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クロスロード  作者: δ
序章
3/14

行方強車

 俺がこの世に生まれて最初に見た顔。

 あの白ヒゲのジイサンが剣の達人「行方強車」だったことを、道場の門を叩いて本人の顔を見るまで俺は知らなかった。

 聞くところによると、行方のジイサンは新しく生まれてくる子供の産声を聞くのが生きがいらしく、俺以前にも何度か出産の介助に携わっていたらしい。妊婦の方もまるで産婆を呼ぶみたいにして行方のジイサンを頼るもんだから、現世における記念すべき第一の出会いが白ヒゲのジイサンでした、って子供は結構多い。

 そのせいだろう。厳しいとの評判のわりに行方を慕って弟子入り志願する輩が多いのは。

 一体どういう神経してやがんだ。


 入門して一月が過ぎた。

 この一か月間は、噂に劣らない過酷な日々の繰り返しだった。行方は新生児の産声を聞くのも好きなら、六歳児の泣き言も大好物らしい。

 ろくな運動経験もないのに、朝から走り込み三十分(大人の兄弟子は二時間も走らされていた)、各種筋力鍛錬、型稽古そして集中力を養う太極拳──もしも俺の中身が本物の六歳児だったら、初日から母親の名前を叫んでみっともなく逃げ回っていたに違いない。

 俺はそんな落ちぶれたマネはしなかった。どんなに苦しくても弱音一つ吐かず、数少ない兄弟子たちはそんな俺に一目置いていたようだった。

 本当に、俺は一か月もよく耐えたと思う。

 だがそれももう限界だ。

 ある日、俺はいつもより二時間も早く起きた。行方も、兄弟子たちもまだ寝ている。

 誰の目も覚まさないよう慎重に外に出て、とうとう俺は嚶鳴館を抜け出した。







「古釘ぃ~。古釘ござんせんかぁ~」


 屑鉄を回収して鋳物にする古釘屋が声高に通りを歩いている。

 道場から逃げた俺は行くあてもなく、厳戸の町をうろついていた。

 住居はすべて木造。戸口に障子が張ってあるかと思えば、下の方は野良猫に破られていたりする。

 都会から少し外れた土地柄、刀を携えた武士はあまり見かけなかった。いたとしても見るからに貧窮した下級士族といった風で、着ているものもその辺の町民と大差ない。

 たまに派手な服装の男が茶屋で涼んでいることもあるが、それは異国かぶれの酔狂ジジイだ。その高そうな服は知り合いのツテで譲り受けたものに違いない。


 こんな町でも、活気はそれなりにあった。主婦は労働用の軽衫(かるさん)袴を着て井戸端で水を汲み、そのすぐそばを様々な行商人が通っていく。


「古釘ござんせんか~」


 古釘屋は、屑鉄を持ってきた子供に飴をくれる。

 飴なんて子供っぽいものに興味はないが、食べ物を買う金なんて持ってないのでもらえるものは何でも欲しかった。もうじき朝飯時だ。身近に古釘どころか鉄サビすら落ちてないのが恨めしい。

 これからどうすればいいんだろう。道場には死んでも近寄りたくないから家に帰るしかない。しかし、修行に出して一月で帰ってきた俺をあの親父が許してくれるはずがない。


 ──自分の生き方を手にできる、強い生き物だ


 行方の道場にやる、と言われたとき、俺はあまり反対しなかった。

 そこまで言うなら、なってやる。オスのライオンが強い生き物だってことを証明してやる──親父にその気はなかったかもしれないが、中身が中身な俺にとってあれは挑発以外の何物でもなかった。

 入門したての俺は、親父を見返してやるとの思いに奮起していた。

 だが今は、そんな意気込みは薄れている。

 やっぱり俺は、飼い慣らされた弱い生き物なのかもしれない。


「割れた茶碗はぁ、ござんせんかぁ~? おひとつ40(しゃく)! お安く修理いたしま~っす!」


「焼き物屋さん! これおねがいよ!」


 朝っぱらから小さな子供(俺)が、遊ぶでもなく手伝うでもなく、ただただ町をうろついている。

 はたからは何の目的もなく歩いているように見えるかもしれない。しかしそれは間違いだ。俺は今、厳戸の町を山の方に向かって横切っている。

 家には帰れない。かといって町で一人で生活する自信はない。それならいっそ、野生化でもしてしまおうかと俺は考え始めていた。


「あ」


 ちょうど蕎麦屋の前に差し掛かったときだった。

 真ん中に四角い穴の開いた、銀色の円い100勺硬貨が、浮かない俺の眼前にコロコロ転がり込んできた。

 何も考えずにそれを捕まえる。


「っし」


 100勺もあれば蕎麦が買える。

 どうせこれから野生児になって草だの虫だのを食うことになるんだ。その前に蕎麦の一杯くらい食いおさめておいても罰は当たらないだろう。

 俺は嬉々として蕎麦屋に駆け出した。


「ぉおっと、ボウズ」


「!?」


 むんず、と後ろ襟を何者かに掴まれて、俺はふわりと宙に浮いた。

 なす術もないまま180度回転させられる。そうして俺の視界に現れたのは、さっき茶屋で見かけた、異国かぶれの男だった。

 他の人が皆落ち着いた色合いの着物を着ているのに対して、そいつの服にはやたらと赤だの黄色だのが目立った。シャツ、と呼ぶんだったか、真っ白な肌着がまるで画板のようだ。俺には読めない異国の字でなにかが書き殴ってある。


「その100勺、どうするんだ? えぇ?」


「……さっき拾った」


 かぶれの男はまだ俺を掴んだままだ。腰に刀がないから武士ではないはずだが、その腕は力強く、少し暴れてみても解けそうになかった。


「へっ。拾ってくれたのか。ありがとな」


「?」


「そいつぁ俺んだ。どれ、返してくんな」


「……ウソだ」


 勢い言い返したが、もしかしたら本当かもしれない。銀貨が転がってきた方向と、かぶれ男の現れた方向はぴったり一致していた。

 俺が口ごたえすると、男の眉が不愉快に吊り上がった。だがこんな大勢の前で子供相手に怒鳴るほど男は幼くはない。俺から通りすがりの下級士族へと目を移し、乱暴に呼びかけた。


「おい、あんちゃん!」


「はっ……はい?」


「アンタ見てたろ。俺、さっきそこで懐から100勺落としてたよな」


 刀を持って、建前上は身分の高い士族でも、こんなに体格のいい男とまともにやりあえばただではすまない。武士に無礼を働いた者は後で罰することができるが、それでもその場の命は惜しいものだ。

 士族が弱々しく頷いたのを見て俺はさすがに観念した。どうせ拾った金だ。手放したところで損はない。

 諦めて100勺銀貨を差し出すと、男はようやく地面に下ろしてくれた。


「よーしよし……。ところでボウズ。さっきこれで蕎麦食おうとしたろ」


 その通りだ。だが俺は答えない。


「拾った金でさっそく飯食おうたぁよ。ったく近頃のガキんちょは」


「…………」


「……ん? どうした。おじさんに叱られたら『ゴメンナサイ』だって、おっかさんに言われなかったか?」


 本当にその銀貨がこの男のものなら、どう見たって悪いのは俺の方だ。

 謝らなければならないのも理屈ではわかっている。

 それでも、こうも頭をぐりぐり押さえつけて「ホレ、早う」と急かされれば、どうしたって謝る気にはなれなかった。

 謝る代わりに俺は、かぶれ男の手を頭の上から思いっきり払いのけた。


「……クッソ……ガキが!」


 激高した男が腕を振るう。

 それを屈んでかわし、即座に俺は間合いを取った。


「生意気こくんじゃねえぞ!」


 今度は蹴りがきた。革靴が砂煙を上げる。

 俺は今度は間合いを詰めた。男の(すね)が真横に迫り、俺はそれを裏拳で殴る。

 軸足の脛にも蹴りを入れてやる。

 弁慶の泣き所を立て続けに打たれた男はたまらず膝をついた。


「いっ……て」


 たかが六歳児の裏拳。たかが六歳児の脚撃。

 たったの一月とはいえ、嚶鳴館での鍛錬の成果は確かにあった。そんじょそこらの児童とは比較にならない体力、反射神経が俺には備わっていた。


「おっさん。ガキだと思ってナメんじゃねえぞ」


 残念ながら子供らしい高い声だけはどうしようもなかったが、凄みのなさなんて実力差がはっきりしている以上は大した問題じゃない。

 何なら力に任せて100勺銀貨を奪ってやろうか?

 そんな誘惑が首をもたげたが、やめた。男から奪った金で蕎麦をすする六歳児の姿に、勝者の威厳があるとは思えない。

 乱れた襟元をただした俺は、つま先の向きを変え、何事もなかったかのようにその場を去ることにした。

 周囲の人間どもは俺に驚嘆の眼差しを向けていた。


「……てや、コラ」


 その後ろからの声にただならぬものを感じて、俺は足を止める。

 主婦たちの何人かが俺の後ろを見て悲鳴を上げた。


「どーれボウズ。こっち見てみろ……」


 喧嘩に勝ったはずの俺は、秒殺で倒した相手のほうを慎重に、飛びかかってくる気配に耳を澄ませながら、振り向いた。


「……!」


「へっへっへ……。こいつを見るのは初めてかぁ、えぇ?」


 男は銃を手にしていた。

 今まで見てきた細長い銃身ではなく、片手で握れる程度の大きさではあったが、その黒い光沢や歪な撃鉄、そして何よりこちらを睨むような銃口を見れば、それが銃の一種であることは難なくわかる。

 銃を向けられるのは初めてではない。

 突如として、俺の右目が鈍く痛み出した。


「ひっ!」


「おっ、どうしたどうした! “(ソト)モノ”の鉄砲がそんなにこええか!」


 前世の最後の痛みが甦る。

 眼球を射潰した注射針、噴き出した眼液。銃口に頭を狙われただけで眼がひとりでに爆ぜそうになる。

 呼吸すら難しかった。海の中で死にゆく俺は息なんてできるわけもない。

 体中から力が抜けて、俺は尻から地面に倒れ込んだ。


「ぶっ……ひゃひゃひゃひゃ! オラよう見とけ! こいつはタマを六連発できる最新式の“リボルバー”だ! どうだこええだろ、アァ!?」


 男が何を言っているのかも、自分がどこにいるのかも分からなかった。

 最後に見た不思議な鳥。あれも朱や黄金で着飾っていた。

 海の中へ真っ逆さまに。顔が水面を叩いたとたん、潰れた目玉が放り出される感触。

 海水はやたら温い。全身の筋肉が弛緩していく。

 膀胱さえも。


「……っわなんだこのガキ! 小便漏らしやがったぞ!?」


 本当に生暖かいものを感じて、俺は下半身を見た。

 俺は水たまりに腰をつけていた。それは自分で作った水たまりだった。尿の匂いが鼻に障る。

 それを恥ずかしいと思う余裕さえなかった。


「あーん? 大丈夫でちゅかー? おっかさんでも呼んできてあげまちょーかぁ?」


 男は銃口をだらしなく下に下げている。

 あの銃口が、怖くて、前を向いていられなかった。


「ま、お子ちゃまがおもらしするのも仕方ないもんねー」


「おや、これはこれは」


 声がするまで、そこに人の好さげな、小柄な老人が立っているのに気づけなかった。


「なんの騒ぎと思うて見てみれば……。そこにおるのは哀原さんの」


 かぶれ男はやっと後ろを振り向く。

 そしてそこにいるのが白髭を蓄えた嚶鳴館の主、行方強車であることを認めた男は慌てて間合いを取ろうと腰を浮かせた。


「これ。なにを」


「人の喧嘩に首つっ込むんじゃねえ!」


 大股で三歩稼いだところで男は拳銃を構えた。

 いかに剣の達人といえど、この距離で撃てばどうにもなるまい。そう打算して引き金を引いたのだが、


「……喧嘩。こんな子供と」


 行方は動じない。かぶれ男の弾丸が彼の心臓を貫くこともない。

 いくら引き金を引いても、どうしたわけか銃は全く動かなかった。


「は……何……」


 男の唯一の武器。

 それは弾倉から銃筒まで、きれいさっぱり斬り落とされていた。

 半分残った弾倉も、男の目の前でぽろりと落ちる。


「どんな物にも弱点はある。わしはそこをついただけじゃよ」


 いつから持っていたのか、行方の手には脇差が。

 剣の達人に刀を抜かせた。そして自慢のリボルバーはもうない。

 かぶれ男に勝機はなかった。

 ろくな声も出せずに男は逃げ去る。

 その無様な後姿を行方は追おうとしなかった。


「……。ほれ、お侍さん。勝手に借りてすまんかったの」


 拳銃を、まるで豆腐でも切るようにして一刀両断にしたその脇差を、行方は傍らの下級士族に差し返す。

 武士は何のことかときょとんとする。この老人に刀を貸した覚えなどない。現に今も、自分の腰にこうして──


「なっ……拙者の!? いつのまに」


「訴えんでくれな。このジジイは刀がないとなんにもできんもんじゃから」


 士族の刀を盗み、それで私闘を行った。

 重罪である。だが、銃を持ち出して子供をいじめる男を前に何もできなかったこの士族。

 一撃で男を撃退した行方を訴えることなどできはしない。


「さて……怪我はないの」


 俺を脅かしていた拳銃が真っ二つにされて、じわじわと、俺の中に正気が戻りつつあった。

 幻痛は消え、現実がはっきりと見えるようになる。

 今の自分の惨状を把握することさえも、できた。


「……ひっ……っ」


「…………」


 俺は泣いた。中身がライオンだとか、十年近く生きているとか関係ない。六歳児のひ弱なガキみたいに、俺は泣いた。

 銃が怖かった。行方が来てくれて安心した。道端の人間の、痛々しい目がつらかった。大人に向かって偉そうな口利いて、武器を出されたとたん派手に小便を漏らす自分が恥ずかしかった。

 泣いている自分が悔しくて、俺はもっと泣いた。


「うえぇぇっ! ひっ、ひっ、びぇえええ!」


「お前、逃げたのぅ」


「うっ……うっ……」


「あそこを出て、……まさかと思うが、一人で生きるつもりだったのか?」


 その通りだった。山にでも入って、自分の力だけで生き延びるつもりだった。

 恥ずかしくてたまらない。「なんでも一人でできる」だなんて、六歳のクソガキにぴったりのセリフだ。

 喧嘩に勝てもしないのに。


「まあよい。お前の人生じゃ……好きにせい」


 行方は俺への興味を失った。

 ふ、と。あまりに自然に。たとえば遠くを歩いている人が転んだとして、助け起こすには距離がある、と判断して自分の用事に戻っていくように。行方は何も言わず、道場への道を歩いていった。


「ま……待って……ください」


 それでも。俺が絞り出すようにして呼び止めると、行方はまたこちらを向いた。


「もう一回……弟子入りさせてください……っ」


「……できるのか?」


「今度は……!」


 できなかったら、もう俺は生きていけないだろう。

 しばらく行方は俺を見て、それから目だけで笑った。


「よかろ。お前に最後の“ちゃんす”をやろうの」


第一章へ続く

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