春昼
作中の蘊蓄は好き勝手適当に捻じ曲げて書いています。あらかじめご了承下さい。
ひとつ、昔話をしようか。そう言って、津雲は煙草に火をつけた。口に含み、薫らせると、百沢の視界が白く煙る。真昼にも関わらず書斎は不思議と薄暗い。窓に背を向けて文机の前に座る津雲の周囲には薬箪笥が設えられ、戸棚には大小様々な硝子瓶や器具、標本箱が並んでいる。窓から漏れる光がそれらに鈍く反射し、端正な津雲の顔立ちも相俟って、何処か浮世離れした場所に迷い込んだような気さえした。
「昔話」百沢は言葉を繰り返す。「その昔話も、事件と関係があるのか」
津雲の目の前の机上には、数日前の新聞が広げられている。その見出し欄には、市内で発生したバラバラ殺人の犯人と見られる男が、自宅で死亡した状態で見つかったと大きく書かれてあった。男はS市に住む20代の会社員「N」、死因は砒素による中毒死。隣室から異臭がすると通報を受け、警察がNの自宅に向かうと、既に腐乱をはじめていたNの死体が廊下で発見された。しかしそれとは別に、N宅にはもう一つ「死体」があった。初春にも関わらず限界まで冷房の効いた奥の寝室には、複数の死体の一部が集められ、まるで不完全な人間のように、床に横たえられていたのである。
「関係」
百沢の問いに対し、津雲は同じようにして言葉を繰り返す。煙草から口を離し、うっすらと笑った。
「関係があるのかどうか、それを判断するのは私ではなく其方の仕事じゃないか。百沢警部補」
市中に程近い場所にある薬種問屋、その店主が本店の裏手に建てたこの離れは「兼葭堂」と言う。集められた品物は薬草や鉱物、動物の骨、龍や人魚と言った怪異の遺骸等「薬効」があるとされるものの類、その出自の殆どは当然明らかでなく、商いとして成り立っているのかは定かでない。そんな場所に百沢が訪れたのは、その兼葭堂の主である津雲と百沢が身内であり、被疑者のNが、この兼葭堂に通っていた事が分かったためだった。
しかし身内とは言え、津雲と会うのは、十数年ぶりの事だった。本店で訪いを入れた後案内され、百沢が離れの書斎に足を踏み入れると、津雲は小さな木箱を掌に載せ、その中身を手に取って眺めていた。片手にだけほっそりとした手袋をはめ、雪のように白い着物の上に紺の羽織を、袖を通さないまま肩にかけている。
最後に津雲と会ったのは、互いに中学への進学を直前に控えた頃だったか、当然ながら当時に比べ背丈は伸び、その顔立ちも幼さを消していたが、そこにいるだけで周囲が静まり返るような佇まいに変わりはない。
百沢に気が付くと、津雲は丁寧に小箱の蓋をしめた。顔を上げ、百沢が口を開く間もなく言う。
「萌」
一瞬、此方を向くその姿に、幼い日の津雲が重なった。津雲の色の薄い瞳が、薄暗い書斎で妖しく美しい火をともしている。自分の名前を呼ぶ、その鏡で映したような顔立ちに、全身が泡立つのを百沢は感じた。
「萌が、刑事になっていたのは、前に新聞記事で読んで知っていたよ。優秀な警察職員として最年少で表彰されたんだってね。写真を見た」
「記事だけでよく気が付いたな、おれだって」
「変なことを言うね。見慣れた顔だよ、見れば分かる」
そう言って、津雲は百沢に座るように促す。文机から少し離れたところに腰を下ろし、百沢は周囲を見回した。棚に並べられた標本や硝子瓶には、龍の肝、雷獣の牙、河童の手等、常には見慣れない名前ばかりが記されている。
「……お前は変わらないみたいだな」
「相変わらずの酔狂だと言いたいのだろうね」
言いながら、津雲は傍らに置いた長火鉢の引き出しから、茶筒と茶卓、湯呑を一つ出す。茶葉を匙で掬って傍らの急須に入れると、火鉢から鉄瓶をあげ、急須にお湯を注いだ。障子に透ける庭の梢、ちちちと鳥の囀る声がかすかに聞こえる。
「昔からお前はこういうものが好きだった」
「好きだなんて言った覚えはないけれど。でも、私と違って、萌は幽霊話や妖怪話を話すと、いつもこわがって泣いていた」
津雲が急須からお茶を淹れながら答えた。
「私の話を聞いた後は、『一人では怖い、お願いだから連れて行って』と言って、私がよくトイレについて行ったよ」
津雲の置いた湯気の立つ湯呑を手に取り、そのまま引き取られたけどは視線を文机に落とす。
「事件の記事を読んでいたのか」
「……そのために来たんだろう」
そう言いながら、津雲は名が火鉢の灰に埋もれた炭を火箸で解す。
「――何故、Nは『死体』を作ったのか」
事の起こりは昨年11月、切断され損壊された状態の遺体がK市内の山中で発見された事だった。僅かに残された遺留品から、先月勤務先からの帰宅途中に行方不明となった女性である事が判明したが、それから僅か数日後に、同じ山中で遺留品捜索中の捜査員が別人のものと思われる遺体の一部を発見する。先の遺体より、死後時間が経過してはいたが、その切断方法や遺棄方法等から同一犯によるものと警察は断定、事件が連続殺人である事が明らかになった。
百沢が事件の概要を話していると、津雲がうすく笑う。
「――別人のものと思われるというのは、随分歯切れの悪い表現だ」
「実際そうだったからな」
百沢が言った。
「問題は、その後に発見された、件の『死体』だ」
事件は当初考えられていたより、早くに動いた。K市の隣接するY市内にある賃貸マンションの管理人から、マンションの一室から異臭がするとの通報があったのである。通報を受けた警察が部屋を訪れると、廊下で死後一週間以上経っていると見られる男が見つかったが、しかし異臭の原因は他にもあった。
「――全てで九十九あった」
廊下の奥、異臭を放ち、寝室の床に横たわっていたのは、細かい九十九の遺体の断片で作られた「一人の死体」だった。
冷房によって冷え切り、ドライアイスで囲まれていたらしいその「死体」は、切断した後丁寧に血抜きしたと思われ、ひどく色白い遺体の断片で形作られていた。部位一つ一つが順序場所一つ間違えることなく糸でつづり合せられ、正しく床の上に並べられていたのである。死体の胸には膿んで腐ってはいるが「白」という字が刻まれ、部屋には香を焚いたらしい匂いも染みついており、腐乱臭とそれが混ざり合い、嘔吐を催す独特な臭いが鼻をつく。
しかしそこには、その異様さとは別に、一見して分かる違和感があった。それほどまで断片を執拗につづり合わせていながら、その「死体」には頭部がなかった。しかも、九十九もの断片によって作られたその「死体」は、一人の人間のものではない、二人の人間の断片が集められできたものだったのである。
「二人は、山で見つかった遺体と同一人物だった」
検死の結果、山中で発見された身元の分からなかった遺体は、同市内に住む男性だと分かった。死後切断されたらしい遺体の断片にはすべてに砒素が塗り込められ、草木の汁をかけた後に、幾度となく水で洗浄したらしい痕跡があった。その何処か儀式めいた様子に、Nが何かの妄想に囚われ犯行に及んだのではないかと考えられたが、遺書も残されておらず、犯行の理由もNが自死に至った理由も判然としない。Nは直前まで通常通り会社に出社しており、その勤務態度に問題もなかった。ただ、恋人を亡くして以来、時々だが少し変なことを言うようになった、と同僚が証言している。
「人を生き返らせる方法が分かった、と言っていたらしい」
「生き返らせる、ね」
そう言って、津雲は言葉を切る。
「萌は、それが『死体』が作られた理由だと思っているのかな」
百沢は何も言わない。津雲も、答えを求めている風もなかった。書斎は薄暗く静まる。津雲が、長火鉢の猫板に置いてある煙草を手に取った時の音が、かたんと響いた。
「――“女といふはもろもろの死人のよかりし所どもを、とりあつめて人につくりなして百日すぎなば、まことの人になりて、たましゐさだまりぬべかりけるを、くちをしく契をわすれて、をかしたるゆへに、いかばかりかくやしかりけん”」
どれくらい時間が経ったか、ふっと津雲が口を開いた。百沢のほうを見て、静かに笑う。
「反魂の術の一種だよ。十四世紀前半の絵巻『長谷雄草紙』に記された一文だ。“優れて美しい”死人の骨を集めて作られた女について描かれている」
手袋をはめたほうの津雲の長く細い指が、先程も眺めていた木箱の蓋を叩いた。こつこつ、と乾いた音がする。
「学者である紀長谷雄に、朱雀門に棲む鬼が「絶世の美女」を賭けた双六の勝負を仕掛ける。長谷雄は勝ち、女を手に入れるが、鬼は長谷雄に百日間を過ぎるまで女に触れてはならないと言う。しかしその約束を守る事が出来ずに長谷雄が女を抱くと、女の身体は崩れ、水のように溶け出してしまう。――先程の“よかりし所ども”とは、生きていた頃美しく優れていた者たちの骨、といった意味だろうね」
人を生き返らせる、という話は、古今東西枚挙に暇がない。津雲の吸い込まれそうに色の薄い瞳が、しんと百沢を見すえた。口許がゆっくりと動く。
「人を生き返らせる逸話としては、有名なものだと、陰陽師安倍晴明に纏わる『生活続命の法』がある。他には、歌人としても知られる僧侶の西行も、同じように死人から人を作った。その方法は、まず一目のないところで死人の骨を集め、頭から足まで順にそれを並べる。次に薬である砒霜を骨に塗り、ハコベ等の葉をもみ合わせた汁をかけ、蔓や糸で骨を綴り合せる、等々幾つか工程があった。ただ、西行は途中間違えて香を焚いてしまったので、うまくいかなかったとの記述がある」
津雲は、火の消えた煙草を長火鉢に捨てた。灰が立つ。そして、新しくまた、火をつける。
「……もうひとつ、昔話をしようか」
「昔話」百沢は言葉を繰り返す。「その昔話も、事件と関係があるのか」
「関係があるのかどうか、それを判断するのは私ではなく其方の仕事じゃないか。百沢警部補」
津雲の吐いた煙で、目の前が白く煙る。
「――人魚の話だよ」
謳うように津雲は言った。
「人魚は、古く万病に効き、長寿を得られるという薬の一つだった。人魚について、日本最古としては、日本書紀に“摂津の国で捕らえられた、魚でも人でもない不思議な生き物”の記事がある。他には、滋賀の近江八幡にある観音正寺は、かの聖徳太子が琵琶湖に住む人魚の願いを聞き届けて建立した由来で有名だ。此処には長く人魚のミイラが伝えられていたが、火事で焼失して今はもう無い。時代が下って1222年、博多湾に打ち上げられた人魚を葬った龍宮寺には、人魚の骨とその生前の姿を描いた掛け軸が伝えられていて、かつては縁日に、人魚の骨を浸けた水を、延命長寿を願う参拝客に飲ませていたと言われる。近代、薬としての人魚を紹介とした書物として知られるのは、大槻玄沢『六物新誌』だろう。蘭学者だった大槻が1786年に刊行したもので、序文は杉田玄白が寄せているものだ。題名の六物とは、一角、洎夫藍、肉豆宼、木乃伊、キノコの一種である噎蒲里哥、そして最後が人魚を指している。『六物新誌』では東西の人魚の記述等が紹介、検討されていて、人魚の飼育記録として“人魚をいけすで飼ったが人語は話せず、与えた餌も食べず、四日程生きていたがむなしく死んだ”という記録も出ている」
津雲はふっと煙を吐いた。そして小さく笑う。
「正しいと信じられたものが実はそうでない、という事はよくある。そもそも、日本の人魚のルーツは中国の書物にあって、明の時代に記された薬物百科『本草綱目』には“上半身は男、女のかたちのようで、下半身は魚尾”の動物として『西楞魚』が紹介されている。これはおそらくジュゴンの事を書いたのだと言われているが、このイメージが同じく中国の書物『山海経』に書かれた人面魚のような人魚と混同された。『山海経』では人魚は四足を持ち嬰児のような声を出すと書かれているから、明らかに現在の人魚のイメージとは異なっている。両者が混ざり合い出来た『人魚』が日本に取り込まれたのは、それこそ、大槻の『六物新誌』と同じ頃だ。伝説は伝説として昔からあっただろうが、古い時代の人魚を紹介する絵として伝えられている図像が、西洋的な人魚である事に矛盾がある。何が正しいか、真実であるかは肝要でない。それがそうと間違われる事こそが要なんだよ」
津雲は百沢のほうを向いて、言った。
「なつかしい昔話だっただろう?それとも、もう、昔のことは忘れてしまったかな」
百沢が低い声で言う。
「……やっぱりお前がNを唆したんだな。一つ足りない、男女の不完全な九十九の死体、そこにお前の名前が出た時に、すぐわかった」
そこではじめて、津雲は高く、楽しそうな声を上げた。
「ああ、いやだなあ。人聞きが悪い」
そう言って、続ける。
「確かにNはここに来たよ。半年くらい前だったかな。自分の死んだ恋人を生き返らせたいと言っていた。だから私は同じような話をした」
先程から手で遊んでいた木箱の蓋を開く。そこに入っていたものを、手袋をはめたほうの人差し指と親指で挟み持ち、目線の上まで掲げた。小さく、白みを帯びた黒の、金平糖のような形をしている石だった。
「砒霜石だよ」
津雲は光に射られたように、美しさに恍惚とするように、目を眇めた。
「別名砒石とも言う。砒素から成る有毒の元素鉱物で、江戸時代の百科事典『訓蒙図彙』には『砒』の項目で煉ったものを砒霜と呼ぶと書いてある。おそらくは中国由来の呼び方だろうね。先程の『本草綱目』にも薬効が掲載されていて、事実世間には毒物として悪名高いが、その毒性は医薬にも応用される。例えば梅毒、貧血、マラリア。古くは美白水としても使われていたそうだが、これは砒素の細胞毒を利用したもので、身体が砒素に蝕まれるのを『美白』と言っていたようだけれど」
「……お前はその石をNに売ったんだな」
「馬鹿なことを言う。これだけじゃ、足りるわけがない。ただ、私は話をしただけだよ。ほかには何もしていない」
風の音がする。
あれは、小学校で過ごす最後の冬だった。百沢は思い出す。その年、百沢は学校で飼っていた兎を全て殺した。兎達は既に老いていて、脚に病気があり、寒さで凍えていた。それを見て、何とか楽にしてあげられないかという百沢に、津雲が人魚の肉の話をしたのだった。秘密だと言って、津雲から渡されたそれを兎に食べさせると、翌朝、兎は小屋の中で残らず冷え切って死んでいた。あれも砒素だった。
――一を残して不完全な、男女の、九十九の、「白」の文字を刻んだ、死体。
「――記事で、萌が『自分は一人きょうだいだ』と話しているのを読んで、かなしかったよ」
鏡で映したような自分の顔が薄く微笑む。自分の萌という名前と対である、彼女の。
陽が雲に隠れたのか、春昼、薄暗い書斎は一層暗く、影も陽も境もなくなって、酷く、寒い。




