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親子のはつ恋

「ひとつ、昔話をしようか。」

そう言いかけて何度も口を噤んでしまう父さんは結局、昔話を私に隠したまま50歳という若さで天国へと旅立っていった。

 

父さんは、大のお酒好きだった。決して人様に迷惑をかけることはせず、永遠に飲んでも平然とできるほどお酒が強かった。

父さんは決まってビールを2Lほど飲み干し、いいちこ麦焼酎へとシフトしていく。どうやらお父さんこのシフト制が良い夢心地に誘ってくれるものらしい。いいちこへと変えるタイミングで毎回「ひとつ、昔話をしようか」と独り言とも捉えられる小さな声で私に言ってくる。

真剣な眼差しに、弄っていたスマホの画面から目を離し父さんを見つめる。

私に話を持ちかけたくせに、一向に続きをしてくれない。見つめあうこと15秒。この張り詰めた空気に耐えられず駆け足で自分の部屋に戻ることにした。

扉の近くてしゃがみこみ、なんで逃げるようにして部屋に戻ったのか自分でも分からない

理由は分からないけど、直感的に怖くて逃げたくなった。私は父さんとは仲が悪い訳ではなかったが面と向かってちゃんと話をするのが少し苦手であった。


いつまでも逃げては父さんに申し訳ないと思いこの日の晩はこそは父さんから逃げないと覚悟を決めていた。

それなのに、父さんは「ひとつ、昔話をしようか」と問いかけたのに、その続きの言葉を飲み込んでしまった。

またか。。何度この無駄なやりとりをするのだろうか。どうして父さんはここまで思わせぶりをしてくるのか分からなかった。

いつか話してくれることを期待して死ぬまでには昔話を聞かせてね。と冗談半分で云ってみたら父さんは「じゃあ約束しよう。(・・・・・・・・)」と簡潔に筆談した後おもむろに書斎へ向かっていった。

 私が紅茶を飲みながらスマホでアニメ2話分観終えてたころ書斎から父さんは帰ってきた。しかし私を無視し素知らぬ顔で飲みかけのいいちこをくいっと飲み干し、自室へと足早に戻り、パジャマを片手でぐしゃぐしゃに持ち浴室へ足早に向かっていった。

私は肩の力が抜け、気分でも変えようとスマホゲームを始める。空腹がピークを達しゲームへの集中が切れ時刻を確認するとムニってから1時間以上が経っていた。

ゲームに夢中で気付かなかったけど、父さんはもうお風呂から出たのだろうか。

時刻はすでに20時を廻っていた。

 様子が変だ。

我が家はいつも決まって20時に夜ご飯は食べるのに、まだ料理が出来ていなかった。

背中とお腹がくっつきそうになる前に、父さんを呼びに書斎の部屋へ行くことにした。

この耐えられない空腹感を気づいてもらうために力を込めてドアを繰り返し何度もドンドンと叩いてみた。

…………………

ドアの向こうからの返事はなかった。

もしかしたら仕事で疲れて寝てしまったのか。

「仕方ない。力づく起こすか。」

深く深呼吸をして気合いを入れい壊す勢いさながらドアの扉を蹴る。

部屋の中は質素で殺風景なもので、本棚とデスクしか置かれていなかった。

せっかく見事な跳び蹴りをかましたのも虚しく父さんの姿は見当たらなかった。

一体、父さんはどこへ行ってしまったのだ。

玄関にはまだ父さんが履いている革靴もあるから外出はしていないはずである。

恐る恐る風呂場に近づいてみるとまだ灯りがついていた。

覗いてみると浴室の中はむわっと鉄の臭いが籠っており、濃厚な霧の中に薄らと黒色の塊がぽつんと浮かび上がっていた。

肩が上下に揺れ、呼吸が激しく乱れる。一刻を争う時なのに身体が硬直して動けずに茫然としてしまった。

次第に身体が震えはじめた。震えながら父さんに近づくとさっきまで上機嫌にお酒を飲んでいた父は姿を消し、青ざめたまま目を見開いている姿に変貌していた。

間に合わなかった。もっと早くに父さんの異変に気づいていれば助けられたかもしれないのに。

医者からは、父さんは風呂場で意識を失い倒れてしまったと説明を受けた。病名も教えてくれたが私の混乱した頭には入ってくることはなかった。

 父さんは50歳でこの世から私を残し天国へと先に旅立ってしまった。

 あまりに突然な出来事で、起きたことが理解出来なかった。

お通夜から葬式、火葬まで嵐のようにあっという間に過ぎ去っていく。悲しむ時間さえも与えてはくれないのかと思うほどバタバタとしていた。

葬式で、周りの大人たちは儀式のように揃ってハンカチを片手に目頭を抑えていた。この光景を見ていると私だけ涙を流していないのは異質なのかと思い、演技で必死に泣こうとしたけ泣くことは出来なかった。

 決して、父が嫌いだったわけではない。むしろどんなに忙しくても優しい父さんのことは好きだったし、料理も私の健康を考え不器用だから苦手なのに、必死で毎日練習して作ってくれていつも感謝の気持ちでいっぱいだった。

 料理は見た目こそ不恰好ではあったものの、どれもとても美味しかった。特に、父さんが作る手羽先入りのカレーライスはトロトロと手羽が口の中でほどけるほど柔らかく奥深いスパイシーさが一口食べる度に香り、とても美味しかった。何より父さんはカレーライスを調理する時いきいきしていてとても幸せそうに見えた。一度、私も作れるようになりたいと思いレシピを聞いてみたが、まだお前にこのカレーを作るのは早いとか言ってもう少し大人になったら教えてやるよ。と断れてしまいレシピを教えてはもらえなかった。

 

父さんと夜ご飯を一緒に食べながら野球中継を観るのが私にとって密やかな1日の楽しみだった。

私は、野球に関してそこまで詳しくはなかったけど、楽しそうに野球中継を観ている父さんの姿を観察しているのが好きだった。

それがなくなったこととカレーライスをもう2度と食べることが出来ない現実を改めて気づいたのは埼玉の秩父にある父の実家で野球中継を観ている時だった。

 父さんとの幸せだった時間がもう2度と来ない事実に気付き、涙が止まらなくなってしまった。

「会いたい。父に会いたいよ。カレーライスを食べながら、また一緒に野球中継が観たい。母がいない私にとって、あなたが私の(・・・・・・)全てだったから(・・・・・・・)、これから私はどうやって生きていけばいいかわからなった。

 叔母さんに呼ばれリビングに行くと夜ごはんの用意が既にされてありテーブルの椅子に座ったが居心地が悪くて気持ち悪くなり、何がテーブルに乗っかっているのか前がぼやけて判別出来なかった。

 ご飯は喉に通らず無言のまま立ち上がり父さんが実家にいた時に過ごしてた部屋に逃げるように戻った。誰かの声は言葉として認識することは出来なかった。部屋は無味無臭でこれといって物は置かれてなく父が過ごしていた残り香は一切感じられなかった。

それでも父さんを亡くしたばかりなのに、この部屋で過ごすのは辛かったけどここしか空き部屋がなかったから辛抱するしかなかった。

 部屋はひんやりと冷えきり人が入ってくるのを拒むかのように思えた。深淵な闇が部屋を埋め尽くしいているようにだった。

 言葉に表せない感情に支配されてもう何日経ったか、分からない。

 このままでは自分がどこかへと消えていきそうな気がしたけどどうにかすることも出来なかった。

 雑音が聞こえてきた。どうやら誰か自宅に来たみたいだ。妙に騒々しく思えた。

 インターホンと玄関扉を強く連打で押してくる。階段や廊下はドタバタと家が壊れる危険性を伴うほどであった。

 私は誰だか分からない客人に対して苛々してきた。早く用事を済ませて帰ってくれないかと懇願していた時に声がようやく言葉として形成をなし、こちらまで届き始めた。

「はるぅ〜!ねえ、、はるってば〜!そこに居るんでしょーー!!!出てきてよーー。」

出てこないとおばさんにはるのやった悪事ぜんぶばらすからね。まず、、、

 ぁぁあ。あいつだ。声の主が判明した所で

何も気分は変わることはなかった。むしろ余計に悲しみに倦怠感が上塗りされる気分にさらされた。。

 「はあ、、関わりたくない………。」久しぶりに出した空気は狭い部屋の壁にも届かず掠れが酷く言葉とは言えるものではなかった。 あいつと絡むと、いつも面倒なことが起きるから今だけは会いたくない。頼むから静かにしてほしい。音なんていらない。闇の中にでも充分に耳障りな声が鳴り響いてるのだからこれ以上は、何も聞きたくなかった。

 それなのに幼稚園からの幼なじみである佐伯は私の思いを踏みつけてきた。

 彼女は私の部屋にノックもせず、力づくでこじ開け、部屋に入るやいなや私の背中にドロップキックをかましてきた。

 プロレス好きな彼女のドロップキックの威力は、殺人現場と眼鏡が似合う謎めく少年探偵アニメに出てくる空手姉ちゃんの蹴りに匹敵する程であった。

「ぬぅああああぁあぁ痛ったぁ!!!。」

激しい痛みで顔を歪め涙ぐむ私のことを佐伯選手はゲラゲラと腹を抱えて笑い始めた。

もう、やだ!(・・・・・)なんなの、お前。ほんとなんなの。」と苛立ちを込めて言うと「なんなのとはなんなのよ!」と同時に右脚が今度は私の後頭部を目掛けて風を切ってやってきる。さすがに不意打ちでないから余裕しゃくしゃくで頭を下げて間一髪でかわすことが出来た。。。と思えたのに気づいたら地面にうつ伏せ状態で金縛りにあったように動けなくなっていた。

「あんたが避けようとするから、かかと落しに変えなくちゃいけなくなったんだからね。」「あんたが避けようとしたから、かかと落とし、、、。」頭の中で言われた言葉を繰り返してみる。

 「あー、かかと痛い。かかと落としってシンプルだけど意外とこっちにもダメージがくるから嫌いなのよね。」佐伯は意味が全く分からないことをしてきた。もはや、同じ人種だとは思えなかった。何か私に恨みでもあるのか恨みを買った覚えはないから違うとして、じゃあなぜ出会って数秒でボコられなければならないのか。

睨めつけるようにそこにいる暴力少女を見上げた。被害者は私で加害者は佐伯さん。その事実は間違うことのないはずなのに傷害の罪を犯した彼女は何食わぬ顔をしていた。

 彼女へストレートに苛立ちをぶつけてしまうと後悔と痛みしか残らないのは学習済みだった。無論、幼き頃は果敢に挑んだりもしたが瞬殺で床に頭をつけられており全敗に終わっていた苦々しい記憶があるから、怒りを鎮めることに全神経を集中させることに専念した。

 目を閉じ肩の力を抜き呼吸だけに全意識を持ってくる。広大な森林が目の前に姿を現しそこに棲息している雀、梟、狐、狸などの動物たちの奏でる音が澄んだ空気と仲良く相まって私の耳元までやってくる。

 刺々しい気持ちが少しずつ和らぎ、先ほどまでのことが嘘のように思えてきた。

 「瞑想は素晴らしい!」

 心の声が思わず口から溢れ出してしまった。

 晴れやかな表情になっている私のことをみて、どんな感情を抱いたか考えたくもないが「きもい」とぼそっと呟き満面の笑顔で私の頬に平手打ちをかましてきた。

激痛と驚きと怒りに満ちて女の前では涙を見せない。というルールを破ってしまいそうになった。これくらいでイライラしていたら今後、ここで生活も佐伯さんとも付き合っていくことができる気がしない。行き場のない感情はどこへ流せばいいのだろう。一生、果てしない空を彷徨い続けているのかもしれない。頬をさすり歯がみしながら佐伯さんに質問する。

「ところで佐伯さん、今日何しにここへ来たのでしょうか?」

「そんなのはるを殴りにきたに決まってんじゃんか笑」

「最近、ストレス溜まってたから、はるがこっち帰ってきたって聞いてチャンスだと思ったの。」となんとも悍ましい言葉がでて私は身震いした。あまりの恐ろしさに、頭を下げ床に這いつくばり私は無力です。あなたに一生付いていきます姿勢を取っていた。彼女に対して何度目の這いつくばりだろうか数えたらきりがなかった。

「行くよ!!」

 強引に私の右手首を掴み佐伯さんは私の顔色を伺うことなく走り出した。

「佐伯さん、嫌だ。外になんか出たくないんだ。」

「外に出る気分じゃないんだ。家にいさせてくれ。」

 玄関口でそう叫んだ私に佐伯さんは先ほど暴力を振るってきた人物だと思えない優しい声音で私に話しかけた。

「気分とか関係ないよ。ずっとうじ虫みたいに部屋に閉じ籠っているはるなんか私は見ていたくない。だからさっさと元気だしなよ。」

「悲しいけど、はるのお父さんはもう帰ってこない。私だって今でも胸が苦しくて堪らない。でもね、ボロ雑巾みたいになっていくはるの姿を見ているのはもっと耐えられないんだよ。」

 私がはるの悲しさや辛さをわかってあげることは出来ない。でもね、これだけは分かるの。私は、はるに笑顔でいてもらいたいんだって。

「だからさ、今すぐ元気出してとか無理は言わないから、そのうちまた元気な姿を私に見せてくれるって約束してくれる?」

 10年近く一緒に過ごしていたけどこんな哀しげで優しい表情を浮かべた佐伯さんをみるのは初めてで動揺してしまう。

「ねえ、佐伯さん。これからどこに行くの?」

 返事はなく、はぁはぁと少し荒くなった息遣いだけが聞こえてきた。

 見覚えのある道を走っている気はするけど思い出せない。すると佐伯さんは急に足を止めた。気づかないまま走っていた私は佐伯さんの後ろから抱きつく形になったしまった。佐伯さんも女の子の背中なんだなと意外に思っていると、佐伯さんはまたしても笑顔で私に振り返り右頬にビンタをしてきた。

 何度目のビンタだろうか。

 笑顔のまま何も言わずにビンタされるのが世の中で1番痛くて恐いことかもしれない。

 痛みでひりついた頬をさすりながら周りを見渡してみる。

 木で作られた小さな看板にはイベリス公園と書かれていた。

「イベリス公園、、、。」

 見たことのある文字だったけど来たことはない公園だった。

 それなのに佐伯さんを置いてきぼりにして磁力に引っ張られるように公園へと走った。

 その公園には桜の大木を中心にして左側にジャングルジムとブランコなどの遊具があり、右側には砂場が設置されている。

私は遊具には一切の関心をみせず桜の大木へと近づく。

 この辺りだけ華やかで幻想的な空間が広がりまるで天国への入り口みたいな気がした。

 天国の入り口を見て、心も体も無くなったように軽くなった感覚に一瞬陥る。

 我にかえると私の前には品のある花柄の刺繍が入った桜色のマキシ丈ワンピース姿の女性が1人でぽつんと立っていた。彼女の頭のサイズより大きめなカンカン帽を深々と被っていてどんな表情をしているかは見てとれなかった。私はこの女性のことをどこかで出会っていた気がしてならなかった。

 彼女の周りは撫子色で染まっていて、小鳥や野良猫が近くに集まっていた。彼女の近くに集う小鳥や猫たちは私の耳には届くことのない音を拾いあげ楽しげに小躍りしている。彼女はその光景を微笑みながら眺めていた。小鳥や猫たちの軽やかな踊りに私も彼女とその周りの小動物たちから目が離せなくなった。

 突然、春一番が公園内を通り過ぎ砂埃が舞い散った。周囲に静けさが戻ってきた頃を見計らい目を開けると先ほどまで踊っていた小動物たちは消えており、彼女だけがぽつんと立ち竦んでいた。

 彼女が私に近づくにつれほろ甘くて芳しい桜の香りが私の鼻腔から脳天まで一瞬にして浸入してきて頭の中にある映像が流れ込んできた。その映像には私と同じ背格好をした男の子がこの公園にいる場面が映っていた。私と同い年か年下に思える男の子は桜の幹に手をかざしながら笑っていた。映像はここで一度途切れ、身体が急に熱くなり息苦しくなり咳こんでいた。

 場面が急に変わって今度はさっきの男の子が手をかざしていた桜の木がぼうぼうと火の渦に飲み込まれ、誰にも助けられず燃えていた。

 目を開けると涙が溢れてだしてきた。

 桜の木が燃えることは寂しいけれど、この場所に思い入れがないのだから涙を流す理由が分からなかった。

 何も思い出せないのに涙を止めることが出来なかった私に対し彼女はこう告げた。

「春って好き。」

 突然の告白に言葉がでない。あとから私に追いついてきた佐伯さんもびっくりしていた。佐伯さんは我にかえると同時に何故か私の膝裏に蹴ってきた。しかも怒りが込められた重みのある蹴りだった。

自然と記憶に新しい体勢になっていた。しかし不思議と苛立ちはこみ上げてこなかった。それどころか、痛みはあるものの、違う感情に支配されていて佐伯さんのことを置き去りにしてしまっていた。

 初めて告白されたことがとてつもなく嬉しかったのだ。ずっとずっと想い続けてやっと両想いになるくらいの喜びを感じていた。

 少しだけ冷静になると、決して見た目も良い方ではないのに何がどう転べば初対面の女の子に告白されることがあるのだろうか。これは夢ではないかと信じられなかった。

 一度、彼女から背を向け思い切り自分の頬を引っ張ったいてみる。だめだ。これだけでは冷静さを取り戻せない。それどころか顔は紅潮し頬は緩るみきっていて修復不可能でどうしようもなかった。

 好き。と言われただけで初めて会ったばかりの彼女を意識してしまうとか、なんて単純で容易い男だろうか。

 告白した彼女の様子をチラッと見ると、何事もなかったように平然な素振りをしていた。ドラマやアニメでの情報でしかないけれど告白する側の方が身体が震えるくらいに緊張するのではなかろうか。考えたところで彼女の思いは分からずじまいだった。2人とも会話の糸口がほどけず沈黙が続いた。2人の吸う吐く音が聞こえてしまうほどの静けさに窒息しかける寸前になる。

 気づけば告白の返事とは全く関係のないことを話し始めていた。

「ここで何をしてるの?」

 彼女の表情が急に曇りはじめた。

 何か間違った質問をしてしまったのだろうか。

 彼女の勇気ある告白を無視して質問してしまったのがやはりいけなかったのか。

 不適切な発言をする前の時間に戻らないものか、どうか彼女の機嫌がこれ以上崩れてしまいませんようにと2つ懇願しながら彼女の様子を伺う。

「あっ。。」

 彼女の足下にひとつ、またひとつと不揃いな形の滴が落ちていた。

 私は空を見上げた。

 これまでもかというくらい青く澄み渡る青空で美しかった。

 

 「変なこといってごめんね。大丈夫?」

 「…………」

 彼女からの返事はなかった。

 他人には聞かれたくないことの一つや二つくらいあるのは知っているつもりだった。知識だけでは駄目で、友達が少ない私にはそういう思いやりみたいなのが圧倒的に欠けていたのかもしれない。

 放してしまった言葉は永遠に戻ってこない。だからこそ、せめて泣いた理由を聞く責任が私にあるのだと考えた。

 もしかしたら、それは口実で彼女が流した涙の理由を知りたくなっただけなのかもしれない。

 しばらくの間、彼女が落ちつきを取り戻すのを待つことにした。

 彼女にどんな言葉を投げたらいいのか纏まらないまま彼女が描いた模様を眺めていると彼女は鼻を啜りながらこう答えた。

「待ってたよ。ずっと待ってた。」

 今にも消えてなくなりそうなか細い声で待っていたと繰り返した。

 もしかしたら彼女は誰かと私を勘違いしているのかもしれない。その待ち人との再会を喜ぶあまり泣き出しているんだ。

 告白の相手が私ではないことに気づくと無性に恥ずかしくなってきた。

 そもそも、私はこの公園で彼女と初めて会ったはずなのだから絶対に人違いなのだ。

 彼女にきちんと勘違いしていると説明してあげないといけない。また泣いてしまうかもしれないけど間違いは訂正しなくては彼女に失礼な気がした。

「さっきは泣かしちゃってごめんね。」

「こんなこと言うのもなんだか心苦しいのだけど君が待っている彼は私ではないと思うよ。だって、私はこの公園に来るのも初めてだし

君にだって会ったことはないんだから。」

 彼女は私の返事に対して黙ったまま頭を振った。

「うそ。たくさんここで私とお話したでしょ。だってあなた紫苑[紫苑くんでしょ?憶えてない?」

紫苑とはつい先日、病で亡くなった父さんの名前だった。だけどまだ彼女が言っている紫苑が本当に父さんのことを指しているのか情報が足りなかったし、父さんが、私と同世代の女の子と繋がりがあるとは到底思えなかった。

 父さんは友達も少なく普段から仕事以外はろくに遊びに出掛けないのでこんな可愛い子と知り合いとは信じられなかった。

 名前は偶然に父さんと同じだけで苗字は違うのかもしれない。こんな出会い頭で涙を流してしまう程なのだから、紫苑くんのことを会いたくて、会いたくて、それでもなんらかの事情があって今日の今日まで会えずじまいだったのかと思うとなんだか可哀想にも思えてきた。

「君が待っている彼、紫苑しおんくんのことについてをもう少し良かったら教えてくれないかな。」

 彼女に、そう尋ねると先程までの泣き面はどこへ消えたのか一瞬で明かりが灯ったようにぱっと笑顔になった。八重歯が微かに見えてとても可愛い笑顔につい見惚れてしまい彼女の話が上手くは聞き取ることは出来なかった。ただ彼女が語る時に見せる表情があまりにも嬉々としているように思え、なぜか彼女の語る紫苑くんに嫉妬が芽生えていた。

 彼女が語る紫苑くんはとにかく優しい人みたいだ。さらに、紫苑くんは桜の木と話せる能力があるという常識では信じがたいことができるという。

 私の父さんが桜と会話が出来るなんて考えられなかった。普段の父さんだって無言が好きなタイプであったし、なによりそんな能力があれば私に言ってくれてもいいものだ。

 また彼女は滔々と私に語り始めた。

「私ね、公園から出たことないの。公園でしか紫苑と会えなかったから公園で待っているの。紫苑くんに会ったらね、謝りたいことあるんだ。」と彼女は答えた。

「紫苑くんは私とって特別な存在なの。私を変えてくれたんだ。紫苑くんがこの公園に来てくれる前はね、ひとりぼっちで寂しかったんだよね。だって、この公園には私1人しかいないから他の場所だと仲間と並んで楽しげに会話しながら花咲かせることが出来るの。それがとっても羨ましかった。私だって誰かと楽しくお話がしたかったから花見に私の所へ集まる人達に話しかけてもみたわ。でも、私の言葉がどうも通じないみたいでちっとも答えてくれないの。私たちにとって開花することって本当に大切で嬉しいことなの。そうね、人間の世界で例えるならお母さんのお腹のなかからこの世に生まれてくる感じに近いかな。生まれてくる喜び、やっと産むことができた喜びはかけがえのないものよ。」彼女の話は本当だろうか。常識では考えられない情報が多くてなかなか上手く頭の中で整理出来なかった。彼女は私のことを気にせず話続けた。


「だからね、桜が開花した時って感情が昂ぶっていて誰かと話していたいの。そんな時に紫苑くんと友達何人かと私のいる公園にやってきたわ。初めはね、いつもと同じようにみんなに話しかけたわ。」

「私きれいかなって。今年もちゃんと上手く開花出来ているかなって一生懸命叫んだわ。だって私の姿を私は確認したくても出来ないもの。だから聞くの。きれいかなって。たまに、私のことを見に来てくれた花見客から「桜、きれい!いっぱい咲いているね。」 と言ってもらえるんだけどね、

私はね、1人ぼっちのせいもあってそれだけじゃ物足りないの。だから私の所へ来てくれた人間には全員聞くことにしているの。

「それで、子供達にも話しかけてみたわけ。でも、子供たちは私に登ることに集中していて誰も振り向いてくれなかったの。」

「寂しかったし次第に虚しくなってもきたわ。そんな時に紫苑くんが私の所へ登ってきたの。紫苑くんはあまり運動神経が得意でないみたいで、私に登るのとても苦戦してたわ。」

 そういえばお父さんも運動神経悪かったっけと話を聞きながら懐かしさがこみ上げてきた。

「登るの下手な子ってこちらからしたらとっても痛くて嫌なの。体重はすごい掛けてくるしさっさと上へ下へ登ったり降っていけばいいのにびくびく躊躇して遅いの。」なんだかお父さんの子供の頃のおぼつかない感じの話を聞いていて少し可笑しくなった。

紫苑くんが緊張しつつも頑張って登ろうとしていたのは息遣いや手足の力から充分に伝わってきたわ。あまりにも必死に登ってるから途中までは、いくら遅くても温かい[温かい木で応援してあげようと思ったわ。だけど、頂上の枝に着いた紫苑くんは登ることで精一杯で降りることを考えていなかったみたいで、下をみては足がすくんでいたの。私、もう痛くて我慢出来なかったの。だから、つい怒って叫んだの。「痛い!早く降りてよ!」って、声が聞こえていたのか紫苑くんびっくりしちゃったみたいで、まだ地面から数メートルもあるのに私から手を離してしまったの。地面で倒れている紫苑くんをみて本当に申し訳ないことしたって思ったの。だから会ったら謝りたくって。。。

 昔に聞いたことがあった。うちの父さんは公園で怪我をした代償に耳が聞こえなくなってしまったと。

 すっかり忘れていた父さんのエピソードをふいに思い出すと彼女の言っている話に信憑性が増してきた。それと同時に彼女はいったい何者なんだろうかと疑問が生じてきた。

 もしかして、父さんが生前に私に伝えたかったこととは彼女についてのことなのだろうか。いや、わざわざ改まって言う話でもないのか、ではお父さんはいったい何を伝えたかったのか。お父さん、ここにまだ待っている人がいるから戻ってきなよ。と心の中で語りかける。

「私ね、そのことをずっと後悔していてね、それから何度も会って一緒にお話してはいたんだけど謝罪するタイミング分からなくて言い出せないでいたんだ。今日こそはと思った矢先、ある出来事があって紫苑くんともお別れしなくちゃならなくなったからとても辛かったの。」

 私は彼女の話を聞いていくうちに申し訳なくなり、彼女になんて言えばいいのか分からなくなってきた。

「やっと、紫苑くんに会えて嬉しいよ。ずっと待ってた。あの時はごめんね。もし、良かったらまた前みたいに仲良くしてくれると嬉しいな。」好きといきなり言ってきたり泣いたり会えて喜んでたりしている彼女のことを、もっともっと知りたくなった。

「そういえば名前はなんて言うの?」

 彼女は頬をぷくっと膨らませ名前を教えてはくれなかった。

「ひどいよ!紫苑。名前を忘れるなんて。」

紫苑は私ではなくお父さんなんだけどなあ。。と思いながらもとりあえず反射的に謝罪した。

私は紫苑ではないので分かるはずがなかった。いくら否定しても私のことをお父さんだと信じきっている彼女にどうすれば間違いを正せるか、答えはすぐに見つかった。

 私は彼女から離れて父さんの実家へと駆け出した。

 おばあちゃんからなんとか口実を付けてお金を貰う。急いで彼女がいる公園へと戻ろうとした時、肩と首周りに微かに重みを感じ始めた。気のせいだと無視してダッシュで公園に行くとまだ彼女は居てくれた。というかそこにしかいないのだけど。

「ごめん。急に居なくなって。」

「駄目だよ。紫苑くん!お金を叔母さんからくすねちゃ。」

「え、何で知ってるの?」

「紫苑くん急に走り出すから気になっちゃって憑いてみたの。」

「憑いてみた?」憑いてみた、憑くというのは幽霊側が言う台詞ではなかっただろうか。

「正しくは憑けれたんだけどどっちでもいいか笑」何が面白いのかいまいちわからない。

それよりも彼女に出会ってからずっと感じていた不思議な空気感がしていたのはすでにこの世に存在していないからか。もしかしてここから出られないのは父さんのせいなのかもしれない。そうだと考えると彼女のことが可哀想でならなかった。

 憑いてきてくれたなら好都合だなと内心では思っていた。だけど、彼女に悟られるとややこしくなりそうなので行く先は隠すことにした。平日15時台の電車は閑散としていた。電車に揺られること1時間。一気に色とりどりのビルの集合体がこれまでもかというくらい視界を占領していた。こんなにも短い間この場所へ戻ってくるとは思いもしなかった。移動中の彼女は落ち着きがない様子で頻りに行く先を質問をしてきた。電車の中はしんと寒さを感じるほどの静けさで彼女とは話を出来る環境ではなかった。

 そんなこともお構いなしにずっと私に話しかけている彼女は初めての遠出で楽しそうだった。今から行く場所でこの笑った顔が崩れてしまうのではないかと思うと胸が苦しくてたまらなくなる。見慣れた駅の前にはピンク色の象が「おかえり。」とこちらに微笑みかけている。そこから歩くこと10分くらいで木造建て2階のアパート「壱刻館」があった。

 壱刻館は木々に覆われていて初見だと建物だと認識することは困難であった。

 ぎしぎしと鳴り響く階段をゆっくり登り1番奥の扉へと向かう。

 この扉を開け彼女に真実を明かしたら、彼女とはお別れなのだろうか。もっと彼女といたいと後ろ髪を引かれる思いと彼女に父さんを会わせてあげたいという思いが頭の中で堂々巡りしていた。

 手をズボンで拭いながらドアノブを回し引き扉を開ける。

 まだ、今でも「ただいま!」といえば父さんがニコリと大好物のカレーライスを私によそってくれる日常がありありと浮かび、涙が出そうになる。目的の物を探すために、父さんの書斎兼寝室へと入る。初めて入った父さんの部屋は、祖母の家で私が使っている部屋と似ていて本棚とテーブル以外何もなかった。

 真実を知りたい。ただその一心に本棚を漁っていると、坂の上の雲(一)という小説を取り出した時にはらりとA4用紙が足元に落ちた。そこには見慣れた父さんの殴りつけるような文字が羅列されていた。

  

    

  はるへ

 大した話ではないのに直接お前に言うのが恥ずかしくて手紙で話す。

 

 今からお父さんの伝えることが全てだ。最初はこの昔話が嘘かもしれないと疑いたくなると思うが、どうか信じてほしい。そして、話を聞いたらどうかシベリスという公園に行って欲しいんだ。彼女に会いにいってほしい。

 きっと寂しがっているはずだからさ。

  最初に、お前も知っている通り俺は耳が聞こえない。いや正確には、ある事故のせいで聞こえなくなってしまったんだ。小学生か中学生だった頃、友達の間で桜の木を登るという桜登りってのが流行っていた。今振り返ると、非常識な遊びだったのかもしれない。ただ周りがやっていると輪を乱さないためにどうしても断りきれなくて、高い所が苦手なのに桜に登ってみることにしたんだ。」

 当時から運動神経が悪いのは知っていると思うが、なんとか桜に登ることが出来たんだ。登れた達成感とそこから見える景色と間近に見る桜の花びらに目を奪われ、思わず感嘆の声を上げたよ。だけど、登ることに全ての体力を使いきったみたいで、気づいたら桜の木から落ちてしまっていたんだ。一命は取り留めたのだけど後遺症が残り耳が聴こえなくなった。私は突然耳が聞こえ無くなって困惑したよ。でも、もっと困惑したことがあった。それはな、人の声が聞こえなくなった代わりに、桜の声(・・・)だけが私の耳に届き始めたことなんだ。これは自慢なんだけどな、女性には全然モテてないのに桜には好かれたんだよ。初めは気分がよかったよ。でもな、だんだんと胃もたれのようなくどさを感じて耳を塞ぎたくなったよ。そんな時に出逢ったのが美桜だった。

 美桜は今まで話しかけてきた桜とは違って控えめでお淑やかな桜だった。私はお酒を一口飲むと紅潮するみたいに美桜の香りをかぐだけで顔が紅潮したんだ。

 簡潔にいえば一目惚れってやつだな。

 この一目惚れは誰にも言えなかったよ。

 桜に恋するなんておかしな話を誰が信じてくれるか分からなかったからさ。だから誰にも言えず1人秘かに学校帰り美桜に毎日逢いにいったよ。美桜といる時間は本当に幸せだったと今でも時折思い出すんだ。ただそんな楽しい時間も突然お別れがくるんだ。

 いつも通り美桜に会いに公園へ行くと、なぜか野次馬ができていた。その隙間を縫うように立ち入り禁止テープの前まで行ってみると呆然としてその場で泣き崩れてしまったんだ。

 大好きな美桜がそこにいるはずなのにいない現実が苦しくて胸が張り裂けそうだった。

 

 

 ふと、今いる美桜はどんな顔をしているのか、気になり顔を上げ周囲に目をやると美桜はどこにもいなかった。

 部屋から出てしまったのではないかと思い

 リビングやキッチンやトイレに風呂場など至るところを探してみたが彼女はどこにもいなかった。思い当たる場所はあそこしかなかった。私は無我夢中であの公園に向かった。

 電車の扉が閉まる音、車掌のアナウンスが遅く感じられた。彼女はどうして消えてしまったのか、ずっと待ち望んでいたのが私ではなかったのがショックだったのかもしれない

。改札を抜け、急いで公園まで走る。美桜は公園にもいなかった。

 私は公園内に大きくそびえ立つ桜を見上げた。

 花びらがひとつ、またひとつと哀しげに舞い落ちる中に入り桜の幹に掌を合わせる。

「美桜、そこにいるの?」

「どうかお父さんのこと許してほしいんだ。」

「お父さん、美桜のこと本当に本当に大好きで大事な存在だと想っていたと思うよ。だって、あんな浮き足だった文字見るの息子の私ですら初めてなんだからさ。」

「美桜、そこにいるんだろ。」

「美桜、かくれんぼはおわりだよ。」

    

      「ごめんね。美桜。」

「.........」

「.........」


「美桜、そんなに小さい声じゃ聞こえないよ。」


春風が吹くなか、私はずっと彼女の声を探し続けていた。

 

 end


追記

最後まで読んでくださりありがとうございました。

課題2で傍点を入れる部分が、不具合により傍点でなくなってしまい読みにくい文章になり申し訳ありません。

  

編集者追記

傍点の箇所、直しました。 

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