回顧録
「1つ、昔話をしようか」
そう言ったのは、学校帰りにたまに立ち寄る 古書店の店主だった。
「いきなり何を…」
それもそのはず、陽介はこの場所にいる理由さえ分かっていない。古書店で万引きしていた同級生達を追いかけ、気がつけばここにいたのだった。
そんな陽介を見て、店主は目を細める。
「ここは、彼岸と此岸の境目にある魂を導く場所。キミは今、生死の境目にいるんだよ」
そう言って店主は指を鳴らす。次の瞬間、空間の一部が割れ、見慣れぬ病室のベッドに横たわっている自分と、それを取り囲む家族がいた。
「コレ、って」
「キミの現実、かなぁ」
慌てて店主を見ると、彼は特に興味もなさそうな訳知り顔で呟く。
「キミが約束をちゃんと守ってれば、こんなことにはならなかったのにねぇ」
「え」
『じゃあ、約束しよう』
突如として脳裏によみがえったそれは、幼き日の約束だった。けれど肝心のその声が誰ものものだったのかが思い出せない。
(俺は、何かを忘れてる)
きっとそれが、今の状況とも関係しているはずだ。
「仕方ないな」
混乱している陽介を見ながら、店主はやれやれ、といったように肩を竦める。
「キミに、もう一度チャンスをあげよう。その約束が何なのか、それが分かったらまたこの店においで」
次の瞬間、再び指を鳴らす音が聞こえ、陽介の意識は闇へと落ちていった。
「!陽介。良かった」
まず、はじめに飛び込んできたのは白い天井。そして、母の顔だった。
「母、さん?」
心配そうにこちらを覗き込む母。更に首を巡らせれば、呆れ顔の兄の姿があった。
「…兄ちゃん」
「お前、またか?」
「へ」
うんざりしたような声でそう言われるが、何のことか分からない。呆気にとられたかのような表情をして兄を見ると、彼は溜め息を吐いて椅子に座った。
「まぁ、いいけどな。まったく。お前のその体質のせいで、こっちはえらい迷惑だ」
「ああ、ごめん」
陽介は、昔からトラブル体質でよく面倒を抱え込んでいた。その面倒を見てくれるのは、店を営んでいる両親に代わる兄の役目で。中学生になった今でもそれは続いていた。そのせいか、未だ兄には頭が上がらない。
「単なる脳震盪らしいが、ショックで一時は心拍停止状態までいったらしい。大事をとって、今日はこのまま入院だそうだ」
溜め息を吐いて、彼は席を立つ。それと同時に、陽介はふと思い出した。
「そう言えば、店の方は」
「今は、人に任せてる。お前はそんなことを気にせず、休め」
母がここにいるなら、時間的に大丈夫かと時計を見る。八時の今はちょうどピークを過ぎた頃だろうか。有無を言わせぬ声音で言われてしまえば、それ以上の言葉は出ない。兄は、心配そうな母を見ながら溜め息を吐いた。
「退院は、明日の昼だそうだ。土曜だし、迎えに来るからおとなしく待ってろよ」
それだけ言って、兄は病室を出て行く。母もそれに続いた。
次の日も、普通に朝はやってきた。部屋にやってきた看護師さんも普通だったし、別に変なところなどない。こうなると、あの古書店での出来事は夢だったんじゃないかと思える程だ。そう言えば、あの『約束』の声は少し高めだったか。そんなことをぼんやり考えている間に病室に靴音が響き、兄がやってきたことを知る。
「準備はできたか?」
「う、うん」
大した荷物などあるはずもなく、陽介は兄と共にナースステーションに挨拶をして病院を出た。
家に戻っても、特に異変はなかったと思う。
「どうしたの?陽ちゃん。もう一日入院してくる?」
あまりに挙動不審だったせいで、幼なじみの貴子にはそんなことを言われたくらいだ。
「いや。別にどうもしないけど。っていうか貴子、なんでお前は人の部屋でくつろいでるんだ?」
「だって、コナンの最新刊が読みたかったんだもん。陽ちゃんだったら買ってるかな、と思ってさ」
「お前は…」
勝手に人の部屋に入り、挙げ句の果てにはマンガを読みあさっている幼なじみの姿は、ある意味いつも通りのもので肩の力が抜ける。
「っていうか、退院してきた幼なじみに何か言うことは?」
「んー?生きてて良かったねー。お祝いに、隠してたエロ本机の上に置いておいてあげたよ」
(!)
視線を机の上に向けると、確かにブツは机の上に積まれていた。
「何考えてるんだっ!」
「えー?一時期、ホントに大変だったって聞いたから。遺品整理で見つかったら恥かと思って」
(…)
悪びれもなく告げる貴子に、もう向ける言葉もなかった。
「でも、心配してたのは本当だよ。陽ちゃん、昔からあの山には『【入っちゃだめ】って言われてるから』って言って入らなかったのにさぁ」
「え」
思い出したのは、あの古書店での会話だ。
『キミが約束をちゃんと守ってれば、こんなことにはならなかったのにねぇ』
「貴子、それって」
(あの古書店主の「約束」と関係あるのか?)
そう思って声をかけると、陽介の言葉を遮るようにスマホが鳴る。
「あ、ごめん」
表示に“母”と出ている以上、出ないわけにも行かないだろう。
「もしもし、お母さん?…うん、陽ちゃんのとこ」
しばらくして通話を終えると、彼女は入ってきたらしいベランダの戸を開ける。
「お母さんがおかず作ったらしいから、持ってくるね。筑前煮だって」
そう言い残すと、貴子はベランダの仕切りを乗り越え自分の家に帰ってゆく。口からこぼれかけた言葉は音にはならず、そのまま空気と同化した。
あの後、玄関からおかずを持ってきた貴子からは特にめぼしい情報は得られず、陽介は次の朝を迎えた。欠伸を噛み殺しながら朝食を口に運んでいると、突如家の電話が鳴る。
「はい。…ああ、分かりました」
一足先に兄が受話器を取ったことを確認し、トーストに手を伸ばす。皿の上が空になると、いつの間にか電話を終えた兄がコーヒーを入れてくれた。
「サンキュー」
「陽介。さっき、無窮堂から連絡があったんだが」
「?」
コーヒーに手を伸ばすと、いきなり兄からいきつけの古書店の名前が出てドキリとする。
「予約していた本が届いたから、時間のあるときに店に来て欲しいそうだ。…大丈夫か?」
「大丈夫、って何が?」
無窮堂は、確か陽介が倒れる原因となった山の麓にある店だ。夢の中で言った店主の言葉を信じるなら、確か『彼岸と此岸の境目にある魂を導く場所』。更に言うなら、本など予約した覚えもない。この口ぶりだと、兄は何か知っているのだろうか。内心うろたえながら返答を待っていると、溜め息の音が響く。
「お前、昔からあの山に入るとロクなことがなかっただろう」
「え」
「覚えてないのか」
無感情にそれだけ言うと、それきり兄は何かを考えるようにして黙り込んだ。
「一体何」
「まぁ店に行くのはいいが、くれぐれも山に入るなよ」
それだけ言い残すと兄は席を立つ。
「はいはい、っと、あれ。兄ちゃん、今日学校?」
制服姿の兄を見て思わずカレンダーの曜日を確認するが、今日は日曜だ。
「ああ。ロボコンが近いから、ちょっと行ってくる」
兄は、この近くにある高専の4年生だ。毎年秋になると開催されるロボットコンテスト、通称ロボコンのためにこの時期は忙しい。そんな時期にいらぬ心労をかけてしまったことが気まずく俯くと、兄は仕方ないというように苦笑交じりの溜め息を吐いた。
「そういうわけだから、大人しくしてろよ」
「ああ、うん。行ってらー」
陽介のその言葉を聞くと、安心したかのように兄は微笑み、玄関に向かった。
「はぁー。今日もかっこいいわぁ」
入れ替わりにやってきたのは貴子だった。
「…お前、何しに来たんだ」
「康ちゃんの顔を拝みに。ついでに、タッパーの回収」
悪びれもせずにそう言ってのけた貴子は、子供の頃から兄のファンだ。まぁ、事実兄である康太郎は昔から何をやらせても並より上を行く子供で、何をやっても並の陽介は、そんな兄と自分を比べること自体を放棄していた。難があるとすれば無愛想なところだろうが、貴子は『そんなところもカッコいい!』と言い続けている。女っていうのは、よく分からない生き物だ。
「そんなに好きなら、さっさと告白でも何でもすりゃあいいじゃん」
「好きだなんて言ってないよ。ただのいちファンなだけだよーっだ」
「あっそう」
(どう違うんだよ)
女心など分かるはずもない陽介は、溜め息混じりにコーヒーを飲み干した。
「それより貴子」
「ん?」
そう問いかけると、貴子は勝手にコーヒーメーカーのコーヒーをカップに入れている。
(毎度のことながら、何してんだ…)
まぁいいか、と気を取り直して彼女を見た。
「ガキの頃、あの山で俺に何があったか覚えてるか?」
「え?ああ、もしかして山崩れのこと?」
「山崩れ?」
「うん。あの山の奥に、祠っぽいところがあるんだけど、ゲリラ豪雨で山崩れがあったんだよね。陽ちゃん、そこで夏休みに遊んでて巻き込まれたんじゃなかった?」
それだけ言うと、貴子は心配そうに俺の顔を覗き込む。
「『震災があったし、元々崩れやすくなっていたんだろう』ってお父さんが言ってた。お母さんには『辛い思い出だろうし、あんまり言うな』って言われてるんだけど、平気?」
「ああ…」
そう言われて、脳裏には『じゃあ、約束しよう』というあの言葉が蘇る。ご丁寧に雨音のBGM付きだった。耳鳴りと共に頭痛がする。これ以上貴子の相手をするのは限界かもしれない。
「悪い、貴子。ちょっと休んでもいいか?」
「うん。顔色悪いし、無理しないでね」
それだけ言うと、貴子はそのまま立ち上がった。
「あ、そうだ」
リビングを出る瞬間、彼女は振り返る。こちらに向けた表情は懸念に満ちていた。
「陽ちゃん、しばらく無窮堂に行くのは止めといた方がいいよ。琴ちゃんたちが言ってたんだけど、森君達があの店で万引きしよう、って話してたんだってさ。関わりたくないでしょ?」
「あ、ああ…」
(ああ、そうか)
その言葉で、自分がどうしてあの山に入ったのかという疑問が、ご丁寧に脳内映像付きで明らかになる。情報過多で混乱する思考など悟らせぬように、陽介は貴子を見送った。
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「にりす のちて をえにえい りにりいて がは を とけくろしにせと
さりしき くさしりしに るをば わしにわしい いにいいて いし
のをもめて のち のをのきにきて しさしりき くさしりしのと をとめりて
つにきて にりて ののえりて の のとりしてとけくろしさんにりでんのが
ちしけんのは つ つ のでん くでば つちて つをりち ちちて
のにきらわして つをりち りりて にりきて つのをれ
くらば つはのをしきて のをのきにきて こしさん つはの のにりして の
のをきけてこしさん くこししてばとうはらじと のののをきつのくののを
のきうのく にるを きち きちて にしつのく のがを のちて
ちうのくるはらじと えいめうをの のより にちつ のにすとう にちでなん
くちでなば のののののにすとう ちみてんくみてば にすとう にきちてん
くきちてん にすとう ちいいてん くいいてば とうはらじと えいめうを
つ つ に こしせとす」
「お母さん、そのじゅもん なぁに?」
「これは、『祝詞』っていって神様に捧げる言葉よ」
幼い頃、母に連れられてあの山の祠によく行っていた。母が祠の中で祝詞を唱えている間、陽介は木に登ったり少し奥まったところにある湧き水の出るところに行って遊んでいた記憶がある。聞けば、父と一緒になる前母は結構大きい神社の娘で、巫女をしていたという。この山で祝詞を唱えているのも、その関連だと言っていた。
異変が起こったのは、その年にあった震災で祠にある鏡に亀裂が入ってからだった。陽介が山の中で怪しげな黒いもやのような影を見るようになったのも、その頃からだったと思う。母にそれを話すと、母が祝詞を唱える頻度は増した。その内、山だけではなく父が営んでいる鉄板焼きの店の周囲でもその影を見るようになった。そうだ、父の店があったのは、今は無窮堂のあるあの場所だった。
そしてゲリラ豪雨が続くその夏、ついに鏡は割れ土砂崩れが起きる。土砂が襲いかかってきた時、陽介は両親と店にいた。最後に覚えているのは、土砂に飲まれる寸前、誰かが祝詞を唱えながら自分を抱きしめたことだけだった。
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『じゃあ、約束しよう』
それは幼き日、母と交わした最後の約束だった。
『もうすぐ、お母さんは遠くに行かなきゃいけないの。だからもう、貴方はあの山に入っちゃいけない』
「そんなのヤだよ!なんでお母さんがいなくなっちゃうの?」
到底納得などできずに、そう泣きじゃくった記憶がある。母はその問いには答えずに、「ごめんね」と呟いただけだった。
『大丈夫よ。もうすぐお兄ちゃんが修行から帰ってくるし、お父さんだっている。寂しくなんかないわ』
「そんなのヤだ!お母さんがいい!」
最後までそう言って泣きわめいた記憶がある。だが現実は無常で、その日から心なしか母の存在感はどこか薄くなっていった。店が土砂に飲まれた時も、唱えられた祝詞で初めてそれが母だと気づいたくらいだった。
「…母さん」
部屋のベッドの上で、陽介は呟く。母は9年前の土砂崩れの時にいなくなっている。あの土砂崩れの際、遺体が見つかったのは父だけだった。
『キミが約束をちゃんと守ってれば、こんなことにはならなかったのにねぇ』
母がいなくなって以来、陽介は山に入っていない。あの黒いもやのような影を見ることもなくなった。同時に、昨日の病院で見た彼女を思い出した。あれきり、母の姿を見ていない。それはつまり、自分が山に入ったことで何らかの封印が解かれた、そういうことだろう。
そもそも自分が山に入ったのは、あの店で森達が本を万引きし、それを追いかけてのことだった。
「いったい、どうなってるんだよ」
それだけ呟くと、玄関の扉が開いた音で、兄が帰ってきたことを知る。とりあえず、兄に相談してみよう。溜め息を吐くと、陽介は別の意味で痛む頭を抱えて起き上がった。
「ただいま。…と」
兄は、陽介の顔を見て全てを察したのか、訳知り顔で溜め息を吐いた。そのまま、兄はリビングのソファに座る。
「何か言いたそうな顔だな」
(…)
そう言われても、いざとなるとどこから話せばいいのか分からない。
「兄ちゃん、母さんって」
それ以上は言葉にできない。俯いていると、兄は肩を竦めた。
「お前にはちゃんと説明しておいた方がいいかもな」
兄の話は、今まで何も意識せずに生活していた自分には、どこか現実離れしている内容だった。ただ、その話を聞いて今まで不可解だった出来事が腑に落ちたのも事実だった。
その話によると、陽介の家はこの土地の地神を祀っている一族の本家で、あの地震でご神体の鏡が割れた際、巫女の力を持った母が人身御供となったらしい。兄の康太郎は、地震があった際には強すぎる霊力をコントロールするための修行中だったとか。陽介自身のトラブル体質も、生まれつき持っていたその霊力に由来するという。
「ご神体の鏡が割れて砕け散った時、破片がお前の目に入ったらしい。お前が山に入ると倒れたのはそのせいだな。本体が呼んでるんだよ」
そこまで聞いて、背筋がスッと冷える。
(それは、つまり…)
「今回は、母さんが気付いて引き離したみたいだけどな。次はどうなるか分からないぞ」
「…それって、死ぬかもしれない、ってこと?」
「意識は残るかもしれないが、肉体は消えるだろうな」
容赦のない兄の言葉に、思わず拳をきつく握る。
『その約束が何なのか、それが分かったらまたこの店においで』
頭の中に、店主の声が木霊した。その約束が分かったところで、今更何の意味があるというのか。店主の言葉を否定して欲しくて、陽介は言葉を紡ぐ。
「…倒れたとき、夢の中で無窮堂の店主に言われたんだ。『約束が何なのか、分かったらまた来い』って」
「そうか。まぁ、行った方がいいだろうな」
兄から帰ってきたのは、非情な答えだ。そう結論づけると、兄はキッチンへと向かう。もしかして、彼は自分のことを恨んでいるのだろうか。
「兄ちゃん」
「何だ?」
振り返ったその顔からは、特に感情は読み取れない。それでも、聞かずにはいられなかった。
「…俺を、恨んでる?」
「お前を恨んで、それで何になる」
帰ってきたその返事は憮然としたもので、絶対的な響きを持っていた。
「人には『天命』ってモンがある。どうしても避けられない運命のことだ。分家の連中も馬鹿じゃない。それなりの対策は講じているはずだ。どうせ避けられないのなら、無闇に嘆くよりもそれに備えて考え得るだけの準備をしておいたほうがいいからな」
兄の言葉に、彼はもうずっと昔からこの時が来るのを知っていたのだと悟る。
「夕飯は買ってきたから、それを食ったら今日はもう寝ろ。明日、学校は休んでもいいから無窮堂に行ってこいよ」
その決定を覆す言葉を、陽介は持っていなかった。
「あれ。いらっしゃいませ」
次の日の朝は嫌みなくらいの晴天で、無窮堂に行くといつも店で見る女性が店の前の道を箒で掃いていた。陽介を見ると、彼女は手を止め踵を返す。
「ちょっと待ってて。おとうさん、呼んでくるわ」
しばらくして店から出てきた店主は、夢の中と同じ笑みを称えていた。
「やぁ。早かったね。昔話をする必要もないみたいだ」
そう言うと、店主は店の奥へと陽介を促す。そこにいた巫女装束の女性は、一昨日病室でも見た彼女だった。
「母さん…」
記憶の中の母と少しも変わらぬ微笑みを浮かべる母に、陽介は向ける言葉が見つからない。
「ごめんなさいね。貴方に、こんな重荷を背負わせてしまって」
こんな時なのに、彼女は優しく笑う。
「でも、どうか、忘れないで。私は貴方たちが大好きだった。だから、今こうあることに後悔なんてしていないわ」
そう言って、母は陽介に手を伸ばす。その細腕に包まれたと認識した瞬間、視界は消え、同時に母の感触もなくなった。
「!?」
「…あー、ちょっと待ってて。陽介クン。そのまま動かない」
うろたえた次の瞬間、緊張感のない店主の声が聞こえる。両の瞼を誰かの手が覆ったことをその感触で知った。
『分家の連中も馬鹿じゃない。それなりの対策は講じているはずだ』
兄の言葉を思い出し、落ち着こうと息を吸うと、クスリと店主が笑ったのが分かる。
「このままだとキミは失明するけど、お母さんが自分の視力をあげるってさ。良かったね」
(どういう、ことだろう)
「あと、土地神様のところには自分が行くから、キミは大丈夫だ、ってさ」
そこまで聞いて、自分の代わりに母が自分の身代わりを引き受けたのだと言うことを知る。しばらくして店主の手が離れると視界が戻ってくるが、そこに母の姿はなかった。
「…ええと、大丈夫?その、メンタル的に」
そう言われて、自分が泣いていることに初めて気付いた。
「店長」
「ん?」
「俺は、生きてて良かったんでしょうか」
思わず口から零れたその言葉に、店主は肩を竦める。
「それを決めるのはキミじゃない?」
「そう、ですね」
そう答えると、「落ち着くまでいていいから」と言って店主は店に出て行く。残された陽介も、涙が乾く頃に家へと戻った。
あの後、家にいると夕方に貴子がやってきた。
「ヤッホー、陽ちゃん。具合大丈夫?病院行った?…って、ピンピンしてるじゃん」
彼女は俺を見るなり口を尖らせる。
「あーあー。損した。せっかくお見舞いに来たのにさ」
(…)
「言っておくけど、お前が考えてる『看病大作戦』とやらで兄ちゃんは落とせないからな。更に言うなら、料理も兄ちゃんの方がうまい」
「!なんで分かったのよ」
「それくらい、お前の口から聞かなくても分かるだろ」
それだけ言うと、陽介は内心ぎくりとしながら肩を竦める。他人の思考や未来がなんとなく分かるようになっていると気付いたのは、無窮堂からの帰り道だった。
「あ、あと筑前煮のタッパー。そこに置いておいたから」
「悔しいー。陽ちゃんがしっかりしてるー」
これが、母が持っていたという巫女の力だろうか。いずれにしても、いきなり手に入ったこの能力を飼い慣らすにはしばらく時間が必要だろう。そんなことを考えて苦笑すると、玄関の扉が開き、兄が帰ってきた。
「ただいま。貴子、来てたのか」
「康ちゃん、陽ちゃんが何か変。あんなにヘタレだったのに」
「は?」
そう言ってこちらを見た兄と目が合う。兄は、全てを察したかのように笑った。
「まぁ、いいんじゃないか?」
「えー?」
「ところで貴子。今日の夕飯はキーマカレーにするけど、食ってくか?」
「!食べるー。お母さんに電話するから、ちょっと待ってて」
兄の言葉に嬉しそうに微笑むと、貴子はそそくさとスマホを取り出す。相変わらず、騒がしいやつだ。
「じゃあ、ちょっと着替えてくるから、待ってろ」
その言葉と共に部屋を出て行く際、兄は陽介の頭に手を置いた。
『お疲れ』
安堵したようなその声を聞いて、陽介は母は兄も同時に守ったのだと知る。
『私は貴方たちが大好きだった。だから、今こうあることに後悔なんてしていないわ』
母の言葉を、兄にも伝えよう。そう決意して、陽介は兄の背を追った。
<終>




