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夏巡り、遷ろう

−−−ひとつ、昔話をしましょうか

 その(ひと)は囁くように切り出した。

 気だるい夏の夜。息苦しさを感じる暑さと湿気。

 周囲に人の気配はなく、捻れながら枝葉を伸ばす木々が在るばかり。自然の天蓋の切れ目を(うかが)って月光が落ちてくる。

 少し歩みを進めれば足が浸る距離に池の(はた)がある。漆のように黒く艶やかな水面(みなも)が霞んだ月光をゆるく反射している。

 あちらこちらと視線をさまよわせる。飽くまで水を含んだ空気に絡め取られ、先ほどの言葉はいつまでも頭上に浮遊していた。だが、そこに続く言葉はない。沈黙に耐えかねて声の主へと顔を向ける。

 その(ひと)は微動だにせずこちらを見つめていた。沈黙を埋める言葉を探したが、頭の中は自らを取り巻く環境のように濁っていた。

 堪えかねて視線を前方に戻す。小さな池を挟んだ向かいには、呆れる程に沢山の花をつけた大樹があった。

 初めて目にする樹だった。白茶色の幹はどっしりと根をはり、高さを増すにつれて四方八方へとその腕を伸ばしていく。大振りな葉が密集していて、その末端は確認できない。枝葉の合間からは、鈴なりに花と蕾が垂れ下がっている。ありふれた幹や葉と似つかわしくない豪奢な姿は、別種の蔓性植物をぶら下げたかのようだった。

 無数にある花の形状自体も不思議だった。白い花弁が囲む中心部からは、無数の桃色のおしべが細い線を引いたように広がる。一つ一つが花火の爆ぜる瞬間を留めたが如き華々しさ。蕾が(ほぐ)れ、今まさに顔を出した花たちは、月の光を全身に受けながら、存在を知らしめるべく濃密で甘い香りを漂わせていた。

 危うさを孕んだ存在だと思った。これは人を陶酔させる。

 思考がそこに至って、初めて見たこの木に抱いた既視感の根元に思い当たった。再び隣に目を遣る。

 この(ひと)に似ているのだ。

 そんな視線に気づくことなく、咲きほこる花たちを見つめている。その目が僅かに見開かれる。

 何事かと視線の先を追う。

 ちょうど開ききった花がひとつ、ぽとりと水面に落ちた。

 音もなく、波紋が広がっていく。


  ○


 その知らせを受け取ったのは、梅雨明けを待つ初夏のことだった。

 両親がそれぞれに忙しく身支度をしている朝の時間。テレビからは午後からの雨模様を心配そうに伝えるキャスターの声が流れていた。変わりなく続く日常。

 それをぶつりと分断する電話の音が鳴り響いた。

 単音で構成された無機質なメロディ。今時、固定電話への電話なんて滅多にない。半ば置物になっていた電話が鳴ったことで、緊張感のような、恐れのような、言いようのない心地の悪さがした。

 両親も同じだったようで慌ただしい動きが止まった。ちょうど電話の近くにいた母に視線が集まる。

「もしもし」

 電話をとった母がよそ行きの声色で応える。そのまま相槌を挟みながら簡単な言葉を交わす。内容はわからないが会話が続いていることから間違い電話ではなかったらしい。

 しばしのやりとりの後、受話器を置いた母がわたしに告げた一言。それは内容に対してひどくさっぱりとしていた。

(れい)。おじいさん、亡くなったって」


 朝の慌ただしさは別種のものに変わった。両親はそれぞれ職場へと連絡を入れ、順繰りに親族に電話をかけてゆく。祖父の死は繰り返し電話口で伝えられる。本日の天野家の速報ニュースだ。

 世界とわたしの間に薄皮が一枚できてしまったようだった。バイト先に連絡を入れただけで早々にすることがなくなったわたしに、母から苛立ちを滲ませた声がかかる。

「澪、時間あるなら(つかさ)に連絡してくれない?」

 片手でスマホを操作し、次の電話をかけながら母が言う。

 わたしは言われた通りに、既に高校に向かっていた弟の司へと電話をかける。

「なに?」

 数コールの後に聞こえてきたのは、無愛想な司の声。

「…おじいさんが亡くなったって」

 わたしはその言葉を伝えるべき温度感がわからず、努めて静かな声で伝える。

「マジで? こないだの休みに会ったとき、じいちゃんピンピンしてたのに…」

「いや、そっちじゃなくて、お父さんのほうの」

 電話越しの雑踏が大きくなった。司の頭が記憶を遡っている時間。予想されていた反応だった。

「あぁ…。とりあえず、あと少しで高校着くから直接担任に話しとく」

「ありがと」

「あと、父さんか母さんに後からちゃんと学校に連絡入れるよう言っといてくれない? サボりと思われたら困るから」

「わかった、言っておく」

 電話越しに聞く弟の声は、別人のように大人びて感じられた。


 祖父は自由という言葉がよく似合う人だった。

 祖母にあたる人とは若い頃に離婚しており、男手一つで父を育て上げた。元々の気質が何者にも囚われたくない人だったのだろう。父が社会人になると、これでお役目御免とばかりに、一人で悠々自適な暮らしを始めた。それから仲が悪いわけではないが、不必要に関わり合うこともない関係が続いていた。

 そんな状況での知らせだったので、みな悲しみに暮れている様子はなかった。天野家でおじいちゃんといえば、母方の祖父のこと。弟の司の反応も仕方ないものだった。

 後から聞いたところでは、母がとった電話はわたしたちが暮らす家から遙か南、離島の病院からだったそうだ。

 急性の心臓発作に襲われた祖父は、なんとか自らで救急車を呼んだ。しかし、近くに民家がない辺鄙な場所に暮らしていたため、救急車の到着までには時間がかかりすぎた。運び込まれた時には既に手遅れの状態だった。

 親族でさえ関わりの薄かった祖父が、離島暮らしで近所との付き合いをやっていたはずもなく、病院は祖父の携帯に登録されていたうちの電話にかけてくれたのだった。

 葬儀は身近な親族だけで形式的に執り行われた。参列した誰もが数年以上祖父と会っておらず、祖父の死に対する感情は均一に平坦なものだった。親族の間で交わされる祖父の話は、これまで幾度か聞いた過去の話ばかりだった。


 葬儀の薄墨のような気配も、あっという間に消え去った週末の夜。

 夕飯の席で父が切り出した。

「じいさんの家なんだが、」

 箸を持つ皆の手の動きが止まる。

「地元のかたに貸してもらって暮らしていたようで、近いうちに片付けにいかないといけない」

「片付けにって簡単に言うけれど、ここから遠いでしょ」

 母が眉をひそめる。

 手元で素早くスマホで検索した司が応える。

「直航便もないし、行くだけで丸一日はつぶれるね」

 それは父も想定内だったようで話を続ける。

「そう。だから一日しか片付けに時間が割けそうにないんだ」

 父は仕事が忙しく、休みの調整がつけづらいのはわかりきっていた。既に祖父の葬儀で数日間仕事を空けたたこともあり、さらに休暇を取るのは難しいだろう。

「先行して片付けておいてほしいってことだろうけど、オレは部活あるから」

 司が先手を打つ。平日は夜遅くまで、休日も大半を部活に注いでいるのは、家族の皆が知るところだ。とはいえ、物怖じせずに思ったことを口に出せる性格をわたしは羨ましく思う。

「しかも、おじいさんのことよく知らないし」

 小さな声で付け足す。司が物心つく頃には祖父の存在は我が家から消え始めていた。

「私も仕事があるもの」

 母が追従する。主婦業よりも仕事を好む母は、二人の子供が無事成長したのを機に、元いた職場へと舞い戻っていた。ブランクがなかったように前線で働いているようだ。こうして皆で母の手料理を囲む食卓も久しぶりのことである。

 自然と家族の中でわたしに対して暗黙の流れが生まれる。

「離島が好きって前言ってたし、姉ちゃん行ってきなよ」

 司が口火を切る。

「リゾートでのんびりしたいとは思ってるけど、離島が好きだなんて(・・・・・・)言ってない(・・・・・)

「大学はもう夏休みなんでしょう。あとでみんなも行くから」

 母が司に加勢する。確かに大学は夏休みに入っていて、緩いバイトくらいしかすることもない。皆と違う時間の流れで暮らしていることは薄々感づかれている。

「週末になれば行けるから、そこで合流しよう」

 父も話を進める。取り囲まれていくわたしの立場。でも、この歳になって意地を張るのはよっぽど哀れだ。

「何を片付けたらいいの?」

「身の回りのものは父さんが行った時に判断するからいいんだが、絵をどうしよかと思ってなあ。じいちゃんが趣味で描いていたの澪も知ってるよな?」

 小学校に入る頃だっただろうか。ふらりと我が家にやってきた時、ぐずっていたわたしに絵を描いてくれた。

 きっと大した絵でもなくスケッチ程度だったはずだ。でも、祖父がさらりと描いてみせたそのスケッチにわたしはびっくりした。真っ白な画用紙に一瞬で生み出される世界。魔法のようなその所作が、祖父の思い出として強く残っていた。

「わかった。先に行って見ておく」

 皆、結論に安心した様子で食事を再開する。

 祖父が残してくれたあの絵はどこにいっただろう。

 わたしはそればかり気になって、その日はいつも以上に夕食を終えるのが遅くなった。


  ○


 小さなプロペラ機で到着した島は、降り立った瞬間から南国の空気がした。湿り気を帯びた風が棕梠(しゅろ)の木を揺らしている。

 空港でタクシーをつかまえ、祖父が暮らしていた住所を告げる。紺碧の空と澄み渡った空ばかりが窓の外を流れていく。

 他に車通りのない山道を進む。到着した祖父の住まいは平屋建ての小屋だった。前もって知っていなければ、地元の人ですら入り込むことはないだろう。

 父から聞いた話では、この小屋は元々この一帯の森を管理するために建てられたらしい。しかし、土地の所有者が歳をとって定期的な管理が難しくなり、長いこと無人のまま放って置かれていた。それに目をつけた祖父が貸してもらえるよう話をつけ、人が住めるように整備したとのことだった。

 タクシーの運転手へ夕方に再び迎えにきてくれるようお願いして、わたしは小屋の前に降り立った。背後でエンジン音が木々の向こうに遠ざかっていった。

 ドアの前は草が抜かれ土が見えているが、タクシーがなんとか停まれたほどの広さで、その先は森と一体となっている。見渡す限り緑しか目に入らない。

 急にぽつりと一人取り残された心地になった。

 わたしは小屋のドアを開ける。ドアは軋むことなくすんなりと開いた。

 内部は区分けされてない一つの部屋だった。視界を遮る仕切りがない分、外から見た印象よりも広く感じられる。画材の放つ油分を含んだ匂いが鼻にまとわりついた。

 部屋の右手には水道とガスコンロがあり、冷蔵庫も置いてある。近くには食卓だったであろう小さな丸テーブルと椅子が一脚、寂しく佇んでいる。

 正面には壁に沿って置かれたベッド。さらに左手に目をやるとイーゼルとキャンバス、小さな三つ足のスツールがある。近くに腰ほどの高さの棚があり、筆や絵具などが整頓され入れられていた。小屋唯一の窓も左手の壁にあった。

 靴を脱ぎ、窓辺へ向かう。まずは停滞している空気を外へ逃したかった。部屋を進むと黴びた匂いが微かに鼻についた。

 カーテンを開け、窓を目一杯に開く。湿った熱風がかたまりとなって入り込んでくる。青々しい草木の匂いで、室内の空気はあっという間に塗りつぶされた。

 わたしは光が射した部屋の中を改めて見渡す。キャンバスに置かれた絵は制作途中で取り残されたままだった。まだ描かれていない部分が多く、外光を白く反射している。

 ふと、画材を入れた棚の天板に折りたたまれた画用紙が置かれているのに気づいた。

 祖父の描いた絵だろうか。気になって開いてみる。目に飛び込んできたのは、予想外のものだった。

 クレヨンの太い線で描かれた絵。不恰好な丸と線で構成されているけれども、何を描いているかはわかる。人の顔だ。

 誰の顔かは絵の右上に、不揃いながら力強く書かれていた。

『おじいちゃんへ』

 そして、右下には少し書き慣れた文字。

『れい』

 どうやらわたしが描いた祖父の似顔絵らしい。いつ描いたものだろうか。幼い頃の記憶を辿る。かなり昔なのは間違いない。そもそも何故ここに置かれているのだろう。

 汗が頬を伝って我に返る。図らずも考え込んでしまっていた。強烈な日光は窓を通って容赦なく部屋の中まで射し込んできていた。

 窓際から離れようしたところで、外で何かが動いた。見遣ると先程タクシーでやってきた細い道に人影が立っていた。

 距離はあったが白いロング丈のワンピースから女性だとわかる。祖父の住まいまで続く一本道だ。他に向かうわけではないだろう。

 親族すら誰も気に留めていなかった祖父。わざわざ訪ねてくる女性に少し興味がわいた。

 わたしは小屋を出て女性のもとへ向かう。近づいてみると、予想していたよりも数段若い。祖父を訪ねてくることから妙齢の女性を想像していたが、澪とそこまで大きく変わらない。

 より驚かされたのは、その容姿だった。ほっそりとした手足にきめ細やかな肌。くっきりとした目鼻立ちをしていて、バレリーナだと言われても納得するだろう。羨ましいという感情すら起こらない、平凡なわたしとは別種の存在だ。

 女性は近づいてきたわたしを気に留めることなく立ち尽くしていた。

 会話するほどの距離で対面して無反応なことがあるだろうか。わたしは女性の美貌に気圧されながも、思い切って声をかける。

「あの、祖父の知り合いのかたですか?」

 女性は声をかけられて、ぴくりと身体を動かした。驚いた視線がわたしに向けられる。

「…貴女は?」

「ここに居た天野(みのる)の孫です。天野澪と言います」

 わたしを驚いた表情で見つめ、何故か一瞬、女性はひどく悲しい表情をした。

 何か気に障ることがあっただろうか。そのわたしの動揺が伝わったのか、女性は慌てて話を続ける。

「ごめんなさい。ここではあの人以外を見かけることがなかったものだから」

 あの人というのは祖父のことだろう。女性は躊躇った様子で続ける。

「久しぶりに訪ねたのですけれど、あの人は元気にしていますか?」

 今度はわたしが言葉に詰まる番だった。

「…祖父は先日亡くなりました」

「あぁ…。そうだったのですね」

 女性の言葉には、想定していた悲しみの色は薄かった。

 不思議な距離感を持った人だ。わたしに対しても、祖父の死に対しても。

 無言の時間が過ぎ、日光がじりじりと肌に刺さる。このままでは女性の白い肌が日に焼けてしまわないだろうかと、変に俗っぽいことが心配になった。

「あの、もしよければ」

 わたしは再び思い切って声をかける。

「わたし、明日もここに来るので、その時にお話を聞かせてもらえませんか」

 親族にも、家族にさえも、見せていなかった祖父。もし知っているのなら、少しでも知りたいと思った。

 思わぬ提案に少し驚いた様子のその(ひと)は、

「ええ、是非」

 そこではじめて少し微笑んだ。

 ふんわりと深く甘い香りが漂った。


 女性と別れて小屋に戻ったわたしは深く息をつく。白昼夢のような体験だった。

 一息つくと、先ほど見つけた祖父の似顔絵を右手にずっと握っていたことに気づいた。

 手に握っていた熱が伝わって、遠い昔に描かれたクレヨンがぬるりと溶けた。


  ○


 翌日、祖父の住まいに着いたところで父からの着信があった。

「すまない。明後日向かう予定だったんだけども、都合が悪くなってしまった」

 どうして、なんて質問はわたしには残されてない。また急な仕事が入ってしまったのだろう。

「片付けは日を改めて向かうことにするよ。ひとまず澪は絵だけ確認してもらえないか」

 父だけでなく、母も司も忙しくて来られないのだろう。距離以上に皆を遠く感じた。

「わかった。そんなに多くなさそうだから、大丈夫」

 わたしは寂しさが滲まないよう一息に返す。

 実際のところ祖父の絵はそれほど点数はなく、確認自体に時間はかからなさそうだった。

「それじゃあ、また何かあったら連絡を頼む」

 会話が終わったスマホを耳元に残す。向こうの雑音をわずかに拾って、繋がりはプツリと切れた。

 わたしは小さく息を吐く。

 祖父の描いた絵は布をかけられて片隅にまとめられていた。布の劣化と埃のたまり具合から、手前にあるものが新しいもののようだった。

 丁寧に施された梱包を解くと、鮮やかな色彩で描かれた南国の景色が広がった。遠景で捉えられた構図は何ものにも制限されることなく広大で、でも少し寂しさを(たた)えていた。

 祖父が見ていた景色が絵の中に広がっている。堆積された時間を掘り進めるように、わたしはひとつひとつ絵を確認していく。

 置かれていた絵の半分ほどを確認したところで、こわばった体をほぐすために伸びをした。

 窓の外を見ると、昨日と同じところに女性が立っていた。いつからいたのだろう。わたしは眺めていた絵を置いて、急いで出迎えに向かう。

 白日の下、女性は変わらぬ透明度で存在していた。

 わたしがドアを開くと、女性は音を立てず猫のようなしなやかさで部屋に入ってきた。そのまま入り口で部屋の中をゆっくりと見渡す。

「祖父のもとには何回か?」

「ええ。でもこの中に入ったのは初めてです」

 こんな綺麗な女性が一人暮らしの祖父の住まいを訪ねる理由はなんだったのだろう。

 どのように切り出そうかと言葉を探していると、

「貴女の話を聞かせてもらえますか」

 先手を取られてしまった。

 わたしは食卓の椅子に浅く腰掛け、女性はスツールに向かい合って座る。

「ほとんど祖父との思い出はないんです。小学生の頃まではうちに来てくれたこともあったんですけれど」

 それから暫し、祖父との思い出を告げた。昨日見つけた似顔絵が呼び水になったように、祖父の思い出が浮かんできた。記憶の彼方から引き出された祖父は、出会っていなかった時間を飛び越え、生き生きと蘇った。

 それでも話してしまえば少しの時間で、話終えたわたしは女性の求めに応えられたのか不安になった。

「あの人は、幸せだったのですね」

 聞き終えた女性の口から静かに言葉が漏れ出た。

 少しの間を置き、わたしをすっと見据える。

「明日の夜」

 女性がふわりと立ち上がった。

「明日の夜、お時間ありませんか?」


  ○


 満月の夜だった。

 わたしは祖父の住まいで再び女性を待っていた。夜とだけ伝えられたため、はっきりとした時間はわからない。思えば女性の名前も知らない。

 何故こんなことをしているのだろう。数日前には予想もしなかった状況だ。

 ただ、女性とそこに紐付く祖父の過去に無性に惹かれるものがあった。

 わたしはイーゼルの前に座って祖父の絵を眺めていた。既に一通り確認していたが、ひとつ見ては次の絵を見ることを繰り返す。

 全ての絵をもう一度見返しても、まだ女性は来なかった。開け放した窓から湿った夜気と(すだ)く虫の声が入ってくる。

 どうしたものか。視線は自然と部屋の片隅に向かう。

 並べられた絵とは少し離れたところに小ぶりの平箱が置かれていた。昨日確認していた時から気になっていたものだ。

 わたしはスツールを離れ、箱を手に取る。固化した埃で全面が覆われており、ざらざらと指先に付く。ずっしりとした重み。昨日から何度も手に取った感覚が中身を確信させた。この中には祖父の絵が入っている。

 箱を開くと予想通り布に包まれた絵が入っていた。わたしはこれまで以上に丁寧に布を(ほど)いていく。

「綺麗…」

 思わず声が出てしまうほど、胸に迫るものがあった。幾重にも塗り重ねられた事による深み。筆跡を残さないよう繊細なタッチで描かれている。わたしは瞬きを忘れて見入る。

 突如、開けていた窓から芳醇な甘い芳香が漂ってきて、わたしは外を見遣る。

 今しがた見た絵と同じ構図で、祖父が絵筆で捉えたままの姿で、女性が立っていた。

 月明かりに照らされたその(ひと)は、まるでほのかに発光しているように白くにじんでいた。


 女性に連れられて小屋の裏手へ回る。繁茂する草が一部途切れて、地面が見えているところがあった。女性は躊躇なく入っていく。恐る恐る付いてゆくと、人一人が通れるだけの、細い道が続いていた。

 道は幾度も通られたようで土が踏み固められている。所々、行く手を邪魔する木の枝が切られた形跡がある。

 道は緩やかに曲がりながら森の奥へと続いている。道を外れることが不可能なほど絡み合った草木の間を抜けていく。どこまでいくのだろう。黙々と一本道を進む女性の後を追う。

 歩き続けることに不安を感じ始めた頃、進む先から微かに風を感じた。周囲で停滞していた草木の匂いが、わずかに(ほころ)んだ。

 俄かに視界が開けた。先に道から抜けた女性が少し進んで立ち止まる。わたしはその隣へ立つ。

−−−ひとつ、昔話をしましょうか

 そして、女性は徐ろに語り始めた。


  ○


 もう、随分と経ってしまいました。

 はじめてあの人がここを訪れた時のことは、今でも覚えています。

 あの時は住み始めた小屋の周りを探索してみようとの思いだったようです。

 思いつきで行動するあの人のことでしたから、大したものも持たず、計画もなく、進みやすい方向へとどんどん進んでいきました。そして当然のごとく、すぐに迷ってしまったのです。

 呑気に構えていたあの人も、日が傾いてくると流石に不安に駆られたようでした。歩みは速くなり、焦りの表情がうっすらと浮かんでいました。

 状況は好転しないまま陽は沈み、夜の帳が落ちた森を独り彷徨います。

 しかし、視界を奪われたことが逆に功を奏したのか、あの人は草葉の匂い以外の香りが微かに鼻をくすぐるのに気づいたようでした。

 絹糸のような僅かな手がかりを頼りにして、あの人は森を進んでいきました。

 そして、この場所にたどり着いたのです。

 あの人は突然の光景に足を止め、眼前を満たす大木を見上げました。

 刹那、私と目が合いました。

 私は驚きましたが、あの人もそれは驚いていました。あとから考えてみれば、こんな森の奥深くで出会えば当たり前の反応です。でも、そのころの私は滅多に人に会うことなんてなかったのです。

 私は腰掛けていた枝から降り、水面を滑るようにして、あの人の元へそっと歩みを進めました。

 私はあの人が恐れて逃げていくことを期待していました。

 けれども、その目に恐れの色は欠片もありませんでした。

 池を渡りきってしまった私は、想定外の事態に混乱しました。すぐそばに人の熱。しかも、私をまん丸な目で見つめています。

 暫し無言の時間が過ぎ去って、あの人は聞き取れないほどの小さな声で私に問いかけました。

−−−帰り道を教えてくれませんか

 私は言葉を返すことができませんでした。否定することもできず、あるのはとにかくこの状況から逃れたい一心でした。

 私は小屋に向けて森を進みました。道無き道でしたが、あの人はぴったりと後ろを付いてきました。道中、一言も言葉を交わすことはありませんでした。

 森を抜けて小屋が見えた時、後ろを歩くあの人から安堵の息が小さく漏れました。

 無事に送り届けた私は、そこでも言葉を見つけられず、そのまま立ち去ることにしました。

 一度だけ振り返ったとき。あの人は小屋に入ることなく、去りゆく私を見つめていました。


 月日が流れ、再び夏がやってきました。

 目覚めたその日、まだぼんやりとしてる私の元にあの人が姿を現しました。

−−−あぁ、やっと会えました

 突然の出来事に戸惑う私を気にすることなく近づいてきます。

−−−これ、あの時の(・・・・・・・)お返しなんだけど(・・・・・・・・)、受け取ってもらえますか?

 いきなりあの人が差し出したのは、白い画用紙でした。

 そこに描かれていたのは、一年前ここで出会った時の私の姿。思わず目を見張りました。

 ただ、私はどのように返せばいいかわかりませんでした。困って小さく首を横に振る私にあの人は少し悲しい顔を見せました。

 でも、すぐに優しく微笑んで、はっきりした声で私に問いかけました。

−−−それでは、また逢いにきてもいいですか?

 その問いも難しいものでした。私がこの姿を現すことができるのは、この木が花を付けているこの時期、ほんの数日だけ。

 それをなんとか伝えると、おもちゃを取り上げられたこどものように残念な表情になりました。

 それでも毎年夏になると、あの人は律儀にこの場所まで足を運んでくれていました。そして、私の目覚めを純粋な喜びに溢れた顔で出迎えてくれました。

 小屋からここに至るまでの道も、草木の勢力が弱まる冬の間に整えていたようです。これでもう迷うことはないと笑っていました。

 次第に言葉を交わすことにも慣れた私に、あの人は色々な話をしてくれました。私が決して見ることができなかった、冬の景色も絵に描いてみせてくれました。

 でも、あの人から誰か他の人の話を聞くことはありませんでした。


 はじめて出会ってから幾度か目の夏。

 それは、ふとした会話のきっかけでした。

−−−もうすぐ孫娘が生まれるんだよ

 あの人はいつも私に向ける表情とは違った、遠くの夕日を見つめるような穏やかな顔で云いました。

−−−息子とは疎遠だから、あまり会えそうにはないんだけれどもね

 そして、少し寂しそうな表情になりました。


 それから、また幾度かの夏を越えて。

 あの人は息子の元を訪れることになったと教えてくれました。私のいる場所からは想像もつかないほどの遠い場所。

 孫娘とも会うことができるのだと、晴れやかな顔で伝えてくれました。

−−−いつかここに遊びに来て欲しいなあ

 あの人の思いに、私もほんのりとあたたかい心地になりました。


 そして、その夏があの人との最後のひとときでした。



 女性が口をつぐむ。

 わたしは女性の話に呆然としていたが、なんとか問いかける。

「…祖父は戻ってこなかったんですか」

「あの人はそれからも毎年ここに来てくれました。でも」

 そこで、女性は言葉を切った。

「私の姿を視ることができるのは、」

 こちらを向いた視線が重なる。

「幸福の足りていない孤独な人だけなのです」

 女性は静かな口調で続ける。それは絶対的なものに逆らうことのできない諦観をはらんでいた。

「あの人は一人だけれど、独りではなくなりました」

 ほんのりと笑みが浮かぶ。

「孫娘の、貴女のおかげで」

 わたしの全身を電流が駆け抜けた。視界がにじむ。感情が溢れ出てしまいそうだった。

 女性は池の淵に脚を伸ばす。女性の細い指先を囲むようにして、少し盛り上がった水面が支える。

「それに気づいてから、あの人に会うことが怖くなっていました」

 女性は歩みを進めて、私から離れていく。一歩一歩が波紋となって月影を揺らし、飛沫が淡い光の粒となり散っていく。

「会えてしまったら、またあの人が独りになったことを知ってしまうから」

「だから、あの道から小屋を眺めて…」

 そう呟いたわたしの声は驚くほど震えていた。

 池を渡り終えた女性はひどく悲しげな顔でこちらを振り返る。

「でも、今度は貴女が独りなのですね」

 頬から一筋の雫が零れ落ちた。

 鈴なりの房から満開の花がぽとり、ぽとりと落ちる。散ることなく花がそのままの形で落ちていく。

 落ちる、落ちる。花が、涙が。

 気が付けば鈴なりの花たちは大半が池に落ち、散り散りになって漂っていた。満開の桃色の花が埋め尽くしていく。揺蕩(たゆた)う姿は水面に縫い付けられた花飾りのようだった。

 冴え冴えとした月明かりとは異なる光が迫ってきていた。

 夜が去って、朝が来る。

 女性の姿はいつの間にか視えなくなっていた。

 わたしは彩りを失った木へと声を振り絞る。

「わたし、また夏にここに戻ってきます」

 かつて、祖父が約束したように。

「視えなかったとしても、戻ってきます」

 必死に言葉を繋ぐ。

「見てもらいたいものがあるんです」

 祖父の思いを、遠く過ぎてしまった時をもう一度。

「来年の夏に、あの小屋で。どうか、忘れ(・・・・・・)ないでください(・・・・・・・)

 姿はもう視えないけれども、女性がやわらかく微笑んだように感じた。

−−−それでは、(・・・・・)約束しましょう(・・・・・・・)

 風に乗って、女性の声が聴こえる。

−−−また逢うまで、私が持つ言葉を送ります

 小さくなっていく声。でも、最後の言葉は強く届いた。

−−−幸運が訪れる。あなたには、きっと。

 一陣の風が吹いた。僅かに取り残されていた花は枝を離れていった。

 幽玄な気配はかき消え、朝日が花を失くした大樹を照らしていた。


  ○


 翌年の夏。

 わたしは大学が夏期休暇に入ると同時に南国の島を訪れた。

 結局、祖父の描いた絵の大半は引き取った。両親は困惑していたが気にはならなかった。司に絵を観せたら一言だけ、いいじゃん、と言った。

 祖父の住まいは、人の絶えた森の管理小屋に戻っていた。かつて祖父が使っていた家具は大部分が運び出され、がらんとした空間が広がっている。

 わたしは脇に抱えた絵をしっかりと握り直す。一つ大きく息を吸って小屋へ入る。

 窓際に折りたたんでおいたイーゼルはそのままにされていた。わたしはそれを何もない部屋の中央に据える。ここに入ってきたら、すぐに見えるように。

 厳重な布の梱包を解き、絵をイーゼルに立てる。今日このときのために預かっていた祖父の絵。

 いつまでも変わらない表情であの(ひと)がわたしを見つめていた。

 ドアを目一杯に開ける。どこまでも抜けていく青い空と眩しい太陽、濃い緑の草木が視界を埋める。

 柔らかな風が肌を撫でた。

 それは、甘い花の香りがした。


 完

作中の花にはモデルがあります。

もし興味がありましたら「サガリバナ」で検索ください。

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