あの虹のむこう
―ひとつ、昔話をしよう。
窓の外を見ていた祖父が呟いた。
―昔話?
―ああ。わしがまだ子供だった頃のことだ。
祖父はぼつりぽつり語り始めた。
***
「もう、やだ!」
マコトは、心の奥底から言葉を吐き出した。
椅子に体を投げ出したまま、逆さ向きの窓の外を見上げる。茹だるような暑さの中、澄んだ濃い青に、大きな入道雲が浮かんでいた。
小学5年生の夏休み。マコトは都心の親元を離れ、田舎の祖父母のところに預けられた。もうすぐ弟が生まれるので、大変な時期だから、らしい。
祖父母の家へは、これまでもお正月やお盆などに来たことはあった。が、いつも長くて3日くらいだったし、何より父と母が一緒だった。こんなに長い期間、しかも一人で来るのは初めてだ。マコトは親の目がない解放感と、頼れる人がいない心細さがないまぜになった気分を感じていた。
また、都会の生活に慣れた小学生にとって、田舎での暮らしは大歓迎、というわけにもいかない。
(コンビニも近くにないし、変な虫がいっぱいいるし…しかもなんかデカい)
持ってきたゲームも3日目には飽きてしまったというのに、ここでの生活はまだ始まったばかりだ。
冷たいお茶でももらおうと、祖母に声をかけながら台所に入る。
「ばあちゃん、お茶もらうよ…あ」
台所にいたのは、祖母ではなかった。
―知らない子だ。
台所に続く勝手口から顔をのぞかせているのは、マコトと同じ年くらいの、Tシャツの短パン姿の男の子だった。すらりとのびた足は走るのが得意そうだ。
数秒の間、お互い見つめ合う。
そこへ、外に出ていた祖母が戻ってきた。
「シンジ、来てらが。お、マコトもおらぁ」
祖母が手早く紹介する。
「マコト、こっちはシンジ。シンジ、孫のマコトだ。学校が休みの間、うちさ来てらった。おめンだ同級でねぇがナ。仲良くせ」
シンジはマコトを珍しいものでも見るような顔で見ていたが、やがて言った。
「よろしくな」
祖母が声をかける。
「シンジ、またリョウコのとこさ行くんだべ。マコトも一緒に連れてってやれ」
「うん」
僕は別にいいよ、と口の中でモゴモゴ言ってみるものの、そう流れになってしまった。
外に出ると、空気がむわんとしていた。セミの声が一段と激しく聞こえる。
「この辺は、同じ年くらいのやつがあんましいねぇった。リョウコってのは、その数少ない一人だ」
村のまんなかの、ちょっと大きい家が、リョウコの家だった。
マコトは当然のことながら玄関から入ろうとするが、シンジは庭らしき方へ向かう。
「え、そっち?」
いいからいいから、言いながらシンジは進む。
とある部屋の窓の下に行きついた時、シンジは止まった。拳で窓を小さく叩く。
すると静かに窓が開き、少女の顔が現れた。
白い肌と黒い髪の、目元が涼しい少女だ。
「シンジくん…と、」
シンジの後ろにいたマコトに気付き、どなた?と尋ねる。
マコトは慌てて、マコトです、と名乗った。
「梅ばあちゃんちのマゴだってよ」
「そうなんだ。よろしくね」
そう言って笑う顔は、まさに花が咲くようだ。
それからしばらく、3人で他愛のない話をした。マコトの住んでいる場所のことや、シンジがお父さんに怒られた話など、リョウコは興味深そうに、時には声をあげて笑った。人見知りをする性質のマコトも、二人にはすっかり打ち解けた。
時間が経つのを忘れていたが、オレンジ色の光が目に入り、夕暮れになったことに気付いた。
「もうこんな時間…」
「さ、帰っぺ」
自然と、また明日と言い合ってリョウコの家を後にする。
マコトはシンジに問いかける。
「シンジ、リョウコの家にはよく行ってるの?」
「ああ。さっきも言ったども、あんまし同じくらいのやつがいねがらな」
マコトには、リョウコの前でのシンジの態度にピンとくるものがった。
「リョウコのこと好きなんだ?」
途端にシンジは顔を真っ赤にして振り向く。
「好きだなんて言ってないだろ!」
おまけにパンチまでとんできたので、マコトは笑いながらよけた。
2人でじゃれ合っていると、シンジはふと真顔になって言った。
「それに…リョウコ、体が弱いらしいんだ。頭は良いったども、あんまり学校にも来れねぇ」
「そうなんだ」
そういえば、肌の白さとは別に、青白いように見えた。
分かれ道になり、じゃあ、また明日な、と言い合って別れた。
それからというもの、自然と3人で過ごすようになった。
病気がちなリョウコは、人一倍外の世界に憧れを持っているようだった。
雨上がり、空にかかる虹を見上げて言う。
「虹って大きな橋みたいね。あの上をのぼっていけたらなぁ」
「虹の下にはお宝が埋まってるんだべ」
シンジがにやにやしながら言う。
リョウコはとりあわない。
「満月にしか咲かない花もあるんだって」
「へえ、そんなのあるんだ」
「裏山にあるかなぁ」
ある日、いつものようにリョウコの家に集まっていると、どこからか笛や太鼓の音が聞こえてきた。
「あ、笛の音が聞こえる…」
「今度の日曜日、村の神社でお祭りがあるんだ」
リョウコが答えると、シンジは良いことを思いついたという顔で言う。
「なあ、今度の祭り、3人で行こうぜ!」
リョウコも楽しそうに言う。
「わぁ、楽しそう!でも、行けるかな…」
マコトも励ますように言う。
「大丈夫だよ!行こう!」
ある日、リョウコの家に向かう途中、シンジと行き会うが、いつもと様子が違う。
「シンジ…」
マコトはシンジに声をかけるが、シンジはものすごい形相で言った。
「騙したな!」
「騙したって、何が…?」
「お前ん家、父ちゃんも母ちゃんも仲が良いんじゃないか!」
マコトには行っている意味がのみこめない。
「お前もオレと一緒だと思って優しくしてやったのに!」
そこまで言って、シンジははっと顔を上げた。
視線の先には、リョウコがいた。
シンジは何も言わず、走り去った。
「なんか、ごめんね…」
木のベンチに腰掛けて、リョウコは言った。
「今日はちょっと体調が良かったから、2人をお迎えしようと思ったの。そしたら…」
「さっきのに居合わせちゃったんだね」
リョウコはコクリとうなずく。
「私が言うのもアレなんだけど、シンジくんのこと、怒らないであげて」
リョウコはつらそうに言った。
「シンジくん家、お母さんいないの。私たちがもっと小さい頃に、出ていちゃったんだ。だから…」
「そうだったんだ…」
マコトが気にしないようにしても、シンジは明らかにマコトを避けるようになった。リョウコの家で鉢合わせても、シンジは出て行ってしまう。
気まずい雰囲気のまま、お祭り当日を迎えてしまった。
当然、「3人でお祭りに行く」という約束は流れた。
マコトは窓の外を見上げて、呟く。
「今日は満月なんだな」
その時、家の電話が鳴った。
祖母が電話に出る声がする。
ばあちゃん同士の長電話かと思っていると、意外なことに、マコトが呼ばれた。
「マコトぉ、こっちさ来い」
マコトは祖母のもとに行く。
「どうしたの?」
「シンジの父さんからだけど、シンジ、来てねよなぁ」
「うん、来てないよ…何かあったの?」
「午後に出かけたっきり帰ってなねったど。心配だナ」
祖母のセリフを聞いて、マコトはハッとした。
―あの花を探しに行ったんだ!きっとシンジは裏山にいる!
マコトはいてもたってもいられず、祖母の声を背中に外に飛び出した。
果たして、シンジは裏山にいた。
「シンジ!」
マコトはシンジに駆け寄った。
「マコト…」
シンジは気落ちしているようだ。
「どうしたの?」
「見つからないんだ。満月にだけ咲くっていう花…」
マコトはシンジを励ます。
「とりあえず、今日は帰ろう。みんな心配してるよ」
「…そうだな」
歩きだすと、シンジがボソリと言った。
「この前は、ごめんな」
「いいよ。早く帰ろう」
暗い道をわき見して歩いたせいで崖になっているのに気付かない。
「危ない!」
シンジが声を上げた時には既に遅かった。
二人で崖を滑り落ちる。
「イテテ」
落下が止まり、マコトは体をさすりながら上を見上げた。
ずいぶん滑り落ちたようだ。よじ登るのは無理そうだ。
「シンジ…?」
シンジが目を覚まさないので心配になった。呼吸を確かめると、息遣いが聞こえてきた。気絶しているだけのようだ。
―とりあえず、山を下りよう。
マコトはシンジを背負い、山を下りることに決めた。
だが、ただでさえ慣れない道を、月明かりだけで進むのは困難だった。
麓の方に見える灯りは近いように感じるのに、一向に距離は縮まない。
季節が夏だったので、虫が多いものの、寒さの心配をしなくて良かったのはありがたかった。
山道を人一人背負って歩くのも容易ではない。すぐに息が切れ、うずくまってしまった。
そこへ声がした。
「シンジくん」
顔をあげると、リョウコが立っていた。
「リョウコ!どうして、ここに?」
リョウコは寂しそうにほほ笑んだ。
「迷っちゃったんだね。おうちに帰る道、教えてあげる」
病気がちだったリョウコの体は細く、すいすいと軽やかに進んでいく。
ふと上の方に大きな白い花が目にとまり、リョウコに話しかけた。
「リョウコ、あれ…」
リョウコも振り向く。
「もしかして、満月にしか咲かない花かも?」
「キレイな花…」
どこをどう通ったか、よくはわからない。しばらく進むとリョウコは急に立ち止まり、下の方を指差した。
「ここを下りていくと、おうちに帰れるよ」
「本当に助かったよ。ありがと…あれ?」
振り向くと、リョウコはいなくなっていた。
麓にもどると、近所の大人たちや警察が大勢いた。捜索隊は今まさに出発するところだったようだ。
マコトは取り乱した祖父母に迎えられた。
「マコト…マコトかっ?」
「シンジもいっぞ!!」
「よく帰ってこられだな。心配してらったど」
「うん。リョウコが迎えにきてくれたんだ。さっきまで一緒だったんだけど、どこ行っちゃったのかなぁ」
「リョウコが…?いや、そんなはずは…」
祖父母は顔を見合わせる。
「リョウコだば、死んだど」
「え…」
ショックを受けたマコトの耳には、あまり情報が入ってこなかった。
後で改めて聞いたところによると、ここ最近調子が良さそうに見えたものの、その日になって急変したのだそうだ。マコトが裏山でリョウコに会った頃、息を引き取ったらしい。
祖母は赤い目をして言った。
「向こうに行く前に、連れて帰ってけだったのかもしれねな」
***
祖父は語り終えると、静かに目を閉じた。
語りつかれたのだろうか。眠ってしまったようだ。起こさないでおいてあげよう。
ふと窓の外を見ると、空には虹がかかっていた。
私には、虹をかけのぼる3人の少年少女の姿が見えた気がした。




