妻
ひとつ、昔話をしようか。
これは、勇者が世界を救う物語。
これは、狂気に堕ちた魔王の物語。
これは、悲劇の少女の物語。
これは──ひとつの愛の物語。
◇
太陽が山の向こう側に沈んでいき、シンと冷えた冬の暗空から今年初めての雪が降り始めた頃。白い息を吐きながら、丘の上のお屋敷へと走る少女がおりました。肩の上で跳ねる薄い金色の髪。薄闇の中で煌めく深緑の瞳。舞い落ちては溶けていく雪を気にすることもなく、少女は足取りも軽く駆けていきます。お屋敷の前に広がる色とりどりの花々が、空に浮かぶ月の青白い光を受け、しっとりと輝きます。少女は花畑を突っ切ると、勢いよくお屋敷の扉を開き、部屋に飛び込みました。
「おじいさん、ただいま帰りました」
暖炉の火が灯る温かな部屋の中。書き物をしていた白髪の老人は椅子から立ち上がり、少女を迎えました。
「やあ、お帰り。随分と濡れているね」
「途中で雪が降り始めて。でも、ぜんぜん大丈夫よ。早くご馳走の準備をしましょう。それから、物語を聞かせて……くしゅんっ」
老人──おじいさんは少女が背負った鞄を受け取ると、優しく頭を撫でました。
「ご馳走も物語も逃げやしないよ。まずはお風呂で温まっておいで。食事の準備は私がやっておこう」
そうはいかないと口を開きかけた少女は、もう一度大きなくしゃみをすると、渋々といった様子で浴室に駆けて行きました。
少女には両親の記憶がありません。物心付いた頃には、おじいさんと二人で暮らしていました。おじいさんは優しく、物知りで、親代わりとなって少女を育ててくれました。ですが、長い時間を一緒に過ごしている少女も、おじいさんの事を良く知りません。なぜ一緒にいてくれるのか、両親とはどんな関係だったのか、今までどこで暮らし、何をしていたのか、少女がそれとなく聞いてみても、いつも曖昧にはぐらかされるばかりです。街の人にも聞いてみましたが、おじいさんは滅多に屋敷から出ないので、交流のある人は一人もおらず、それどころか不気味だと怖がられてさえいるようでした。
「おじいさんは立派な人なのだから、もっと皆とお話すればいいのよ。そうすれば誤解も解けて人気者になれるのに」
おじいさんは病気によく効く薬を作ることができ、今日のように街に売りに行くと必ず売り切れてしまいます。学者や政治家の人達よりもたくさんの事を知っています。宮廷のお抱え魔導士にも真似できない不思議な魔法を使えます。
「それに物語を語るのだって、どんな吟遊詩人よりも上手だわ」
湯船の中で目を閉じると、幼い頃から何度もおじいさんにせがんでは、繰り返し聞いてきた物語の世界が鮮明に蘇ってきます。
それは遠い昔にこの世界を魔王から救った勇者の物語。
異世界からやってきた勇者は、仲間たちと共に様々な国を旅します。
人魚たちの国《声無き浜辺》では魔王が流した毒の潮を防ぎました。
吸血鬼の居城《月下の血城》では吸血鬼の王との一騎打ちに勝利しました。
機械が暮らす街《歯車の真心》では彼らに心を教えました。
魔法と知恵と仲間たちに支えられ、困難を乗り越えていく勇者の物語。それは、いつでも少女をワクワクする冒険に連れ出してくれる、他のどんな魔法より素敵な魔法でした。
少女が街で見聞きしたことを話しながら、ご馳走をすっかり平らげた頃には、夜もすっかり更けていました。いつもならば少女はとうに眠る時間ですが、今日に限っては興奮で目が冴えて一向に眠気がやってきません。
「おじいさん、ちゃんと覚えている? 十六歳の誕生日には『特別な物語』を聞かせてくれるって約束だったわ」
少女は目を輝かせながらテーブルに身を乗り出し、おじいさんに尋ねました。
「ああ、もちろん。それでは、ひとつ、昔話をしようか──」
暖炉の炎が揺らめき、部屋の壁に怪しげな陰影を作り出します。おじいさんが語りだすと、物語の世界に引き込まれ、見慣れたはずの部屋でさえも、遠い異国にいるように感じるのでした。
「今夜はどんなお話?」
「勇者が愛した人。彼と妻の物語だ」
おじいさんは、ゆったりと椅子にもたれるとお腹の上で手を組み、語り始めました。
勇者の最初の妻は《魔法使い》だった。彼女は勇者と一緒に帝都で魔法を学んでいた。二人は切磋琢磨しながら力を付けていき、多くの新しい魔法を開発した。勇者が魔王討伐の旅に出る時には、危険だからと何度も止めたが、最後まで言うことを聞かずについてきてしまった。
勇者の次の妻は《人魚》だった。人魚は言葉を持たない種族だから、勇者は彼女と語らうことは出来なかった。会話の代わりに二人で浜辺に並んで海面に映る月を眺めていた。
勇者の次の妻は《吸血鬼》だった。日の当たる時間は外に出られなかったから、出かけられたのは夜だけだった。
次の妻は機械だった。
次の妻は天使だった。
次の妻は悪魔だった。
次の妻は獣人だった。
次の妻は精霊だった。
次の妻は巨人だった。
次の妻は小人だった。
次の妻は夢魔だった。
次の妻はエルフだった。
次の妻は宇宙人だった。
次々と語られる勇者と妻の物語に、少女の表情が次第に曇っていきました。少女が今まで聞いてきた物語の中の勇者は、勇敢で思慮深く誠実な人です。奥さんを次々とっかえひっかえなんてとても同じ人だとは思えません。
「勇者様ってば、そんなに浮気性な人だったの?」
眉根を寄せる少女の口から、思わず零れた非難の籠った言葉に、老人は苦笑いをすると穏やかに言いました。
「いいや。彼は妻をとても愛していた。彼の最初の妻の名前はね──」
◇
幼い頃から、何度も、何度も、僕を呼ぶ声がした。
それは世界がぼやけるような感覚に続いてやってくる、悲鳴、嘆願、批難、慟哭。
応えようとしても、たぐり寄せるには弱弱しく、呼びかけるには取り留めなく、やがて声は闇へと沈ん
でいく。何も分からないのに、なにか、大切なものが失われたことだけは分かって、無駄と知りながら声の方へと駆け出して、虚空に何度も手を伸ばす……だけどそこには何もない。
友人や先生に、何故と問われて、僕を呼ぶ声がするから、と答える。相手の顔に浮かぶ、気味の悪いものを見るような目……。
「僕っておかしいのかな……」
授業参観の帰り道。母に手を引かれて歩く夕暮れ。問いかけた母の顔を見ることが出来なかった。僕が教室を出た後に、母が先生から、なぜ病院に連れて行かないのか、と詰め寄られていたのを聞いてしまったから。
「お母さんは思うの。神様はきっとなんの意味もなく特別な力は与えないって」
ぎゅう、と繋いだ手に力が込められ、母のいつものと変わらぬ凛とした声が響く。
「あなただけに声が聞こえるのは、きっといつか、あなたの力を必要とする誰かが現れるから。
そう考えたほうが嬉しいじゃない。だからその時は、その誰かを全力で助けてあげなさい」
「……僕には無理だよ」
「そんなことない。ほら、このあいだ買った本。あの勇者だって最初は弱かったでしょ。でも、努力して、仲間が出来て、最後には魔王を倒してお姫様を取り戻した」
ランドセルから、誕生日に母から買ってもらった小説を取り出す。表紙の中央には、恐ろしい魔王に向かって、凛々しく剣を構えた勇者が描かれている。
「僕にも、なれるかな」
「もちろん。私の息子だもの。強くて賢くて優しい。勇者みたいな、いい男になれるわ」
母のその言葉は僕にとって人生の指標となった。中学、高校と進学しても、僕を呼ぶ声はふいに訪れた。死の間際のような、絶叫、嘆き、後悔。僕に向けられた呪いのような声に歯を食いしばり耐えた。物語の勇者は決して諦めなかった。鍛えた技と肉体で困難を打ち砕いた。謎を解き、世界の真相に近づいた。たくさんの信頼できる仲間たちがいた。そんな勇者を目指すのだ。時間はいくらあっても足りない。寝る間も惜しんで勉強した。限界まで体を鍛えた。困っている人がいれば助けた。次第に周りに人が集まるようになり、信頼できる仲間ができた。
母の言葉が《勇者》という果てのない目標を与えてくれたからこそ、僕はまともな精神を保つことができていた。やがて僕は就職に合わせて家を出た。その冬、僕の二十三歳の誕生日に届けられたのは、交通事故に巻き込まれたという母の訃報だった。
お経に交じって呼び声が響く。世界が二重にぼやけるような感覚に、気分が悪くなったと断り、葬儀場を抜け出す。声が治まってからも戻る気になれず、一時間ほどの徘徊を経て人気のない公園にたどり着いた。ベンチに座りコートのポケットから本を取り出す。何度も読み返され、くたびれた文庫本。母の言葉をきっかけに、この本を目標に、努力し続けきた。……けれど、それになんの意味があった。僕は何になれた。この先、いつまで苦しめばいい……。
開いていた本に、ぽつり、と染みができた。見上げた闇夜に街灯の頼りない光を反射して雪が舞っていた。雪片が舞い降り、僕の中の熱を蝕むように一つ、また一つと本に染みを作っていく。
「もう、嫌だ……」
言葉は知らず漏れていた。僕を繋ぎとめていたものが、切れようとしているのが分かった。
叶うならばもう二度と目覚めぬようにと願いながら、僕は世界を遠ざけるように目を閉じた。
闇の中で薄ぼんやりとした光が見えた。
その光に伸ばした右手に、温かなものが触れる。
滑らかなそれは手の形をしていた。
きっと大切なものだと思った。
決して離してはいけないと、魂が告げた。
崩れ落ちてしまいそうな微かな繋がりを頼りに──僕はその手を引いた。
ゆっくりと瞼を上げる。そこは目を閉じる前と変わらぬ公園のベンチ。いつの間にか雪は降り止んでいた。右手が何かを握り締めていることに気が付き視線をやると、そこに少女がいた。ボロ切れのようなローブを纏い、その上からでも分かる痩せた身体。緩やかに波打つ薄い金色の髪。星のように煌めく緑色の瞳。そして僕が握りしめる左手。
ぽかん、と互いに顔を見合わせる。先に状況を理解し、口を開いたのは少女の方だった。
「世界を救ってください。勇者様」
それが、僕と彼女──妻との出会いだった。
◇
夜の公園で出会ったあの日。彼女はこことは違う世界の事を、そして彼女自身のことを語った。魔法が世界の中心となり、人と人ならざる者が共存する世界。その世界が邪悪な魔王の手に落ちようとしている。魔王の圧倒的な魔力と奸智によって、次々と飲み込まれる国々。この事態に、彼女が暮らしていた帝国は異世界の者の助けを呼ぶべく、大規模な儀式を行った。成功の確率は極めて低く、失敗は死を意味するこの儀式に集められたのは、高い魔力を持つ千人の魔術師たち。彼女もその一人だった。
「こちらの世界で最も強い魔力を持つ人の元に道を繋ぐ儀式でした。あなたの前に現れたのが私だけということは、他の仲間たちは……」
幼い頃から、絶えず聞いてきた呼び声。それは、決死の覚悟で世界を越えて、僕に助けを求めた人たちが、世界の狭間で上げる断末魔だった。
「すまない。僕が応えられなかったばかりに、君の仲間を、たくさんの人を見殺しにした……」
分からなかった。できなかった。仕方なかった。それが、何の言い訳になるだろうか。僕だけが救えるはずだった。僕が救わなくてはいけなかった。謝って許されるとは思わない。けれど僕にできるのは懺悔の言葉を繰り返すことだけだった。
「それでも。あなたは見つけてくれた。私は……あなたに救われました」
自らが犯した罪の恐怖に震える手に温かな手が重ねられ、強く握り締められた。それはいつかの夕暮れ、並んで歩いた母の温もりを思い出させた。
「それに、私の方こそ謝らなくてはいけません。私たちの世界のために、命を賭けてくれと乞うのです。どれだけ身勝手で無茶なお願いかは分かっているつもりです。でも、もう私たちにはこれしかない。お願いです……助けて、下さい」
彼女の手も震えていた。ボロボロになりながら、罪悪感に潰されそうになりながら、それでも目を逸らすことなく、深緑の瞳はしかと僕の目を見据える。
──『きっといつか、あなたの力を必要とする誰かが現れるから』
母の言葉が蘇る。見知らぬ異世界。命を賭けた戦い。怖くないと言えば嘘になる。かけられた犠牲と期待に押し潰されそうになる。
──『だからその時は、その誰かを全力で助けてあげなさい』
でも、闇の中で彼女の手を握ったその瞬間に僕の心は決まっていた。
僕は精いっぱいの強がりと、勇気を振り絞り、彼女に向かって笑って見せた。
「ああ、僕が──世界を救ってみせる」
異世界に渡るための魔力が溜まるのを待つため、こちらの世界で二年余りの時間を彼女と共に過ごした。罪を負い、やがて戦場へと向かう僕に与えられた最後の穏やかな時間。その隣に彼女がいてくれたことがどれほど救いになったか。彼女はいつも笑っていた。初めて見た電車やテレビに目を丸くし、ケーキを食べてふにゃりと相好を崩し、愛おしむように花や雲を眺めた。だけど、僕は知っている。僕が眠ったのを確認してから、命を落とした仲間の名を呟きながら声を押し殺し泣いていたことを。死を覚悟した儀式、その恐怖の記憶に毎夜うなされている事を。
頑張り屋で、強がりで、優しく、勇敢な。そんな一人の少女が笑顔で過ごせる世界を守ことができる。それだけで僕が勇者になる──命を賭けるには十分すぎる対価だ。
──そしてついに、その日がやってきた。
目を開けると、晴れ渡る空に青白く輝く二つの月が見えた。吹き抜ける風に交じる嗅ぎ慣れぬ香りが、遠い異邦にやってきたことを実感させた。
「勇者様、痛いところはありませんか? 私が見えていますか?」
寝転がった僕をのぞき込むように、心配そうな彼女の顔が現れる。どんな世界でも、どんな困難が待ち受けていても。彼女のためならば、僕は戦うことが出来る。
「君に伝えたいことがあるんだ」
はい?と、首をかしげる彼女の手をとり、その左手の薬指に、深緑の指輪をはめた。
「この世界の慣習は分からないけど、僕の世界では愛を誓った相手の薬指に指輪をはめる」
彼女は、自らの指にはめられた指輪をしばし見つめた後、はわわわ、と叫び、手をばたつかせ、視線をあちらへこちらへと彷徨わせた。
「ええと、こちらの世界では婚姻は十六からで私はまだ……ああでも、あちらの世界で二年過ごしているから、ちょうど十六でいいのかな。いやそもそも、私なんかが勇者様の妻なんて……」
嫌かな、と尋ねると、大げさなほどに首を振り「そんなことありません!」と叫んだ。
「ならこの先も僕の隣にいてほしい──結婚してください」
顔を真っ赤にして俯いた彼女はか細い声で、ふつつかものですが、と呟き小さく頷いた。
◇
「嘘だ……どうしてっ! 頼むから、いかないでくれ……」
上手くいくはずだった。彼女と共に帝都で魔法を学び、新たな魔法理論を確立した。理論を応用した魔道兵器によって魔王軍に押されていた各地の戦線も持ち直した。様々な種族の国を巡り、話し合い、助け合い、時に闘い、魔王討伐に協力する仲間を得ていった。そして、こちらの世界に来てから五年後。ついに僕たちは魔王城の最終決戦で、魔王を打ち倒した。
「君を失ったら……僕は……」
死に際に魔王が放った最後の一撃。放たれた光線は、僕を庇った彼女の身体を貫いた。目の前で崩れ落ちた彼女を抱きとめる。握りしめた彼女の手から力が抜けていく。
「ゆうしゃ、さま。そこにいらっしゃいますか……」
微かに開いた口から命を絞り出すように言葉が漏れ出た。
「私、もっと、あなたと一緒にいたかった……だって、まだ、話し足りません。甘え足りません。触れ、足りません」
焦点の合っていない彼女の瞳から一筋の涙が零れ落ちた。
「ああ、でも……どうか、忘れないでください。こんな結末になってしまったけれど、私は……」
彼女はほんの微かな、けれど精いっぱいの力で僕の手を握り返すと、ゆるりと微笑んだ。
「あなたの妻になれて幸せでした」
その言葉を最後に、彼女の深緑の瞳から光が失われた。
それからの数か月をどう過ごしたのかはっきりとは覚えてはいない。彼女を失い、百の嘆きを吐き、千の悲しみに震え、魂に万の傷が刻まれた後、僕はやっとまともな意識を取り戻した。
救国の聖女として帝都の大聖堂に安置されていた彼女の遺体を盗み出した。魔法で身体の腐食を止められている彼女は、あの日のままの、今にも目覚めそうな顔をしていた。
これ以上嘆いている時間はない。諦めてなんてやらない。立ち止まっていい理由もない。僕は彼女──妻を取り戻す。
しかし、いかに魔法があるこの世界でも死は絶対であり、その蘇生は夢物語だ。蘇生……組成。
そうだ。蘇らせることが出来ないのなら、新たに彼女の肉体と魂を作り直せばいい……幸いなことに、この世界は実験材料には事欠かない。
手始めに不老不死だという人魚に目を付けた。以前、彼女らの国を魔王から救った僕は、疑われることもなく密かに人魚を捕らえ、調べ尽くした。生きたまま刻んだ。焼いた。穴を空けた。注入した。臓器を取り出した。脳に電気を流した。
彼女の肉体を蘇らせるためには、どうしても一定量の彼女の細胞が必要だった。僕は嗚咽と涙を流しながら、彼女の遺体に刃を入れ、喉の肉を切り取った。
何人もの人魚を攫い、殺した。彼女の身体を刻み、溶かし、混ぜ合わせた。実験を始めてから数年の後、彼女を蘇らせることに成功した。しかし、蘇った彼女は声を失っていた。完璧な彼女でないのなら失敗だ。僕は彼女の顔をしたソレを殺した。
次に吸血鬼の肉体を使った。彼女の頬を切り取った。蘇った彼女は日に当たることが出来なかった。失敗だ。彼女を殺した。
次に機械の肉体を使った。彼女の目を抉り出した。蘇った彼女は涙を流すことが出来なかった。失敗だ。彼女を殺した。天使を使った。彼女の背中を削いだ。悪意を持たなかった。失敗だ。彼女を殺した。悪魔を使った。彼女の心臓を摘出した。善意を持たなかった。失敗だ。彼女を殺した。獣人を使った。彼女の舌を切った。食の好みが違っていた。失敗だ。彼女を殺した。精霊を使った。彼女の足の指を切り落とした。地に足が着いていなかった。失敗だ。彼女を殺した。巨人を使った。彼女の背骨を抜いた。彼女の頭を撫でられなかった。失敗だ。彼女を殺した。小人を使った。彼女のあばらを砕いた。抱きしめることが出来なかった。失敗だ。彼女を殺した。夢魔を使った。彼女の脳を掻き出した。夢でしか会えなかった。失敗だ。殺した。エルフを使った。彼女の耳を引き剥がした。失敗だ。殺した。宇宙人を使った。失敗だ。殺した。失敗だ。殺した。失敗だ殺した失敗だ殺した──
彼女を取り戻すために、彼女の遺体を犯し、殺し続けるという矛盾。終わりの見えない無限地獄を、後戻りすることも出来ず彷徨ううちに四十年の時が過ぎた。実験のたびに失われていく彼女の遺体は、ほんの一部を残すのみとなっていた。
育成ポッドの中で一五一人目の彼女が目覚めた。花の蕾が開くように瞼がゆっくりと持ち上がり、深緑の瞳と目が合う。しばしの沈黙の後──彼女はゆるりと微笑んだ。それは彼女の微笑みだった。彼女の肉体。彼女の精神。彼女という存在からしか発現しえない、失われたはずのもの。
「やっと、君に会えた……」
涙を流す僕を不思議そうに眺める幼い姿の彼女を、力強く抱きしめた。
誰も僕たちのことを知らない遠い国に二人の家を建てよう。
そして、君が十六歳になった時。僕はもう一度──
◇
「勇者様ってばそんなに浮気性な人だったの?」
少女の口から思わず零れた非難の籠った言葉に、おじいさんは穏やかに言いました。
「いいや。彼は妻をとても愛していた。彼の最初の妻の名前はね──『ヒスイ』だ」
告げられたその名前に、少女が首をかしげ、問いかけようとした言葉を遮るようにおじいさんは言葉を継ぎます。
「勇者の次の妻。人魚の名はヒスイだ。吸血鬼の妻の名はヒスイだ。機械の妻の名はヒスイだ。天使の妻の名前はヒスイだ。悪魔の妻の名前はヒスイだ。獣人の妻の名前はヒスイだ──」
次々と同じ名前が告げられる度、少女の無垢な表情は削ぎ落ち、強張っていきます。
「今日は十六歳の誕生日だね。君に贈り物がある」
おじいさんは豪奢な装飾の小箱を取り出すと、蓋を開きました。中に収められていた芋虫のようなもの──その正体を認識した瞬間、少女は短い悲鳴を上げました。小箱に収められていたのは人の指でした。その根元には緑色に光る指輪が嵌められています。おじいさんは優しい手つきで指輪を引き抜くと、少女の方へ差し出しました。少女の顔は恐怖に歪み、指輪を遠ざけるように思わず手を突き出しました。その瞬間、少女は気が付きました──自らの薬指と、小箱に収められた薬指が全く同じ形をしていることに。
「さあ、こちらへおいで──僕のヒスイ」
──おじいさんは愛おしそうに、少女の名を呼びました。