The curse of the dragon
「ひとつ、昔話をしようか」
そう言って、襤褸のようなローブをまとった男は長い足を組み、がたがたいう木の円卓越しに少年へと身体を乗り出した。長い髪が一筋フードから零れ落ちる。その奥から、鋭い双眸が少年を射抜いた。
「昔々、この国でドラゴンと人との戦争が起こった時の話だ――」
◆ ◆
聖カノエ王国は、神の血を引き奇跡を起こす力を持つという司祭トラムによってひらかれた国だった。この国は国土の実に半分を広大な森に覆われており、その奥深くにドラゴンたちの国を内包していた。人間たちは火や風を操り、姿を自在に変えるという強大な不思議の力を有するドラゴンを畏れ、一方でドラゴンたちも数と武力の上で自分たちを圧倒しうる人間を怖れていた。そこで、初代国王トラムとドラゴンたちの長老ルビアは、建国にあたって双方の不可侵を誓った。その証として、ルビアは時の王、そして次代の王に付き従うよう、二頭のドラゴンを王族に貸し与えた。
これにより、聖カノエ王国は司祭でもある王族によりもたらされる神の奇跡と、彼らに従うドラゴンの力によって数々の戦に勝利し、国土を守り続け、それによりドラゴンたちの国も緑豊かな様相を保ち続けた。王族たちはドラゴンたちとの交流から自然との調和の方法を学び、不思議の力について学び、そしてドラゴンたちもまた、人間との交流を楽しんでいた。
しかし、五百年以上続いたこの取り決めは、ある日唐突に破られることとなった。
とある年老いたドラゴンが、狩場を求めて森のはずれをさまよっていた際、誤って人間の狩人の矢を受けてしまったのだ。予期せぬ事態に混乱に陥ったドラゴンは、近隣の村まで含むあたり一帯を破壊しつくし、身の危険を感じた狩人と兵士たちにより殺されてしまった。数十人の人間と一頭のドラゴンの犠牲を出したこの事件は、不幸な事故では終わらなかった。
ドラゴンたちはこの年老いたドラゴン――マルタという雌竜だった――の最期に憤り、人間たちの村を襲った。一方で人間たちも、この一件でドラゴンの強大な力を目前にし、恐怖にかられたままこれを迎え撃った。たった半日にして、ドラゴンと人間たちの築いてきた和平は崩れ去った。
慌てたのは王城にいたドラゴンと王族たちである。ドラゴンの力の強大さを間近で見てきた彼らは、国家国土の壊滅を恐れ、この争いの仲裁を試みた。それに駆り出されたのは、聡明と名高い第一王子のキーツと、彼に付き従う若い雄竜リド。しかし怒りと恐怖に支配された戦線に彼らの声が届くことはなく、混乱のさなかキーツは負傷、それを庇ったリドもまた重傷を負い、生死不明のまま行方知れずとなった。最早どちらかがどちらかを滅ぼすまで争いは止むまいと、誰もが覚悟を決めた。
「……ひどい有様だな」
荒れ果てた村の様相に、二人の男は顔をしかめた。立ち並ぶ民家は基礎部分から根こそぎ破壊されているものばかりで、おそらくは身分の高い者の屋敷だったであろう大きな建物もかろうじて原型をとどめているといった様子である。念のためといった様子で辺りを探索するが、当然ながら人の気配は全くなかった。二人は顔を見合わせると、何も収穫のなかった村を抜けて再び森の中へと足を踏み入れた。日が傾くまでまだ時間はあるが、とりあえず今夜の野営地を決める。道すがら拾った薪で手早く火を起こすと、薄く切った干し肉を炙る。
「竜の国に近い場所の村は、やはりことごとく破壊されているようだな」
腰まで届く長い白髪を無造作に一つに括って、男は肉にかぶりつく。もうひとりの男はその様子を横目に、ごろりと地面に寝転がった。炎のあかりが、薄曇りの空のような青灰色の髪におちた。
「そうだな。……それに、この辺りは争いの前線にも近い。油断はできないぞ」
長髪の男は重々しく頷くと、指に付いた肉の脂を布で拭って、隣の男に倣うように寝転がる。目を閉じれば、耳の奥に遠い剣戟の音が微かに聞こえる気がした。それを遠ざけるかのように、心地よい声が響く。
「……少し眠れ。この先は、滅多に人が立ち入らない。休める場所もあまりないだろう」
「ありがとう、ルコ」
ゆっくりと息を吐くと、ほどなく意識が暗闇に沈んでいくのを感じた。抗わずにその重さに身を任せる。隣に感じる息遣いさえもがそれを後押しするようだった。
穏やかな眠りは、しかし長くは続かなかった。突如響いた鋭い音に、強制的に意識が浮上する。飛び起きて、傍らに置いていた細身の剣に手を伸ばす。十数歩しか離れていない場所で、誰かと切り結ぶルコの姿が見えた。咄嗟に近くの炎を消すと、辺りは一段と暗くなる。ルコの姿も襲撃者の姿も見失った彼は、手探りで探り当てた太い木の幹を背にして剣を構えた。目が徐々に暗闇に慣れ、物の輪郭が見えてくる。そうして彼は、自分の目の前に暗い色の鎧をまとった知らない男が立っていることに気づいた。その表情の変化に気づいてか、目の前の男がにたりと笑うと剣を振りかざす。寸でのところで受け止めた剣の重さに、彼は思わず膝をついた。
「――キーツ!」
名を呼ばれた男が、驚くべき力で襲撃者の剣を跳ね返す。それに怯むことなく追撃しようとした襲撃者を別の刃が襲う。それを振り払って、襲撃者はルコのほうに向きなおった。
「何故、人間の味方をする。……半端な力しか持たぬはぐれ者め」
そういうや否や、襲撃者の姿は完全に闇に溶けた、ように思えた。そして次の瞬間、黒い鱗に全身を覆われ、大きな翼をもったドラゴンの姿が浮かび上がる。暗闇の中にあっても鈍く光を放つ鱗が波打つのがキーツにも見えた。ドラゴンの目は敏感だ。この暗闇にあっても決して相手を見失わない。明かりを消したのが失策だったと悟ったキーツは、身を翻して木立の中へ駆け込んだ。それを追おうとしたドラゴンの足を、ルコの剣が払う。
「悪いが、お前の相手をしている暇はない。愚かなのはどちらか、全て終わった後でよく考えるんだな」
そういうや否や、ルコもまたキーツとは別方向、木々の密集するほうへと駆け込んだ。巨体が仇となり、すぐに追うことができない黒竜は、低く唸ると人間の姿に変わると森の中へと消えた。
木立の中でキーツに追いついたルコは、小さい声で一言二言呪文を唱えると、掌の上に小さな炎を出現させた。それに気づいたキーツが、逃げる足を止めて振り返る。キーツの長い白髪が、その炎を柔らかく反射してオレンジ色に染まった。
「おい、追ってきていたら明かりは――」
「相手がドラゴンなら、月明かりだけで十分に俺たちを追える。だが、お前には明かりが必要だろう」
そう言うと、ルコはさらに森の奥へと足を向けた。ルコの言い分に納得し、キーツは促されるままに歩き出す。どんどん深くなる森は獣道すらなく、どこへ向かっているのか、彼には全く分からなかった。それでもしばらく歩くと、少し開けた場所に出た。キーツに止まるよう身振りで示すと、ルコは明かりを灯したまま木々の間を抜けて空を仰いだ。しばらくそうしていた後、何も起こらないことを確認してキーツを手招きする。
「とりあえずは助かった……のか?」
「おそらく」
キーツは大きく息を吐きだして、近くの木にもたれかかった。ルコはまだ辺りを警戒する素振りを見せながらも剣を鞘に収めると、ふわふわと浮かぶ炎を消した。
「とりあえずは俺が見張っているから、少し休むといい。日が昇ったら、またすぐ移動だ」
「今すぐでなくていいのか?」
「ドラゴンも獣も、人間よりも夜目が利く。大丈夫だ、追ってきている様子はない」
ルコの言葉に、キーツは体の力を抜く。なんとなく見上げた空にはまだ太陽の気配すら感じられず、言われるがままに目を閉じた。
翌日、日の出とともに出発した二人は、少し離れたところに小さな村があるのを発見した。
「こんなところに村があるなんて、知ってたか?」
「いや。……だが、ただの村ではなさそうだ」
そう言うルコの表情は硬い。それもそのはず、その村では建物には傷一つなく、あたたかな光が灯っている。今まで見てきた村がことごとく破壊されていたことを思えば、奇妙な光景だった。さらに、昨夜の襲撃者のこともある。村から少し離れた場所で一晩様子を見よう、と言い出したのはルコだった。
「怪しくないか?」
警戒するキーツに、ルコは仏頂面で反論する。
「確かに、あの村には何かがある。それは絶対だ。だからこそ、それが何なのか確かめる必要がある。……もしかしたら、何か手掛かりがあるかもしれない」
もっともな意見に、キーツは黙り込んだ。その沈黙を肯定と捉え、ルコは会話を打ち切った。二人はそのまま無言で森を進む。
しかし、いくらもしないうちにルコは突然その足を止めた。ルコの異変に気付いたキーツが、表情を硬くする。
「――囲まれた」
ルコは低く告げると、腰に下げた剣の柄に手をかける。キーツもそれにならいながら、小さな声で問いかける。
「囲まれた?昨日のやつか?」
「違う。人間だ。それも――」
ルコの言葉は、突如飛来した矢によって遮られた。ドラゴンとの闘いのために改良された大弓の矢だ。見覚えのあるそれに、キーツは嫌な予感を覚えた。
矢についで、抜き身の剣を構えた数人の兵士が二人を取り囲んだ。兵士たちは、キーツの予想した通り王国軍の鎧兜に身を包んでいる。剣を構えたルコに「なるべく殺すな」と耳打ちすると、キーツも剣を抜いた。正面から切りかかってきた兵士の剣を受け流し、その横から突き出された切っ先を躱すと、相手の懐に踏み込み鳩尾に剣の柄を押し込む。背後から振り下ろされた剣をルコの剣先が殴り、相手の手から武器が弾かれた。間髪を入れず突っ込んでくる別の兵士に、ルコが振り向きざまに踵を打ちおろした。兵士たちが一歩下がったのを見て、キーツとルコも互いを背にして剣を構えなおす。
「……殺さずは無理じゃないか?」
「だが、彼らは必ずしも敵じゃないだろう」
「果たして、向こうもそう思っているか?」
こそこそと話し合う二人の様子に、兵士たちは警戒と戸惑いの視線を送る。と、徐に兵士たちの中から一人が進み出ると、キーツを凝視した。数秒ののち、はっとしたように体を震わせると、兜を脱ぐ。その下から現れた金髪碧眼の男は、キーツとよく似た面差しをしていた。良く知った相貌に、キーツは思わず声を漏らした。
「……クリフ……?」
「……キーツ兄上」
信じられない、と震える唇が零す。凍り付いたように立ち尽くす弟に、キーツはぎこちなく笑いかけた。
再会の驚愕から我に返ったクリフは、キーツを軍司令部まで連れて帰ろうとしたが、キーツ本人がそれを頑なに拒んだため、それならば供として連れていた十名の兵とともにこの場に残ると宣言した。キーツは渋面を作ってみせたが、これ以上は一歩も引かぬといわんばかりの弟の態度にとうとう根負けした。
「戦線は拮抗しています。ドラゴンは確かに強いが、不死ではない。それに、彼らにも食事や休息が必要ですから、そこを突けばドラゴンを倒すことは十分可能です。現在、我々の部隊とジョルナ将軍率いる部隊が――」
クリフは地図を広げて見せながら、現在の状況について二人に説明を始める。それを半分聞き流して、キーツは地図上に先ほどの奇妙な村を探した。しかし、村があったと思しき場所には何の記載もなく、やはり何かあるとの思いを強くする。それは地図を挟んで反対側に腰を下ろしたルコも同じだったようで、地図から僅かに上げた視線が彼のそれと交差した。
「――という状況なのですが……兄上?」
さすがに話を聞き流しすぎたのか、クリフが話をやめてキーツの顔をのぞき込む。キーツが視線を逸らすと、クリフはため息をついて俯いた。
「……どうして、戻ってきてくれなかったのですか」
静かな声が、キーツを責める。
「あれから三年以上、私たちは多くの犠牲を払いながら戦い続けています。兄上とリドが仲裁に成功していれば、という声もまだ聞かれます。……そうだ、リドはどうしたのです?それにその髪、あの綺麗な金髪が真っ白に……三年前、いったい何が――」
「すまない」
堰を切ったように問い詰める声を遮り、キーツは立ち上がった。その腕を掴んでクリフも立ち上がると、キーツの正面に回り込む。
「兄上」
「……すまない」
硬い面持ちでただそれだけを繰り返す兄に、クリフはこれ見よがしにため息をついてみせた。
「――兄上は、いつも秘密主義ですね」
「……すまない」
「それしか言えなくなったんですか」
「……今、私から言えることは何もない」
掴まれた腕を振りほどいて背を向けたキーツに、クリフが平坦な声を投げかける。
「戻るつもりは、ないんですか」
キーツはそれには答えず、一歩足を進める。クリフの声が上ずった。
「――この国を見捨てるのですか!?」
キーツの足が止まる。
「……違う。私は……」
続ける言葉が見つからず、キーツは拳を握りしめた。近寄ろうとするクリフの気配を押しとどめるように、ゆっくりと振り向く。
「私は……この争いを止めなければならない。そのためにも、決着を付けなければいけないんだ。私と、リドのために。だから今は――」
「戻らない、と?――そんな、勝手すぎる」
「そうだな」
「どれだけ――どれだけ私が、父上が、兵や民たちが、あなたを信じて待っていたと思って……!」
「すまない。……だが、すべてにケリがついたら、必ず城へ戻る。その時には、何があったのか洗いざらい打ち明けよう」
「……わかりました。今兄上を連れ戻すのは諦めます。代わりといっては何ですが……お願いします。せめて私だけでも一緒に連れて行ってください」
真っ直ぐなクリフの言葉に、キーツは目を伏せる。
「それは――できない」
「何故ですか」
噛みつかんばかりのクリフをなだめるように浮かべた笑みが、一瞬だけ歪んだかと思うと、キーツの顔からふっと表情が書き消えた。
「もし私に万が一のことがあったら、お前にこの国を背負ってもらわなければならないからな」
抑揚のない声でそれだけ言うと、キーツは今度こそ踵を返してクリフのもとを去った。絶句し、その背を追うどころか指一本動かすこともできなかったクリフを追い越して、ルコがその隣に並んだ。野営地の明かりの外、暗闇の中へ二つの影が消えると、辺りには痛いくらいの静寂があるばかりだった。
「いいのか」
短く問いかけるルコをキーツは黙殺した。忘れかけていた懐かしい顔に、心がざわざわと波立っていた。そっと右胸に触れると、その幻影を無理やり振り払う。
「……いいんだ。私には今、これ以上に優先することなどない。……それにしても、不用心じゃないか?」
二人は先ほど見かけた謎の村を再び訪れていた。村の入口の門は開かれており無人で、見張りがいると思っていたキーツは拍子抜けて思わず辺りを見回した。どこにも人の姿がないことを確認すると、次は声を張り上げる。
「すみません!どなたかいらっしゃいませんか!?」
その声にも応えはなく、キーツは背後のルコを振り返る。
「入ろう」
ルコは戸惑うキーツを置いてさっさと入口の門をくぐった。キーツはまだ辺りを見回しながら後に続く。それでも人影一つ見ないまま、村の中心にある大きな館にたどり着いた。閉ざされた館の門をノックしようとした時、門は内側から開かれた。
そこに立っていたのは、ひとりの少女だった。
その姿を見て、ルコが目を瞠る。少女はそれを気にもせずにほほ笑むと、無言で二人を館の中へと誘った。どこか得体のしれない少女に二の足を踏んだキーツだったが、迷わず彼女についていったルコの後を追うように館へと足を踏み入れた。
少女に案内された応接間はだだっ広く、誰もいなかった。てっきり館の主人がいるものと思っていたキーツはちらりとルコの表情を覗き見る。しかし、ルコは少女のほうを見るばかりで、そのほかのことはまるで目に入っていないようだった。その少女はというと、二人をソファに案内すると、自分は奥の椅子にゆったりと腰かけた。
しばしの沈黙。
静寂を破ったのは、まだ子供のような幼さを残した高い声だった。
「私はシーナ。この村は、私の保護下にある」
まだ成人してもいないような少女のものとは思えない台詞には、何故か強い説得力があった。それだけの何かを、彼女は持っているということだろうかと考えながら、戸惑いと、少しの警戒ともにキーツは少女を見つめた。少女は全く動じずにキーツを見返す。その凪いだ瞳に、キーツは背筋が震えるのを感じた。
「貴方たちは誰で、何の目的でこの地に近づいたの?」
「……私はエリス、この男はルコだ。私たちの目的……とは?」
「戦線を潜り抜けて殺される危険を冒してまで、あえて竜の国に人間が近づく目的は何?」
端的に言い表された言葉に、キーツが口をつぐむ。その隣で、未だ少女を凝視しているルコが口を開いた。
「――ドラゴンが、人間たちを襲っている理由を探している」
キーツが弾かれたようにルコを見て、それからシーナの様子を窺った。少女は笑みを消し、ルコとキーツの次の言葉を待っていた。それ以上説明する気がなさそうなルコを、少女から見えない位置で小突く。ルコは少しだけ顔を傾けると、キーツの耳元に「信頼していい」と一言だけ吹き込むと、だんまりを決め込んだ。キーツはルコを一睨みすると口を開いた。
「とある人から、ただ一人のドラゴンが殺されただけでこのような事態になるはずがない、という話を聞いた。ドラゴンたちの怒りには、何か他の原因があるはずだと。……たとえば、何かに操られている、とか。その話が本当なら、彼らの怒りを解く方法があるはずだ。私たちはそれを探して、竜の国に行く方法を探している」
シーナはキーツを見据えた。冷たく鋭い光が彼を射抜く。
「私は、嘘をつく人間は信用しないわ。……でも、そうね。その目的に免じて、今回は見逃してあげる」
そう言うと、シーナは椅子から立ち上がり、二人の間に割って入るように座った。大の男二人に挟まれた少女の姿は一層小さく見える。
「ドラゴンたちの怒りは、マルタの呪いよ」
「呪い?」
鸚鵡返しに問いかけるキーツの言葉に頷いて、少女は言葉を続ける。
「そう。人間が憎い、と……人間を許すなという、呪い。国に属するドラゴンたちは、意識と無意識のさらにその奥、精神の最深部で繋がりをもっているの。死の淵にあって人間を呪った彼女の意識が、最奥の繋がりを辿ってドラゴンたちの心に根付き、増幅され、それが彼らを人間の殺戮に駆り立てている」
「それが……呪い」
「ええ」
それから、シーナはルコを一瞥すると、ひとつため息をついた。
「例外は、国から離れた王城のドラゴンと、同胞にも人間にも馴染めずに国を離れたドラゴンたち。表立った動きはないけれど、中立を貫いているはず」
「では、彼らを人間の味方につけることは」
「不可能ではないけれど、それをしたところで解決にはならないわ。むしろ、力が本当に拮抗して勝敗がつかなくなる」
「……では、ドラゴンたちの呪いを解く方法は?」
シーナは二人の顔を交互に見ると、重々しく告げた。
「確実とは言えないけれど……マルタの亡骸を見つけて、呪いの意識を消すことができれば、あるいは解けるかもしれない」
「だが、彼女は……」
「そう。彼女の死に場所は誰も知らない。それに、彼女は最後に自分の姿を不思議の力で隠していると思う。……けれど、この呪いを根本から消そうとするならば……」
最後まで言わずに黙り込んだ少女に、両隣からの視線が刺さる。それを振り切るようにシーナは立ち上がると、二人に少し休んでいくといいと告げた。
どこからか現れた少年の案内で、広い客室に案内される。壁際に並んだベッドのひとつに身を投げて、キーツは思い切り伸びをした。
「久しぶりのベッドだ。気持ちがいい。……それにしても、彼女は何者なんだ?」
ルコは脱いだ上着だけをキーツがいる隣のベッドに放ると、何でもないかのように言った。
「ああ、俺もまさかこんなところに人間じゃない存在が治める村があるとは思わなかった」
「は?」
予想外の言葉にキーツは凍り付いた。
「気づかなかったか?お前の名前を呼ばなかっただろう。不思議の力をもつものたちにとって、名前はそのまま力だ。真の名を口にすれば相手を支配することもできるし、偽りの名前を口にすれば、相手をその偽りで縛ることになる。だから、強い力をもつものほど、簡単に名前を口にすることはできないんだ。偽名なら尚更な。彼女がその気になれば、俺もお前も一瞬で消し炭だ。何を警戒していたのか知らないが、お前が偽名の名乗った時にはヒヤッとした。寛大な心の持ち主でよかったな」
「……彼女は、ドラゴンなのか?」
恐る恐る問いかけるキーツに、ルコは緩く首を振る。
「いや。彼女は、ドラゴンよりももっと古い……原始の精霊につらなるものだな。存在は知っていたが、俺も実際に会うのは初めてだ。精霊たちの力は、ドラゴンの不思議の力よりもずっと世界の源に近く強大だ。だからこそ、この村を守ってこれたんだろうし、呪いについての話も信用できる」
ルコの言葉に、キーツは強く掌を握りこむ。ようやく見えた活路に、ここまでの長い旅は無駄ではなかったのだと思った。握った拳を右胸に当てる。服越しの硬い感触に、目を閉じれば緑の光がちらつく。息をつぐために開けた唇が、抑えきれず震えた。それを横目で見ながら、ルコは平坦な声で続けた。
「だが、まだ問題は山積みだ。休めるうちに体を休めておけ」
「お前、この間からそればっかり言ってないか?」
呆れたようにキーツが零せば、ルコは渋面を作ってため息をつく。
「……元通りのように見えても、無理やり繋いでいる身体だ。しかも、かなりの時間が経っている。少しでも無理をすれば、一気に崩れかねない」
その言葉に、キーツは動きを止める。無言で寝返りを打つと、ルコに背を向ける。黙り込んだ背中に、とりあえず休めとだけ声をかけると、ルコもキーツに背を向ける向きでベッドに横たわった。
久しぶりのベッドは居心地がよく、キーツは翌朝日が昇り切るまで泥のように眠った。キーツが目を覚ました時には、ルコは既に出発の準備を終えてゆっくりと昼食をとっていた。キーツが慌てて身支度を整えていると、部屋のドアがノックもなしに突然開けられた。ちょうどシャツを羽織るところだったキーツが慌てて扉に背を向ける。
ドアを開けたのはシーナだった。ルコの怪訝そうな視線をまっすぐ見つめ返し、口を開く。
「その様子だと、もう出発するのね」
「ああ」
ただ頷いたルコに咎めるような視線を送り、上着までしっかりと着込んだキーツがシーナに向き直ると頭を下げた。
「色々と世話になった。礼を言う。久しぶりにゆっくりと身体を休めることもできた」
「おそらくこの先は、今までよりもずっと危険と隣り合わせになるはず。……呪いを解く直接の手助けはできないけれど、貴方たちを竜の国の近くまで送るわ」
願ってもいない申し出に、二人は思わず言葉に詰まる。シーナはわざとらしくため息をつくと、悔し気に告げる。
「……そろそろ、私一人でこの村を守るのは限界。我を忘れたドラゴンたちの破壊は度を越している。私が手を貸せるのは、この一度きり。無駄にしないで」
「ありがとう。――必ず」
二人が頷くと、シーナはゆっくりと目を閉じる。その唇が微かに動くのを見届ける前に、視界が白く染まり、気づいた時には二人は深い森の中にいた。
その森の中に、見慣れない色を見つけたのはルコだった。
近づいてみると、石造りの小さな建物がある。人のいた痕跡はなかったが、あまり痛んでいないところを見ると、この争いが始まるまでは普通に使われていたのだろうと推測された。寝台のある小さな部屋がいくつかと、大きな広間がひとつ。その広間にあるものを見て、キーツの目の色が変わった。
「……祭壇だ」
「祭壇?」
キーツは緊張した面持ちで頷く。石造りの祭壇はひやりと冷たく、ざらりとした感触がしばらく使われていないことを伝えてくる。キーツが城でよく目にしていた祭壇と形は似ているが、倍近くの大きさがある。
「ここは、ドラゴンの国に近い場所だったな」
「そうだ」
「それなら……おそらくは、ドラゴンたちと親交のあった司祭たちの使っていた教会……」
何かの手掛かりはないかと見分を始めたキーツの後ろで、なんとなく天井を見上げたルコが眉を寄せる。
「……何かあるな」
その言葉に振り返ったキーツが彼の視線の先を追う。しかし、彼の目には何の変哲もない天井が映るのみだった。ドラゴンと人が手を取り合う宗教画は、ドラゴンの国に近い地域ではよくみられるありふれたものだ。
「何があるって?」
「いや、絵そのものじゃない。……この教会に何かありそうだ」
その言葉尻に被せるように、大きな破壊音が響く。見上げていた天井に、無数の細かい日々が入ったかと思うと、破片となって降り注ぐ。土煙の向こうに、暗闇色の翼がちらりと見えた。
「あいつ、いつかの……!」
ルコの目に苛烈さが宿る。キーツが止める間もなく、教会の外へと駆けて行ったその背を追いかけると、人間の姿をとり黒い鎧を身に着けた黒竜とルコの剣が交わる鋭い音が響いた。黒竜は大ぶりな両手剣を、全く重さを感じさせない動きで無造作に振り下ろす。それを受け流したルコは、そのままの勢いで相手の懐に飛び込むと相手の腹を薙いだ。しかし寸でのところで飛び退った黒竜は、ルコから二歩距離を取ると剣を構えなおした。その一瞬でルコも体勢を立て直す。両者の力が拮抗していると見て取ったキーツは、近寄る足を止めた。
しかしその時、キーツの目に奇妙な光景が映った。
黒竜の鎧から、黒い靄のようなものが漂い出てルコの体に触れる。すると、ルコは苦し気に唸るとその場に膝をついた。呪い、の二文字が頭をよぎり、思わず駆け寄ろうとしたキーツと黒竜の目が合う。次の瞬間、キーツは右胸が燃えるように熱くなるのを感じて顔をしかめた。キーツに視線を向けた黒竜の背後から、ルコが切りかかる。その攻撃を軽々といなすと、黒竜は本来の姿に戻って空に舞い上がった。
その竜の口が大きく開く。次の瞬間、耐え難い熱と光に包まれてキーツは意識を失った。
――熱い。
キーツは胸のあたりが熱くなるのを感じて目を覚ました。ゆっくりと覚醒し始める意識が、どうしようもなく気持ちを急き立てる。
はやく、はやく。
キーツは、執拗に熱さを訴える自分の右胸にそっと触れた。もはや慣れてしまった、皮膚とは違う硬い感触。まるで緑の宝石のような――ドラゴンの鱗に覆われた右胸。いつもは体温と同じあたたかさを持つそれは、今は燃えるように熱かった。
ちらりと目をやると、少し離れたところで眠るルコが顔をしかめて身を捩っている。ひどくうなされているようだ。そろりそろりと近づいて、顔をのぞき込む。すると、自分の右腕がルコの掌を握り、熱く燃える緑の鱗に触れさせた。その熱がルコに移っていくのを感じながら、キーツは我知らず熱い息を吐いた。
「……リド、お前はわかるのか。――私を連れて行ってくれるのか」
答えるように、身体の奥でどくりと拍動する気配を感じる。
呪いの根源が近いのだ。
落ち着いたのか、くたりと力の抜けたルコの手を、今度は自分の額に押し当てて、キーツは祈るように目を閉じた。
「――ありがとう、ルコ。……あの絶望のなかから拾い上げてくれたお前は、私の全てだった。……私たちの、全てだった」
あの時。ドラゴンと人間、双方の攻撃を受けて重傷を負ったキーツ。キーツを乗せてなんとか戦線を離れたリドも満身創痍で、飛ぶことすらままならず、前線から離れた森の奥、少し開けた場所に墜落するように叩きつけられた。
「リド、リド……!」
『……キーツ……逃げろ……』
血にぐっしょりと濡れ、痛みに喘ぐ体を叱咤してドラゴンの背から降りる。幼い頃から一緒だった、綺麗な緑の翼をもつ友だち。唯一、自分だけは名前で呼んでくれる彼の声は、低く、深く響き威厳に満ちている。けれど今は、聴いたこともないようにか細く、必死な声だった。その吐息のひとつひとつに、ドラゴンの身体の奥に息づく生命の火が抜けていくのを感じる。
「……いやだ」
小さく響いた声に、ドラゴンは閉じかけていた瞳を再度押し上げる。
『追ってきていたら……真っ先に……私に目が……いく、はず……。ひとりで、行け……』
「……リド」
『やはり、あのドラゴンたちは何かおかしい。あの怒りよう……何か理由があるはずだ……っ!』
リドが苦痛に目を閉じる。キーツは呆けたようにその様子を見て、動けない。
『その理由を見つけろ。そうすれば……こんな、争い……』
「いやだ、リド……リドも一緒に……」
『この体では……もうどうせ助からない。……ひとりに、して……すまない……』
「いやだ……いやだ、いやだ、リド……絶対、……っ、絶対、諦めてなんかやらない――」
リドの体に手を当て、弱弱しい拍動を感じながら、目を閉じる。気休めだとはわかっていた。彼らは人間の理で縛ることはできない。それでも。もし、本当に自分が奇跡を起こす力をもっているというならば。
どうか、彼に救いを、祝福を、生命の灯を再び。
不意に、びくりとリドの体が震える。僅かに持ち上がった頭が空を仰ぎ、何かを見つけて目を見開いた。気づいたキーツがその視線を辿る。
薄曇りの空に溶ける、青灰色の翼。
新たなドラゴンの出現に、キーツは覚悟したように目を瞑り、せめてとリドに身を寄せる。しかし、新手のドラゴンは空からその様子を眺めるだけで、攻撃してくる様子がなかった。
「……襲ってこないのか」
『俺が襲わなくても、どうせじきに死ぬ。ふたりとも』
その言葉に、キーツは体からどっと力が抜けるのを感じた。キーツ自身も、血を失いすぎた。あといくらかも経たないうちに、動くことはおろか意識を保つことも難しくなるだろう。
『……力を、貸してほしい』
聞き慣れた声に、キーツははっと顔を上げた。少しだけ頭をもたげ、リドが青灰色のドラゴンを見つめていた。
『……私の体で……彼の傷を塞いでくれ……』
『何のために?』
冷たくそっけない言葉にも、リドは言葉を止めなかった。
『……正直に言えば、私のため、だな……』
あまりの言葉に、キーツは言葉を失った。しかし、ドラゴンは興味を引かれたようだった。それを感じ取ってか、リドは言葉を続ける。
『……頼む。……こんなところで、ふたりそろって死ぬ……わけには……』
唐突に言葉を切って、リドが頭を地面に横たえる。キーツは感覚のなくなりかけている右腕を引きずって、その傍らまで這って行くと片腕で抱き着いた。
「リド……!」
その時、聞こえてきた耳慣れない言葉に、キーツはゆっくりとドラゴンを振り返る。次の瞬間、何かあたたかいものが体の内に流れ込んでくるのを感じて、目の前が暗くなっていった。
『……キーツ』
低く心地の良い声が、聞こえた気がした。
『どうか、忘れないでほしい。――私も、お前とともに在ろう』
いつも側で聞こえていたその低い声に、忘れるものかと返したかったけれど、どうしてか体が動かなかった。
それからのことは、よく覚えていない。気が付いた時には、知らない場所に――しかもうっそうと茂る湿った木立に――無造作に寝かされており、傍らには見覚えのない男が座っていた。誰何しようとして、特徴的な青灰色の髪に目を止めた。
「……あの時の、ドラゴンか」
「ルコだ」
「私は――どうなったんだ?」
「あんたのドラゴンの頼み通りだ。あいつの力と身体を繋ぎにして、命を留め置いた、ってところか」
右胸を覆うのは、リドと同じ綺麗な緑色の鱗。それが不意に拍動したように感じて、幻のように聞こえた言葉が蘇る。
『私も、お前とともに在ろう』
慣れた温かさを感じる右胸にそっと触れて、キーツは瞑目した。
随分と長く過去に浸っていたことに気づき、キーツは苦笑する。あれから三年あまり、特に何を言うでもなく自分についてきてくれた目の前の存在を惜しむように、指先にくちづける。
それから、まだ熱さを訴え続ける右胸に背を押されるように立ち上がると、昼間の教会へと向かった。
教会に近づくにつれて、ドラゴンの鱗の熱さが増していく。建物に入るころには、鈍い痛みまでをも訴えだした体に鞭打って、キーツは昼間訪れた広間へと向かった。どこに向かうのか、どうすればいいのか、表層に上がらない意識のさらに下で、彼は確かに知っていた。
暗い広間に、月の光が差し込んで祭壇を照らしている。吸い寄せられるようにその祭壇の前まで行くと、そこに膝をついて両手を組んだ。正式な祈りの型だ。
薄い唇が、ひとりでに言葉を紡ぐ。
「神よ。あなたの息子の言葉を天に届け給え。ここに眠るは憎悪に囚われ人の世に悪を為すもの。どうかその憎しみを取り除き給え」
僅かな光に落ちた長いまつ毛の影の上を、一粒の雫が転がる。音もなく緑の鱗の上まで滑りゆくそれに気づくことなく、組んだ手をほどくと立ち上がって腰の剣を抜く。細い切っ先は、己の左手首に沿わせられた。表情一つ変えずに剣を滑らせると、鮮やかな赤色が祭壇に散った。
次の瞬間、その赤が寄り集まって何かの形を作り、――外側へと爆発した。思わずキーツは目を瞑る。再び目を開いた時、目の前には土色の翼のドラゴンが目を閉じて横たわっていた。翼には幾本もの矢が刺さり、背から首にかけて深い傷が癒えぬままにじくじくと血を流していた。キーツは未だ滴る血をそのままに、首の傷に触れた。自分の知らない言葉が、よく知った声で零れ落ちるのを聞きながら、キーツは再度瞑目した。その瞼の裏で、白と緑の光が眩く散った。
キーツの不在に気づいたルコが向かった教会で目にしたのは、緑に覆われた祭壇に横たわるドラゴンと、その体に突き立った細身の剣に蔦を絡ませて咲く一輪の白い花だった。ルコは祭壇の前に膝を折る。その次の瞬間、青年の姿は溶けるように消え、青灰色の鱗を鈍く光らせて首を垂れるドラゴンの姿が現れる。
教会の石畳の床にあたたかな雫がひとつ沁み込む音だけが、静かに空気を震わせた。
◆ ◆
長い物語を語り終え、フードの男は長い溜息をついた。聞いていた少年は、いつの間にか握りしめていた両手をぎこちなく開くと、躊躇いがちに声を上げた。
「あ、あの」
男は気だるげに少年に視線を向ける。
「どうして、この話を僕に……?」
「……さてね。どうしてだと思う?」
男はうっそりとほほ笑むと、ことりと首を傾げた。長い青灰色の髪がまた一筋、フードから零れ落ちるのを、少年の瞳が追った。
後日、少年が父であるところの聖カノエ王国現国王にこの話をした結果、「ああ、またあの人昔の冒険譚を自慢しに来たの?もうそんな遠い昔のご先祖様なんて、直接知ってる人はいないっていうのにねえ」とあきれ顔で言われ、膝から崩れ落ちることになるのだが、それはまた別の話である。




