僕がカレーを嫌いな理由(わけ)。
僕の母親はお世辞にも料理が上手いとは言えない人だった。
なのに本人は料理好きなのだから、どうしようもない。
父親はどうやら味音痴だったらしく、どんなものが出されてもニコニコしながら「美味しいよ」と言ってたいらげていた。
僕も子どもながら、「愛情を込めて、しかも楽しんで作ってくれているのに不味いとは言えないよな」と思っていたようで、成長するとともにいつの間にか、いくら不味いものを出されてもニコニコ笑顔で食べられるようになった。
「今日はカレーよ。パパもコウちゃんも好きでしょ、カレー」
母親は月に一、二度ほどカレーを作る。
スパイスにこだわった自家製の……というわけではない。普通に市販のルーを使用して、だ。なのにどうしてか、やはり美味しくないのだ。
いや、さすがに他の料理――やたらしょっぱくて苦いチャーハンや、むせそうなほど辛い生姜焼きなど――よりはマシと言えるが、それでも給食のカレーを初めて食べた時に「カレーってこんな味だったんだ?」と、思わず声に出して行ってしまったくらい別物が出て来るのだ。
おまけに、給食中にそんな突拍子もない台詞を叫んだせいで、僕は『カレーを食ったことがないやつ』と思われてしまった。
以来クラスメイトたちは、カレーが出る日には決まって「ほーら、コウスケの大好きなカレーだぞー。よかったなぁ、カレーを食えて」なんて僕のことを囃したてる。いい迷惑だ。
こんなことがたびたびあったら、そりゃぁひとつやふたつくらいトラウマになってもしょうがない。
そんなわけですっかり僕は、カレーが嫌いになってしまった。
* * *
「尾添くぅん。好きな料理はなに?」と、新聞部のアケミが僕の顔を覗き込んだ。
「別に……出されたらなんでも食うよ」
僕はアケミから目を逸らし、窓の外を眺めるふりをした。
「それじゃアンケートにならないのよぅ。ふざけてないで、ちゃんと答えて?」
アケミはぷうっと膨れる。
くりっとした大きなたれ目と、うっすら浮かんでいるそばかすが非常にかわいい。カーラーかアイロンで巻いたようなきついくせ毛を、いつもきっちり三つ編みにしている。
彼女は高校からの友人のひとりで、僕が秘かに想っている相手でもあった。
「ほんとになんでも食うんだよ……僕の母親が料理下手でさ、そのお陰で逆に好き嫌いがなくなったから」
「あら、あの美人なお母さん?」とアケミは目をしばたたかせる。
「別に美人ってわけでもない」
僕は更につまらないという表情をする。大体、高校生にもなって自分の母親が美人だとか、お母さんが好きだとか言えるわけがない。
「もう……そりゃ、あんなにきれいな人が当たり前に家にいるんだから、美人とも思わなくなっちゃってるんだろうけどさ。でもほんとに、尾添くんちのお母さんって美人だと思う。お父さんもきっとベタ惚れでしょう? 羨ましいなぁ」
アンケート用の小さなノートとシャープペンシルを胸元にきゅっと抱いて、アケミは頬を染める。
確かに、僕の父親は母にベタ惚れだ。未だに毎朝おはようのキスやらいってきますのキスやらを交わしているので、少しくらいは思春期の息子に遠慮して欲しいと常々思う。
「あぁ、そうだ……じゃあ嫌いな食べ物ってある?」
気を取り直した様子で、アケミは唐突にアンケートを再開した。
僕は一瞬、眉間に力が入ってしまった。
「あ、あるんだ。なに?」
僕の表情の変化を見逃さなかったのだろう。彼女は満足そうな笑顔で首を傾げながら僕の顔をまた覗き込む。
――こっちはまともに見られないんだから、あんまり顔を近付けるなよ……
本能に負けて、一瞬アケミに視線が吸い寄せられた。キュッと持ち上がった頬に、眼の下のラインが押し上げられて、大きな眼が三日月型になっている。
ほんの少し唇を尖らせたような、彼女独特の笑みが口元に浮かんでいる。
「ん?」
視線の意味を問われるように更に首が傾げられ、彼女の肩から三つ編みがポトリと落ちた。
「……カレー」
慌ててまた視線を逸らし、ひと言だけこたえた。
* * *
「それでどうして、僕の家でカレーを食べるって話になるんだよ?」
数日後、僕は何故かアケミを自宅に招待することになってしまった。
どうやら彼女は僕の給食エピソードを誰かから聞いたらしく、母親のカレーにいたく興味を抱いてしまったようだ。
「だって、そんなに有名な話だなんて知らなかったし……やっぱり、興味が涌くでしょう?」
僕は徒歩通学だったが、アケミは自転車だ。ここは男子としてやはり自転車を押すくらいのことはしてやった方がいいのだろう――と思って申し出たが、「え? 何言ってんの? 別にいいよぅ」と、笑いながらあっさり断られてしまった。
どうやら僕は、異性として認識されていないらしい。
「ただいまぁ」と玄関を開けると、母親が満面の笑みで出迎えた。
「お帰りコウちゃん。わぁ、あなたが阿部さんね? 初めまして、よろしく」
「お邪魔します。今日は無理を言ってすみませんでした」
無理を言っているという自覚があるなら、こんなことするなよ……と、笑顔で挨拶をしているアケミを横目で見る。
僕の心中は複雑だった。
そりゃぁ、好きな子が自宅へ来たいと言ったんだから、嬉しくないわけがない。だがその目的は、僕ではなく母親の不味い手料理だ。
そのせいで今後、僕まで敬遠されてしまっては元も子もないのだ。
「コウちゃんもパパもね、カレーが一番好きって言って――」と、母親はうきうきしながらアケミをリビングへ通した。
「コウちゃんって、学校ではどんな様子なの?」
ジュースとクッキーを出しながら母親がアケミに問う。
「どんなっていうか……結構無口です。でも結構女子から人気あるんですよぉ」
「あらぁ」
「え……?」
アケミの口からさらっと意外な言葉が出て来て、僕の眼は丸くなった。
「あれ? 知らなかった?」と、アケミはきょとんとする。
「だから今日もあたし、羨ましがられちゃって」
苦笑する頬にそばかすが踊る。いつまでも見ていられる……と思ったが、理性で押し込めてさり気なく視線をずらした。
「まぁぁ、そうだったの? この子無愛想だからてっきり……」
母親はなんだか嬉しそうな顔になっているが、僕は落ち着かない。女子に人気があろうがなかろうが、肝心の相手に好かれてなければ意味がないのだ。
楽しげに談笑するアケミと母親に挟まれて、僕はもぞもぞするような居心地の悪さに耐えなければいけなかった。
彼女たちが重い腰をやっと上げてカレー作りに取り掛かった頃には、ぐったりとソファに沈み込んでしまったほどだ。
「今のうちに着替えて来てもいいのよ?」
ジャガイモの皮を剥きながら、母親が笑顔を向けた。
「あ、そっか。あたしに遠慮してたの? ごめん、尾添くん」と言うアケミは、ニンジンを持っている。
「いや、別に遠慮とか……じゃあ着替えて来る」
ついでに、カレーができ上がるまで部屋に籠っていようと思った。
自分がいないところでどんな話を出されるかも気になるが、その場にいてもソワソワしてしまうのは確実だからだ。
自室のドアを閉めた途端、ため息が出る。『彼女』として迎えたわけじゃないのに、そんなに緊張してどうするんだよ、と自分に呆れながら。
しかし、ふと鏡を見ると、そこにはだらしなくニヤけている顔が映っていた。
「――ったく。もっとびしっとしろよ」
思わず鏡に向かって喝を入れるが、その声もどこか浮ついていた。
* * *
「いつもはもっと遅いんですよね? すみません、わがまま言って」
「そうね、パパが帰って来てから食べることが多いし……でもいいのよ。コウちゃんのお友だちが来てくれたんだもの。それに、女の子だもの、帰りがあまり遅くなっても困るでしょう?」
この三人で食卓を囲むのは、とても奇妙な気分だった。どこかで望んでいたことでもあったのに、それがこんな形で叶うとは思ってもいなかったから。
しかも場合によっては、これが最初で最後になるかも知れないのだ。
「いただきまぁす」
「……いただきます」
ウキウキしながらカレー皿にスプーンを突っ込むアケミを見ながら、僕は内心ヒヤヒヤしていた。
ぷっくりしていてつややかな唇が大きく開かれ、ひと口分のカレーライスがおごそかに運ばれる。スプーンが口に達するその直前、小さく尖らせた舌の先端が、スプーンを迎えるようにほんの少しだけ差し伸べられるのを見た。
胸、というか腹の奥の方で、どくんとひとつ、大きく脈を打った。
左頬を少し大きめに膨らませながらむぐむぐ咀嚼していたアケミの顔はほんのりと紅潮し、眼が徐々に見開かれて行く。
――あぁ、やっぱ驚くくらい不味いよな……
「おーぉいしーい!」
「……え?」
「そぉお? 嬉しいわぁ。遠慮なく食べてね」
僕が目を丸くしている横で、母親は笑顔で彼女にこたえる。
「はい。ほんと美味しいです、このカレー。市販のルーなのに、うちのと全然違う。こんなに美味しいカレーを毎回食べれるなんて、尾添くんが羨ましいなぁ」
「おい、阿部――」
「尾添くんも食べなよぉ。あーんしてあげようか?」
満面の笑みでカレーを勧めるアケミに圧倒されながら――あーんはさすがに断わって――僕もカレーを口に運ぶ。そしていつもの『不味さ』が舌の上に広がるのを覚悟しながら咀嚼を始め……
「……うま……あれ?」
「ね? 美味しいよねぇ? いいなぁ。こんなカレーが食べられるんなら、あたし尾添くん家の子どもになりたいなぁ」
「そんなに喜んでもらえるのは嬉しいけど、それじゃ阿部さんのご両親が寂しがるわよ?」
「え~? うち、兄も姉もいるんですよねぇ。だからあたしひとりくらい減ってもそんなに困らないと思うんですよぉ。あと、自転車なら割とすぐの距離だし」
きゃっきゃとはしゃいでいる彼女たちを気にしている余裕はなかった。
カレーがいきなり美味くなっていたことにも驚きだったが、それよりも僕は、アケミの言葉のせいで紅潮した頬を、彼女たちに気付かれるより先に平常に戻さなければいけなかったのだ。
――他意はないんだよな。カレーが美味かったから……ただそれだけで。
折角美味くなったカレーを目の前にしているというのに、味がほとんどわからないまま一皿分を喉に流し込んだ。
* * *
「美味しかったね。ほんとにごちそうさま……あと、送ってくれてありがとう」
お互いに自転車を押しながら歩く、夕暮れの街。
僕は夕陽に朱く染まるアケミの顔をぼぉっとしながら眺めていた。
「――尾添くん?」
「あ、あぁ……こっちこそありがとな。ってか、阿部、一体何をしたんだ?」
僕はアケミが何か隠し味的なものを足したのだと考えていた。もしくは、余計な調味料をさり気なく入れさせなかったのか。そうでなければ、あれほど劇的なまでに味が変わるとは思えなかった。
「あたし? 何もしてないよ?」
「まぁた、そんな……だって今まではほんとに不味くて」
「尾添くんのお母さんに、『いつも通りに作ってください』ってお願いしたもの。隠し味は色々教わったよ? でもあたしは野菜を切ったり、お鍋を混ぜたりする程度のお手伝いしかしてないし」
「嘘だろ?」
僕は思わず立ち止まる。
僕とアケミの中学の学区を分けていた、川の橋の上。
高校までの距離は僕の家からの方が近かったが、お互いの自宅は徒歩でも三十分も掛からないのだと今日初めて知った。
「正直なとこ、そんなに不味いのかぁ、って覚悟してたけど。でも本当に美味しかったよ。お世辞とかじゃなくて」
「うん……っていうか、今日食べたのは僕も美味いと感じた。じゃあなんで――」
「尾添くんが部屋に引っ込んじゃってた時に聞いたんだけどさ」と、アケミはいつものように僕の顔を覗き込む。
「尾添くんって、小さい頃、お父さんにヤキモチ焼いて大変だったんだって?」
「へぇ? 母さんそんなこと言ってたのか? 記憶にな――あ、ひょっとして」
突然、花火が弾けたように小さい頃の記憶が浮かんだ。
僕の父親はどこか子どもっぽいところがあって、僕が母親に甘えているのを見て本気で嫉妬するのだ。
「逆だよ。僕が小さかった頃に父さんが」
「なんか、本当はそうらしいねえ」とアケミは笑う。
「本気でお母さんを取り合って、お母さんが二人をなだめて、ってことがしょっちゅうあったって聞いたよ。でもある時から突然、尾添くんが甘えなくなったから、急に親離れしちゃったのかなって」
「まだ親離れって年齢じゃないだろ」
苦笑すると、アケミもうなずいた。
「その時に食べてたのがカレーだったんだって」
「え……」
アケミは自転車に手を掛けたまま、少しだけ寂しそうに微笑む。
「尾添くんのお父さんが、『カレーとママとどっちが好きなんだ?』って無茶振りして、尾添くんが『ママ』って答えたら、『じゃあコウはママのカレーもごはんも好きじゃないんだな?』とか屁理屈を言い出して……それで尾添くんが泣きながら怒っちゃったんだって」
「それは……覚えてない……」
父親は確かにガキくさいところがあった。でもそんな莫迦な二択を幼児に迫るほどガキだとは思っていなかったし、その前に自分が両親をパパ、ママと呼んでいた記憶すらなかった。
「それからごはんを食べるたびに……特にカレーを食べるたびに、すごいしかめ面をしながら食べるようになったんだって――でも今日は美味しそうに食べてたよね?」
「あれは――」
「どうして突然美味しくなったのか、あたしにはわかんないけどさ……もしもあたしが尾添くんの役に立ったんだったら、嬉しいな、って……」
アケミは泣きそうな笑顔になる。
半逆光に照らされたその表情を見つめている間に、僕の心の中には不安になるほどの切なさがあふれていた。
彼女は僕の表情をそのまま映しているのだ、と気付いた時にはもう、僕の考えていることなど、彼女にはまるわかりだっただろう。
「阿部……僕は」
心臓が口から飛び出しそうだ。
「ねえ、また今度、尾添くんのうちに遊びに行ってもいいかなぁ?」
そう言って微笑んだアケミの顔も、夕陽よりも紅く輝いていた。
※尾添くんのお母さんは、今も昔も料理上手です。