京急本線ヒストリア
ひとつ、昔話をしよう。なに、見知らぬ爺に話しかけられたからといって、そう警戒することもあるまい。先ほどお主が横須賀中央駅から乗り込むのを見ておってな。毎年のことだが、この時期になるとあの駅の周りは坊主頭で溢れかえりよるな。しかし、十六時という時間に品川行の普通電車に乗るとは妙なことじゃな。帰隊時間は十九時のはずじゃろうて。まだ四月も半ばを過ぎたこの頃に、帰隊遅延でも起こしたらえらいことではないのか。
ははあ、わしが事情に詳しいのが気に掛かるか。なに、この界隈では珍しくもないことよ。半世紀以上前にお主のような坊主頭をしておったというだけの話じゃ。しかし、あの頃と比ぶればだいぶに環境も変わっておることよな。ところで、今の新兵は小銃は何を使っておるのか。ほう、89式か。どうやら新兵教育でも装備の刷新は終えたようじゃの。結構なことじゃ。わしらの時代にはまだまだ64式を現役で使っておったよ。64を見たことはあるか。なに、骨董品とな。否定はせんが、お主らが使っておるプラスチックばかりで出来た銃というのは玩具のようで銃という気はせんな。やはり銃は木と鉄で出来たものがしっくりくる。
小銃に名前は付けたか。なるほど、最近はそういったこともせんようだの。わしが入隊した時分に、中隊長が精神教育と称して映画を観せてくれたことがあってな。ベトナム戦争を題材にした古いアメリカの戦争映画よ。冒頭、鬼軍曹が新兵をしごき上げるところはなかなか見ごたえがあるものの、後半はまるで退屈な映画であったよ。その映画ではな、何をやらせても足を引っ張るしか能がない一人の新兵が、射撃の才能を開花させる場面があっての。その新兵は銃に名前を付けて恋人のように愛でるのだ。なぜだかわしらにはそれがひどく洒落て見えたもので、誰もかれも自分の銃にこっそりと名前を付けるようになっておったな。
わしの銃の名前か。いささかこっぱずかしいが教えてやろう。結衣というのだ。当時好きだった女優の名前じゃよ。お主の年頃なら知るはずもなかろうが、飛び切りの美人であったよ。新兵教育を終えてからの何十年、全国の部隊を転々としたが、手元に置いた銃はすべて結衣と名前を付けたものじゃ。名前をつければ愛着が生まれる。愛着が生まれれば自然と整備にも身が入るというものよ。この時期ならまだ射撃実習もしておらんだろう。お主らの使う銃は新型制式の89式であろうとも使い古しの骨董品じゃ。予算が少ないもので、銃そのものの劣化具合も当然ながら、弾薬等の消耗品であっても劣化する。射撃の後には空薬莢を回収して何度も再利用するからの。少しでも上手く的に当てたいのなら、小さなことでも妥協してはいかんぞ。
おお、射撃後の薬莢回収といえば、毎度必ず失くすものが出るから覚悟せよ。見つかるまで絶対に終わらん。だからといって失くした者をせめてはいかんぞ。新兵教育なんぞ所詮は足の引っ張り合いの連続じゃ。その時は他人事であっても、遅かれ早かれ自分がやらかす日は必ず来るのだ。
おや、そろそろ金沢八景に着くようだの。お主、一体どこまで行くのやら。
さて、前置きが長くなったのう。聞かせたい昔話とはな、わしが入隊した時の、ある同期生の話じゃ。十人いたわしの班員の中に、山科という男がいた。下の名前は忘れた。年齢は二十三であったような気がする。詳しくは覚えておらんが、大学を出ていたからおそらくはその辺りであろう。高校を卒業してそのまま入隊するものが過半数であるから、どちらかといえば年上の部類じゃな。わしと山科はベッドバディであった。わしが二段ベッドの上、山科が下であった。入隊して半月も経ったお主なら分かっていようが、新兵教育のベッドバディとはまさしく一心同体よな。毎日のベッドメイクから歩哨の訓練まで、何から何までセットで組まされる。
さて、この山科という男、先ほど話した映画に出てきた新兵と同様、まるっきり落ちこぼれであった。上背はあったものの、身体の線が細く、筋力も体力も話にならぬ。毎朝の間稽古でやらされる腕立て伏せは十回もやれば青息吐息で、懸垂に至っては一回も上げられなんだ。銃を構えようにも筋力が足りぬから、膝撃ちの姿勢で射撃をすると、反動でひっくり返りそうになる。ひっくり返った拍子に誤射でも起こされたらと、奴が射撃をしているとには心が休まった試しがなかったの。要領もすこぶる悪く、小銃の分解結合では、もたついた手つきで部品を卓上の雑毛布の上から床に落すことしばしばで、その度に助教からの怒号を浴びておったよ。何から何までコンビを組まされるわしにしてみれば堪ったものでない。この組織は昔懐かしい連帯責任が大好物じゃ。助教の気分一つで反省が課せられる。「山科二士の目の輝き不十分、全員その場で腕立て伏せの姿勢を取れ」こんなセリフを何度聞いたか分からん。山科のやらかしを極力未然に防ぐのが、自然にわしの仕事になっていった。バディというよりおもりじゃな。ハイポート訓練では真っ先にばてるものだから、わしは奴の銃まで持って走る羽目になった。ただでさえ重くかさばる64式を二つも抱えて走るのはなかなか難儀であったよ。
山科は何をするにもワンテンポ遅い男であった。これは分刻みで動く新兵にとっては致命的じゃ。重々骨身に染みていることかと思うが、十七時に課業が終わってからも、新兵にはのうのうと休む時間などあるはずがない。あわただしく飯を掻っ込み、風呂場ではシャワーの前に素っ裸で行列を作って烏の行水さながらに入浴を済ませ、二十二時の消灯時間まで洗濯、靴磨きとアイロン掛けに追われる。数が限られた洗濯機も奪い合いじゃ。動作のとろい山科は時折洗濯をしそびれておったな。しかしそれでもせめてアイロン掛けだけはせねばならぬ。朝から晩まで身体を苛め抜いて、汗をたっぷり吸った迷彩服にアイロンを当てるとどうなるか知っておるかな。煙をふくのよ。水蒸気ではないぞ。汗に含まれた塩が焼けているのじゃろうな。真っ白な煙が部屋に充満する。その臭いがまた特徴的での、皆がまるでカブトムシを燃やしたような臭いだと言っておった。もちろんわしらの誰も、カブトムシを燃やしたことなど無かったが、妙に説得力のある表現であったよ。
それでは山科のおつむの方はどうかと言えば、これがなかなか大したものであった。筆記試験では満点を逃したことは一度もなかったように思う。座学教育では、黒板で迫撃砲の着弾方程式を解いて見せた区隊長に、「その計算、合っていますか?」と即座に指摘を入れたこともあったの。それもそのはずで、山科は名前の通り京都の出身でな。なんと出身大学もその名前の付く国立大学であった。初めてそのことを知ったとき、「貴様はなぜ曹候補生で入隊したのだ。幹部候補生でもそんな大層な学歴は必要なかろうに」と呆れて問いかけたものだが、やつは薄く笑って答えなかった。その理由を知ったのは二か月も後のことであったよ。
曹候補生なんぞは、若く健康でさえあれば、名前が書ければ入隊ができる阿呆揃いよ。わしらに求められるのは、ひたすらに体力と、言われたことに疑問を持たずに手を動かす割り切りの良さ、そして要領の良さに尽きる。その三点を鑑みれば、山科は場違いにもほどがあった。班員は揃いもそろって、足の引っ張り屋だった山科を毛嫌いしておった。やつのおもりを一身で請け負っていたわしは「武山は大変だなあ」とよく同情されたものだ。やつがひとつやらかす度に、わしは誰よりも流れ弾を被って、それは確かに腹立たしく面倒ではあった。しかし、わしは不思議と山科のことが嫌いではなかったよ。
新兵生活の何よりの楽しみは外出である。で、あろう? 単独行動が許されないわしらは、休日であってもバディ行動が原則であった。まあ、そんなものを進んで守る輩は珍しかったがの。ところが生真面目な山科は外出するときは必ずわしに着いてきた。もちろん大いに鬱陶しくあった。こちらとくれば、禁欲的な生活の極みを強いられている体力に溢れた若造じゃ。休日ともなれば女の尻を追い掛けたくて堪らないというのに、何が悲しくて青白い顔の冴えない男を連れて歩かねばならんのだ。
わしらご同業の遊びといえば、酒、パチンコ、女と相場が決まっておった。まさに飲む打つ買うの三拍子じゃな。新兵教育の間は飲酒が禁じられておったゆえ、残りの二つで無聊の慰めとするのがわしらの短い休日の過ごし方であった。山科はそのどれにも興味が無いようであった。パチンコ屋に入れば、わしの遊技台の隣に座って文庫本を読み始める始末よ。こんなことをされていては、こちらの居心地が悪くなる。痺れを切らしたわしが、「山科、貴様俺に付いてきて楽しいのか」と聞けば、「楽しくあります。武山二士は自分の知らない遊び場をよく知っているのですね」と答えたものだ。とことん正体の掴めぬ男であったよ。
ある休日の朝、わしは山科に「今日は貴様の行きたい場所に連れていけ」と言った。山科は驚いた様子で「いいのですか?」と聞いたので、わしは「貴様に付きまとわれていたのでは、遊びに集中できん。今日は貴様のやりたいことに付き合ってやるから、頼むから次の休日は営内に籠っていてくれ」と答えた。山科はしばらく考え込むと「では、約束しましょう」と言った。
珍しく浮ついた顔で横須賀中央の駅に降り立った山科の後をわしは歩いた。東口を出て左手の三笠街道をしばらく歩けば、東京環状道路に行き当たる。正面に何が見えるか、お主なら知っていような。左様、米海軍横須賀基地じゃ。基地の正面ゲートには駐屯地では見慣れぬ鮮やかな紺色の迷彩服を着た白人の歩哨が、M16自動小銃を持って立っていた。山科は腰が引けているわしを余所に、平然と歩哨に敬礼した。わしらの服装を見たその歩哨は、笑顔で敬礼を返すと、身分証の提示を求めた。わしはその時まで知らなんだが、わしらの身分証はの、提示すれば一般人には開放されていない米軍基地へ入ることができるのだ。興味があるならお主も試してみるがよかろう。
米軍基地は何もかもがわしらの常識から外れておった。基地の中はひとつの町であり、そこは小さなアメリカであった。ゲートの外にあるスーパーマーケットとは桁違いの大きさのショッピングモールがあれば、映画館もある。路上でキャッチボールをする黒人がいれば、道端でダイエットコーラを片手に平然とバーベキューをする白人の集団もいる。人の規格も違う。わしらが連れだって歩いていると、向こう側から歩いてくる人の誰もかれもが大きい。身長で言えば山科はそうそう米兵にも劣らぬが、身体の厚みというものが段違いであったよ。まず輪郭が全体的に丸い。むろん贅肉ではなく盛り上がった筋肉の塊であろうよ。日本人ではどう鍛えてもああはなるまいという肉体を当たり前のように備えているのが米兵であった。
わしは圧倒されて縮こまっていた。一方の山科はというと、実に楽しそうに目を輝かせて基地を練り歩き、挙句道行く米国人を捕まえては、流暢な英語で話し始める始末であった。これにはわしも度肝を抜かれた。何を話していたのかと聞くと、山科は「ごく普通の世間話ですよ」とはぐらかすように笑った。教育隊では誰もかれもから見下されているあの山科が、やたらと大きく見えたものよ。
ひとしきり基地を回り終え、横須賀中央に戻った山科はわし頭を下げて言った。「今日は付き合っていただきありがとうございます。この御恩は忘れません」とな。何を大げさなと思ったが、特に追及はせんかったよ。思い返してみて、あの時の山科の一言に込められた意味に気が付いたが、それも栓無きことよの。
そろそろ上大岡じゃの。お主まだ降りぬか。左様か。では話を続けよう。
ところで教育隊の事件といえば何を思い浮かべる。銃部品の紛失? なるほど、寒気のするほどの大事件じゃな。カンピン(官給品)の取り扱いにはとかくに口うるさい組織ではあるが、中でも銃についての神経質さは飛び切りじゃな。わしも若い時分に、後輩が演習場で失くした銃部品を一週間かけて探したことがある。部品というても一センチ程度の長さの、針のごとく細い筒じゃ。ピストン管止め用バネピンは64式で無くなる部品の最右翼じゃな。手間のかかる銃じゃが、それだけに愛着も沸くものよ。とまれ、広大無辺の演習場で、そんなものはいくら探したところで見つかるわけもあるまい。上官連中も端から見つからないことなど織り込み済みよ。つまり一週間必死に探しとおしましたという体裁を作るための期間じゃの。無駄と言われればその通りじゃが、公務員に体裁よりも優先されることなどあるまいて。
さて、どこの教育隊であろうとも大小問わず事件は起こるもの。頭の出来のよくない体力だけは有り余っている若者が抑圧的な生活を強いられておるのじゃ。何も起こらないほうが不思議というものよな。わしらの教育隊でも御多分に漏れず事件が起きたものよ。それこそ枕カバーの紛失事件や水筒蓋の紛失事件と失せ物が多い。殴り合いの喧嘩は週一で起きておったかの。しかし、一番の大事件を起こしたのは山科であった。
新兵教育も終盤に差し掛かったころ、同じ中隊の隣の区隊で大事件が起きた。事件というのは自殺未遂じゃ。まったく笑い話にできんな。中隊とは二百名程度、学校に例えるなら学年、区隊は五十人ほどであるからこれはクラスじゃな。しからば同じ中隊であれば、顔名前程度ならば自然と覚えるものよ。自殺を図った同期のことは当然わしも知っておった。中隊の精神教育では教場で席が近かったしの。休憩時間には希望する職種について語られたことをよう覚えておる。職種というのは重要じゃ。新兵教育の終盤に言い渡され、この先の数十年が決まるわけじゃから、五月も半ばを過ぎると自然と話題の大半を占めるようになる。自殺を図ったその男は菊池といった。人懐こい男で、化学科に配備されたいと熱心に語っておったわ。ここまで言えば話の落ちは読めよう。菊池は希望した職種に決まらなかったことを苦にして隊舎から飛び降りたのよ。ある朝、出勤してきた助教が、隊舎前の駐車場で全身を骨折して倒れている菊池を見つけた。幸い一命は取り留めたものの、当然菊池は退職となった。わしは働き口に困って入隊した身であったゆえ、職種にそこまでの思い入れは無かったが、なまじ志が高かった菊池のような男にとってはそれだけ絶望も大きかったのであろう。職種とは人によればそれほどの一大事じゃ。お主も希望する職種はあるのかの。ほう、まだ特に考えてはいないとな。それはそれで結構なことよ。お主もこの仕事に就いたならば、職種なんぞに思い入れを持つものではない。与えられた場で一所懸命に尽くせばそれでよい。
山科もわしと同じく希望する職種を持たなんだ。山科のような場違いな男が入隊するときは、大抵は夢見がちなミリタリーオタクが大半を占めているので、戦車乗りや歩兵になりたがるものが多かった。そうした輩は大抵が現実を知って辞めていく。山科の見てくれはその手のミリタリーオタクそのものであったから、わしにとっては意外であった。返す返すも正体のわからぬ男よな。
さて、ことが起こったのは新兵教育の最終日じゃった。それぞれに職種と配属先の部隊が言い渡された。誰もがまっ先に脱落すると思っていた山科も、五日間の地獄の野営訓練を切り抜けて進路を決めた。もちろん、例によってわしのおもりが功を奏したこともあるが、山科自身も幾分か肉付きがよくなり、背筋もしゃきっとしたものよ。ちなみに山科の職種は会計科に決まった。おつむの出来だけはいい山科には誂え向きの人事じゃと皆に言われておったな。
お主も知っておるだろうが、我らが横須賀の教育大隊は巨大で、音楽隊の新兵教育まで同じ敷地でやっておるだろう。夜毎、自主練に励む楽器の音色が聞こえることだろう。音楽隊というのはわしらのような一般の入隊者とは違い、音楽大学を卒業したような生え抜きのエリートが入隊する、言わばプロ演奏家の国家公務員じゃ。当然音楽隊の連中はわしらとは違う新兵教育を受けているものの、それでも同期は同期。横須賀で過ごす最後の夜、彼らはわしらのためだけに演奏会を開いてくれた。
課業後の自由時間、普段は面白くもない音階練習ばかりがどこからともなく聞こえてきたのだが、その日ばかりは示し合わせたように、わしらの誰もが知っているヒット曲を立て続けに演奏してくれた。気づけばわしらは窓辺に張り付いてその演奏に耳を澄まし、曲が終わるたびにどこかでわしらに聞かせるために演奏してくれている音楽隊の同期に拍手喝采を送ったものよ。窓から周りの部屋を見渡せば、隊舎中の部屋で同じように窓から顔を出しておった。わしの数十年の現役生活の中でも、あれほど綺麗な思い出は無いの。日が明ければ苦楽を共にしたこの十人も各地へと飛び散る。あの日ばかりは見回りをして、消灯時間を過ぎても起きていることを咎める助教もいない。わしらは日付をまたぐまで名残を惜しんで語り合った。その時、わしは二段ベッドの上から首を出し、下の山科に聞いた。「ずっと気になっていた。そもそもなぜとな。なぜ貴様は入隊したのだ」。山科はめずらしいことに、いたずらっぽい笑顔を浮かべて言った。「武山二士には教えておきましょう。私は伝説を作るために入隊したのです」。からかわれたと思ったわしは、軽く鼻で笑ってベッドに入った。
その夜半であった。突然血相を変えた助教が居室に飛び込んでくると、わしらをたたき起こして点呼を取った。まあ、点呼を取るまでもなかろうな。十人いるはずの班員が九人しかいなかったことは一目見れば分かろうものよ。「脱柵だ!」と班長は叫んだ。
欠けていたのは山科であった。
わしは知らぬうちに枕元に几帳面にたたまれ置かれていた一枚の紙切れを持って点呼に並んでいた。泡を食って駆け回る助教や区隊長たちの目を盗んで紙を広げ、書かれた短い文をこっそりと見て、わしはこみ上げる笑いを抑えられなんだ。あれから何十年、幾度となく読み返したゆえ一字一句覚えておる。その置き手紙には、書き手の性格を表したような丁寧な字でこうあった。
『あの日、米兵に聞いたことを教えましょう。私はこう尋ねました。「六月の相模灘は冷たいですか?」と。屈強な米兵は笑ってこう答えました。「キトサップ港の氷水と比べたらヨコスカもオキナワも変わらないさ。でも海水浴をするなら、ハンバーガーを食べてもうちょっとタフになるんだな」。この三ヶ月間、大変お世話になりました。武山二士の武運長久を心よりお祈り申し上げます。 山科二士』
にわかに信じられぬことであるが、山科は夜の相模湾を泳いで逃げたのじゃ。それはどれほどの蛮勇であろうか。知ってのことと思うが、かの駐屯地は海に面しておるゆえ、そこだけは柵が張られておらぬ。だからといって、まさか泳いで逃げる阿呆がいようとは、然しもの幕僚長すら夢にも思わぬじゃろう。わしはあまりに愉快すぎて、区隊中に手紙を見せて回ったものよ。普段山科に足を引っ張られて連帯責任を負わされていた隊員たちも、山科がしでかしたことを知ると腹を抱えて笑い転げた。
所詮は爺の独り語りじゃが、どうか、忘れてくれるなよ。不始末にも上等と下等というものがある。逃げるにも逃げ方というものがある。そこを分かつのはひとえに見苦しさのあるなしではないかと思っておる。訓練の辛さに耐えかねて逃げ出すのは凡。山科は体力気力ともに劣等ながらも、地獄とも言われる新兵教育のすべてを耐え抜いたうえで、誰もが思いもつかない大胆不敵な方法で鮮やかに去っていった。山科はまさしく伝説を作ったのだ。
さて、川崎じゃな。わしはここで降りよう。爺の長話もここまでじゃ。よう付き合ってくれたのう。ほ、ほ。なんじゃ、お主も降りるのか。三崎口行のホームは向かい側じゃ。安心せよ。普通電車では横須賀中央からこれだけ掛かった道のりも、特急ならば四十分と掛かるまい。




