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あの日、がなかったら

 ね、ひとつ昔話をしようよ。

 忘れたなんて言わせないよ。


「…どうしょう、在庫が合わないよ…」

 パソコンの前で奈緒は頭を抱えた。サーバーの在庫数と実際の在庫数、この間に差異が出ている。パソコンの画面を何度か切り替えて差異の原因を探したが、どこにもそれらしきものは見当たらない。思い余って隣の席に声をかけた。

「すみません、サーバーと在庫の数が合わないんですが、一緒に確認してもらっていいですか?」

 隣の席は七歳年上で羽田という。この部署に来てから仕事を教えてもらっている。

「…ちょっと待って…。いいよ、何?」

「このH43Aというユニットなんですが、サーバーと在庫の数が合わなくて」

 サーバーでの数は四十三台。しかし実際に確認できる在庫は三十台。十三台、数が合わない。ちなみにこの製品は一台約三万円。四十万円ほど金額が合わないことになる。

(今月は実棚月(じったなつき)だってのに…!)

「現場は確認したんだよね?二階のエージング室は見た?」

「生産課の係長と一緒に確認しました」

「三階のリペアの棚は?」

「見ましたがありませんでした」

 怪しいところは確認済みだ。前回の実棚のときに学んだ。

「うう〜ん、どこに行ったかな…」

「…どうしたんですか?」

 そのとき、後ろから思わずといった感じで声がかけられた。

「それが在庫が合わなくて…」

 答えた奈緒は、視線の先にいた人を見て固まった。

 …あれ、この人。すごく知ってる。いやでも、まさか…

「ふっ、古瀬先生…?!」

「え、古瀬は僕ですけど。…あれ?」

 その人はまじまじと見てから

「…もしかして、奈緒ちゃん?」

「そうです、石川奈緒です!」

 やっぱり!という思いと、覚えていてくれた!という嬉しさが、ごちゃ混ぜになる。

「…古瀬先生?」

 羽田が不思議そうな顔で振り返る。

「昔、私の家庭教師をしてくれてたんです」

「あれは奈緒ちゃんが中学生で、僕が大学生のときでしたか」

「あぁ…、だから『先生』か」

 話を聞いて、羽田は合点がいったようだ。

「そうか、社会人か…。もう『奈緒ちゃん』なんて呼べないね」

 そしてあの頃と変わらない笑顔で

「大きくなったなぁ。キレイになったね、奈緒ちゃん」

「?!」

「?!」

「?!」

「………!」

 あ、ごめん。石川さんか。

 そう言った古瀬は、瞬間周りがザワついたことも、動揺した奈緒の心拍数が急上昇したことも気づかないようだった。


「実際に物がないのなら、現実問題として誰かが動かしたんじゃないかな?」

「そんな連絡は、どこからも来てないんですが…」

 物を動かしたのなら「移動票」が来るはずだ。

「…メール。メールは確認した?」

 ちょっと開けてみて。そう言われた奈緒はメーラーを起ち上げる。丁寧に受信箱を確認すると、たくさんのメールに紛れて営業からの未開封メールが見つかった。

『修理代品として9台持っていきます』

『本紙品証に4台出します』…合わせて十三台。

「…これかっ…!」

 なぜ勝手に持っていく?! 出せよ移動票!

 奈緒が内心ふつふつとしていると

「解決した?よかったね」

 古瀬の声に気が抜ける。営業のポンコツに対する怒りより古瀬と再会できた喜びの方に、あっさりと天秤は傾いた。どうしても頬が緩む。

「ありがとうございました!」

「うん、よかった。またね、石川さん」

 古瀬が自分の職場へと戻っていく、その後ろ姿を見送った。


 奈緒はその場で営業に移動票の提出を依頼するメールを送信し、さらにダメ押しの電話をかける。

「もしもし?日程管理の石川ですが…」

 今週中の提出を約束させ、時計を見ると古瀬が戻ってから十五分。ちょうどいい頃だ。会社の名簿を呼び出し、古瀬の社内メールのアドレスを調べた。こういうのは再会の熱が冷めないうちの方がいい。善は急げ。鉄は熱いうちに打て。

『石川です』

 と件名に入れる。

『先程はありがとうございました。

 おかげで無事に解決しました。

 それにしても古瀬先生と同じ会社だとは思いませんでした。

 とても懐かしいので、今度食事でも一緒にどうですか?』

 さて、どう来るか。

 返信は定時近くに来た。

『古瀬です』

『打ち合わせがあり、返信遅くなりました。

 僕もとても懐かしいです。

 受験のあと、どうしていたのかと思ってました。

 食事ですが、今月は棚卸しで大変だと思うので、

 来月ではどうですか?』

 来月!まだ月半ばだ。ちょっと遠い…か。

 いや!これで今月末の棚卸しは乗り切れる!

(来月まで、元気で生き延びなくては…!)

 奈緒は小さく拳を握った。


  ❋ ❋ ❋ ❋ ❋ ❋ ❋ ❋ ❋ ❋ ❋ ❋ ❋ ❋ ❋


「…出来ました」

 奈緒はノートに走らせていた鉛筆をとめ、隣に声をかけた。その人はうん、と一つ頷いて

その計算があってるの(・・・・・・・・・)か、一緒に確かめようか」


 古瀬は地元の大学に通う学生で、奈緒の家庭教師をしている。

 もともと奈緒は算数が苦手だったが、中学になって算数から数学になり、xやyが出てくると完全にお手上げになってしまった。数字なら何とか理解できたことが文字になった途端に掴みどころがなくなってしまい、何を解いているのかも分からない。高校受験のこともあり塾に通うことを考えたが、家から塾までが遠かったこともあり、父親が反対した。そこで家庭教師を頼むことにしたのだ。

 奈緒は「数学の家庭教師」に気が重かった。苦手な数学を家でもやらなくてはならないなんて!

「こんにちは。奈緒ちゃん」

 そんなときに来たのが古瀬だった。ほっそりとして大人しそうで、何だか頼りない。

 大丈夫かな、この人。

 密かに奈緒は心配したが、古瀬は家庭教師としては優秀だった。奈緒が分からないところを、何度でも根気よく教えてくれる。ときには小学校の単元まで戻って復習した。中学生にもなって…と情けなく思う奈緒に

「これから先、微分積分とか複雑な計算も出てくるけど、それはみんな足し算や引き算なんかの延長線にあるんだよ。一つ一つ進んで行って解けるようになるんだ。だから分からなくなったら前に戻ってやり直すのが、実はいちばん早いんだよ」

 教科書や参考書だけではなく、手作りのプリントを持ってきて教えてくれるおかげで、奈緒の数学の成績は上がり始めた。と言っても手取り足取り古瀬に教えてもらって、何とか授業のしっぽに喰い付いているといった具合だったが。


「あ、ここが違ってる。ここはね、こっちを代入するんだよ」

 奈緒は隣の古瀬をそっと盗み見た。古瀬くらい数学が出来るのなら、中学生の問題など赤子の手を複雑骨折させるほど簡単なはずなのに、退屈どころかとても楽しそうだ。

 数学って、そんなに面白いのかな…

 ただの数字や記号にしか見えない数式も、古瀬には別の物に見えているのだろう。

 お願い(・・・)。先生の見ている世界に連れて行って(・・・・・・)

 この人と同じ景色を見てみたい。そう、奈緒は思った。


 母親がお茶を持ってきてくれたタイミングで休憩になった。

「さっきのは惜しかったね。でもずいぶん解けるようになったよ」 

 お菓子をつまみながら、奈緒のする他愛ない話を楽しそうに聞いている。

 先生って彼女、いるんですか?

 今そう聞いたら、ただの好奇心旺盛な中学生の質問だと思ってくれるだろうか。

 いるよ

 そう答えられたらどうしよう。今の自分には跳ね返すことも、受け止める力がないことも分かっている。自分がただの生徒に過ぎないということも。

 小五のとき、隣のクラスの男の子を好きになった。サッカーの上手い目立つ男の子で、その子を好きだと言う子たちと騒いだものだった。今から思えば、テレビの向こうのアイドルにきゃあきゃあ言ってるのと変わりなかった。あれは恋ではない。ほんとに恋をしたら、あんなに無邪気に騒いだりできない。嬉しいのに苦しくて、楽しいのにつらい。

 今の奈緒は、そのことを知っている。


  ❋ ❋ ❋ ❋ ❋ ❋ ❋ ❋ ❋ ❋ ❋ ❋ ❋ ❋ ❋ 


「そのとき営業、なんて言ったと思います?『売上げ済み製品だから移動票はいらないと思った』ですよ!」

 棚卸しが終わった最初の金曜日。奈緒は古瀬と会社から駅四つ離れた居酒屋にいた。居酒屋といっても半個室でゆったりとした造りになっている。照明も程よく落とされていて、落ち着いた雰囲気の店だった。

「確かに売上げ済み製品なんですけどね…」

 七年ぶりの再会をビールで乾杯し、先月の「ユニット行方不明事件」の顛末を、少しの愚痴を絡めて報告している。

「だからって勝手に持っていかれたら、在庫は合わなくてなるよね」

「そうなんですよ〜!実棚月でしたし、ほんと青くなりましたよ」

 奈緒の話を、古瀬はおかしそうに笑いながら聞いている。再会して初めての食事での会話の導入が仕事の話とは何とも色気のないことだが、この場合は仕方ない。

「それにしても、まさか古瀬先生と同じ会社だとは思いませんでした」

「秋の人事異動で、こっちに来たんです。あの日は総務に書類を出しに行ったところで」

 春の人事異動は昇進・降格を含めて話題性があり、みんなが注目している。それに比べて秋の人事異動の注目度は高くない。廊下の掲示板にそっと貼り出されるくらいだ。だから奈緒も気づかなかった。古瀬が同じ会社の社員で、しかも異動してくるということに。

「石川さんは、高校のあとどうしたの?」

「短大に進学しました。卒業して、今の会社に就職して」

「高校では、数学はどうでした?できた?」

「…まぁ、それなりに」

 そういえば、と奈緒がくすりと笑う。

「こないだ実家の押し入れから出てきましたよ、先生のプリント!」

「えっ?!まだ持ってるの、あれ!」

「もちろんです」

 高校に入ってからも数学で分からないところがあると、必ず古瀬のプリントを見返した。丁寧につくられたプリントには、いつも何かヒントになることが載っていた。

「うわ〜。もう処分していいよ、それ」

「捨てませんよ。すいぶん助けられたんですから」

「でももう使わないでしょう?」

「さぁどうでしょう?人生何があるか、分かりませんから」

 捨てたりしない。捨てられるわけがない。古瀬から貰ったものは、今でも大切に取ってある。


  ❋ ❋ ❋ ❋ ❋ ❋ ❋ ❋ ❋ ❋ ❋ ❋ ❋ ❋ ❋


 奈緒の部屋に入った古瀬は、いつものバッグから紙袋を取りだした。

「奈緒ちゃん、明後日は誕生日でしょ?次に来るときは過ぎちゃうから、少し早いけど」

 うそ!古瀬先生から誕生日プレゼント?!

「…あ、開けてもいいですか?」

 どうぞ、と言った古瀬は、何だかいつもより頼りない。紙袋には、二つの小さな包みが入っている。一つを開けてみると、中には淡いピンク色の色石を数珠につないだブレスレットが入っていた。ところどころに小粒の紅い石が使われていて、それが全体の印象を締めている。可愛いけど甘くなりすぎないデザインのブレスレットだった。

「可愛い…」

 もう一つの包みには、商店街のケーキ屋の焼き菓子が入っていた。フィナンシェとダックワーズ。小さなケーキ屋だが味に定評があり、人気の店だ。ちょっといいお値段がするので、焼き菓子といっても奈緒の小遣いではなかなか手が出せない。

「これ、いいんですか!…ありがとうございます!」

 奈緒の笑顔を見て、古瀬はほっとしたようだった。

 古瀬から誕生日プレゼントを貰えるなんて。嬉しくて嬉しくて嬉しくて、胸が痛い。


 冬になった。高校受験が近づいている。年が明ければカウントダウンだ。一月半ばから二月半ばまで、受験に合格して高校進学を決めること。志望校に合格すること。それが希望のはずだったのに。

 古瀬は奈緒の高校受験のために家庭教師をしているのだ。志望校に合格するということは、そのまま古瀬との別れを意味している。

「奈緒がね、受験なんてしたくないと言ってるんだよ」

 古瀬は居間で両親と向かい合っていた。隣には奈緒もいる。

「なぜ受験したくないのか、聞いても答えてくれなくてね。古瀬先生は、何か聞いてないかな」

 奈緒は黙って俯いている。言えるわけがない。古瀬と離れるのが嫌だから、受験したくないなんて。奈緒が進学しなかったからといって、古瀬がずっとそばにいてくれるわけではない。立ち止まるのは奈緒だけだ。周りのみんなも古瀬も、奈緒をおいて先へと進んで行く。そんなことは分かっている。

 言っても仕方ない。子供の我が儘だ。

「どうしたの、奈緒ちゃん。受験するのが不安になっちゃった?」

 ややあって、奈緒は頷いた。話すことが出来ないなら、このありきたりな理由に乗っかるのが穏便に済ませる方法だと思ったからだ。

「実は学校の先生から、もっと早く計算問題を解けた方がいいと言われていてね」

「もっと早く…ですか」

「古瀬先生から見て、奈緒はどうなんだろうね?」

「奈緒ちゃんは、志望校の合格圏内に入っているんですよね?」

「一応、学校からはそう言われている」

 古瀬はしばらく何かを考えていたが、やがて

「…僕は、それは必要ないと思います」

 父親は軽く頷いて先を促す。

「確かに計算を早く解けるというのは、試験には有利です。時間内に少しでも点を取るなら、その方が確実ですから」

 計算を解くのが早いというのは、解くために必要なポイントを見つけるのが上手いということだ。ある意味センスの問題なのだろう。

「でも、奈緒ちゃんはタイプが違うんです」

 奈緒はもともと国語の能力が高い。計算問題を早く解くより、文章問題を正確に読み解く方が得意なのだ。古瀬はバッグの中から、紙の束を取り出した。テーブルの上に広げて見せる。

「これは、奈緒ちゃんの志望校の過去問です。十三年分あります。実際に解いてみて分かったのは、かなり難しい『引っ掛け』問題があるということです」

 紙を何枚かめくると、ペンで印をつけたところが出てきた。

「ここなんですが、この問題は一見するとxを求めるように見えます。でも問題をよく読むと、実は求めているのはxではなく、yの値なんです」

 数学の問題では普通、求めるのはxの値だ。そう思い込んで解いてしまうと、実は求めていたのはyの値だということに気づかない。実際、この問題の正解率は六割弱だったという。

「ですが僕は、奈緒ちゃんならこの『引っ掛け』でも間違わずに解けると思ってます。確かに奈緒ちゃんは計算問題を解くのは少し遅いかもしれない。でも文章問題を読み解く能力と、じっくりと問題に向き合う能力は高いと思います。僕はそれを、奈緒ちゃんの『武器』だと思ってます」

 「武器」。その言葉に、奈緒は隣の古瀬を見た。

「このような問題を出すということは、学校側は計算が早いだけでなく、論理的に思考できる生徒を求めているのだと思います。そして奈緒ちゃんにはその力がある」

 古瀬は、自分を見つめる奈緒としっかり目を合わせてから

「僕は、奈緒ちゃんは今のままで大丈夫だと思います」

 数学はずっと苦手だった。頑張っても頑張っても、もっと早くと言われてしまう。周りの生徒のペースについていけなくて、いつも焦っている自分がいる。

 ところが、古瀬はそれでいいという。それこそが奈緒の武器なのだと。

(そんな風に見ていてくれたんだ…)

 周りからダメだと言われ続けていたことを、この人は認めてくれた。大丈夫なのだと言ってくれた。この人は…。

 とても安心して嬉しくて、もう泣いてしまいそうだ。


 試験開始の合図と共に、一斉に問題用紙が翻る音がする。数瞬の後、周り中から鉛筆を走らせる音が響いてきた。奈緒は問題用紙の字を目で追っていく。一文字一文字、しっかりと捉えている。大丈夫、目が滑っていない。

(時間は五十分もあるんだ。焦らなければ、奈緒ちゃんなら大丈夫だよ)

 奈緒は答案用紙を埋めていく。一つ一つ、確実に。

(僕の生徒なんだから)

 古瀬から貰ったブレスレットは、小さなポーチに入れてお守として持ってきている。

 そう、大丈夫。

 私はあの人の、生徒なんだから。


 忙しなくチャイムが鳴らされて、奈緒は玄関へと走った。誰が来たのかは、もう分かっている。

「古瀬先生!」

 ドアを開けると、そこに古瀬が立っていた。奈緒は走ってきた勢いのまま、その胸に飛び込んでいく。完全にどさまぎだったが、古瀬はしっかりと受け止めてくれた。

「合格おめでとう、奈緒ちゃん!」

「ありがとうございます!」

 奥から両親も出てきた。

「この度は志望校合格、おめでとうございます」

「ありがとうございます。先生のおかげです」

「ほら奈緒。そこは寒いから、先生を中にお通しして」

「いえ、僕は挨拶だけで…」

「何言ってるんですか。お夕飯、食べて行ってくださいよ」

 家の中に古瀬を招き入れながら、奈緒はもう、古瀬が家庭教師として来ることはないのだと思った。

 今日はたくさん笑おう。たくさんありがとうと言おう。

 そして、さよならをしよう。


  ❋ ❋ ❋ ❋ ❋ ❋ ❋ ❋ ❋ ❋ ❋ ❋ ❋ ❋ ❋


 今日で古瀬と再会してから三回目の食事だ。最初に行った店は、そのまま定番になった。お通しをつまみながらビールで乾杯し、先に来たサラダを取り分ける。

「今月は、石川さんのところは仕事、どう?」

「今のところ平和ですね。イレギュラーなことがあれば分かりませんけど」

 話していると頼んでいた揚げ物と、串焼きの盛り合わせが来た。ここのつくね美味しいんだよね、と古瀬は嬉しそうだ。

(つくね、好きなんだ…)

 ちょっと可愛いなと思ってしまう。覚えておこう。

「あれ、もしかして石川さん?」

 そのとき、通路側から声をかけられた。この聞き慣れたこの声は、まさか。

「はっ、羽田さん?!」

「めずらしいね、こんところで。…あれ?二人だけ?」

「あ、えっとこれは、その…。たまたまというか七年ぶりの再会が懐かしくてというか、つまりその…」

 突然の羽田の登場に、奈緒は思いっきり動揺する。こんなところで。それを言いたいのはこっちだ。会社の人と会わないよう、そこそこ遠い店を選んでいたのに、なぜ選りに選って羽田がここに?!

「石川さんとは七年ぶりですから、積もる話もありますし、会社のことも色々と聞けて助かってるんですよ。異動してきて、まだ間がないので」

「あ、あぁ、そう…」

 動揺する奈緒とは反対に、古瀬はいつも通りだ。

「羽田さんは、今日は?」

「あ、俺はうちの弟が彼女連れてきてて…。両親に紹介する前に、まず俺に会わせたいってことになって」

「両親に紹介って…。弟さん、結婚されるんですか!」

「うん、まだ決まりじゃないけど…。たぶんね」

「それはおめでとうございます」

「ありがとう」

 そう言う羽田は嬉しそうで、少しだけ照れくさそうだ。二人が待ってるからと席に戻っていった。

「羽田さんの弟さん、ご結婚されるんですねぇ…」

「羽田さんは?結婚してないの?」

「結婚はまだですね。彼女さんはいるんですけど」

「じゃ、弟さんの方が先になりそうだね」

「そうなりますね…」

 答えながら奈緒は考え込んでいた。動揺した自分と冷静だった古瀬。二人の間の温度差を感じた。

 古瀬は自分のことを、どう思っているのだろう。

「…古瀬さんは、彼女はいるんですか?」

 七年前には聞けなかった質問だ。

「彼女?いないけど」

 その答えにほっとしている自分がいる。

「石川さんは?」

「私もいませんよ」

 高校のとき初めて付き合った人はほっそりとしていて、どこか古瀬に雰囲気が似ていた。短大で付き合った人は趣味でサッカーをしていて、古瀬とは正反対のスポーツマンだった。

「…古瀬さんは、今までどんな人と付き合ったんですか?」

「僕?僕はね…」

 …って、話すのかこの流れで!目の前の私を何だと思っている!?

 いや、と奈緒は思い直した。古瀬が今までどんな人と付き合ったのか分かれば、今後の対策が立てやすくなるかもしれない。傾向と対策。何事も情報は大事だ。腹を決めた。

 よし。聞こう。

「大学生のときに後輩の子と付き合うことになってね。喫茶店で待ち合わせしたんだけど、彼女が頼んだのがブレンドで、僕がクリームソーダだったんだよね。それでお会計のときに割り勘にしたら、それっきり誘われなくなっちゃって」

「………」

「やっぱり割り勘ってのが、まずかったんだろうね。でもあの時は月末で、僕ほんとお金なくって」

……何だろう。今、ものすごく無駄なことに時間を使った気がする。

「大学生のときって、知り合いとか友人とか少なくて。あ、でもすごく親しくなった人がいて、今でもときどき連絡取ってるんだ」

 まさかその人が女性とか!?

「文系の人がでね、大倉くんって言うんだ。あ、奈緒ちゃんも文系だったよね。大倉くんとは話が合うんじゃないかな。今度会わせてあげるよ」

 …何だ男か。って、なぜ私とその人を引き合わせようとする?!

 落ち着かない奈緒の様子に気づくこともなく、確か写真があったな…とケータイのフォルダを探している。

「この人なんだけど」

 差し出されたケータイを渋々見ると、そこには古瀬と同じくらいの年令の男性が写っていた。自宅で撮ったのかTシャツ姿のラフな格好で、満面の笑みを浮べるその腕には

「…赤ちゃん?!」

 生後数ヶ月くらいの赤ちゃんが抱かれている。

「大倉くん、二年前に結婚してね。こないだ子供が生まれたんだ。すっごく可愛いがってるよ」

 なんだ、既婚者か…。って、話はそこではない。

 この人は!この人はこの人はこの人は。本当にこの人は!私のことを何だと思ってるんだろう!

 いや、薄々分かってはいた。この流れで気づいて欲しいとか、察して欲しいとか、そういうことを期待できる人ではないということは。

 はっきり言わなければ、分かってもらえないということは。

「古瀬さん…は、今、付き合ってる人はいないんですよね?」

 うん?と小首を傾げながら

「いないけど?」

「なら、私と付き合いませんか?」

 瞬間、古瀬が固まったのが分かった。

「私、古瀬さんのことが好きです。彼女になれたら嬉しいです」

「え、ちょっと待って。…奈緒ちゃんが、僕を?!」

 固まったまま、古瀬が口を開く。

「ご迷惑ですか?」

「そ、そんなことないよ!」

「他に好きな人がいるとか?」

「いや、そっ、それもないけど…っ」

 こんなに動揺する古瀬を見るのは初めてだ。自分が誰かの恋愛対象になることくらい、人生の計算にいれておけよと思う。数学得意なんだから。

「僕でいいの?…だって奈緒ちゃん、モテるでしょう?」

「この場にいない誰かのことは、今は問題ではありません」

 大切なのは、目の前にいる人だけだ。自分と、古瀬と。

「…ダメですか?」

「そんなことないよ、全然!…でも、僕といても楽しくないかもしれないよ…?」

「楽しいか楽しくないかは、自分で決めます」

 古瀬が、自分を見るのが分かった。

「私が誰と一緒にいたいのか、誰といて楽しいのか、誰のことが好きなのか。何が私の幸せなのか。それは私が自分で決めます」

 そうきっぱりと言い切る奈緒を、古瀬は目の覚める思い見つめた。

 受験を乗り越えて学校を卒業し、身一つで社会に飛び込んだ。会社に入って仕事を覚え、味方を増やして自分の居場所を築き、ときには闘ってきた。自分の足でしっかりと立つ、美しい人がそこにいた。

「…強くなったね、奈緒ちゃん。そしてほんとにキレイになった」

 受験したくないと言っていた中学生は、もういない。

 奈緒が自分のことを好きなのだという。では自分はどうなのか。

 奈緒からの食事の誘いは嬉しくはなかったか。奈緒と一緒にいるとき、自分はいつもよりよく笑ってはいなかったか。奈緒と過ごす時間は、自分にとってかけがえのないものになってはいなかったか。

 それを何というのか、とても簡単で大切な言葉を自分は知っているのではなかったか。

「…やっぱりさ、こういうのは女の子にばかり言わせてたらダメだよね」

 奈緒が待っている。自分の返事を。

「久しぶりに会ったあなたは、とてもキレイになっていて、本当に驚きました。最初はただ懐かしいだけだと思っていたけど、今はそれだけではないようです。あなたとこうして過ごす時間は、僕にはとても幸せだから」

 古瀬は大きく息を吸った。

 店内のざわめきが遠くなっていく。

「もしよかったら、僕と付き合ってください」


 待ち合わせの時間から二十分が過ぎた。改札の向こう、ホームから続く階段を古瀬が駆け上がってくる。待ち合わせに遅れるとメールがあったのは、奈緒が電車に乗ってからだ。

「ごっ、ごめん、奈緒ちゃん、自転車の、空気が、抜けてて…」

 息を切らしている古瀬を前に

「…初デートに遅れてくるなんて」

 いい度胸ですね、と拗ねてみせる。ほんとは怒ってなんかいない。こんなに走ってきてくれるなんて、嬉しいくらいだ。

 でもちょっとだけ、困らせてみたい。

「待っている間に色々と考えたんですけど、そういえば私、ちゃんと好きって言われてないですよね?」

「えぇっ?!」

 古瀬は何かを思い出そうとするように、しばらく奈緒の顔を見ていたが、

「…言ってなかったっけ?」

「言ってません。付き合ってくださいとは言われたけど、好きだなんて(・・・・・・)言ってません(・・・・・・)

 えぇ〜、そうだっかな〜、と古瀬はぼやいている。

「それにその呼び方。もう中学生じゃないんだから、『奈緒ちゃん』じゃなくて、『奈緒』って呼んでほしいです」

「あ、そうか…。そうだよね、うん。ごめん」

 じゃ、やり直すねと言う。やり直す?

「遅れてごめん、電車に乗り遅れて…」

 やり直すって、そこからか!…と、古瀬が一歩近づいてくる。そのまま背中に両腕を回されて、ふわりと抱きしめられた。

「待たせてごめん、奈緒。大好きだよ」

 囁くように言われて、頬が熱くなる。だっていきなりこれは反則でしょう!

 固まってしまった奈緒の耳元で、古瀬がくすくす笑っている。

「…からかってるでしょう!」

「からかってない!からかってないよ。いや、奈緒ちゃん可愛いなぁと思って」

「だからその呼び方はやめてくださいってば!」

「あ〜、ほらほら。早く行かないと、お店混んじゃうよ」

 これから休日を二人で過ごすのだ。少し早めのランチを食べて、映画を見て買い物をして。 

「行こうか、奈緒」

 笑いながら古瀬が手を差し出してくる。優しい目をして、当たり前のように。

「…待って、高志さん」

 笑顔でその手を取った奈緒の手首には、淡いピンク色のブレスレットが揺れていた。



                  了



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