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交差道

 ひとつ、昔話をしよう。そしてまた笑っておくれ。


 「こんばんは、美樹さん。一緒に来てくれるかい?」

 そう言って差し伸べられた手。その人の暖かでどこかで触れたことのあるような雰囲気を醸し出している。その空気に私の記憶の片隅が疼く。私がその手を取ると彼は柔らかに微笑んだ。

 その人は曲がりくねった道を前だけを見て迷いなくすいすいと進んでいく。どこに辿り着くのは分からない。しかし、彼についていけば大丈夫という妙な安心感があった。

 すっと彼が止まった。目の前には青く暗い海が広がっている。私はその色が恐ろしくて彼の手を強く握る。彼は私の手を握ったまま、ゆっくり、しかし確実に一歩ずつ海に近づいていく。私の足は凍り付いたように動かない。

「怖がらないで、大丈夫」

 言葉が脳味噌に辿り着いても末端まで言葉は効かない。彼は私の絡みついた指を自分の手から一本ずつ剥ぎ取り、子猫を抱くかのように私をふわりと抱き上げた。そして歩を進める。脳は反抗する、手足は暴れる。それでも彼は私を離さない。足が海水に使ってもなお、歩みを止めない。水は頭まで私たちを覆った。苦しくはなく、逆に優しく包み込む。彼は私を抱いたまま深く深く潜り込んでいく。私は反抗するのを諦めて彼に体を預け、目を瞑る。辿り着く先を私は知らない。


 水の気配が消え去り、私はゆっくり瞼を持ち上げる。だだっ広い土地に家と畑がぽつぽつとある町。根を張り空に向かって伸びようとする草木の匂いに記憶が刺激される。

 町の傍に屹立する山で遊ぶ一人の少女がいる。彼女は一人で野山をかけ、木々の間を抜け小川を飛び越える。一人だって独りじゃないのだ、彼女には人ならざる山に生きる者が見えるのだから。山にいる木霊や妖たち。彼らと話すことはなくてもそこに居て受け入れてくれることは分かるのだ。


 少女がセーラー服を身に着けるころになるともう野山をかけることはなくなった。人ならざる者も見ることが減った。そんな中町の中で見たひとりの男。彼には立派な尾が見えた。思わずじっと見えていると男が近づいてきた。

「君は……」

「あなた、人間じゃないでしょう?」

「何を言っているんだい?」

「だってほら、」

 ぴょこぴょこと揺れる尻尾を掴むと男はたちまち狐へと姿を変え、森へかけていった。

 一か月後、その男は彼女の前に現れた。

「君は何者なんだ?」

「ちっちゃい頃からいろんなものが見えるの。母さんもおばあちゃんも昔は見えたらしいから血筋だと思う」

「へえ」

 それ以降、男は彼女に近づこうとしたが年頃の彼女は小さな町で男と噂になるのが嫌で彼を避けた。彼女が避けているの気付き、彼は去っていった。

 彼女はしっかり者で頼られる人。そんな自分で在りたくて二本足で踏ん張って立つ。頑張っているだけなのにいい子ちゃんっぷりが気に入らないと虐められ泣きそうになる時もあった。辛いとき彼女は昔馴染みの森の中を緩やかに流れる小川へ行く。そんなとき現れたのはあの男だった。彼は何も喋らず彼女の隣に座る。その距離感と沈黙はとてもやさしく凝った心が緩やかにほどけていくようだった。

 彼と一緒に森の小川を眺めていると張りつめていた心がゆるゆると溶けていった。ぽつりぽつりと彼に誰にも言わない胸の裡を話した。彼は彼女の話を聞き、そっと彼女の背を押した。彼女の心は決まった。


料理人になるという夢を叶えるために高校卒業後家を出る。素朴で柔らかな匂いの町に別れを告げ、雑多で尖った匂いの街に身を浸す。学校に行き、アルバイトをしているうちに時計の針はくるくる回る。もう人ならざる者は見えない。それらがこの都会の街にいないのか、見えなくなったのかは分からない。

 二十歳の誕生日をバイト先の小さな洋食店で迎える。閉店後にビーフシチューといちごケーキを食べそして初めてワインを飲む。店主のお父さんとお母さん、そしてバイト仲間から祝ってもらい身も心も満たされる。帰り道、バイト仲間から誕生日プレゼントをもらう。そこに添えられた言葉は消え入りそうな「君のことが好きです」だった。バイト仲間である彼は大木の様にがっしりした体と柔らかな言葉と心を持っていた。

 二人は付き合い始める。初めてのお付き合いに彼の大きな手を繋ぐだけで頬が熱くなる。学校とバイトの間を縫い二人の時間を重ねる。笑いあい、時には喧嘩しながら思い出を積み上げていく。

 大学を卒業し、彼女は飲食店に就職、彼はレスキュー隊員になる。二人の世界は広がり重なる時間は減っていく。面倒見が良くて姉御肌な彼女が漏らした「寂しい」という言葉。彼は彼女の手を握った。

じゃあ(・・・)約束しよう(・・・・・)。僕はこの手を離さないと。一緒に暮らさないか?」

 彼女はこくりと頷いた。そしてふんわりと日の差し込む海辺の町で暮らし始めた。互いに思っていたよりズボラな一面を見たり、寝起きの癖を発見したり。新鮮で楽しく、でも一人になると不安になって。一人で寝ていると、時々ひっそりと優しくどこか懐かしい気配を感じることがあった。めくるめく日々は過ぎていく。


 数年後二人は結婚する。あの小さな洋食店に大好きな人たちが集い、お祝いの言葉を贈って行く。それは温かく胸を埋めていって忘れられない時を刻んでいった。

 彼との子を授かる。彼は手放しで喜び、彼女のお腹を撫でる。

「この子は女の子のかな、男の子かな?」

「どっちだろうね」

「女の子だったら昔から付けたいと思っていた名前があるんだ」


 ふいに私の頬に熱いものが伝った。手で拭うとそれは透明な液体で止まることを知らない。

 

物語は続いていく。出産日までの日数に指を折る。生まれてくる子を想って将来を語る。

 それはじめりと服が纏わりつく日だった。彼女は彼を送り出す。そして実家に帰る準備を始める。出産の為実家に帰ることにしたのだ。午後から雨が風を連れてやって来た。静かにそして轟々と音を立てて吹き荒れ始めた。今日彼は海に出る日の筈。彼女の心に雲がかかる。妙な胸騒ぎ。

 電話が鳴り、彼女はそれを取る。電話口から聞こえる声が彼女の心を深々と刺す。電話が切れ、受話器を戻す。そのまま彼女は床に座りぼんやりと天井を眺める。あれほど五月蠅かった音ももう耳には届かない。彼女はすっと立ち上がる。明日実家に帰るんだなと思い出し、準備を再開する。

 そう、この言葉にならず、現実が認識できない感覚を私はよく知っている。彼女は私。電話を受けた日、彼が帰ってきたら一緒に食べようと思っていた味噌汁をただひたすら飲んでいた。


 空っぽの心と重いお腹を抱えて実家に帰る。どうやって帰ったのかは全く記憶にない。両親の言葉も祖母の言葉もどこか遠い国の言葉のように聞こえる。ある日、扉が音を立てて開かれた。

「ねえ、帰って来たわよ!」

「何が」

「大地さん!」

 扉の奥から見慣れた夫の姿が現れた。その姿を見て私は座り込んだまま動けなくなった。


 サイダーの似合う青空の元、生まれてきたのは女の子だった。大地さんのくれた「美波」という名をつける。

 美波を中心に考える暇もないほど怒涛の日々が始まる。大人たちに可愛がられ、美波はすくすく育っていく。彼もおっかなびっくり美波を抱き、私に微笑みかける。私もちくりとした痛みを見ないようにして微笑み返す。

 子どもの成長は早い。この間まで寝返りを打つのに必死だと思っていたら、ハイハイをし始め立ち上がる。泣くことが仕事だと思っていたらむにゃむにゃ喋り始めママと呼んでくれた。美波の一つ一つの仕草や成長を隣で見守ってくれた彼。私が手を握ると彼はびくりと反応しこちらを見た。

「どうしたの?」

「ううん、何でもない」

「そう」

「……、ねえ手を握っていてくれる?」

「君がそう望むなら」


 時間は嵐のように過ぎていく。ある日随分と口が達者になった五歳の美波が泣きながら部屋に飛び込んできた。

「お母さん、お父さんがいなくなっちゃなった」

「何をしたの?」

「お父さん今日しっぽがいつもよりぴょこぴょこしてたの。だからね、ギュってしたらどっかに行っちゃったの」

 私は美波の話を聞いて心のどこかで妙な安堵感を覚えた。私にはもう見えない尻尾が見えるこの子が打った終止符。あの人が大地さんでないことはとうの昔に分かっていた。それでも、大地さんの姿で隣にいてくれるあの人に甘えて空っぽな心を埋めて、そのぬくもりを自分から手を離すことはできなかった。でもこれで家族ごっこはもうおしまい。

「あの人はね、帰るべき場所に帰ったの」

 私は美波を連れて都会に戻ることを決心した。決心が鈍らないうちに荷物をまとめる。彼の部屋を片付けていると戸棚から包装された小箱が出てきた。開けてみると黄金色の石が埋め込まれた指輪がぽつねんと輝いている。私はそれをしばし眺めて、鞄の奥隅に入れた。奇しくもその日は私の誕生日だった。


 知り合いを頼って街に出て母子二人暮らし始める。美波は小学生、私は飲食店で働き始める。働きながら子育てすることは想像以上に過酷で泣きたくなる夜もあった。でも美波の笑顔や成長に涙のこぼれる朝もあった。人の優しさに、誰かの温もりに救われて私は立ち続けた。

 美波はくるくる動く元気な子に育っていった。運動神経の良さは大地さん譲り。お姉さん気取りなところは私似と大地さんなら言うだろうか。学童に私が迎えに行くと楽しかったことを話してくれるが夜寝るときはぎゅっとくっついてくる。寂しさを隠しちゃうところは私に似たようだ。

 運動会のリレーの選手に選ばれ真剣な眼差しで走る。ランドセルをほっぽり出して遊びに行く。仮病を使って学校を休む。友達とお泊り会をする。喧嘩して泣きっ面で帰ってくる。一日、一週間、一か月が積み重なり私たちの分厚いアルバムになっていく。

 ランドセルに別れを告げ、セーラー服に身を包む頃には会話は随分と減った。部活に恋にと忙しそうだ。それでも私が家にいない分家事をやってくれる。「お母さんがやるより早いから」と言うだけあってとても手際が良く我が娘ながら誇らしい。

 美波が高校生になった時、私は同業の建太さんと再婚した。陽気で私たちをいつも笑わせてくれて、美波も心を許した人。彼とずっと夢見ていた自分たちのお店を持った。すべてが初めてで頭を抱えた時もあったが、新鮮で面白い日々だった。

 美波の二十歳の誕生日に実家を出て以来初めて実家に足を踏み入れた。抜けるような青い空と通り抜ける風。畳の上で目を瞑って寝そべるとあの頃のことがぽつりぽつりと頭に浮かんだ。

「初めて来たけど良いとこだね」

「うん」

 あの頃と隣にいる人は違う。でもいつだって隣にいてくれる人はとても優しい人。私はしばし思い出に身を浸す。

「ねえ、ちょっと後で(・・・・・・)付き合って(・・・・・)ほしいんだけど(・・・・・・・)

 その言葉はするりと私の中から抜け出してきた。


 帰る途中、私は建太さんと美波と共に大地さんのお墓に寄り手を合わせた。大地さんは深く激しい海に消え、ここには何も眠っていないことは百も承知だ。それでもここに来たら大地さんが本当に死んでしまう気がして今まで一度も来ることが出来なかった。今でも海はとても怖い。でも、もう私はこの人たちと一緒に生きていけるから。あの約束は貴方が守っていて、見守ってくれていると思えるくらい強くなれたから。

*

 隣に立つ彼女の横顔を私は見る。その瞳に映るのは遠い過去。笑い、泣きながら過去を見つめ続ける。どれだけの時間が経ったのだろう。彼女は瞬きをして辺りを見回した。私と目が合う。その目は大きく見開かれた。

「あなたは……」

「ただの妖さ」

「私分かるわ。ずっと私の傍にいてくれたでしょう」

「私が君の傍に居たかったんだ。ねえ、一つ昔話を聞いてくれないか」

「聞くわ。でもね、私最近すぐ忘れちゃうの」

 そう言って寂しそうな表情を浮かべた。

「忘れてもいい、私が話したいだけだから」

 私は小さな彼女の体を抱き上げる。そしてふわりと跳んだ。

「ここは……!」

「あの森だよ」

 馴染み親しんだ森。ちろちろと流れる小川の傍に二人で腰を下ろす。

「ひとつ、昔話をしよう―」


 私がまたちっぽけな子狐の頃、飛び跳ねることがただ楽しくて転げまわるように走っていて誰の注意も聞かなかった。そんなことをしているから転げ落ちて大怪我をした。もう死を覚悟した時、一人の女性が私に手を差し伸べ、温かい寝床とご飯をくれた。その人の眼差しは春の日差しの様に暖かだった。

 元気になって巣穴に戻っても心がどうにも座りが悪い。私は巣穴を抜け出し彼女の下に向かう。一目見て心は踊り出す。しかし駆け寄っても彼女は触れてくれない。

彼女に近づきたい、話したい、彼女と同じ「ヒト」になりたい。私はその思いを叶えるために長老のもとを訪ねた。長老は言う、一刻谷に住むおばばに聞けと。おばばの元を尋ねると、おばばは言う。二本松の合間を抜けた先に居る仙人に聞けと。仙人の元を尋ねると、仙人は言う。三輪山に住む妖狐に聞けと。妖狐を尋ねると、妖狐は言う。妖になる覚悟はあるのかと。私は彼女に近づきたい一心で頷いた。

妖狐の下で長い年月修業し、私は人に化けられるようになった。意気揚々と三輪山を下り、二本松の合間を抜け、一刻谷を越えて町に戻った。彼女は居なかった。

冷静になれば彼女は寿命を迎えていることは分かった。それほどの年数が経っていたのだ。意気消沈して森に帰り、ときたま町にふらりと降りた。

妖になった以上、どれだけの時間が経とうとも死は訪れない。人と交わっても変わらぬ姿や素性不明さを気味悪がられる。獣たちからは異物として畏れられる。ただ流れる時に身を任せる日々だった。

ある時ふらりと町に降りると一人の少女に見つめられていることに気付いた。その顔立ちに古い記憶が刺激された。

「君は……」

 少女に近づくと怪訝そうな顔で言った。

「あなた、人間じゃないでしょう?」

「何を言っているんだい?」

「だってほら、」

 いきなり尻尾を掴まれた。掴まれると狐に戻り一か月は化けられず、力が入らない。

 一か月後、彼女に会いに行った。彼女は取り付く島がない。それでも少女に惹かれ陰からそっと見守った。

 少女は優しく強かった。困っている人に手を差し伸べ、友人の悩みを聞いた。そんな優しさが時には煙たがられひっそり下唇を噛むこともあった。私はそっと彼女に寄り添った。彼女が森にやってきて言葉を交わす、それだけのことが他には代えがたい時となっていった。


 少女は町を出ていった。人の姿に化けられるのはこの町だけだが、誰にも見えない姿ならどこにでも行くことができる。彼女の住み始めた街はごちゃごちゃと五月蠅く、生き物の匂いが薄かった。最初はぽつねんと佇んでいた少女も持ち前の強さでゆっくりと街の海を泳ぎ始めた。

 少女は大人になり恋をして結婚する。幸せそうに笑う君。そしてあの日が来てしまった。

 虚ろな目をして帰ってきた君を何とかしたくて、私は居なくなったあの人のふりをした。君は私が彼ではないと一目で見破ったね。でも隣にいることを許してくれた。

 君の娘、美波が生まれ、また世界は変わった。あんなに小さくて可愛いだなんて思わなかった。美波には僕の尻尾が見えていたから握られないようにするのに細心の注意を払ったよ。あのめくるめく日々は私の中で一等輝いている。

 美波に尻尾を掴まれその生活に終止符が打たれる。君たちは町を出ていく。あなた(・・・)たちは私にとって全て(・・・・・・・・)でもう一度話がしたかった。だから私は一刻谷を越えて二本松の間を抜け三輪山を登り妖狐の元へと向かった。どこでも人間に化けられるようになりたかったのだ。修行の合間を縫ってひっそりと君たちを見に行った。二人とも私が見えない。あの日々を過ごしてしまった私にはそれがとてももどかしかった。もう一度会って話したい、その一心で修業した。


「そして漸く、君と話ができる」

 彼女は薄く微笑んだ。

「そんなにも思ってくれていたのね。私全然わかっていなかった」

「いいんだそれでも。私がこうしたかったのだし、今君とこうして話すことができたから」

 彼女は俯きどこか寂しそうにつぶやいた。

「でも私はボケが始まったおばあちゃん。あなたがお話ししてくれたこと、きっと忘れちゃうわ」

「表面上は忘れても、心の奥深くでは覚えているよ。忘れていた筈の記憶達はちゃんと心にいただろう?」

 ゆるりと顔を上げる。

「あれはあなたが見せてくれたことじゃないの?」

「違う。私は君を君の心の奥に導いただけで何も知らないし、見ていない。君の記憶は君だけのものだ」

 私は修行を終え戻ってきた頃にはお母さんはおばあちゃんになっていた。小さくなった体、皺の寄った顔、悲しかったのは瞳の強さが消えかけていることだった。彼女の記憶は一つ、また一つと深い海へ沈んでいく。無慈悲に飲み込んでいく渦と動きづらくなった体、節々の痛みに彼女は憤りひっそり涙し、笑顔は消えていく。

「あれは全部まだ私が持っているものなの?」

「そう。そして絶対に消えないもの。それだけはどうか、忘れないで(・・・・・・・・・)

「そう……、そうなのね」

 ゆっくりと顔に明るさが戻る。私は彼女の手を握る。固くてかさついた手、そこには彼女が生きてきた証が刻まれている。そんな彼女の姿が愛おしい。

「ひと時でいい、話をしよう」

 彼女が笑顔を浮かべ頷いた。私はその顔が見たかったのだ。


*

「おばあちゃん、起きた?」

 私が起き上がると、本を読んでいた孫娘の実里が顔を上げる。

「お茶飲む?」

「ありがとう」

 実里はすくっと立ち上がりお湯を沸かす。その音に耳を傾けながら私の古い記憶が浮かび上がってくる。すっかり忘れてたような記憶。なんだかとても良い夢を見たような気がする。

 実里が緑茶とお煎餅を携えて戻ってきた。

「ねえみいちゃん、私の部屋の化粧箪笥の一番端っこに入っているケースを持ってきてくれないかしら」

「分かった」

 リズミカルに足音が去っていき、また戻ってくる。

「おばあちゃん、これ?」

「そう、ありがとう」

 黒いベルベットに覆われた小箱を丁寧に開ける。そこには黄金色の石の着いた指輪が収まっている。これを開けたのは何十年ぶりだろう。そっと取り出し日の光にかざすと獣の瞳の様に煌いた。

「綺麗な指輪。結婚指輪?」

「違うわ。でもとても大切な指輪」

「誰から貰ったの?」

 顔を輝かせて聞いてくる実里を見て思わず顔が綻ぶ。私はきっとまた忘れてしまう。でもね、誰かに話せばきっとそれはまた消えることなく思い出せる。私はそんな祈りを込めて話そう。

「ひとつ昔話をしましょうか。優しくて愛おしい狐の物語を」


*

 春一番の吹くその日、私はおばあちゃん家に向かっていた。その道中一人の男性に出会った。私は思わずその人に駆け寄り話しかけていた。

「あの、私と話をしませんか? 私のおばあちゃん家で」

 その男性の目が大きく見開かれ、私の顔を見る。その人には立派な尻尾が生えていた。


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