狗の耳
前世の記憶。
コイツは、俺の正体を知っているのか?
俺の肩のアザを見てからだった。香鈴の様子が変わったのは。なぜこのアザを見て、俺に前世があると感づいたんだ。
もしや、と思って俺は問うた。
「香鈴……お前の前世は、なんだった」
もしや、香鈴も俺と同じ、かつて別の世界で生きてきた魂の持ち主なのではないか?
香鈴は寂しそうに首を振った。
「わからない……。たぶん、狐か、犬とか」
「どういうことだ」
「記憶があいまいなの。ただ、アザの形を見る限りは……」
「そうか。見せてみろ」
「えっ? や、いやよ!」
急に顔を赤らめて香鈴は後ずさった。肩くらい、何を恥ずかしがることがと呆れたが、香鈴の庇っているのは左の鎖骨のあたりだった。
あんなところにあるのか。どうやら同じ生まれ変わりでも、アザの位置は違うらしい。
獣どうし、人間の体を見せあったところで何かヤラシイ感情が湧くわけでもないだろうに。だが狐か犬だった記憶の薄い香鈴においては事情が違うようだ。コイツは俺を、追いはぎか痴漢でも見るような目つきで睨んでいた。
「くそが……ひとの服は平気で引きずり下ろすクセにな」
「言い方!」
「で、そのアザってなあ、四本足の獣なわけだ」
香鈴の胸部なんぞに興味はない。とにかく俺は、自分以外で動物だった前世を持つ香鈴について詳しく知りたかった。
「そう。尻尾もはえてる」
「ハイエナかもしれないし、狼かもしれないな」
「はいえな?」
「そういうのがいるんだよ」
俺は動物園にいたから、生き物の種類については少しばかり知識があった。
「その、はいえな、っていうのは、どんなの?」
「たしか……犬や狐に形は似てるが、毛並みはだいたい灰色に黒斑、いっつも物欲しそうな目をしてて……どこか薄汚れた雰囲気があったな」
「灰色に、黒。薄汚れてる……なら、わたしじゃないと思う」
「……うわぁ」
「? ちょっと! 違うから!」
何が違うんだ。今の発言思いっきり盲目乙女だったぞこの人。
そりゃまあ、香鈴は薄汚れてはないし、白粉を塗ってもないのに肌は白い。人間の中でも美人な方だろう。それでも、自分でこんなこと言っちゃうやつは大抵心は薄汚れてて腹黒いもんだ。
いみじくも香鈴は抗議を続けていた。しかしいくら取り繕おうと一度言ってしまったものは取り消せない。「わかったわかった」と適当にあしらっていると、何のつもりか香鈴はこっちの岩に飛び移って、俺の両肩をがっしと掴んだ。
「お、おい? なにすんだよ」
「証拠、見せてあげる」
「証拠って……って待てい!」
言いつつ香鈴は俺の肩に噛み付こうとしやがった。俺は必死に頭を押し返す。
噛み付いて、歯型を見せて「どう? どうみたって狐の歯でしょ」とかやらかすつもりか? ほんとに斬ってやろうかコイツ。
「はなして」
香鈴の声は冷静だった。逆上して、こんなことをしているのではないらしい。
「痛くしないから。信じて」
攻撃の意図が感じられない。
俺は香鈴の頭を押さえていた手を下ろした。コイツは俺に何か見せようとしてくれている。ただ人間として生きてきた俺にはできない、動物の魂が演じる“何か”を。
自由になった香鈴は俺に体を密着させた。長いこと日の下で立っていたせいでかなり汗ばんでいる。香鈴が俺の肩に唇を寄せ、栗色の髪が頬を撫でた。
肩に柔らかいものが当たる。続いて歯が。こそばゆい感覚に顔をしかめつつ、これから起こる“何か”を俺は待った。
そして変化は起こった。
このクソ女。肉がちぎれるかと思うほど全力で噛み付きやがった。
「イタタタタタタタタタタ!!! はなせ! はなせこのヤロウ!!」
香鈴の口が離れ、俺は勢い余って尻もちをついた。
肩がじんじん痛んで、触るとよだれでべとべとだ。血が出てるんじゃないか?
幸い皮膚は裂かれていなかったが、内出血はおびただしい。半月型の赤黒い痕は見るだけで痛みが疼いた。
「我慢してよ、これくらい」
香鈴の影が俺を覆う。ガマンもクソもあるか。もう限界だ。斬ってやる――
飛びかかりかけた俺は、香鈴の姿を見て息を止めた。
「っ!?」
「どう? これでわかった?」
さっきまでそこにいた香鈴は、肩までかかる栗色の髪をした、ごく普通の町娘だったはずだ。
だが今、誇らしげに腕を組んで俺を見下ろしているこの女性は真っ白な髪をしていた。その絹のように滑らかな髪が潮風になびく。彼女は釣り糸を犬歯で噛み、背中まで伸びた髪を結んだ。
「あんた、……香鈴、か?」
細い眉も、気の強そうな眼差しも香鈴のものだ。だが明らかに、“気”というか“色”というか、そういったものが違って見えた。
最初の驚きから落ち着いて、俺は香鈴の全身をまじまじと見ながら立ち上がった。そしてもう一度彼女の頭を見たところで気づいた。
「それ」
「よーく見てよ、ほら。どうみたって狐の耳でしょ」
香鈴のつむじの左右の位置。そこに通常の人間ならありえないものがついていた。
狐の耳だ。
犬かもしれない。とにかく白い毛で覆われた三角形の耳が二つ、前を向いてぴんと立っていた。香鈴の、人間としての耳はちゃんと両側についている。合計四つだ。俺は気味悪さよりも、なにか感動に近いものを覚えた。
「触っていいか?」
「……ヘンタイ」
つけ耳か、変わったカツラでも被ったのでは?
手を伸ばす。香鈴は狐の耳を伏せた。白い頬に赤みがさして、恥ずかしそうに目を逸らしている。その瞳も、瞳孔が縦に開いた形になっていた。
耳に触れてみる。たしかに、作り物にしては出来過ぎていた。手触りは柔らかく、温かい。そもそも被り物を自由に動かすことなんてできない。耳の付け根を探ってみると、香鈴はくすぐったそうに声を上げた。
「んっ……」
「へえ。ほんとに生えてんだな」
「もっ、もういいでしょ?」
「いやあ……まだ」
俺がにやりと笑うと、香鈴の瞳が恐怖によって細く締まった。
もう遅い。
俺は恨みを込めて、耳がちぎれない程度に引っ張ってやった。
「痛い痛い痛い! やめてはなしてちぎれるーーっ!!」
「本物ならちぎれないだろ」
「ちぎれるわよこの狼藉者!」
鋭くとがった爪で引っ掻いてくるのでさすがに手を引っ込めた。
香鈴は、完全ではないにしろ前世の姿を取り戻している。俺の肩を噛むことによって。
「動物虐待よ。もう……!」
涙目でミミを庇い、うずくまる香鈴。
愛玩犬みたいで可愛らしく見えなくなくもないこともないが、そんなことより俺は知りたい。
「それ、元に戻るのか?」
「……しばらくしたら勝手に戻る。甘噛みなら数分。強く噛めばそれだけ時間も長くなる」
「……これは?」
「二十分くらい」
「あっそ」
上等だ。あんだけ強く噛まれて「五分」とか言われたら、それはそれで報われない気がする。
聞けば昔、甥っ子に戯れで噛み付いたのがこの「体質」を知るきっかけとなったんだとか。香鈴は水をかければ湯気が立ちそうなほど真っ赤になって暴露した。甥っ子は今六歳だそうだ。庭で俺に駆け寄ろうとしたあの子供だとピンと来た。
この気の強そうな女が、家では愛くるしい男の子とじゃれあっている。デレッデレの香鈴が「甥っ子ちゃーん、つーかまーえた!
きゃはは」などとしている様を想像するとニヤニヤが抑えきれなかった。
「ねえ。志々雄、だっけ」
すると今度は香鈴の方から声を発した。
「って、なによその顔っ」
「べつに」
「とにかくっ。あなたの他にもいるの? こういう人」
前世持ちの、体にアザのある人間など他に心当たりもなく、首を振った。
「お前は?」
「わたしも志々雄が初めて。この姿だってあんまり見せないようにしてる」
微妙な空気が流れた。
自分との共通点を持った、おそらく唯一の相手。互いに有している特性は他の誰にも言えない“秘密”であり、目の前にいる人とだけはその生い立ちを共有することができる。
一秒、二秒互いに見つめ合った後で、俺は肩をすくめて風呂敷を拾った。
動物だった頃の記憶があるのは、たしかに誰にも言えない秘密かもしれない。だからなんなんだ。ライオンとしての記憶があったからと言って困ることは一度もなかった。秘密を共有したところで何かが満たされるわけでもない。
「どこいくの」
「今日は釣れねえ。仕方ないから晩飯は店で買う」
「? 晩ごはんのためだったの? さっき釣りが好きって……」
「釣りが好きなのはうそじゃない。ただ安宿に泊まるから、食料も調達しなきゃなんねえんだよ」
それを聞いて、香鈴はしばし言葉を失った。「こんなにお金をせしめておいて安宿なんて」という声が聞こえてきそうだ。俺の顔と、風呂敷包とを往復するその目は呆れ、狐につままれたようにぽかんとしている。
「だったら……お金……かえしてよ……」
「あーごもっともだ。安心しな。大事に使うから」
とはいうもののなんだか香鈴が哀れに思えてきた。どうせ使い道のない金だ。俺は札束をひと摘み香鈴の襟に差し込んでやった。
「ちょっと待ってよ」
「んだよ?」まだなんか用か。
「おいてくの?」
「……へっ?」
「こんな格好のわたしを一人にするの」
「え? お、おう」
「人に見つかったらどうするのよ」
「どうにもできないだろ。ガンバレ」
一人だと心ぼそいってか?
知ったことか。香鈴が勝手にやったことだし、誰かに見つかったときに仮に俺がいたところで、この白髪狐女をうまく擁護できる自信はない。
だいたい二十分も待ってるのはごめんだった。
「……ていうか」
俺は大変なものを見つけて、目を凝らした。「すでに誰か来てるぞ」
「!」
香鈴は大慌てで耳を隠した。それでも髪の白いのは覆いきれない。片手で何とか髪の束を掴み、服の中に入れた。
「ああっ!」
びっくりして俺は香鈴を振り向いた。
とんでもないことになっていた。さっき差した札束が、髪を入れた弾みで飛んで行ってしまったのだ。
風に吹かれる不換紙幣。涙して飛び跳ねる涼芽香鈴。
鴎が鳴き波が安らぐ磯の縁で、彼女の悲鳴は切実だった。
「おかねがあぁぁぁぁ……」
駆け寄ってきた人影はばっちりこちらを見ていた。
当然風変わりな香鈴の容姿もバレバレだ。
ところがその人影は、騒ぐどころか親しげに手を振っている。俺はその幼い顔に見覚えがあった。
「かりんちゃぁーーん」
「……マコちゃん?」
磯の手前には岩の突き出た砂浜が広がっている。
その向こうに競り市や海産物を置く倉庫があるのだが、そういった建物の前に立っていたのは香鈴の甥、俺が屋敷の庭で見た男の子だった。
「おさかなつれた?」
砂を飛び散らせて駆け寄ってきた男の子は籠の中を見て大喜びだった。
「マコちゃんと、わたしと、お父さんとおばあちゃん。みーんなお腹いっぱい食べれるよ!」
「やった! おさしみだ!」
六歳児と、若い娘と、老婆と男の分にしては少し多すぎやしないか。
そう言いたくなるのを俺はぐっと我慢した。ほぼ同じ場所で釣ったのにどうしてあっちは大漁で俺は戦果なしなんだ。世の不条理をはかなんでいると香鈴の甥っ子が俺をじっと見上げているのに気付いた。
「……?」
「マコちゃん?」
「おおきいひと、やっつけたの」
「え?」
「おにいちゃん、そとのくにのヒトやっつけたの」
国使官のことだ。正確に言えばその従者。こんな小さな子供もあの場にいたのか。
「ボウズ。ヨロイの腕ふっとぶの見てたのか?」
「うん!」
「血、たくさんでてたろ」
「うん。いたそうだった」
いくらなんでも六歳の子供には過激だったはずだ。甥っ子は腕を斬られた従者の感覚を言葉にすると同時に身震いした。だがすぐに表情は一変して、俺の風麒麟を指さして誇らしげな声を上げた。
「でも、おにいちゃんかっこよかった! ゲンさんのおうちこわしたもん。あのおおきいヒトわるいひとだよ」
「……ふっ。なかなか肝ォ据わってんじゃねえか」
このボウズは気に入った。幼いのに、人の腕が斬り飛ばされる様子を朗々と語ってみせる。俺がこの子くらいの歳だったらどうしていただろうか。
頭のてっぺんをぐりぐりなでてやる。これくらいの歳の子と戯れるのは初めてだった。甥っ子は俺の袖を握って狐姿の香鈴を仰いだ。
「おにいちゃんもいっしょでいい?」
「ぇえ? どこに?」
「おうち」
「おう……ち?」
「おおっ。ありがてえ。優しいなボウズ!」
弁明しておくぞ。俺は決して言わせたりなんかしていない。心の純な甥っ子が自発的に俺を誘っただけだ。
一尾も獲れなくて落ち込んでいるところに思わぬ手が差し伸べられた。内心も外面も大喜びの俺は甥っ子を肩に乗せてやった。甥っ子は俺の頭にしがみついて楽しい悲鳴を上げていた。
「え、な、ちょっとちょっと! ほんとに来るつもり!?」
「悪いのかよ」
「悪くないと思ってるの!?」香鈴の腕が甥っ子を捕らえた。「アンタはその手で斬ったばっかりの人の屋敷にごはんを食べに上がりこむ気!?
さっ、マコちゃん。その人はヒトゴロシよ。はなれなさい」
「えー。かりんちゃんのイジワル」
「イジワル」
「つべこべいわないで降りるの! そこのヒトゴロシ! わたしの甥を返しなさい!」
「お前のおばさん、おっかないな。家でもこんななのか?」
「ううん。ぎゅーってしてくる。たまにかまれる」
「マ、コッ……」
「ひえー。噛んでくるのかぁ。痛いなあ。よーし今日はこのお兄ちゃんが守ってやるから安心しな」
「だだっ、誰も安心なんかしないから! それより自分の心配したらどう? うちに来たらお父さまに寝首を掻かれるわよどうせ!」
「やれるもんならやってみろってんだ」二対一。甥っ子を味方につけた俺は強かった。「ほら家賃もあるぞ」
「ぐっ……」
なんだかんだ言って家計の苦しい香鈴は金に弱い。香鈴の右腕が金具のイカれたゼンマイ時計のようにカックンカックンと持ち上がって、五枚の札束に触れた。
「見たろボウズ。これからおねえちゃんに言うこと聞いてほしかったらお金をたんまり用意するんだな」
「へえー……」
「なっ!? いっ、いらないからこんなもの! もういい! ついてきたきゃ勝手にすれば!」
作戦成功。香鈴は札束を突き返して魚の箱を乱暴にひっつかんだ。俺は札束を元通り収めて、甥っ子を肩車したまま香鈴の後に続いた。




