縁
卓袱台はあるのさ
涼芽誠人は香鈴の兄の長男らしい。
「兄はどうしたんだ」
「乂艦のほうで海兵の指導をしておる。二年ほど前に嫁さんが亡くなってな、誠人の世話はここで預かることになった」
太腿に包帯を巻いた涼芽雲桂は胡坐で座り込んでいる。
俺は涼芽家の食卓に座り込み、刺身が出来上がるのを待ちながら雲桂の話を聞いていた。
俺が屋敷に戻ってきたときは既に門下生は帰った後だった。内弟子はいないのか、と問うと、いるにはいたが辞めてしまったという。最初俺を見たときは我が目を疑っていた雲桂だが、それだけ答えると思いのほか簡単に俺を屋敷に通した。
「あいつさえここを継ぐ気になれば安泰なんだが……」
台所はここから少し離れている。魚を捌く香鈴や祖母にはこちらの会話は聞こえない。
屋敷にすんなり上がり込んで幾ばくもたっていない。部屋の中に引き入れて隙を見て抹殺する気か、と俺が当初抱いていた不信感や警戒はとっくに薄れていた。
雲桂が俺の再来を許した理由は別にあった。
「どうかね? ヌシはここを継ぐ気には」「断る」
隙あらば、これだった。
香鈴の兄がここを出て行ってから、雲桂は跡継ぎ探しに相当苦労していたらしい。弟子の中から選ぼうにもどれもこれもパッとせず、果ては敵である俺に向かって「実力さえあれば因縁は問わん」と縋りついてくるのだからかなりの崖っぷちなんだろう。
暮らしに困らんぞ、人を育てるのは良いもんだぞ、婿に来んか──あの手この手ですり寄ってくる雲桂には悪いが俺にそんな気はさらさらない。第一、槍術になんか興味はなかった。
「なにも槍術を継いでくれとは言わん。代々続いてきたこの家が、この先も武道の名門として栄えてくれればそれでよいのだ」
「誇りとかないのかアンタ!?」
「何を言うか。儂ら涼芽家の求めるものは“最高の武術”。儂の槍よりヌシの刀が強いというなら喜んでこの道場を差し出そう」
痛む足を無理に動かし、雲桂は両拳を畳に突いた。この厄介ジジイめ。あまり長居していると泥沼にハメられそうだ。
「諦めろ。飯食って一晩寝たらここを出ていく。負けたヤツの頼みを聞いてやる道理はない」
「ぐっ……」
雲桂はまだ何か言いたそうだったが、これ以上の追撃は逆効果だとさすがに悟ったのだろう。唇を噛んで押し黙った。
後ろ髪を結っていた紐を結びなおしていると、香鈴の甥っ子、マコトが下からのぞき込んできた。
「どっかいっちゃうの?」
そろそろ俺は次の島、織艦に移ろうかと考え始めていた。
この原艦にも探せば強敵は残っているかもしれない。だがとんと情報が入ってこない以上、この島には見切りをつけて次の舞台に飛び移るのが得策と言えるだろう。あちらにはどんな奴がいるだろうか。見たこともない“未知”との戦いを想像するだけで、肩に自然と気合が入った。
とはいえこれから向かう土地を全く知らないというのも危険すぎる。出立する前にある程度調べた方がいいだろう。現時点で俺が知っていることと言えば、中央の「矢倉山」に次ぐ主要都市があることと、「騎士の一族」が国使官を務めていることくらいだった。
騎士の一族が────
「…………」
「おにいちゃん?」
「……ん。ああ、いや……」
ちらりと過った馬鹿な考えを追い出し、俺は湯呑に口をつける。
強い相手と戦うのが目的なら“ヤツら”を相手取るのも、確かに、悪くないかもしれない。だがリスクがあまりに大きすぎる。そんなリスクを背負ってまで戦う価値がヤツらにあるのかという話だ。
あのルークとかいう、バカでかい国使だって俺の剣技を見ただけで怖気づいて帰ってしまった。どうせ向こうの国使だってそうだろう。
馬鹿げた考えだ。
夕焼けですっかり赤くなった廊下からパタパタと足音がして、滑らかに障子が滑った。
「さあさあ男どもっ! ぼさっとしてないで座布団を敷いて!」
片手で持った盆から皿が次々並べられる。手負いの雲桂の代わりに俺が全員分の座布団を並べた。
かつて、三千年を生きた大神木があった。人の胴より太い注連縄で飾られ、まさに“天の柱”と呼ばせるに足る高さだった。
その巨木に雷が落ちた。枝葉は焼け、幹の頂上から根元まで真っ二つに裂かれたその木は三日三晩炎を上げ続けた。周りを取り巻く木々もそれに呑まれ、未曽有の山火事は雲を呼び雨を降らせた。
その焼け跡に唯一つ残されたのがこの“風麒麟”だという。
伝説は伝説。刀は斬れればその成り立ちなどどうでもいい。だが、これほどの切れ味を持つ刀に伝説の一つや二つついたとしても何ら不思議はないとも思う。
刀身を夜空にかざす。
満月が半分隠れ、刃が月光を二つに斬る。
このまま刀を引けば空も両断できそうだった。
「今宵の麒麟は血に飢えている……ってな」
持ち主のほうは満腹である。
こんなことをしていて人に見られたら恥ずかしい。俺は刀を鞘に納め、縁側に上った。
「風呂は空いたか?」
角を二つ曲がると湯上りの香鈴とマコトに出くわした。
浴衣の柄なんぞに詳しくはないが、桔梗のような模様の浴衣は見ていて涼しげだった。香鈴が団扇を仰ぐのに合わせて絵に描いた蝶もひらひら揺れている。香鈴とお揃いの浴衣を着たマコトは庭に出てコオロギを捕まえていた。
「入って右の釜は少し熱めに作ってあるから。水でも入れて調節して」
「おう。悪いな」
香鈴は俺のほうを見もしない。風呂場の場所は教えられていたので、俺はそれ以上何も言わずに香鈴の後ろを通り過ぎた。
マコトが庭の草を蹴る。出てきたコオロギが跳んで逃げる。
それを追ってマコトも跳び回っている。
どうやら草履が脱げたようで、虫を追っていたマコトは地面に頭から突っ込んでしまった。
「あぁ、マコちゃん」
香鈴が駆け寄る前に、マコトは一人で起き上がった。鼻を打った痛みよりも額で潰してしまったコオロギのほうばかり気にしている。
「うええ」
袖を引っ張ってそこを何度も拭っていた。
「なあ」
言いたいことを整理する前に勝手に口が動いてしまった。呼ばれた香鈴は怪訝な顔をする。
「この道場、どうするんだ。跡継ぎいないんだろ」
「……お父さまから聞いたのね」
雲桂は娘の前では俺に誘いかけてこなかった。
「どうもこうも……お兄さまは武道家じゃないし、マコちゃんもまだこの年。この子が育つまでお父さまが健在でいられる保証はない」
「で、婿養子の候補どもは揃って実力不足と」
「…………」
自分が何を言いたいのかも分からないまま話し出すことはたまにある。
今もそうだ。そして、こうして話している間に自分自身の言わんとすることが理解できた。
「……お前にも武術の心得があるんじゃないのか」
「……え?」
さもなければ背後の視線を察知するなんて芸当はできはしない。
「……たかだか護身術程度よ」
「護身術か、悪くないな。槍なんかより人は集まる」
「どういうこと?」
「他に誰もいないなら……お前が当主になればいい」
女が武道場の主になることだってある。実際俺はそういう道場だっていくつか破ってきた。
涼芽家では当主は代々男のみなんていう決まりがあるだろうか。
ふと思ったちょうどそのとき、香鈴は首を振った。
女は当主になれないらしい。
「婿を迎える以外にないのか、やっぱり」
マコトがもう少し早く生まれていれば。
だがそれは言っても仕方のないことだ。俺はしばし迷ったが、自分自身に関わる色々なものを天秤にかけたうえで、口を開いた。
「決めた。俺が養子に入ってやる」
香鈴はマコトをぼうっと見下ろしていた。
が、すぐに呆けた目で顔を上げた。
「は?」
「俺が婿に入ったことにするんだよ。そんで実際にはお前が道場を取り仕切ればいい」
「…………は?」
「だーかーらー」
婿に入ったからと言ってこの家にずっと居続けなければいけないわけではない。
哀原志々雄の名義だけこの涼芽家に預けて俺はまた旅に出る。香鈴は「当主の代理」ということにすれば女でも涼芽家当主と同様にふるまえる。
これは涼芽家だけでなく俺にも益のあることだった。まず第一にしつこい雲桂を黙らせられる。第二に、今後もし他の道場から雲桂と同じように誘いを受けたとしても、「涼芽家の当主」という肩書さえあれば楽にかわすことができる。
もちろん、道場主が何十年も不在ではまずいこともあるだろう。
そうなる前に、俺が場主の座を預かっている間に香鈴がマコトを一人前の武道家に育て上げればいい。そうすればこの屋敷は問題なく継がれていくはずだ。
「で、でもっ、でもっ」
こんなに分かりやすい設計図なのに香鈴はまだ困惑顔だった。
「えっと……志々雄は、わたしと婚約したいわけ?」
「おう。違うぞ」
「でも、それって、そういうことに」
「あーもういいよそんなに嫌なら。俺は風呂入る」
人の親切心を素直に受け取れないならもう知らん。こんな屋敷なんか潰れてしまえ。
去り際に香鈴を睨んでやった。月明りは淡く香鈴の顔色までは分からなかったが、どうせくだらない屈辱だかで真っ赤になっているに違いない。
俺はそれまでよりやや早足にそこを去った。風呂場に着く。そこで服を脱いでからようやく、もう少し段階を踏んでから本題を述べるべきだったかと反省した。
志々雄が去った庭で、香鈴はハッと我に返った。
「かりんちゃん、まっかっか」
頬に手を当てるまでもなく、顔が火照っているのは分かっていた。
「……なっ、なによアイツ! いきなり婿とか言い出すからびっくりしたじゃない……」
当主代理なんて。考えてもみなかった。
その手は“あり”なのだろうか。マコトが一人前に成長するまでそんな危うい状態を保てるのだろうか。
いくら考えても不安しか見当たらない。でも、他にどうしようもないならそれしかない。
「マコちゃん」
「ん?」
「早く……おじいちゃんみたいに強くならないとね」
マコトは今日、祖父である雲桂が志々雄に敗れたことを知っている。敬愛する人が見ず知らずの流れ者に斬られたというのにマコトは志々雄を嫌悪することもなく、それどころかその強さに憧れすら抱いている様子だった。
単なる“強さ”に憧れているのではないかもしれない。
相手に与える傷を最小限に抑え、敗者からすべてを巻き上げようとしない優しさ──いや勝者の誇りのようなものが彼にはあった。
香鈴ももう、志々雄を憎む理由をなくしていた。
「獅子の、王……か」
それに、彼は自分と同じ生まれ変わり。
せっかく掴んだこの縁を遠くに手放したくはなかった。