雪の降らない街の、おはなし。
ご閲覧ありがとうございます。
さて、ここまで読み進まれて、そろそろ縛りの内容について、曖昧になられている方もいるのではないかと存じます。
前書きのスペースをお借りして、2つの縛りを改めて記載させていただきました。
よろしければ、ご参考になって下さい。
1.お話の冒頭を
”ひとつ、昔話をしようか” で始めてください。
2.以下に記す10個のセリフのうち3つ以上を作品中で使ってください。
・どうか、忘れないで
・あなたは、私の全てでした
・好きだなんて言ってない
・お願い。連れていって
・これ、あの時のお返しなんだけど
・その計算、合ってるのか?
・ちょっと後で付き合って欲しいんだけど
・諦めてなんかあげない
・もう、やだ!
・じゃあ、約束しよう
なお、当作品においてのみ、課題2に課せられた該当箇所に「ルビで傍点を振る」という内容について、作品内の事情及び技術的に傍点が引けないため、他の作品とは違う風に記載されております。
何卒ご理解、ご了承のほど宜しくお願いいたします。
前向きが長くなりましたが、それでは、ごゆるりと、お楽しみ下さい。
ひとつ、むかしばなしをしよう。
きみのぎもんに答えられるはずだから。
゜*。,。*゜*。,。*゜*。,。*゜*。,。*゜*。,*゜*。,。*゜*。,。*゜*。,。*゜*。,。*。,。*゜
第一話
この街は雪が滅多に降らない。太平洋側に面しているので冬でも海側から温暖な風が吹いて上空に留まり、また隣県との間に山脈があり、雪雲が越えて来られないらしい。
事実、ここ数年は雪が降っておらず、僕は雪がどういうものであるのか、リアルな感覚を失いつつあった。
久しぶりに雪が降った。昨日の夜あたりから降り出した雪は、お昼頃までしんしんと降り続けた。水分を多く含んだ雪だったけれど、長靴のつま先からかかとまでをゆっくり着地させていくと、質量のある固いマシュマロを踏むような感覚がして、確かに雪があるんだなあと実感し、満足した。
特に雪で交通機関が乱れることもなく、学校は平常通り授業が行われた。帰り道、僕は姉の鯖子からの指令で帰り道にコンビニに寄り、肉まんとホットレモネードを買った。自分で買いに行けばいいのに、寒いから外に出たくないのだそうだ。ものぐさめ。
鯖子は4歳年上の姉で、大学生だ。身長百四十センチ代と小柄ながら、怪力の持ち主。幼いころからぼくを散々に実験台にしたり姉の権力でこき使ったりで、暴君として君臨してきた。顔の造形は悪くないにせよ、長くてぼさぼさの髪を振り乱しながら暴れるさまは、プロレスラーそのものだ。
ちなみに鯖子というのはあだ名で、本当は沙萌という。
雪の日は、空は暗い灰色をしているのに、街並みは明るい。灰色のブロック塀にも紺色の道路にも、白い雪がすべてに覆い被さることで、周りを明るくしているのだろうか。
いつもの通学路を歩いているだけなのに、なんだかはじめて来る場所を歩いているような、不思議な世界を彷徨っているような、胸の高まりがある。
家の近所にある、小さな児童公園の脇を通る。子どものころにはよくお父さんや鯖子とキャッチボールをしたりして遊んだけれど、すっかり足が遠のいてしまった。敷地を取り囲むような植木のせいで中は窺えないけれど、もしかして近所の子どもが雪だるまを作ったりしているのだろうか。
僕は好奇心を出して、公園の入り口から中に入った。期待は裏切られ、そこにはあったのはまだ雪かきが行われていない真っ白な雪が広がっているだけだった。砂場は雪に覆われていてその場所を確認できない。他の遊具も、みんな雪を被っていた。
ぼくはそこで気付いてしまった。錯覚かと思ったけれど、確かにそれは存在した。目の前に広がる、まだ誰にも触られたことのない新雪を探すと、足跡がついていた。僕はそれを追った。
辿り着いたのは、ブランコだった。この遊具も雪でお化粧している。錆び付いた鎖が濡れていて、寒々しさを感じた。
ブランコの横板の上に、ひとりの女の子が座っていた。僕と違う学校の、黒いセーラー服に身を包み、首に巻いたチェックのマフラーに長い髪を収めていた。頭のてっぺんは周りの遊具と同じように雪化粧が見られた。顔は青白く、唇も色を失っていて、少し震えているようにも見えた。
彼女は、目を瞑っていた。よく見ると、耳に有線のイヤフォンが嵌められている。音楽を集中して聞いているのだろうか。
僕は彼女の下にゆっくりと近づいた。ブランコで目を閉じたままの彼女の前に立った。しかし、よほど集中しているのか、僕のことに気付いてくれない。
僕は少しいたずらをしたくなって、彼女の前で手のひらを振ってみた。……反応なし。気付いたときにどんな反応をするのだろう。僕は調子に乗って、手のひらを降り続ける。
しばらくすると、彼女の目がゆっくりと開かれた。
その様子を見つめていた僕と、彼女の目が合った。
戸惑う彼女の潤んだ瞳に、すぐに悲しみと怒りの感情が宿るのがありありとわかった。
しまった。と思ったときにはもう遅い。
ぱしんと、彼女に手を弾かれてしまった。
僕は、彼女の隣のブランコの横板に座っていた。
手を弾かれたときに、そのまま帰ることもできた。……でも、そうしなかった。言い訳をしたいわけじゃなくて、あんなにつらい顔をさせてしまったことに、ぼくは後悔していたのだ。
でも、僕はなにをすればいいのかわからない。普段から女子と喋るのは苦手だ。鯖子には「あたしみたいな姉がいるのに、あんたは女に幻想を抱きすぎ」と笑われるけれども、やっぱり、女子は男子とは違いすぎて、どう接すればいいのかがわからない。
だからずっとなにも言えずに、自分の足下を見つめ続けている。
ときおり彼女の方を盗み見する。彼女は目を閉じている。僕の方なんか見ておらず、空を見上げているのだ。
もし神様がチャンスをくれたら、それを逃さずに彼女に話し掛けるのに……。
ぐるるるるるるるるぅぅぅ。
音が鳴った。ぼくの体内から鳴ったのではない。
つまりはこれが祈りが通じて訪れた、最後の機会である。
意を決し、僕は鞄を持ち、彼女の前に立つ。
「あの!」
彼女はゆっくりと目を開いた。また僕が目の前に立っていたことに驚き、背筋がぴんと伸びて反り返りそうになった。
「よかったら、これ、食べて」
僕は鞄から先ほどコンビニで買った肉まんとホットレモネードを買って渡した。彼女はおそるおそるビニール袋の中身を確認して、自分のお腹に手を当てて、頬を赤くしながら、ゆっくりと袋を受けとってくれた。
「あと、頭の上に、雪が積もってる……」
僕はハンドタオルで、彼女の頭を優しくなでるようにして雪を払った。彼女は最初こそ抵抗する素振りを見せたが、やがて俯くように下を向き。されるがままになった。
隣のブランコに戻ると、彼女は、お腹が空いていたのだろう。頬を赤らめながらも、肉まんを少しずつぱくつきはじめた。
ホットレモネードのペットボトルを口に運び、甘みと酸っぱさ、なによりも温かさに幸せそうな顔を見せた。
ごく自然な一連の動作から目が離せなくなりそうで、しかし食べづらいだろうなと思い、頑張って目を背けた。でもたまに盗み見した。 彼女の食事が終わると、僕たちの間にはまた無言が広がる。けれども、先ほどまでとは違い、それほど重苦しい雰囲気を感じなかった。彼女が、僕という侵入者のことを許してくれた気がした。
空を眺めている。切れ目のない、厚い灰色の雲。天使の羽のような雪の欠片があそこから地上に落ちてきたのだ。
『 き、す ?』
僕は唐突に呼ばれた気がして、彼女の方を振り向いた。彼女は驚いたようで、顔を強張らせている。
「えっと、きみ、今なにか言った?」
彼女は俯き、ふるふると頭を振った。大人っぽい彼女のその動作は、まるで咎められた子どものように見えた。
「そうなんだ…………。たしかに聞こえたんだけどなあ……」
僕は頭を掻いた。この場にいるのは僕と彼女だけで、この一面の雪のなか、誰かが隠れているとも思えない。電話も鳴っていない。
「聞こえたんだけどなあ。『ゆき、すき?』って」
聞こえた台詞を、少し強調するようにゆっくり、くちびるの形を作って独りごちる。
ゆき、すき? 誰の質問なのか分からないのだけれど、好きか嫌いかを問われたら……。
彼女が、おそるおそる顔を上げた。こちらを恥ずかしそうに見つめながら、自分のくちびるの前で両手の人差し指をクロスさせている。「……もしかして、言葉が、しゃべれないの?」
身を固くして、彼女は視線を逸らし、頷いた。
彼女が言葉を話せないのならば、『ゆき、すき?』と言ったのは誰なのだろう。
彼女は、自分の通学用カバンの中から、手帳のようなものを取り出して、僕に見せた。表紙をめくって一ページ目に、彼女の名前が書いてあった。
「黒川……初音さんっていうんだ。えっと、ぼくは雪野白兎。ちょっと待ってね……」
彼女、初音が漢字を明かしたのに自分がそうしないのはずるい気がしてしまったので、僕は自分の生徒手帳を見せた。真剣なまなざしでそれを見つめる彼女のくちびるが、ぼくの名前のかたちをえがいて、こわばる。
すこし、どきどきした。
初音さんは可愛らしいマスコットの乗ったペンで、手帳になにやら文字を書き始めた。そして、僕にそれを差し出してみせた。
『なにか、おもしろいおはなしをして』
無茶ぶりもいいところだった。そもそもぼくは人前で話すのが苦手なのに、さらに普段まったく関わりのない女子の前でなんて……。
でも、もう逃げられない。雪の日にひとり公園に佇む、言葉の話せない、そして、かわいい女の子に期待されてしまったのだ。
「じゃあ、いくよ……。えっと、今日は朝から雪が降っているじゃないですか……」
さっそく敬語とタメ語が混じり、頭が混乱している……。
即興で思いつくまま、学校であったこととか、昨日のテレビで見たこととか、鯖子のこととかを話した。
最初は緊張で頭のなかが真っ白になって話が止まってしまったり、声が変なところに飛んでいくように、うわずってしまったりした。
けれども、慣れてくると、学校の男のともだちとか鯖子と話すのと同じようにできた。
彼女のおかげだと思う。大人びて怖い印象まであったが、実はすごく優しい目をしていて、子どものように表情豊かだった。ぼくの話に興味を持って聞いてくれて、ときには頷いたり手を軽く合わせてくれたりして、だんだん嬉しくなってきてしまった。
気がつくと、この場所に来てから1時間以上が経っていた。さすがに身体が冷えてきた。なにかを忘れているような気もするので、そろそろ引き上げようと思った。
「そろそろ帰るね。きみも、もう引き上げたら?」
ぼくが腰を上げると、初音さんも立ち上がった。
彼女も、家に帰るのだろうか……?
「あのさ……。ここに来たら、またきみに会えるかな?」
ぼくは思わず、そう聞いていた。勢いで言ったあとに、後悔してしまった。これじゃあまるで、また会いたいみたいじゃないか。いや、また会いたいんだけど、でも直球過ぎて恥ずかしい……。
初音さんは少し真顔で考えて、でもすぐにこちらを向いて、はにかみながら、こくりと頷いた。
「・・・・・・・・・」
言葉の話せない彼女がなにを言ったのかは、本当はわからない。
でも、ぼくにも伝わった。
だから確認はいらなかった。
僕たちはいっしょに公園の入り口まで戻り、それぞれの帰り道に分かれた。彼女の耳には、またイヤフォンが嵌められていた。
家で待っていたのは、待ちくたびれた挙げ句におつかいを反故にされ、怒り心頭の鯖子によるドロップキックだった。
玄関に倒れ伏したぼくは、全身に広がる痛みのなか、あのホットレモネードよりも甘くてすっぱい、言いようのない幸せな嬉しさを抱えていた。
第二話
雪はあっという間に溶けてしまった。日陰に残され凍り付いた塊の姿を見るけれど、白くまぶしく美しかった世界は、あっという間に灰色と黒色のつまらない光景に戻ってしまった。
あの日、誰もいなかった公園にも活気が戻っていた。サッカーの練習やカードゲームをする少年たちや、散歩途中のご老人の姿があった。 ぼくは、話せない初音さんの言葉を受け取った。それに疑いはなかった。 でも、雪がなくなったら、二度と彼女に会えないんじゃないか。雪が溶けてしまうように、彼女も消えてしまう気がしていた。
不安をよそに、次の日の放課後に公園のブランコに行くと、そこには黒いセーラー服姿の初音さんの姿があった。目を閉じながら、耳にはイヤフォンをしている。
「こんにちは」
話し掛けると、彼女は気付いたのかはっと我に返り、僕の姿を認めると安心したように力を抜いて、小さく頭を下げてくれた。
僕は隣のブランコに座る。初音さんはカバンから袋に包まれたものを出して、僕に手渡してきた。
「・・・・・・・・・・・・・・・」
彼女は視線で視線と雰囲気で何かを伝えようとしてきた。
ぼくは受け取ったものを開けてみた。暖かいお茶とあんまんが入っていた。彼女なりの気遣いなのだろう。嬉しい。
「ありがとう!」
ぼくが言うと、初音さんは照れくさそうに頬を染め、口の端を緩めた。
次の日も、その次の日も、初音さんはそこにいた。さすがに休日には姿が見えなかったけれど、平日の放課後、決まった時間に公園のブランコにいけば、そこにはいつでもイヤフォンをした彼女がいた。
だから、僕も学校が終わると、友だちの誘いも断って、公園に出向いた。
一度だけ、公園のブランコを子どもに占拠されてしまい、仕方がなく脇の柵に腰掛けて話しをしたことがあった。
それ以外は、ぼくらはブランコの横板に腰掛けて、話をした。
時には年甲斐もなく、ブランコを軽く漕いでみたりした。小学生に見られて、少し恥ずかしかったけれど、それはそれで子どもに戻ったかのようで楽しかった。
初音さんが言葉を話せない以上、会話といっても僕が一方的に話す感じになってしまう。面白い話ができているのかな……彼女を飽きさせてないかな……と不安だった。
けれども、初音さんは僕の顔をじっと見つめて、面白い話であれば表情を崩して笑ってくれるし、はらはらするお話をするときは少し顔に緊張を浮かべながら話の先を待ってくれていた。意外に豊富な彼女のリアクションに、僕は少し救われた気がした。
「……白兎。あんたさ、最近帰り遅くない?」
とある日、初音さんと会って帰ってきたあと、廊下ですれ違った鯖子に言われた。
「……最近ちょっといろいろ忙しくて」
「万年帰宅部で委員会にも入ってないやつがなに言ってるのよ。……もしかして、彼女でもできた?」
鯖子はとても小柄だ。ぼくの胸元に入り込み、上目遣いに意地悪な視線を向けてくる。
思わず顔が浮かんでしまい、僕はいかんいかんと首を横に動かす。「そんなわけないだろう。なにいってんだ」
「だってあんた、気付いてないとおもうけど、最近キモいよ」
ふっふっふと歯を見せて笑い、鯖子は廊下の奥にある自分の部屋に消えていった。
ぼくは頭を抱えた。浮かれているの、見抜かれていた……。
雪のことも過去の日になりつつあるある日、ぼくはいつも通り、学校帰りにまっすぐに公園に向かった。
いつもはサッカーやキャッチボールをしている子どものたちの姿や、犬を散歩させている人、ベンチに座り話し込んでいる老人などがいるのだけれど、今日は誰の姿も見えなかった。
こんな日は、雪の日以来だった。だから、もしかして初音さんもいないのかなと思った。
ブランコに近づいて、ぼくは安心した。そこには彼女の姿があったからだ。
でも、様子はいつもとは違っていた。
いつものように、黒いセーラー服に身を纏い、ブランコの鎖を握り、耳にはイヤフォンが嵌められている。目を閉じているのもいつもどおりなのだけれど、しかしなにか違う。安心しきったような緩んだ表情で、地面に向かって顔を向け、小刻みに揺れている。
なんとなく音を立てないように近くに寄ってみて、わかった。
いつもは目を閉じていても意識ははっきりしていたのだけれど、今の彼女はまどろみのなかにいるようだ。
緩んだ口元に、少しどきりとする。意識がくちびるに集中してしまう。
いや、本当にそれをやったら終わるぞ! 自分自身を律するために、頭を振る。
それに連動したかのように、ぽろりと、彼女の片耳からイヤフォンが落下した。
びっくりして、それでもなんとか声を上げず耐える。一気に興奮が冷めた。危なかった。
それでも彼女の様子は変わらない。耳を澄ませると、「すー、すー」と可愛らしい寝息が聞こえる。
ぼくは肩に落ちたイヤフォンを拾い上げた。彼女の耳に戻してあげようとして、そのイヤフォンを自分の耳に嵌めてみた。
どんな音楽が聞こえるのだろうか……。
しばらく時間が過ぎた。
初音さんが起きた。身体を反らしてのびをして、小さなあくびをした。ぼくは「おはよう」と言った。彼女は幼げな笑みを浮かべた。
しかし、意識が覚醒していくなかで、だんだんと状況を呑み込みはじめたらしい。ぼくが隣のブランコにいることに驚き、顔を真っ赤にさせながら、口元を何回も拭った。手ぐしで髪をといて、声なき声で嘆き、両手で顔を覆った。
「大丈夫。気にしてないから」
ぼくはこのようなことを言った。彼女は落ち込んだような様子を見せながらも、いつもの調子に戻ってくれた。
ぼくはいつものように、彼女にお話をしはじめた。ぼくが口にしたことに合わせて、彼女はいつものとおりに、笑ったり驚いたり、たまに真剣な顔になりながら、相づちをうってくれた。
ひととおり話を終えてから、ぼくは彼女に切り出した。
ぼくの口から出た言葉は世界に放たれる。
でもきっと、彼女には「」と聞こえたのだろう。
彼女の顔が、曇る。親とはぐれた迷子の顔になる。
イヤフォンからは、なにも聞こえなかった。長い時間寝ていたのならば、曲がすべて終わってしまっていた可能性もあると思う。
口が利けないと彼女は言った。生まれつきなのか病気とかによるものなのかはわからない。
でも、もしかしたら口が利けないよりも、耳が聞こえないほうが先なのかなと思った。
ぼくは彼女が望むようにお話をした。嬉しそうに話を聞いてくれて、うんうんと頷くなど反応をもらえることに酔ってしまっていた。見つめてくるまっすぐな瞳にどきどきしていた。だから、気づかなかった。
反応にタイムラグがあったり、ぼくが思っていたのとは違う反応をしていたりもした。そのときは疑問に思わなかったけれど、今思えば、彼女はぼくの様子を見て、考えて動いていたのだ。
ぼくのことをまっすぐ見据えていたのも、話の流れを目で掴むため、またはくちびるを読んでいたのかもしれない。
どろどろしたものがこころに溜まっていくような気がする。
「ぼくのこと からかってたの?」
彼女の耳が聞こえていなければ、この言葉も認識されない。
だからぼくはまるで見せしめるかのように、自分の耳を指差した。
彼女は俯いてしまい、そのまま動かなくなってしまった。
やがて、肩が小刻みに震えだした。
雨が降り始めたかのように、地面に水滴が落ちる。
どうすればいいか、ぼくにももうわからなくなってしまった。
いたたまれなくなったぼくは、その場から立ち去ろうと、彼女に背中を向けた。
『いかな で!』
またあのときと同じだ。誰かに引き留められた。
あのときは誰に言われたのかはわからなかった。
現在はわかる。振り返る。
涙だけじゃなく、鼻水も流れている。髪は乱れ、瞳は真っ赤だ。
歯を食いしばるように、かたかた震え、
なにかを耐えるように悔しそうに、
それはきっと伝えたいことが形になって外に出ていかない歯がゆさに耐えているんだ。
ぼくの服を強く掴んだ、剥き出しになった彼女の顔がそこにはあった。
「いじわるして、ごめん」
ぼくは頭を下げた。女の子を泣かせてしまい、反射的にそう言ってしまったのではなかった。
耳が聞こえないから、ぼくはからかわれてた? たくさん話をさせたくせに、ちゃんと聞いてくれていなかった?
あんなに真剣に聞いてくれていたのに? ぼくの話を、楽しんでくれていたのに? 彼女が演技をしているように思えたのか? なにをもって、そう思ったのか?
耳が聞こえないのに、ぼくの話を頑張って聞いてくれようとしたんじゃないのか!
ぼくはそれに気づかずにかっとなって、被害者意識から一方的に気持ちをぶつけて、なんていやな奴なんだ!
腹に溜まったどろどろしたものが、そのまま自分への嫌悪としてぼくを蝕んでくる。
彼女は鼻をすすって、首を横に動かした。顔はぼろぼろになってしまっていた。
ぼくがポケットに入っていたハンドタオルを手渡すと、埋めるように顔を覆った。
その後、ぼくたちは沈黙の時間を過ごし、夕暮れの時間を見計らって立ち上がり、公園の出口で別れた。
「じゃあ、またね」
ぼくは彼女にそう言った。
彼女はなにも言わずに、俯いたまま背中を向けて去っていった。
またねと言った。ハンドタオルも貸したままだ。
それでももう、彼女に会えないかもと思った。
「どうしたのあんた。今度はこの世の終わりみたいな顔して? もしかして、振られたとか?」
家も戻ると、鯖子にそんな風に言われた。
ぼくは返事もせずに横をすり抜け、自分の部屋に戻り、ベッドに飛び込んだ。
第三話
生活が元に戻った。学校を無難にこなし、特に寄るところもなく帰宅して、だらだらと家で過ごし、たまに勉強をして、寝る。機械のように無機質で、だらしない生活だった。
なにか不満を覚えていたわけじゃなかった。ぶち壊したいものとか、かなえたい夢とか、そういうものはぼくにはなかった。特別なんていらなくて、平凡な日々が続くだけでよかった。
それなのに、いま、思う。
どうして、毎日がこんなにも退屈で、つまらないのだろう。
公園の前を毎日通る。
足を止めて、中をのぞき込む。
サッカーやカードゲームをする子どもたち。散歩の途中で休憩する老人。たまに井戸端会議をする主婦たち。顔なじみとも呼べるような、いつも見かける人たちの姿があった。
それでも、公園の奥、ブランコには誰の姿もない。あの日からずっと。
期待と不安を胸に秘めて公園に向かったあの日、ぼくの心には落胆があった。しかし、そこに彼女の姿がいない事実を積み重ねていくうちに、期待はだんだんと薄れていった。彼女がいないことが普通になってしまった。いや、きっと普通に戻ったのだ。
もしかしたら、彼女は存在しなかったのかもしれない。ぼくの心が作り出した幻だったのではないか……。
ちょっとでも信じられなくなったら、流されてしまいそうだった。
晴れの日も、曇りの日も、彼女の姿は見当たらなかった。
ぼくは雪が降ることを願った。
雪が降れば、またこの街が美しい白色で塗りつぶされ、誰もいなくなったこの公園で、黒いセーラー服が映える彼女が、頭に雪をのっけて、ブランコに乗っている気がしたのだ。
でも、寒いくせに雪の少ないこの街は、ぼくの想いを裏切るように、雪を降らしてはくれなかった。
このままじゃ、春になってしまう……。
普段は嬉しいはずの訪れが、ぼくを焦らせた。
朝から雨が降った。ぼくは期待したのだが、結局に雪にはならず、冷たい雨は止むことなく、地面を叩き続けた。
雪の日の白い世界とはまるで違う。どす黒い曇天が光を遮断して、世界が暗闇で満たされる。
授業を終えたあと、担任の頼みを聞いての作業が長引いてしまい、学校を出たのはかなり遅い時間になってしまった。降り続く雨は冷たく、吐く息は白く寒さを隠さず、傘の内側に侵入し服を濡らす重さと冷たさに不快を覚える。早く帰りたかった。
だからぼくは、傘を目深に差しながら、公園の前を通り過ぎた。
今日は、もういいや。この雨じゃ、いるわけないだろう。誰かがそう言った。もしかして、ぼくがそう思いたいだけなのかもしれない。
公園から離れる。離れる。離れる。ぼくは足を止めた。振り返り、そして迷う。家を出た後に、ストーブなどの電化製品の電源を消しただろうか。鍵は閉めただろうか。こういう心配はまさしく杞憂に終わることが多いのだが、ぼくはそのまま、公園の入り口に戻った。
入り口からなかをのぞき込む。降りしきる雨の中、いつもの顔ぶれの姿は見られない。雨で煙っていて、暗くて、奥がよく見えない。
見なくてもわかる。いない。いないよ。彼女はもういない。
ぼくは、公園のなかに足を踏み入れて、歩き出した。いたるところにできた水たまりを避けながら、制服のズボンが濡れるのもかまわず、ゆっくりと近づいていく。
あの雪の日に、足跡を辿りながら辿り着いたのと同じだと思った。
ブランコの前に来た。それでも、見逃してしまいそうだった。黒い制服、黒くて長い髪、微かにはみ出した肌色。項垂れた格好からはそれしか見えなくて、街に広がる暗さに同化している。
久しぶりに見る彼女は、傘も差さず、荒天を進む船の甲板にて、大海に投げ出されようを耐えるような必死さで、ブランコの鎖を握っていた。耳にイヤフォンはなく、カバンすら見当たらない。
「……初音さん」
ぼくは思わず呼びかけていた。彼女が耳が聞こえないことを忘れていた。彼女の返事はなかった。
ぼくは彼女に近づいていった。目の前に立っても、彼女は気づいてくれなかった。
「初音さん!!!」
何千メートル上から落下して、地面に落ちる雨のパワーに負けないぐらい、ぼくは頑張って彼女の名前を読んだ!
声の力なんて、彼女には通じないのに。
そのはずだった。
少し間を置いて、彼女が顔をゆっくりとあげた。雨で肌は蹂躙され尽くしていた。一見誰なのか見分けがつかないほどに髪も顔も乱れていた。しかし、間違えるはずがない。間違いなく彼女だった。
表情が消えていると思った。そんな彼女の頬に、冷たい雨とは別の温かい水が流れ、そして消えていた感情に灯がともったのか、表情が一気に歪んだ。
声を出して、いや、出せないのだから、まさにその嗚咽さえも聞こえてくそうなぐらいの表情を見せて、ぼくの胸に飛び込んできた。
「・・・・・・・・・・」
このままでは肺炎になってしまうかもしれない。
ぼくはもともとそのつもりだった。
彼女の手をひいて、今更ではあるが傘に入れてあげて、公園をふたりで出ていった。
彼女の家がどこかは知らない。おそらく、近くではないだろう。
身を震わし真っ青な顔をしている彼女を、一刻も早く暖めてあげなくてはいけない。
ぼくは迷いもせずに、公園からすぐのところにある、自分の家に向かっていた。
今日は両親が親戚の家に行くというので留守だ。鯖子も友人の家に泊まるといっていたので、もう出掛けているだろう。
たとえ両親と鯖子がいたとしても、ぼくは初音さんを連れ帰るに決まっている。でも、変な心配をかけずに済むので、ちょうどよかった。
「おやおやおや。これはまた、やるのお少年」
彼女を連れて玄関に入ると、廊下の奥から鯖子が一目散に寄ってきた。目をらんらんと輝かせながら、ぼくとぼくの後ろに立っている初音さんを見比べている。
「なんでいるの? 友だちの家に泊まるって……」
「雨がすごいから延期にしたんだよ。……そのおかげで、いいところに出くわせたわけだがな」
くっくっくっと下品な笑いを浮かべながら、ぼくの肩に手を回し、耳元で囁く。
「やるじゃん色男。邪魔して悪いね」
「やめてくれ……。そんなことよりも、彼女を……」
ぼくは鯖子を振り払った。ぼくの剣幕に鯖子は笑いを消した。玄関に立ち、所在なく立ち尽くす、服から肌から水滴を延々と落とし続ける少女を見据える。
「白兎。お前も濡れてるんだから、自分の部屋に行って着替えてきな。で、十分経ったら台所でなんか温かいもの作れ」
「え、ちょっと待って。初音さんはどうするの」
「馬鹿かお前は。ここで着替えさせて、お風呂に入れるんだよ!」
ぼくは反射的に自分のカバンを持って、部屋に引き上げようと歩き出した。
「任せといて」
「ありがとう」
鯖子と短くやりとりをした。
着替えたぼくは、途中で鯖子に頼まれた着替えを持って一階のお風呂場に行った。どうやら、初音さんだけじゃなくて鯖子もいっしょに入っているらしい。お風呂場のなかはとても賑やかだ。
「かぁ~。生き返るねえ。寒い日に熱い湯につかる。生きていることを実感するねぇ~」
「初音さんちゃんだっけ。かわいいね~。肌も白くていいねいいね~」
「スポーツ好き? サッカー野球バレー陸上水泳なに好き? アタシはぜんぶ好き!」
賑やかなのは鯖子だけだ。初音さんは耳も聞こえないし口も利けないのだから。ぼくはそれを説明し損ねたけれど、すぐに気づくだろう。
ガールズトークを盗み聞きするつもりはなく、ぼくは脱衣場を出て台所に向かった。
温かいものと言われてもいまいちピンと来ず、時間もちょうどよかったのでぼくは夕飯を作ることにした。冷蔵庫を開けて、使えそうな食材を物色する。お客様が来ているので、いろいろなものを出しても許してもらえるだろう。
冷凍してあったカレーを湯煎してメインに据え、カジキの照り焼き、わかめと春雨のサラダ、ジャガイモのお味噌汁を作った。
居間のテーブルに並べて上がるのを待った。初音さんと鯖子は料理がすべて出来たころにお風呂上がりでやって来た。家のお風呂でよくそんな長湯ができるものかと驚いてしまう。
「あんた、料理のチョイスとか食い合わせは悪いけど、手際はすごいわよね……」
鯖子は珍しくぼくを褒める。初音さんも目を丸くしていた。
初音さんはぼくのジャージを着ている。鯖子の服だとサイズが合わないのだ。
居間のテーブルで三人座ってご飯を食べた。その間も、ぼくと鯖子はいつもどおり、徒歩三十分圏内でしか通じないような、くだらないことを話していた。
それでも、初音さんはぼくたちのやりとりを見て、いつの間にかくすりと笑っていた。食欲もあるようだった。元気が出てきたのならばよかった。
温かいところでお腹がいっぱいになって安心したのか、初音さんはうつらうつらしはじめた。彼女は鯖子に連れられ居間を出て行った。鯖子の部屋のベッドに寝たようだ。
ぼくと鯖子は並んで食器洗いをした。ぼくが洗ったお皿を、鯖子が拭いて、食器かごに移していく。
「……あの子さあ、いろいろ大変そうだよね」
「……うん。いろいろ大変だと思う」
本当は、それがどのくらいのことなのかきっとわかっていないのだ。蚊帳の外にいるようで、思わず歯をかみしめた。
「……まあ。あの子があんたに求めてるのは、そこじゃないと思うし、あんたはあんたのやりかたで、あの子に逃げ道を作ってやればいいんじゃない」
ぽんぽんと、肩を叩かれた。
「……うん」
泡がついて濡れた。今日の鯖子は、なぜだか優しい。
よほど疲れていたのだろうか。初音さんは日が変わる時刻になっても起きて来なかった。
「どうしよう……。おうちに連絡しないと……」
さすがに連絡をせずに泊まらせてしまうのはまずいと思い、ぼくはおろおろしはじめる。
「別にいいんじゃない。たぶん、いまは考えたくないんだろうし」
鯖子はなにをつまらないとことを、と言いたげな、涼しい顔で言った。この姉はどうしてこんなに肝が座っているのだろう。
でも、鯖子の言うことが正しい。ぼくも、初音さんをなんの邪魔も入らない場所で、思う存分休ませてあげたいのだ。
ベッドを貸してしまった鯖子は当然のようにぼくのベッドを要求した。彼女にベッドを貸してしまったぼくは、居間のテーブルと家具の間に布団を敷いて眠ることにした。
ぼくも慣れないことが多すぎて少し疲れていた。布団に入り、電気を落として横になる。
いつもは聞こえない水回りの音や、居間の掛け時計の針が時を刻む音が耳障りだったけれど、それでもすぐに眠りに落ちていった。
夢は見ていなかった。それでも寝不足で朝日を浴びたような爽やかな不快を覚え、身体のすぐ近くに誰かの気配を感じ、思わずゆっくりと目を開ける。
……すぐ近くに誰かの顔があった。
ぼくは顔がひきつり思わず声が出そうになるが、すんでのところで止めた。
それは顔の主もそうだったようで、のぞき込んでいた顔を引っ込めて、後ずさる。頬が真っ赤に染まっている。
「あ、初音さん……」
目の前、ぼくの足下のあたり、布団にぺたんとお尻をつけて、まるで腰が抜けたように座っているのは、ぼくのジャージを着た初音さんだった。今何時かと掛け時計を見ると、午後2時を廻った頃だった。ぼくはまだまだ寝不足だけれど、彼女はゆっくり休んで、目が覚めたのだろう。
知らない家の見慣れない部屋で目覚めて、居間にやってきた。電気をつけて、ぼくのことを見つめて、覗いたのだ。あんな近くまで顔を近づけることはないと思うけれど。
「もしかして、目が冴えてしまって、眠れない?」
彼女は申し訳なさそうに俯きながら、頷いた。
「じゃあ、深夜のおしゃべりタイム、しますか」
ぼくは裏が白紙のチラシと、ボールペンを持ってきて、テーブルに置いた。そして、彼女に「自由に使って」と伝えてから、体勢を崩してゆっくり話をはじめる。
……久しぶりなので、はじめてのときと同じように、声がうわずってしまった。
ぼくたちのお話をする時間は、夕暮れのなかで行われていた。先には夜があって、それを迎えたらタイムアップ。どんなに名残惜しくても、また明日とバイバイしていた。
今日は逆だった。ぼくらの向かう先には朝があった。そのゴールもまだまだ遠い。溜まっていたネタをいろいろ喋った。初音さんも前と変わらず反応を見せてくれて嬉しかった。
ひととおり話終わって、ひと息ついた。ふと、隣にいた初音さんが、チラシになにかを書いて、ぼくに見せた。
『わたしの話をしてもいいですか?』
ぼくが頷くと、彼女は小さく笑った。その笑みには嬉しさだけじゃなくて、戸惑いも含まれているように見えた。
彼女は、時間を掛け、ペンで言葉を記すことで、自分のことを語りはじめた。
ぼくはひとつひとつのい文章を読んで心から頷き、見守っていた。
大丈夫。朝はまだ遠いのだから。
初音さんの家は、隣町にあるらしい。
現在は父親と継母、その間に産まれた一歳の弟と暮らしている。
父親も継母も彼女を邪険にすることはなかった。三年前に再婚し同居生活がはじまったが、特にトラブルもなく仲良く暮らしていた。
1年前に弟ができた。大変ながらも和やかな赤ちゃん中心の生活がはじまった。自分はもう高校生なのだし、赤ちゃんに両親の関心が向くのは当たり前だと、嫉妬などもなかった。
まずは口が利けなくなった。そして、だんだんと耳が聞こえなくなっていった。
耳の方は、調子がいいときには多少の雑音を除いてちゃんと聞こえるそうだが、駄目なときは耳の穴だけ別な次元に繋がっているかのように、微かにも聞こえないのだという。
両親には、言えなかった。黙って医者にも行ったが、身体的には問題ないと言われた。心療内科には、恐くて行けていない。
彼女は絶望した。ひとつは自分自身の心の弱さに。父にとっては今愛している人との子ども。継母にとってははじめての子ども。自分に優しくしてくれるふたりの子ども。心から喜んでいるはずなのに、かわいい無垢な存在に、身体の機能を閉ざすくらいにストレスを感じてしまった。なんて醜いのだろう!
そしてもうひとつは、日常生活を送るにも大きく支障が出ることが予想されるこの状況においても、特に自分の生活は困らなかったということだった。
親しい友人はなく、誰かと話すときも、空気を読んで、表情を作って、適当に頷いていれば、それで自分の生活は問題なく過ぎてしまった。
そして彼女は、イヤフォンを嵌めるようになった。なにかに集中している降りをして、静寂のなか、さらなる孤独な世界で過ごしはじめた。
そして雪の日にぼくと出会った。
『あなたの言葉だけ、わたしには聞こえるんです。ぜんぶじゃないですけど、それでも、わたしにとって、それは特別でした』
初音さんはぼくのくちびるを読んだり、動作から予想して反応しているのかと思っていた。けれど実際は、いくつか聞こえていたらしい
「……実はぼくも、きみの言うことが、聞こえていることがあったよ」
実際に、その言葉は外に出ていたわけじゃない。それでも、彼女の反応から想像したとかじゃなくて、ぼくは確かにに彼女の声を聞いていた。
こんなことって、あるんだろうか。
「あなたは、」
『あなたは、』
「・・・・・・・」
「―――――――」
閉ざされた彼女に言葉は届かない。
彼女の言葉もぼくには届かない。
それでも、ぼくと彼女の顔が自然に近づき、口づけを交わす前に、その言葉は伝わったし、伝えることができた気がする。
午前三時四十五分。日の出までまだまだ時間はある。
そのあとも、ぼくたちは寄り添い、他愛のない話をして過ごした。
カーテン越しに朝の明るさを感じたころ、いつの間にかぼくたちは力尽きるように眠りにおちていた。
朝になって、その様子を発見した鯖子によると、ひとつの布団の上、お互いの身体を抱き合うように眠っていたという。
それはまるで丸くなって眠る二匹の猫で、幸せそうな夢を見ているような表情で眠る様子に、思わず叩き起こしてはったおしたくなったそうだ。
お昼までたっぷり眠ったあと、みんなでご飯を食べてから、初音さんは家に帰ることになった。
「楽しかったよ。なにかあったら、またおいで」
鯖子が笑いかけると、初音さんは照れながら、でもしっかりと頷いた。
「じゃあ、またね」
憑きものが落ちたかのような初音さんの表情をみると、もう心配はいらない気がした。
ぼくと鯖子は余計なことを言わず、彼女を送り出した。
エピローグ
雪の日は一度だけだった。日が長くなり、平均気温が上がり、花が咲き、風が吹くと花びらが舞う。春らしい花の匂いが鼻孔をくすぐる。 気のせいか公園を訪れる人の様子も、新しい季節の到来にどこか浮ついている気がする。
ぼくはいつもと変わらず、公園の奥、ブランコに向かう。
ブランコには、季節が移り変わっても変わらず、黒いセーラー服の少女がいる。目を瞑って空を仰いでいる。
しかし、冬の日の彼女とは様子が異なっていた。
ひとつは、イヤフォンを嵌めていないこと。
そしてもうひとつは、
「髪、切ったの?」
ぼくが話し掛けると、彼女は目を開けて、こくりと頷いた。
彼女の長い髪はばっさりと切られており、ショートボブになっていた。
「困った。じつはぼくは、ロングヘアーが好きなんだ」
そう語りかけながら、隣のブランコに腰かける。彼女はショックを受けたようで、なくなってしまった髪をとかすような仕草をする。
「ロングが好きなのは本当だけど、ショートも似合ってるよ」
ぼくがそう言うと、彼女はため息をついて、安堵の表情を浮かべた。
お父さんともお母さんとも、そして弟くんとも、上手くいっているらしい。友だちとも、少しずつ自分らしさを出して、輪の中に入れるようになったという。
残念ながら、言葉も聴力も戻ってはいない。原因もわからないし、回復の見込みがあるかも不明瞭だという。
それでも彼女は、今日も明るい。髪を短く切って、空を見上げる。
「それじゃあさっそく、お話をはじめようか」
ぼくがそう語りかけると、彼女は嬉しそうに笑った。
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わたしのお母さんは話せません。お耳も聞こえていないようです。それでも、なにを言っているのかは、なぜかわかります。
ずっと疑問に思っていたことを、お父さんに聞いたら、むかしばなししてくれました。
お母さんがきみのことを好きだから、きみもお母さんが好きだから、だからお互いの気持ちが通じるんだよ。
なるほど! わたしは納得しました。
だって、お父さんとお母さん、とっても仲がいいんです!




