療手術で改造された肉体を虐げられてきた。へびつかい座の両足首に当たる部分を黄道が通るみたいに、僕たちも足首に枷をはめられてきたんだよね」
純也の背後には6体の人型が佇んでいる。ネクロマンサーの彼は死霊を従えており、この死霊こそが『本来であれば死んでいたはずの純也』ではないかと遼平は睨んでいた。そのおかげで純也は死なず、遼平が高校三年一学期の始業式に戻ることもない。難しいことは分からないが、遼平は円環を抜け出せたのだ。そして今、新たな円環から解放されるべく、立ち上がった。
「この足枷から、黄道から、俺たちは抜け出す。蛇遣座は自由となる!」
脱力した拍手を送る黒魔導士、拳を天高く掲げる悪魔、憧憬の目で頷くネクロマンサー。三百年の友情は宇宙の歴史を動かそうとしている。
「ボク、大砲ぶっ放したい!」
「いいねえ、やってやろうじゃねえか」
「掛け声はやっぱり『ファイエル』かな」
「それ、帝国側だけどねー」
放課後の教室を思い出す和やかな駄弁りを甲高い機械音が遮った。通信から興奮した声が流れ出す。
『勝利です!我々の勝利です!』
「おおっしゃあっ!…いや、ちょっと待て。本当に勝ってるのか?」
『はい!帝国軍の戦艦は一機残らず一網打尽です!』
「いや、待て。落ち着け。一機くらいは残ってんじゃねえか?」
『え?まあ、一機くらいは残っている可能性もありますが』
「そうだろう!待ってろ。俺が今、ガツンと一発決めてやるからよ」
「ボクも撃ちたい!」
「悪ぃな。総司令官特権だ。お前ら見てろよ、俺の勇姿を!勝利の凱歌を聴かせてやるぜ!」
逸早く部屋から飛び出しながら仲間たちを振り返った遼平の目に映ったのは、6体の死霊によって串刺しにされた純也の無惨な姿だった。呆然と佇む三人の足元を赤い血が流れていく。
「…オマエら、純ちゃんに何してんだよ!!唸れ、いかづち!轟け、雷鳴!トールハンマー!!」
誰よりも早く我に返ったのは意外にも光博だった。凄まじい雷で死霊たちを撃つ。あまりの眩しさに目を細めたのと同時に、忘れ去ったはずの浮遊感が己の体を襲いつつあることに遼平は気付いてしまった。
「ギリシャ神話でへびつかい座は死者を蘇らせる術を知った医師アスクレピオスの姿だとされているんだ。アスクレピオスは冥神ハデスの不興を買って、大神ゼウスに雷撃で撃ち殺される。これを知って激怒したアポロンの怒りを宥めるために、ゼウスはアスクレピオスを天に上げて星座としたんだよ」
視界が霞んでいく。必死に繋ぎ止めるように自分自身を抱きしめるものの、体内が融解する感覚は止められない。
「300年…戻るのか?もう、いやだ!俺は自由になったんじゃねえのかよ!」
視覚も聴覚も失われていく中、純也の声が静かに響く。
「遼君、へびつかい座はどんなことをしても黄道の円環から抜け出せないんだね」
これは遼平が見た、ある夜の夢の話。
【奈落】
金輪・水輪・風輪。大地の下にあって世界を支えているという三個の大輪。金輪は大地から百六十万由旬の深さにある。その奥底が『金輪際』。そこまでこいつを叩きつけてやりたい。
「殺しはしねえ。あいつはそんなこと望んじゃいねえからな」
涼やかな虫の音を騒騒しい叫喚で掻き消しながら山手線が頭上を駆ける。暗い高架下で二人の男は睨み合った。片方は光沢のある柄シャツに派手なジャンパー、首から頬にかけて刺青の竜が踊り登る典型的なチンピラ。一方は黒いパーカーとデニムを着こなし、殺気立った空気を放つ長身の青年。
「卑怯だってのは分かってる。俺はお前がどう闘うか知ってんだからよ。でもな、お前だけは何度でもぶっ潰さないと気がすまねえんだ」
「なに訳わかんねーこと言ってんだ。ああ?」
意気がる男の台詞に苦笑が零れる。毎度毎度よく飽きないものだ。青年には男の言葉が馬鹿の一つ覚えにしか聞こえず、返事すら面倒極まりない。
「誓えよ。酒は金輪際飲まねえと誓え」
「なんでてめーに指図さ」
「酒を飲まねえ。電車に乗らねえ。新宿駅には近づかねえ」
「意味わかん」
「誓え」
全てこいつから始まった。初めての卒業式の帰り道。新宿駅のホームで酒に酔った男が喧嘩騒ぎを起こし、巻き添えで背を押された純也がホームに落ちた。停車のためにスピードは落ちていたにも拘らず、タイヤに巻き込まれた純也は無惨な姿となった。どれだけ月日が経とうとも、この傷が癒えることはない。
「てめーみたいな餓鬼を殺る方法なんていくらで」
「いつまでもぐだぐだペラまわしてんじゃねえよ。そろそろ口以外で語ろうじゃねえか」
「喋ってたのほとんどてめ」
最後まで啖呵を切らせることなく、駆け寄った勢いに体重を乗せた掌底を真っ向から胸に叩きつけた。男は受け身を取る間もなく、無様に跳ね飛ばされる。まともな呼吸ができず、目を剥きながら無声で呻く男に、青年はゆっくりと近づいていった。
見上げる瞳には怯えが早くも混ざるが、伊達に裏の世界で生きてきたわけではない。胸の苦痛に耐えながら鋭い眼光を放った。
「なんでこんなことしやがる」
「これ、あの時のお返しなんだけど、まあお前は覚えちゃいねえよな」
初めて男を見つけ時、衝動のまま襲い掛かった体を思い切り掌底で打たれた。喧嘩には自信があった。だが、レベルが違いすぎた。それ以降、新たな一年が始まると本格的なトレーニングを即座に始め、毎年叩き潰している。
「ふざけんじゃねーぞ、ガキがああ!」
地面から跳ね起き、取り出したナイフで襲い掛かってくる男の様子は見慣れすぎて退屈感すら覚えてしまう。ナイフを冷静に躱した後、身体を一回転させ、上方から蹴りを浴びせる。屈せずに顎先へ殴り込もうとしてくる拳を掻い潜り、頭突きで地面に叩きつけた。
倒れ伏した男は辛うじて意識を保ち、慄然とした瞳で青年を見上げる。肌に踊る竜が紅で穢されていく態だけは美しい。この竜は金輪際で這うのが相応しいだろう。
「恨むなら未来のお前を恨め」
【ホップ絡み目】
答案用紙を前へ回し、思いきり伸びをする。遼平は期末試験が終わった解放感に酔いしれた。同じ問題を解き続けていれば点数は上がっていく。賢くなったと喜ぶべきか、答えを覚える程に繰り返してきたことを嘆くべきか。疲労した脳は考えることを拒絶した。
大きな欠伸を一つした後、夏休みの予定を話し合うために光博の席へ行く。毎年の定番だが、今回はそこにいつもとはまるで違う光景が広がっていた。
「何だこれ」
机の上に並ぶ大量の円環。その素材が先程まで向かい合っていた試験の問題用紙だと気付くには数秒を要した。あまりに異質な状況に遼平は思わずたじろぐ。
「メビウスの輪だよ!」
「うわー、大量にあると気持ち悪いんだけどー」
俊輝が顔を顰めながら一つの輪を抓み上げた。少し歪な形を見て、漸くこの正体に思い至る。メビウスの輪とは短冊状の帯の片側を裏返し、他方の端に貼り合わせて円にしたものだ。輪の表側を辿っていくと開始地点の裏側に着く。
「試験中にどうしても気になって沢山作っちゃった!遼ちゃん、この帯の真ん中を平行に一周切って!」
光博から鋏と輪を一個渡され、状況が呑み込めないながらも切断していくことにした。(みんなも一緒にやってみよう!)普通の輪を切る時とは違う、何とも奇妙な感触がじわじわと常にある。それでも大した困難もなく、開始地点まで戻り着いた。
「へえ、面白えな」
先程より一回り大きい輪が出来上がった。たったそれだけのことなのに好奇心が刺激され、上や下から眺め回したくなる。美容と流行以外には大抵関心を示さない俊輝も珍しく興味深げに顔を寄せた。
「次は1/3のところを切ってみて!」
新しい輪を渡され、再び鋏を入れる。言われたままに切っていくと、途中で開始地点とすれ違った。曲がり道で横から車が飛び出してきたような驚きに似た感覚を味わい、思わず手が揺れる。
「リョウって不器用だよねー」
「うっせえ。ほら、できた…ぞ?」
終着点に到達し、切り終えた輪を広げると思わず声が詰まった。大小二つの輪が互いの輪の中を通り抜けるように、一ヵ所で絡み合いながら繋がっている。
「面白いね」
純也は片方の円に人差し指を掛けると、手慰むように引っ張った。穏やかな笑みを見せるが、今日も少し疲れているようで覇気が無い。
「こうやって捻る回数を増やして真ん中を切っていくと、輪がどんどん沢山できて繋がっていくの!」
目を輝かせる光博の前に、複雑に絡み合った輪が積み重なっていく。理屈は分からないが、熱中モードの幼馴染に何を言っても無駄だということは分かるので、アッシュグレーの髪をぼんやりと眺めた。前回の夏休みは何色だっただろうか。脳内に光博のヘアカタログを広げたところで、大音量が耳に響いた。
「わかった!2n+1回捩った円を2m等分すると2倍の長さの2(2n+2)回捩れた円がm個できて、2m+1等分すると2倍の長さの2(2n+2)回捩れた円がm個と元の円と同じ大きさの2n+1回捩った円が1つできるんだ!」
賢くなったと調子に乗っていたが前言撤回。光博が早口で唱える謎の数式を、耳で聴くだけでは全く理解できない。
「その計算、合ってるのか?」
9教科分の問題用紙が全て円環と化し、机の上に山盛りとなっていく様子を遼平はただ茫然と見ていた。今年の夏休みは何をして過ごそうか。
【π】
青年は循環しない無限の羅列を唱えていた。試験勉強も読みかけの本もスマホの着信も横に置き、円周率を一心に呟く。きっかけは些細なことだった。数学の試験が終わり、一息吐いた放課後のこと。
「オレが負けってことでいいから、もう諦めなよー」
「やだ!」
「俊輝はやる気無さそうに見えて案外脳味噌は使ってんだ。諦めろって」
「やだ!」
「8桁も言えるなんて凄いよ。だから俊君との勝負は諦めてもいいんじゃないかな」
「やだ!やだ!絶対に諦めてなんかあげないから!」
試験前夜、公式を丸暗記しようとした友人は、気持ちが逸れて円周率を覚えたらしい。『掃除をしていたら漫画を読んじゃうのと一緒』と本人は語るが、少し違うように思う。面倒なのでツッコミは入れず、得意げに昨晩の成果を披露した友人を適当に讃えていると、続きの数字を覇気のない声が継いだ。
「小学生の時、塾で覚えさせられてさー。ほんと、何の役にも立たないんだよねー」
彼も試験で疲れていたのだろう。あまりにも迂闊だった。普段であれば、その言葉が負けず嫌いな友人の対抗心を煽り、厄介な事態に至ることは想像に難くない。不穏な空気を感じた時には手遅れだった。
「もう一日あったらボクだってもっと覚えられるよ!とっしー、明日こそ勝負だ!」
勢いよく立ち上がる友人に、どんな言葉も届かないことを三人は一瞬で察した。
「あー、ごめん」
「いや、俺も上手いフォロー浮かばなかった」
「う~ん、どうしようか」
とりあえず御座なりに宥めてみたものの、友の決意は変わらず、むしろ状況は悪化していった。
「じゃあ、チーム戦にしよう!」
「はあ?」
「ボクと遼ちゃん、とっしーと純ちゃん。幼馴染コンビで!」
「いや、待て」
「敗者は勝者に一週間、購買のぷるぷるプリンを進呈すること!」
「今日も売り切れで残念だったね」
「絶対勝つぞ!」
天へ向けて両手を突き上げる友の姿を見上げながら、三人は最早引き返せないことを悟り、腹を括った。
普通に考えれば、適当に数個覚えて明日の試験勉強をするべきだろう。そうは思うのだが、勝負と決まったからには手を抜くわけにはいかない。他の二人も同じはずだ。あれこれ言いながらも、心根の部分が一緒だからこそ、四人の関係は続いている。やるからには何事も全力で。
「3.1415926535897932384――あ、」
体が浮遊し、内側から融けていく感覚に突如襲われた。その意味は理解したものの、早すぎる到来に驚き戸惑う。紙に書いた円周率を読みながら帰宅していた友人が、雪でスリップした車に轢かれたことを青年が知ることはない。数秒後に会う友人も自身の死因を知らない。いつもより小さな円環であっても、円周率は変わらない。
【牛頭天王】
吾者 速須佐雄能神也 後世爾疫氣在者 汝蘇民 將來之子孫止云天 以茅輪着腰在人者 將免止詔伎
―――『釈日本紀』より「備後国風土記逸文」
水無月晦日、夏越の祓に於いて人は罪や穢れを除き去る。『古事記』の時代より連綿と繋がる神への儀式だ。境内に笹の葉を建て、注連縄を張った結界は厳粛な舞台と為り、人智を超越した霊気を醸す。
祝詞を奏上する鹿爪顔の父親の後方で、金髪が眩しい袴姿の幼馴染は物々しく首を垂れる。見慣れてきた光博の厳粛な姿。子供の頃、二人で遊ぶ境内と儀式を行う場所は霊験の力で繋がる別々の空間に思えた。其の異様な感覚は今も消えない。
結界の中心には茅で編んだ巨大な円環が聳え立つ。茅の輪潜り。此の輪を八の字を描いて三回潜る事で既に起きた災厄を祓い清め、師走晦日の大祓までの無事を願う。
其の由来は『備後国風土記』にて語られる。旅の途中で宿を乞うた武塔神に対し,裕福な弟の巨旦将来は拒絶,貧しい兄の蘇民将来は歓待した。後に武塔神は再訪し、蘇民の娘に茅の輪を付けさせ、彼女を除いた一族を皆殺しにする。武塔神は自らを素戔嗚尊と名乗り、茅の輪を付ければ疫病を避けられると教えた。
酷い逆恨みだと憤りたくなる。是程の執着心を持つ神が人の罪を祓う事などできるのか。横暴で我欲の強い神。其れが人を作り、今も人を支配しているとしたら、自分の奇怪な円環にも納得が付く。殺人を見世物として愉しんだ中世の貴族の様に笑い乍ら見ているに違いない。
神主の祝詞が終わり、一人目の氏子が茅の輪を潜っていく。正式な唱え詞も在るが、略祓詞で構わない。唱える声は此方まで届かずとも、男が一心に願っている様子は表情から窺えた。此の男は何の罪を犯し、穢れを抱え、禍に身を震わせてきたのだろう。
純也の番が近付き、結界へと歩み進む。善良な純也に除くべき罪が有るとは思えない。有るとするならば『川村遼平』という禍か。
「オレはさー、こういうの信じてないから直接言うね」
何事かと隣りに顔を向けると、俊輝は真っ直ぐに純也の背を見つめていた。釣られて遼平も純也に目を戻す。
「オレはオレなりにジュンのこと、子供の頃から考えてきたつもり。でも高校入ってすぐにリョウとミツは仲良くなったでしょ。ジュンがどんどん遠くなっていく気がした。ジュンの隣りで笑うのは、ジュンの憧れの存在はオレだったのにってね」
長い時の中で初めて聴く感情の吐露。嘗て同じ月日を過ごしてきた『俊輝』も皆、純也と光博が話す隣りで、純也が遼平を讃える横で、同じ嫉妬に囚われていたのだろうか。
「そーゆーくだらない嫉妬、ダサいでしょ。だから今日で止めることにしたの。ありがとね、ジュンをいつも助けてくれて」
同じ本を読む度に新しい発見が在る様に、同じ円環を繰り返す度に新しい一面に気付く。そして其の都度、掛け替えのない友たちが更に愛おしくなる。
「ありがとな。俺もお前のこと好きだぜ」
「はあ?好きだなんて言ってないでしょ」
此れから先も永遠に忘れない。此の言葉を発した本人が忘れてしまったとしても。
「ほーら、ジュンが始めるよー」
神妙な顔で一礼し、純也が結界内へ入っていく。茅の輪の前でも一礼。祓の儀式が始まった。
『祓へ給ひ 清め給へ 守り給ひ 幸へ給へ』
一周目。左足で茅の輪を跨ぎ、左回り。
茅は「草」の「矛」と書く。神剣と同じ破邪の力を宿すとされた。矛と剣は違えども、素戔嗚尊が用いた武器ならば天羽々斬か天叢雲剣か。前者の剣で斬られた禍は八岐大蛇。祓われる穢れは蛇なのか。後者の其れは八岐大蛇から生まれた。此の円環は禍が生んだのか。
『祓へ給ひ 清め給へ 守り給ひ 幸へ給へ』
二周目。右足で茅の輪を跨ぎ、右回り。
茅の輪は人間の罪を断ち、其の身に取り込む。他人の穢れや禍で充ちた茅は決して持ち帰ってはならない。人が通れば通る程、此の輪に穢れが溜まる。繰り返す度に穢れるとしたら、己が彷徨う円環は如何程の穢れを湛えているのか。
『祓へ給ひ 清め給へ 守り給ひ 幸へ給へ』
三周目。左足で茅の輪を跨ぎ、左回り。
茅の輪を回る友の姿は、絡み付く蛇を彷彿させる。己の円環が在る限り、彼が延々と絡まり続けるとしたら、円環を断ち切る事で彼を救わねばならない。彼は何故絡まったのか。彼が円環を縛っているのか。円環が彼を捕えているのか。
『祓へ給ひ 清め給へ 守り給ひ 幸へ給へ』
最後。左足で茅の輪を跨ぎ、本殿へ向けて真っ直ぐ通り抜ける。
人々の穢れを吸い、禍を断つ円環の矛。其の円環を斬る術は果たして此の世に存在するのか。
『祓へ給ひ 清め給へ 守り給ひ 幸へ給へ』
茅の輪を再び回り始める純也の幻影を恐れ、遼平は固く目を瞑った。
【祝辞】
例年とは異なる雰囲気に浮足立つ同級生の様子は、今回もいつも通りだった。全員が揃いのマスクを付けて並ぶ姿は何度見ても異様だ。
「卒業したくない!ずっと高校生がいい!」
ウイルスの影響で前倒しされた卒業式。入場の合図を廊下で待つ間、黒髪の幼馴染が駄々を捏ねる。これも毎回変わらない光景だ。今回は随分違う手応えがあったのに光博のせいで不安に駆られる。
「同じこと繰り返す校長の話はもうイヤ。オレは卒業しまーす」
義務付けられたマスクをお洒落にデコった俊輝は相変わらず緩んでいる。どんな展開に至ろうとも二人の様子は大抵変わらない。その二人の会話に上手く入れないことが増えた。似た会話の連続に飽きたというよりも彼らとの年齢差を痛感する。いつまでも高校生なのに、心は否応なく歳を重ねていく。このまま差が開き続けたら自分の心はどうなるのだろう。
そう考える度に身の毛がよだつ。自分はもう諦めたのか?ここから抜け出せないと思っているのか?どんな状況でも前を向いて生きる、それが川村遼平だろう!必死に己を奮い立たせ、冷めた感情を何度も喰い止めた。
「純也」
落ち着いた様子で窓から体育館を眺める純也に声を掛ける。二人とは違い、純也はいつも異なる表情を見せた。遼平の言動に大きく左右される。そこに円環から解放される鍵があると確信した。
自立を促すために距離を取ったことがある。孤独に耐えられず、純也は首を括った。憧れや友情以上の想いなのかと考え、遼平から告白したこともある。丁重に断られ、残り二ヶ月を気まずく過ごした。
それが何回目の出来事か、どれが今でどれが前の出来事か。混乱する回数が増えている。でも今回は違う。学園祭でバンドを組んだ時、窃盗犯を捕まえた時、猛吹雪の中で俊輝を探した時。初めての手応えを何度も覚えた。
「ちょっと後で付き合ってもらいてえんだけど」
今回の純也は物静かで、一人で過ごすことも多い。だが、どんな純也でも芯の部分は変わらない。遼平の記憶にある純也の微笑みはいつだって今日と同じで優しかった。
【TGW】
校長の長話は健在ながらも卒業式は早くに終わり、昼前には学校から追い出された。買い食いで腹を満たしながら、目的の場所へと歩いていく。そこには電車を使わず、足を踏みしめて行きたかった。
「悪いな。あいつらとも話したかっただろ」
「気にしないで。俊君はご近所だし、みっくんとは大学で話せるから」
今回最も驚いたのは光博が純也と同じ難関大学に合格したことだった。幼馴染も円環を繰り返して勉強を重ねてきたのではないかと鎌をかけてみたら「ラノベかよ!」と笑われてしまったが、未だに信じられない。
今回も様々な変化が生じた。そのどれかに円環を解く鍵があったのだろうか。経験のない明確な違和感がずっと心に渦巻いている。そして、ある考えが浮かんだ。
「ここか」
駒込駅と田端駅の間にある第二中里踏切。山手線にたった一つだけある踏切だ。全ては純也が山手線の電車に轢かれたことから始まった。メビウスの輪は水平に切る限り、ずっと円のままだ。円を解くためには垂直に切るしかない。山手線という円環を垂直に通れる唯一の場所。それがここだ。この踏切を突っ切れば円環は断ち切れる。禍を運ぶ山手線を通り抜けたら純也は未来へ進むことができる。
危機感を煽らせる踏切の音を聴きながら、内回りの山手線が通過するのを見守った。遮断機はそのまま外回りを待つらしい。
「もうすぐだね、高輪ゲートウェイ駅。あと二週間で開くんだよ」
2020年3月14日。約50年ぶりに山手線に新しい駅が誕生する。その実現を遼平はまだこの目で見ていない。
「じゃあ、約束しようぜ。開業の日、一緒に行こう」
何の反応も無いことに不安を覚え、隣りに立つ純也に目を向けると、複雑な顔で自分を見上げていた。
「なんだよ」
「『約束』なんて改まって言うから、フラグみたいだなって」
「お前っ、縁起の悪いこと言うんじゃねえよ!」
純也の柔らかな笑顔に緊張が解けていった。前へ一歩踏み出すことが年々怖くなっていく。今度こそはという絶対的自信と、無数に経験してきた敗北感が交錯する。
「高輪ゲートウェイ駅の名前には、過去と未来、日本と世界、人々を繋ぐ結節点っていう意味もあるんだよ」
「過去と未来、か」
「僕と遼君が結び合わせて作ってきた思い出は、明日からの僕たちも繋いでくれるかな」
「大切なことは過去じゃなくて未来にある。これから先も結び続けていかねえと駄目だ」
「…やっぱり遼君はかっこいいね」
言葉とは裏腹に純也の顔は清閑としていた。別々の道へ進む不安はあるのだろう。だが、二人の仲が途絶えることはないと信じている様子だった。
「一緒に行こうね。約束だよ」
「改めて言うとフラグみてえだな」
「言うなって言ったのは遼君だよ」
この穏やかな時間がずっと続いてほしい。いや、絶対に続けてみせる。そう心に誓っていると、純也が唐突に目を見開いた。視線の先を追えば、逆側の遮断機を潜って線路へ入っていく男の姿。酒に酔っているようで足元が覚束ない。
「あいつは…っうぉっ!」
考えるより先に前へ足を踏み出した途端、逆方向へ強引に鞄を引っ張られた。受け身を取る間もなく、尻から地面に着地する。激痛に顔をしかめながら見上げた空は真っ青で、こんな時にも拘らず、たまらなく綺麗だと感じた。
【円環】
長い年月の中で一度も見せたことのない荒々しさで、純也は男を遮断機に向けて突き飛ばした。そのまま体勢を崩して倒れ込む様子は、ビーチフラッグで顔面から突っ込んでいった夏の砂浜を思い出させる。あの時は恥ずかしそうに笑って立ち上がったのに、今日は伏したまま動かない。
「純也!立て!」
大声で叫びながら遼平自身も立とうとするが、全身が萎れて力が入らない。逆に五感は冴えわたり、踏切の耳障りな音も迫りくる電車の音も周囲の騒めきも耳を痛い程につんざく。
「立てえええ!」
ゆっくりと頭を上げた純也は、呆けた眼差しで声の源を探す。雑多とした景色から遼平を見つけると、安堵したように微笑んだ。
『僕も遼君みたいに強くなりたいな』。十年以上前に聴いた言葉が唐突に蘇る。
『遼君はみんなを守ってくれるヒーローだから』。どんな状況だったのかは忘れた。
『いつか遼君みたいになれるかな』。自分が何と応えたかも覚えていない。思い出せたのは純也のきらきらとした瞳だけだった。
「俺は強くなんてねえよ」
体が浮遊する。内臓が、骨が、筋肉が融けていく。視界が滲む。純也の死ぬ姿はもう見たくない。だが、この目を閉じたらまた始まってしまう。今回こそは何かが違うと思ったのに。
「止めてくれ。頼むから。連れていってくれ。俺を、明日に行かせてくれ…っ!」
零れた涙は円環を巡り、昔日の頬を濡らす。
―――これから始まる一年が君たちの人生において掛け替えのない時間であることを
【円環の終着】
ひとつ、昔話をしようか。
その男は東京生まれ、東京育ち。優しい父と温和な母、愛くるしい妹が居る、ごく一般的な家庭で育った。子供の頃から内気で臆病。読書が好きで、本の中のヒーローたちにこっそりと憧れていた。
小学校ではそれなりに行事を楽しみながら、平穏無事に六年間を送る。稀に学業で褒められることはあれど、クラスでは目立たない存在だった。
中学に入っても大人しい性格は変わらず、放課後は図書館と塾でほとんどを過ごす。緊張による腹痛で高校受験は失敗。幼馴染と同じ都立高校に入学し、大切な友人たちと出会う。自分には無縁だと思っていた青春を満喫した。友の応援が力となり、第一志望の大学に見事合格。2020年3月1日、卒業の日に友人を目の前で亡くした。
それが僕、桜木純也の生きてきた過去だ。
そして今、僕は卒業式の帰り道に友人の目の前で死に至ろうとしている。僕は高校三年生を繰り返してきた。何度も、何度も、数えることを止めてしまった程に何度も。僕にとってここは、今であり、昔でもあった。
円環に囚われた理由は分からない。君の死を受け入れられなかった僕に神様がチャンスを与えたのか。君の死を止められなかった僕に神様が罰を与えたのか。何もかも分からないまま、僕は同じ月日を繰り返した。
君の死を止めるために、あらゆる手を尽くした。会話を変えた。行動を変えた。君の前から姿を消した。自殺した。人を殺した。何をしても高校三年一学期の始業式へと戻された。
繰り返す内に君を死なせたくないと願う気持ちは薄れていき、全ての原因を君のせいにして、自分が救われることだけを求めるようになった。君を心底憎んだ。この手で君を殺したこともあった。それでも僕は円環から抜け出すことはできなかった。
だから僕は全てを放棄した。抜け出すことを望まなければ苦しむこともない。舞台で役者が同じ台詞を毎日繰り返すように、麻痺した心は同じ言葉を毎年吐き続けた。君の無邪気な笑顔を恨むこともなく、些細な変化に心を弾ませることもなく、ひたすらに繰り返す。何度も、何度も。
思い返してみると今回はどこか違っていたかもしれない。虚ろになった僕の心は何も気付かなかったけれど、衝動的に君を制して駆け出していた。円環が断ち切れ、そこに出口が見えた気がした。円環に閉じ込められた原因と同様に、解放される理由も分からない。でも確かに今、僕は円環から抜け出そうとしている。
全てが終わろうとする今になって、僕の心は再び躍動しだした。そして、想う。君と共に過ごした時間は、なんて幸せだったんだろう。君の友でいられて良かった。君はずっと僕の憧れだった。
僕が死んだら君はきっと悲しむと思う。自分自身を責めるかもしれない。でも、君なら、強い君なら、僕の死を乗り越えて前を向いて生きていける。僕が辿り着けなかった明日を、君はどんな風に過ごすだろう。
君の未来に、どうか幸あれ。