あの日、見たのは
「ひとつ、昔話をしようか」
大学生になった息子と海岸を散歩していたときだった。ほらあれ、と息子が指差した先。海岸を走る道路の下、数メートルの崖になっているところにゴツゴツとした岩場があり、岩と岩の隙間に人が入れそうなほどの穴が切れ込んでいた。
「なんか住んでたりして」
そう言って笑う息子に、昔知っていた男を思い出した。あの日を境に姿を消した男。忘れられない、忘れたことなどない出来事。誰にも打ち明けたことはなかったが、今なら話してもいいかもしれない。
しかしあれは、現実のことだったのだろうか。
人を探していた俺は、大学の食堂のテラス席にそれらしき男の姿を見つけた。夕方前の柔らかな光の中、テーブルにノートを広げて熱心に何かを書き込んでいる。近づく俺にも気づかないようだ。
「それ、何やってんの?」
男の手元に広げられたノートを覗き込んで、俺は声をかけた。はっと顔を上げた男は細身でおとなしげな顔つきをしていた。ノートには升目が書かれ、数字で埋め尽くされている。
「百ます計算…じゃないよね?」
はぁ、と男は曖昧な声を上げて目を伏せた。何だか大人しそうなやつだ。これから飲み会に行くというのに、大丈夫だろうか。
「タツに言われて迎えにきたんだ。待たせて悪かったな。俺は大倉っていうんだ」
「…古瀬、です」
「じゃ、行こうか」
ふたりで連れ立ってテラス席を離れ、最寄り駅へと向かった。
駅前の飲み屋に大学の仲間が集まっての飲み会だった。タツとは同じゼミのメンバーで、よく一緒に飲みに行く仲だ。顔の広いタツの飲み会にはゼミの人間だけじゃなく全く知らない奴もいて、参加すると結構楽しめた。
そんな流れで古瀬も誰かから声をかけられたんだろう。しかし古瀬は飲み会の雰囲気に馴染めないようで、周りがそれぞれうるさく話している中でもひとりで淡々とグラスを空け、料理を食べている。飲めないわけではないらしい。
ぽつねんとしている場違いな空気を崩したくて、俺は古瀬の隣に移動した。
「よ。飲んでる?」
「…あ。え〜と」
「大倉だよ。大倉」
ちょっといい?と場所を空けてもらい、古瀬の隣に座る。
「あのさ、さっきのノート。あれ何?」
「あれですか?あれはですね、大倉さん…」
「あ、さんはいいよ。大倉でいいから」
「なら、僕も古瀬で」
言いながら後ろに置いた鞄をたぐり寄せ、中から1冊のノートを取り出した。開いたページには表のような升目が書かれ、升目のひとつひとつに数字が書き込まれている。よく見ると正方形だけじゃなく、菱形をした升目や、円が重なったようなものもあった。
「これですか?」
「そう、それ。何?」
「魔方陣です」
「マホウジン?」
はい、と答えながら古瀬は指で升目をなぞる。
「この升目の縦、横、斜め、どこを足しても同じ数字になります」
「これ全部?!」
ページをめくると幾つかの魔法陣が書かれていた。ざっと見ただけで升目は一辺で10個前後、多いものは20個近くになるだろう。
「ほんとにその計算、合ってんの?全部?」
「はい。こういう魔方陣には作るのに法則みたいなのがあって、それに数字を当てはめていくんです」
確かめてみますか?という古瀬の声に、いや、いいと答えた。飲んだ頭でするような事じゃない。
「これ、全部古瀬が作ったのか。…大したものだな。俺、文系だからどうもこういうのは苦手で」
「ダメですか」
「正直、こういうのは説明されてもさっぱりだ。…古瀬は数学、強いんだな」
「一応、大学では数学やってます」
返されたノートをどうも、と言いながら受け取り、鞄にしまい込んでいる。俺は皿に残っていた唐揚げをつまみ取り、齧りながら言った。
「しかしマホウジンとかいうと、黒魔術とかあっちの方を連想するよな」
「エロイムエッサイム…とかいうやつですか?」
「そうそれ。よく知ってんじゃん」
「『悪魔くん』とか読んでましたから」
枝豆に手を伸ばす古瀬のグラスに、ビールを注いでやりながら
「…他にも何かあったよな?えっとアブトルダムラルとか何とか…」
「それ、『三つ目がとおる』です」
ビールに口をつけながら古瀬が笑う。
「それだ。よく知ってんなぁ」
「好きでよく読みましたから」
「好きって、オカルトとか?」
「オカルトというか…」
探すように一旦言葉を切り、ボウルの底に残っていたサラダをきれいに浚った。
「子供のころって、そういうの好きじゃないですか。妖怪とかUFOとか未確認生物とか」
「『ムー』系のやつな」
「今でも結構好きですよ」
「俺もだよ。あの胡散臭さがたまんないんだよなぁ」
大人しそうという印象しかなかった古瀬だが、話してみるとなかなか面白いやつだ。
「魔法陣って、図形とか使うじゃないですか。あれ、何の意味があるんでしょうね」
「図形って、黒魔術の方の?」
そうです、と言ってグラスに着いた水滴を指にとり、星形を描いてみせた。五芒星、とかいうやつだ。
「図形や記号との組み合わせで作るのって、何か数学的な意味とか法則とかあるのかなって。あれを数学で読み解けたら面白いと思いません?卒論のテーマにならないかな」
「卒論で黒魔術かよ…」
「新しい切り口でしょ?」
そう言って笑う古瀬を見て、面白いより変わったやつだと思った。
飲み会から数日後。午後の講義を終え、ついでにゼミに顔を出した俺は、暗くなった商店街を駅に向かって歩いていた。どうにも小腹が空いて、しょっぱもんが食べたくてしかたない。ふいに揚げ物のいい匂いがしてきた。商店街の小さな肉屋のケースにコロッケが並んでいるのが見えた。
コロッケか…。旨そうだな。
肉屋のケースの前に立つと、奥に声をかけた。
「すみませーん。コロッケふたつ」
はーい、と返事があり、続いて
「大倉君?!」
「古瀬!」
肉屋の奥から出てきたのは、先日の飲み会で一緒になった古瀬だった。
「え、何?何やってんの?」
「バイトです。コロッケふたつですね。今揚げるんで、少し待っててください」
古瀬はそう言うと手早くフライヤーにコロッケを入れていく。ずいぶん慣れているようだ。油のはじける音と匂いが否応なく食欲をそそる。揚がったコロッケを紙袋に入れて
「百六十円です」
小銭を出す間に
「そこで待っててください。僕、もう上がりなんです」
私服に着替えて、お待たせしましたと出てきた古瀬に、紙袋の中身を見せた。
「一個多いんだけど。しかもメンチ」
「これですか?あの時のお返しです」
「お返し?」
「飲み会のとき。お世話になりましたから。大倉君がいなかったら、ずっとひとりでした」
「…それは義理堅いことで」
熱々のコロッケにサクリと歯を立てる。
「熱…ッ!」
じゃがいものほんのりとした優しい甘みを挽き肉の塩気が引き立てる。熱い油の香ばしさが口の中に広がって、文句なしに旨かった。
「このコロッケ、旨いなー」
「一番の売れ筋商品ですから」
コロッケを食べながら歩き出すと
「僕のアパート、近くなんです。少し寄って行きませんか?」
「…古瀬、一人暮らしなのか。実家はどこ?」
「長野です。山が近くて、冬は雪が大変ですよ。大倉くんは?」
「俺も一人暮らし。実家は栃木。雪はないけど、やっぱ山が近くて、冬は吹き下ろしの風が大変」
俺は誘われるまま、古瀬の後について歩き出した。商店街を抜けた通りまで出て少し歩き、横道へ入る。公園の横の道を折れると三階建の建物が見えてきた。駅から歩いて十分くらいだろうか。大通りより二〜三本中に入っているので、そこそこ駅に近いのにかなり静かだ。
階段で二階に上る。左から三つめのドアが古瀬の住む部屋だった。
「どうぞ、上がってください」
三畳くらいの台所のついた八畳の部屋。押入れ。風呂とトイレ。
「まぁまぁの部屋だな」
「狭いですけど。その辺に荷物置いてください。コーヒー、入れますね」
ハンガーにタオルが干され、壁ぎわに畳んだ布団が積んであって、台所の隅には空になった飲み物の缶やビンが並べられている。適当に片付けられてそこそこに生活感のある部屋だった。机や床に積まれた教科書や参考書に学生らしさが感じられる、その中に混じって。
「古瀬、この本…」
「本?」
床に積まれた何冊かの本の背表紙に『悪魔』『黒魔術』『魔法陣』の文字が見える。コーヒーカップを運んできた古瀬がそれを見て、あぁと声を上げた。
「図書館で借りてきたんですよ。資料がいると思って」
「資料って、もしかして例の卒論の…」
「もちろんですよ」
「マジか…」
まさか本気だったとは。飲んだ勢いの話じゃなかったのか。どうぞ、とコーヒーを勧めてくれながら
「借りてはみたんですけど、まだよく分からないですね」
「分からない?」
「基本的なデザインみたいなのは分かったんですけどね」
積んだ本の中から一冊を出して開く。魔法陣らしい図や記号が載ったページを示しながら
「基本的には二重の円の中に星形の図形を描くのが一般的みたいです。五芒星は護符やお守りみたいな感じで、悪魔に関係するなら六芒星。でも五芒星でも逆さに描くと悪魔を表すとか」
「…逆さ五芒星とか、前に観たホラー映画にそんなのがあったような…」
アメリカの映画だったろうか。古瀬はガサガサとポテチの袋を開けた。俺に勧めながら自分でも二枚ほどつまむ。
「この二重円のところに描かれた記号は、占星術の星座を表してます」
「占星術って、双子座とか魚座とか、ああいうやつ?」
えぇ、と頷いて
「他にも火とか風とか、そういうのを表す記号もあって」
「へぇ〜」
俺は全く知らない話に、ただ感心するしかなかった。
「ただ、時代や地域で色々と違いがあるみたいで。そうなると全然お手上げですね」
なるほど、と俺はポテチを口に入れた。一口に黒魔術と言っても、その歴史は俺たちが想像するより遥かに長いし、入り組んでいるのだろう。
「でもこの短期間によく調べたなぁ」
「面白いですけど、卒論のテーマとしては難しいかも。歴史とか系統とか整理してるだけで時間切れになりそうです」
「…そうだろうな」
「だいたいの構造が分かったら、自分でオリジナルの魔法陣とか描けそうですけどね」
言いながらサクサクといい音を立ててポテチを食べている。そんな古瀬を、俺はまじまじと見た。
「古瀬って、かなり凝り性なんだな」
「子供のころから、結構凝るほうですねぇ」
「でもこれじゃ、卒論のテーマはやり直しだな」
「いいネタだと思ったんですけどね」
「俺も教授に相談して、そろそろテーマ絞らないと」
「大倉君は、どんなのを考えてるんですか?」
ポテチがなくなるまでの間、俺は古瀬と大学の事とかバイトの事とか、その他くだらない話に花を咲かせた。凝り性の古瀬はどうでもいいことでも良く知っていて、話していて楽しかった。何だか人見知りだし大人しそうだけど、話してみると変わっていて凝り性で面白いやつで、俺はすっかり古瀬のことを気に入っていた。一緒に飲んだら楽しそうだ。
「よかったら、また来てください」
「あぁ。今度飲みに行こうな」
玄関先の古瀬を振り返って俺は言った。古瀬はちょっと顔をしかめて
「大勢で飲むのはちょっと…」
「分かってる。サシで飲もう。それならいいだろ」
「じゃ、この部屋で飲みましょう。あそこの肉屋、従業員割引きがあるんです。つまみに何か買ってきますよ」
「いいね。じゃあ、約束しよう」
古瀬は駅まで送ると言ってくれたのだが、この辺りなら何となく分かるし、ひとりでも大丈夫だろう。
「そうだ、コロッケも食いに行くよ」
「お待ちしております」
どこぞのハンバーガーチェーンの店員よろしく、営業スマイルでお辞儀をする姿に手を振って、俺は階段を降りた。
次に古瀬に会ったのは半月くらい後だった。大学は広いし、学部やゼミが違えば行動範囲も違ってくる。しばらく会ってなかったが飲む約束もしたし、バイト先も知っているし、コロッケも食べたいし、近いうちにちょっと寄ってみようか…。ちょうどそんなことを考え始めたころ、大学の中庭のベンチに座っている古瀬を見かけた。芝生の緑が鮮やかな中庭では学生が友人たちと賑やかに過ごしていたが、その中でもやはり古瀬はひとりでぽつねんとしていた。
(あいかわらずだな…)
飲み会での古瀬を思い出し、苦笑いしながら近づいていく。
「よう。久しぶり」
声をかけた俺を、古瀬は見なかった。視線は一ヶ所に固定されたまま動かない。
「おい?」
聞こえなかった…?それとも気づかなかった?(目の前にいるのに?!)まさか別次元に行ってる?(こいつならあり得る)
「古瀬?」
瞳がわずかに揺れるのが分かった。固定されていた視線がゆるりと動いて俺を捉えた。
(あれ?)
「あぁ、大倉君…」
気怠げな声。
「古瀬、どうした?具合でも悪いか?」
「……」
鈍い反応に、ふいに心配になる。俺を見る目が、うっすらと赤味を帯びていた。
「何だか目が赤いぞ?大丈夫か?」
「目…」
古瀬は片手を目に当てた。痛みがあるのだろうか?
「…そんなに赤いですか?」
「あぁ、充血してるみたいだ」
古瀬は俯くと黙り込んでしまった。この間とまるで違う様子に不安がつのる。
「具合悪いんだろ?帰った方がいいよ。送って行こうか」
「いえ、そこまでは…。大丈夫です、帰れます」
そう言ってふらりと立ち上がる。何というか、気配が薄い感じがする。
「おい、古瀬…」
呼び止めた声は聞こえなかったのだろう。振り返ることなく歩いて行く後ろ姿を、俺はただ見送った。
あのときの古瀬の様子がどうにも気になる。大学では会うことが少ないし、共通の友人にも心当たりがないから、大学で古瀬の様子を知るのはかなり難しい。通学の途中に商店街を通るたび、それとなくバイト先の肉屋を窺ってみたが、休みなのかたまたまシフトに入ってないだけなのか、古瀬の姿は見えなかった。具合が悪くて寝てるのかもしれない。俺は少し迷って、古瀬の部屋を訪ねてみることにした。
大学帰りの夕方、ポカリとレトルトのお粥とカップ麺の蕎麦と蒸しパンが入った袋を下げて、チャイムを鳴らす。出てこない。中の様子を窺って、チャイムを鳴らす。出てこない。寝てるのか?チャイムを鳴らす。出てこない。もしかして出かけてる?
どうしたものかと思っていると、中からカチャリと鍵が開く音がして、ドアが薄く開いた。隙間から古瀬がそっと顔を覗かせる。
「大倉クん…」
「古瀬!その目、どうした?!」
細く開けた隙間から俺を見るその目は真っ赤だった。充血なんてもんじゃない。白目は血色に染まっていた。
「こレは…何でもなイです」
「んなワケあるか!」
これはおかしい。古瀬に何か、ひどく悪いことが起きている。
「お前医者行ったのか?ちょっと開けろよ」
ドアの隙間に肩を入れ、強引に中に押し込んだ。そのまま身体ごと捩じ込むようにして古瀬を押しのける。
「とにかく、中入れろって!」
俺の勢いに押されたように、たたらを踏んで後ろに下がる。その隙にさらにドアを開けて玄関に入り込んだ。部屋の中は薄暗かった。カーテンが閉めてあるらしい。明かりも点けず、暗い玄関に立ち尽くす古瀬を見て、言いようのない違和感を覚えた。
何だろう。何かが…おかしい。
「古瀬、大丈夫か?どこか痛いのか?ちゃんと食べてるか?」
俯いて黙ったままの相手に構わず話し続けた。古瀬から感じる違和感は、俺をひどく不安にさせた。その不安を打ち消すように喋り続ける。自然と早口になった。
「こないだ会ったとき、具合悪そうだったろ?寝込んでるんじゃないかと思って、いろいろ買ってきたんだ。そうだ、カップだけど蕎麦がある。これ食べたら体が温まるぞ」
台所借りるぞ、と玄関に上がり込み、無言で俯く古瀬の横をすり抜けようとして、
(あれ…?)
目が、古瀬の肩辺りに止まった。何だろう、何だかおかしい。上手く言えないが、肩から背中にかけて
(何か、形がおかしくないか…?)
長袖Tシャツを着た肩が歪な線を描いている。腫れたように膨らんでいる。
俺はさっきから感じていた違和感の正体に気づいた。古瀬の体全体が、どこか歪なのだ。
「…お湯、沸かすからな」
玄関から台所に向かう。何があったのか、とにかく話を聞かなければ。やかんに水を入れて火にかけ、部屋に入る。
「暗いから、電気点けるぞ」
「点けなイで!」
初めて聞く強い声に振り向くと、部屋の入り口に古瀬が立っていた。
「目が…マぶしいので、明かりは点けないでくだサい…」
「…分かった」
湯が沸くまでの間、俺も古瀬も無言だった。火がやかんの底をあぶるチリチリという音と、水の温度が上がっていくコンコンという音だけが響いていた。
「座ってろよ」
こくりと頷いて部屋に置いてあるテーブルにつくのを見ながら、カップ蕎麦の包装を開けた。粉末スープとかやくと天ぷらを入れているうちに湯が沸騰し、中に注ごうとしたが手元が暗くてよく見えない。
「流しの電気だけ点けるからな」
再び頷くのを見て、流しにある蛍光灯の紐を引いた。薄暗かった台所が白い光に照らされ、カップ蕎麦のパッケージが鮮やかに浮かび上がる。床に転がったゴミ袋、食べかけのままの菓子パン、使ったまま置かれたマグカップやコップ。最初に来たときはそれなりに片付いていた台所が、明らかに雑然としていた。湯を注いだカップ蕎麦に割り箸を添えて、古瀬のもとに向かう。
「はい、お待たせ。…てか、俺勝手に蕎麦にしちゃったけど大丈夫?もしかして、うどんのが良かった?」
「…いエ、大丈夫です」
「そうか。熱いうちに食えよ」
いただキます、と呟く古瀬の声にも、俺は違和感を覚えていた。何というか…所々声がダブって聞こえる。喉を痛めて声がかすれるのとは違う。古瀬の声はちゃんと聞こえる。その声の影に、微かに別の声が聞こえる気がしてならないのだ。割れたスピーカーの音を聞くような不快感が、胸をざわつかせる。
古瀬が蕎麦を食べている間、それとなく部屋を見渡した。壁ぎわに丸められた布団。メモが挟まれ、あるいは開かれたままの何冊もの本があり、破られて散らばったノートのページには、幾つもの図形が描かれている。
あらかた蕎麦を食べ終わったのを見計らって
「うまいか?」
無言でこくりと頷く。
「ちゃんと食べてたか?」
これにもわずかに頷いた。
「で、何があった?その目は一体どうしたんだ?医者には診せたのか?」
俯いて黙り込んだままの古瀬は、話したくないというより何をどう話そうか、迷っているように見えた。
やがて真っ赤な目を少しだけ俺に向けて
「…ちょっトした好奇心ダったんです。実際にやってミたらどんナ感じなのかなって」
「実際にって、何を?」
「全ぜン信じてなカったんです。だから冗談のツもりで試してみタ。まさかコんな事になるなンて、思ってもみなくテ」
「だから試したって、何を!」
「…マ法陣」
古瀬の声は細く消えそうだ。
「魔法陣ヲ使ってみタんです」
続く古瀬の話は、言葉をなくすのに充分すぎるくらいだった。
魔法陣を卒論のテーマにするのは難しいと分かったが、凝り性の古瀬はそのまま好奇心にまかせて黒魔術や魔法陣について調べていたようだ。特に古瀬が興味を惹かれたのは、やはり魔法陣のデザインだった。伝統的な構図を元に、さらに数字やアルファベットなども加えて幾つか作ってみたらしい。アニメや漫画で見た魔法陣を実際に自分で描くのは、とても面白かったのだという。
「せっカく自分で作ってみたシ、真似事デいいからやってみたイと思って」
そこで実際に魔法陣を使ってみたのだ。
「やり方ハ、本に書いてあったノで、そレを見て…」
儀式で使うロウソクは商店街で買えたし、香草の類はスーパーで手に入れた。もちろん用意できない物もあったが正式な儀式をするワケじゃなし、とりあえず手に入る物だけでやってみることにした。
「場所はどうしたんだ?ここじゃ出来ないだろ」
アニメや漫画はともかく、黒魔術の本に載っている儀式の様子を見る限りでは、魔法陣はそれなりの大きさに描かれている。さらにロウソクを灯したり、供物を供えるのだ。布団や家具がある古瀬の部屋では、現実問題として広さに無理がある。
「駅ノ向こうガわの、海の岩場のとこニ隙間がアって…」
駅を越えて少し歩くと海に出る。小さな浜を右手に行くとすぐに岩場になり、そこに人が入れるくらいの隙間があるというのだ。入り口は狭いが、中に入るとそこそこ広い空間になっているという。
「ソこに魔法陣を描イて、ロウソクを立てテ…」
本の中の儀式の手順が載っているページのコピーをとり、用意した物を持った古瀬は夕方、その岩場に向かった。明るいうちは浜に誰かいるかも知れないし、夜暗くなってからではさすがに怖かった。夕方、人気がなくなってから岩場に行き、コピーを見ながら手順を踏んで魔法陣を描き、儀式を行った。儀式としては不完全だが、当の古瀬は本気で黒魔術を行うつもりじゃないから、それでも充分だった。
描いた魔法陣の線に、ピリ、と光が走ったのだという。
「光…?」
古瀬はこくりと頷いた。
最初、単発的に走っていたそれは、やがてその距離と時間を長くし、魔法陣全体を走るようになった。ロウソクとは違う淡い光で空間が満たされ、思わず古瀬は目を閉じた。しばらくの間光っていたようだが、やがて徐々に暗くなっていくのを、閉じた目蓋の裏で感じていた。
今のは何だったんだろう。何が起こったんだろう?まさか…
その光がすっかり消えてから、古瀬はおそるおそる目を開けた。そこに見えたのは、
「はぁ?」
それを聞いた俺の声は、思わず裏返った。
「に…肉?!」
「肉…に見エました。豚足みたいナ…」
このクらいの、と古瀬は両手で何かを掴むようにして、二十センチほどの塊を示した。
「……」
しかし、なぜ肉?貧乏で貧相な大学生に栄養でもつけさせようってのか?だとしたら、何とも有り難い話だ。
「…で、その肉みたいなの、どうした?」
この笑い話のような下りで、俺の緊張はすっかり解けてしまった。魔法陣で悪魔じゃなく豚足が出てくるとか、あり得ない。何の冗談だ。
ところが古瀬は黙り込んだまま、顔を強張らせている。
「…おい、まさか、」
「何デあんなことをしタのか、自分でも分カらなイんです…」
光が消え、現れた肉らしき物を見た瞬間、古瀬は今まで感じたことのない空腹感に襲われた。
それは空腹感より遥かに激しい飢餓感で、まるで餓鬼のように、
「喰った…のか?」
「ハッと正気に戻っタのは、肉にツいた蹄を見たときデした…」
蹄。
それを聞いたとき俺の脳裏に浮かんだのは、本に載っている、漫画に描かれている、上半身は男で捻れた角を持ち、下半身は黒い毛に覆われたヤギのようで、その足の先には蹄が。
俺はまるで自分がその肉を喰ったように、口もとに手をあてた。
「もちろン、すぐに吐き出シました」
ワケの分からない体験をし、得体の知れない肉を喰ってしまった古瀬は怖ろしくなり、部屋に逃げ帰ってきたという。
「ソれから何日かは、何デもなかっタんです」
悪魔に憑かれたかもしれない。この部屋に現れるかも。そんな不安をよそに普段どおりに日常は過ぎていき、悪い夢だったんじゃないかと思い始めたころ。
「体がだるくテ、耳の奥ニ綿が詰まったミたい、頭ガぼうっとして」
風邪かと思い、薬を飲んだが治らない。目が赤くなり始め、体中がギシギシと音を立てるように痛んだ。肩に触れてみると、手の下に何かが当たる。翌日にはさらに大きくなり、背中や腰にも同じようなものが出来た。そのまま肩や背中が不自然に大きくなり、古瀬は自分の体が歪み、自分ではないナニかに変化しているのを知った。
「僕は、ドうなるんでしョう?どうしたラ良いんデしょう…?!」
古瀬は両手で顔を覆った。指の隙間から震える声を押し出す。
「このマま僕は…!」
この告白に、俺は言葉が出なかった。あまりにも常軌を逸している。とんでもなく趣味の悪い冗談だとしか思えない。だけど目の前で震えている細身の体は不自然に膨らみ、妙な線を描いて歪んでいる。
古瀬に怖ろしいことが起こっているのは分かった。だがこれをどうにか出来るのか?
俺はただ、途方に暮れた。
古瀬の身に起こっていることを、どうにかしなくてはならない。ならないのだが、
だけど、どうすれば…
俺は大学の講義を全て休み、図書室に籠もって様々な資料をあたっていた。
ああいう場合はお祓いだろうか。もちろん、霊能力者にツテなんてない。この辺りだとお寺か神社くらいしかないけど、黒魔術や悪魔というとやはりキリスト教だろう。悪魔祓いとかいうやつか?そんなの、どこでやってくれるんだ?そもそもほんとに悪魔祓いなんてあるのか?
誰かキリスト教に詳しいやつがないだろうか。タツの知り合いに誰かいないか。
いや、見つかるまで時間がかかるだろう。ならいっそお寺か神社に相談してみるか。でもお寺は仏教で神社は神道だ。宗教の違いは問題にならないだろうか。
解決策の手掛かりが見つからない。資料で見る限り、悪魔祓いで祓われる悪魔というのは、人間の「精神」に取り憑いているようだ。それを呪術的な儀式で取り除く。聖書や呪文や聖水を使って。
だが古瀬の場合は違う。古瀬は精神ではなく、物理的に「身体」を乗っ取られている。変形し歪んでいく体がそれを物語っている。そんな古瀬を救う方法なんてあるのか?完全に行き詰まってしまった。
古瀬はどうしているだろう。あの状態では部屋から出られないはずだ。何か食べるものを持って行った方がいいだろう。俺は古瀬の部屋に向かった。
「古瀬、俺だよ。いるか?」
チャイムを鳴らしたあと、中に向かって声をかけた。物音がして古瀬が動く気配がした。ドアのすぐ向こうに古瀬がいるのが分かる。だけどなかなかドアが開かない。開けるのを躊躇っているのが分かった。
「食べるもの、持ってきたんだ。開けてくれよ。食べなきゃもたないぞ」
「…アリがとウゴザいマス」
ドアを隔てた向こうから聞こえてくる声に、俺の背筋がざわついた。古瀬の声が変わってきている。ナニかの声とダブって聞こえるところが、昨日よりも増えている。
「ドアノブにカケテオイテくださイ。後でトリマスから…」
「開けろ、古瀬!」
俺は低く叫んだ。
「だめだ、ドア開けろ!」
中でさらに躊躇う気配がする。
「大丈夫だから、とにかく開けてくれ」
しばらくして、部屋のドアがわずかに開いた。
「…入るからな」
明かりが消された暗い玄関に古瀬がいる。暗がりに浮かぶそのシルエットに、俺は息をのんだ。正面から見て分かるほど、肩が盛り上がっている。腕も足も奇妙に捻れ、腕は左右の長さが違っていた。
明らかに昨日より状態が悪化している。
「オオクらくン…」
俺の名を呼ぶ語尾が震えた。
「モう、こンナのヤダ…!」
たスケテ…。その場にうずくまって泣き出す古瀬の前で、ただ立ち尽くすしかなかった。
俺は自分の部屋に帰り、分厚いタウンページを引っ張り出した。
あれほど急激に変形が進むとは思わなかった。とにかく時間がない。事態は予想以上に切迫していた。もう宗教がどうとか言っていられない。寺でも神社でも何でもいい。すぐにでも古瀬に憑いたナニかを祓ってもらわなくては。祓ってどうにかなるモノなのかは、分からないが…。
タウンページで、この辺りのお寺や神社の電話番号を片っ端からメモしていく。教会の番号も見つけたらチェックした。もう夜だが、今から電話をかけても大丈夫だろうか。いや、躊躇ってるヒマはない。俺は受話器を取った。
古瀬を連れて行く方法も考えなくてはならない。誰かから車が借りられないだろうか。免許は一応持っている。運転は久しぶりだが、俺が行くしかない。他のやつに今の古瀬の姿を見せるわけにはいかない。
「もしもし?夜分遅くすみませんが…」
頼む。頼む。誰か…!
俺は祈りながら電話を掛け続けた。
眠れない夜をすごし、翌日も朝から電話をかけた。急な話だからかそれとも荒唐無稽だからか、受けてくれるところが見つからない。メモした番号全てに電話をし、ダメだと分かるとまた最初からかけ直した。しつこいのは分かっているが、引き下がるワケにはいかない。諦めるわけには…。
「あの、昨夜電話した者ですが…」
これでダメなら新しく調べた方がいいだろうか。気ばかり焦るが事態は進展しない。
「無理なお願いをしているのは分かっているんですが、何とか出来ないでしょうか」
「一般的な祈祷ならともかく、悪霊のお祓いとなるとそれなりに準備がありますから、今すぐという訳には…」
やはりダメか。落胆しかけたとき、
「うちでは無理ですが、別の寺院でそういうのに詳しい人がいるので、遠いですがそちらに行かれては」
「…!ほんとですか!」
住所と電話番号を聞き、礼を言って電話を切った。住所は知らない地名だったが行くしかない。車は誰かに借りるより、レンタカーの方が早いだろう。本屋で地図を買って場所を確認しておかなくては。
何とか…何とかなるかもしれない。
これを早く知らせてやりたい。何より古瀬の様子が気になる。
俺は部屋を出て古瀬の元へと走った。
「古瀬、古瀬」
中に呼びかけながら、忙しなくチャイムを鳴らした。
「俺だよ、古瀬。いい話だ。何とかなるかも知れない。開けてくれよ」
古瀬が玄関先に出てこない。玄関まで出てくる足音がしない。
「おい、古瀬?」
そのまましばらく待ったが反応がない。迷いながらドアノブに手をかけてそっと引くと、暗く隙間が現れた。抵抗なく開いたドアから中を覗いたが、その向こうに古瀬の姿はない。
「入るぞ…?」
一応声をかけてから、そろりと足を踏みいれた。どうしたんだろう。状態が悪くて起き上がれないのだろうか。それにしても気配が全くない。ヒソとも物音がしないのだ。
「おい、古瀬…?」
台所の入り口から部屋の様子を窺おうとして、俺は異様な雰囲気に気づいた。カーテンが閉ざされ明かりの消された薄暗い部屋が、ひどく荒れている。
「古瀬、いないのか?!電気点けるぞ!」
流しに駆け寄り、蛍光灯を点けた。白い光に照らされた空間に妙な形の物が散乱している。
最初はいくら見ても、それが何かは分からなかった。何だ、これは。
台所中に転がるビンらしきものはどれも中程が握り潰されていた。灼熱の手に掴まれ、その熱で熔かされたまま強く握られたような形で曲がり、潰されている。缶に至っては、はっきりと熔け、変形していた。
何が起こったのか?声もないまま立ち尽くし、古瀬は?!と気づいて部屋に向かった。蛍光灯の作る光の届かないところに足を踏み入れる。
「電気点けるからな!」
明るくなった部屋の中を呆然と見渡した。理解が全く追いつかない。
まず目に入ったのは千切れた何かだった。それが布団だと分かるのに、かなりの時間がかかった。布が切り裂かれて中の綿が出ているのではない。布団の中の綿ごと、幾つにも千切られている。ボール紙でも裂くように。
引き千切られた教科書、ノート。
部屋中にばら撒かれた布団の残骸と紙片の間に転がるのは、真っ二つになったテーブル。
古瀬は、いない。
どうしよう、どこに行ったんだ?!
おろおろと部屋を歩き回ると、足下に散乱した紙に何か書かれているのが目に入った。
『助けて』
『助けて』
『誰か』
取り乱した字で書き殴られた、古瀬の叫び。得体の知れないモノに憑かれ、身体が乗っ取られていくその恐怖の中で
『どうか、ぼくを忘れないで』
俺に宛てたメッセージだと分かった。その側に散った紙片には、二重円の中に星型の図形が描かれている。
駅の向こう側の、海の岩場のとこに隙間があって…
あそこか!
次の瞬間、俺は古瀬の部屋から駆け出していた。
俺はそのまま走って駅を越え、海岸を目指した。古瀬が魔法陣を使ったところ。得体の知れない体験をしたその場所に向かって。
小さな浜を右手に。海岸を走る道路の下、数メートルの崖になっているところにゴツゴツとした岩場があり、岩と岩の隙間に人が入れそうなほどの穴が切れ込んでいた。息を切らせながらたどり着いた俺は、音を立てないよう、隙間からそっと入り込んだ。中には古瀬がいるはずだ。ゴツゴツした石に足を取られないように進むと、その先に空間があるのが分かった。進みながらあの異様な部屋の様子を思い出して、急に怖ろしくなってきた。古瀬がいるのは分かっている。だが、それは古瀬だろうか?
足を止めた俺は、息を殺してその先を見つめた。入り口から漏れた光が中を薄く照らし、何とか見える程には明るくなっている。かろうじて平らになっているところに、途切れ途切れに白い線が見える。消えかかっているが、あれが古瀬の描いた魔法陣だろう。そして
その中央に、そいつはいた。
驚愕と絶望の声は、喉の奥に詰まって消えた。
古瀬の細身の体は倍以上の大きさになっていた。明らかに腕の長さがおかしい。立っているのに手が地面に着いている。盛り上がった肩からは角のようなモノが肩から背中にかけて何本も突き出し、ざわりざわりとうごめいている。その体を支える足は歪んで捻曲がり、
古瀬は、人の姿をしていなかった。
俺の見る前でそいつはわずかに頭を上げ、何か声を上げた。その声はもう古瀬のものではなく、言葉すら失っていた。
「…ぐぅッ…!」
思わず漏れたうめき声が聞こえたのか、そいつはかくりと頭を倒してこちらを見た。不自然な角度に首が曲がり、とろりとした血色の目が俺を捉える。と、ぞろぞろとその長い腕を伸ばしてきた。
古瀬…じゃない!
俺は恐怖で頭が真っ白になった。叫びは声にならなかった。萎えて力が抜ける足を懸命に動かし、必死で隙間をくぐって外に出た。
あそこから出てくるんじゃないか?
恐怖に追われて縺れる足で転がるように走り、俺は後ろも見ず海岸を抜け、街へと逃げ込んだ。
「大倉さぁ、古瀬って覚えてる?」
あれからひと月ほどが経っていた。
あの日海岸から逃げ帰った俺は、自分の部屋でショックと恐怖に震えていた。異形としか言いようのない姿が、脳裏に焼きついて離れない。伸ばされた腕が自分の足を掴む夢を何度も見た。
公園の横の道を折れたところにある三階建の建物。左から三つ目のドア。
情けないことに、俺は再び古瀬の部屋に行くことさえ出来なかった。
あそこで見たモノは何だったのか。実際に存在していたのか。俺が体験したのは本当にあったことだったのか。おかしくなっていたのは俺ではないか?自分の記憶が不安になり始めた頃、ゼミでタツに声をかけられた。古瀬という名にどきりとする。
「…古瀬?」
「そう。いつかの飲み会で一緒になったじゃん。大倉、何かよく話してたみたいだけど、覚えてない?」
「いや、覚えてるけど…。古瀬がどうしたって?」
「何か古瀬、行方不明になったって」
「行方不明…」
あの日、あそこから逃げ帰ったあと、古瀬がどうなったのか俺は知らなかった。知らなかったが、何となく分かっていた。
古瀬は、もういない。
「実家の両親が捜索願い出したんだって。古瀬、大学に友人とか知り合いとかあまりいなかったみたいだし、大倉なら何か知ってるかと思ってさ」
古瀬の実家は、確か長野だったか。山が近くて雪がすごくて。
「何か古瀬のアパート、中スゴいことになったんだってよ。すごい荒らされてさ。何か事件に巻き込まれたんじゃないかって噂も出てる」
「ふうん…」
俺は古瀬を知っている。古瀬がどうなったのかを知っている。
でも誰かに話すわけにはいかない。話しても信じてもらえないことは、よく分かっていた。
どうか、ぼくを忘れないで。
忘れたくても忘れられない。忘れることは出来ない。
古瀬のことは、俺の中で一生抱えて生きていくのだろう。
それから季節が変わり年が明け、地元のローカルニュースに一つの記事が載った。
沖合いで漁をしていた漁船が、見たこともない生き物の死体を引き上げたという。腐敗が進んでいたため甲板に上げた写真だけ撮り、死体そのものは海に流した。新種か、未確認生物かと一時期話題になったが、次々と出てくる新しいニュースの波に飲まれて、次第に忘れられていった。
あれから三十年近く経ったが、俺は未だに古瀬の行方を知らない。
〈了〉




