ロゼ・マリア
男の目は虚ろだった。
「ゲンさん……?」
何よりも奇異なのは、やたら乾いた彼の皮膚だった。
いくら家を壊され傷心とは言え、一晩でここまで容姿が変わるものか。昨朝は生活水準の高さを象徴する張りのある肌だったものが、顔中ひび割れ、瘡蓋ができ、水を失った血管壁は内出血を起こしていた。
香鈴が名を呼んでも眉一つ動かさなかったこの男は、俺が肩に手を置いて初めて反応を見せた。
「…………あんさん」
嗄れた喉声。
家を失ったこの男はどこで昨晩を過ごしたのだろう。
「よう」
「……あんさん、どっかで会いましたなァ」
「あ?」
俺の顔を忘れているのか。
無理もないかもしれないが、自分の家を破壊した巨人を斬った俺のことを思い出せないのは重症だ。
俺は肩を竦めてみせる。
そして香鈴の方を振り向く。
「志々雄……」
あんなにも人の多かった大通りが、数分にして閑とした雰囲気に包まれていた。
「なんだ……?」
人の数が半減している。それでも頭数はまだまだある筈なのに、道を歩く人に生気がないせいで余計に暗澹として見えた。
──否。よく観察すれば誰も道など歩いていない。
誰も彼も、前後左右にその場を彷徨っているだけだった。
「……おなまえ、なんて言いはるんです?」
我を失い、普通に嘆くことすらできないこの男でさえ、まともに喋っている分奇怪な往来に比べればマシに思えた。
「おい、おかしくないか……?」
「……自己紹介もまだでしたねぇ。……あっし、呉服屋の源といいます」
「この辺でまたなんかあったのか、源?」
「……おなまえは?」
「志々雄だよ」些か苛々しながら答えた。「またあのデカブツ共がなんかやらかしたのか?」
「……シシオ、さん。姓は」
この時だけ、源の瞳孔が生物らしく収縮した。
「……哀原! 哀原志々雄だ! んなもん今はどうだっていいだろ。どうなんだ源、あの軟弱な国使が懲りずにまた暴れたんじゃないのか?」
両肩を掴み、揺すぶると源の首が前後に揺れた。
頸の骨が繋がってないのか? そう疑うほど源の芯は危うかった。
怒鳴り、問い質す俺に源は答えない。
代わりに飛んできたのは、香鈴の切迫した悲鳴だった。
「後ろ!」
草履の駆ける音。
首の裏に風圧を感じ、上身を倒す。
何者かの懐刀が後頭部を掠めた。
「何だ!」
体勢を直し、源を背中に庇って俺は刀に手を触れる。
仕掛けてきたのは顔も知らない町娘だった。
「アイハラ……シシオ……」
道を彷徨う衆の目が一斉にこちらを向いた。
普段から人間の顔に注意を払わないのがまずかった。男も、女も、職人も商人も浪人でさえ──視界に入る限り肌の涸れていない者は俺と香鈴の他に一人もいなかった。
「髪は黒……腰に刀……」
「アイハラ……十五……の」
「……アイハラシシオ……」
「あんだコイツら……!?」
「なんなの……一体?」
如何に夏でもこの干涸び具合は何なんだ。
屍が墓の下から這い出てきたようだ。水分失調で震える短刀を掲げた町娘は、覚束ない足で俺との距離を詰めた。
「やめなさい!」
動いたのは俺ではなくて香鈴だった。酷い肌のせいで年齢も推し量れない娘の手首を掴んで、彼女の正気に呼びかけた。
「そんなもの下ろして! あなた達もどうしたの!? みんな変……ッ!?」
香鈴に押さえられた娘の体が変色した。
荒れたせいで白く浮いていた皮膚片がいよいよ剥がれ落ち、淡黄色から黄土色へ、黄土色から茶褐色へと血の色を失ってゆく。
見て判る速さで肉が萎み、腕が香鈴の手から滑り落ちる。
幾度となく人を斬った俺でも、その光景には息を呑んだ。水風船を膨らませる様を逆回しに見ているように、一人の娘が喘ぐ間もなく干肉にされた。
「離れろ香鈴!」
娘から水を吸い尽くした正体が宿主から爆ぜ出てきた。
骨と皮だけの娘の肋がグウゥッと膨らんだ直後、無数の触手のようなものが皮を食い破って蠢く。
それは花の根だった。
娘の背骨が盛り上がったように見えたが、背中を裂いて首を擡げたのは一輪の巨大な薔薇の花だった。
「な……」
「ひっ……!?」
「ああぁぁぁん! 枯れちゃったぁぁ」
鼻に掛かった少女の声。
俺と香鈴は同時に、源の崩れた家を向く。
「環国はお水がいっぱいあるっていってたのにぃ。“セントー”しかないじゃん。むぅ」
翠の髪に一房の琥珀色。メトロキングダムに特有の碧眼の少女が、何時からいたのか瓦礫の上に膝をついてむくれていた。
彼女の左の鬢の、その琥珀色の髪を纏める髪飾りは淡く光っていた。鼓動を打つように明滅しながら。
あの髪飾りは薔薇の花によく似ている。俺は義憤や恐怖よりもまず気味の悪さを覚えた。
「誰なのアナタ! この人達、どうなってるの!?」
「んん? 誰って、そっちこそ誰ぇ?」
年は不明だが、顔は幼い。あんなヤツがこの大勢を手に掛けるだなんて、メトロ人の道徳観の無さに心底鳥肌が立った。
「……あんさんねぇ、だからあっしは言ったんですよ」
背後の嗄れ声はせせら笑っているようだった。
間違いなく源もそこの少女に操られている。俺は返りざまに斬撃を浴びせられるよう風麒麟に力を込めた。
「『すぐに身を隠しなされ』って……。あのときあっしがどんなに落ち込んでたかわかりますか? 本当ならヨソの心配してる場合やなかったってこと、わかってはるんですかぁ?」
「…………」
「あっしの親切をあんさんは……『美味い飯』だぁぁ?」
クスッ。と少女の上品な微笑み。
「狂わせましょう、〈ロゼ・マリア〉♪」
人の肉が掻き毟られる音が通り一帯に響鳴した。
何の咎もない民に植え付けられた植物が宿主の肉体に根を張っていく。音だけでありありと想像できる。
「『アイハラシシオ』のガールフレンドもついでに侵しちゃって……んふっ♪ ローズっていい子!」
ナメやがって。操り人形如きで俺が倒せるか。
俺は躊躇いもなく一閃を放った。植物に乗っ取られた源の首が飛ぶ。
噴出する鮮血。
ところが源は死ななかった。全身を統率する部位を斬り飛ばしたにも関わらず諸手を伸ばして襲いかかってきた。
「ッロオ……!」
距離が近かったこと、何より不意を突かれたことが重なって反応が間に合わなかった。大きな傷には至らなかったが源の爪が俺の頬を切った。
地に転がった源の頭は白目を向いていた。体の方は離れた頭部になど関心を示さずに俺にばかり向かってくる。
「なら──こういうことだろッ!」
一思いに心臓を突いた。
折れる肋。潰れる臓器。一拍置いて刀を引く。
血の巡りを失くした源はようやく事切れた。
「志々雄! 肩!」
肩に攻撃が。
と身構えたが他の敵どもはまだ俺達から離れた所にいた。
そうではなく、奴らより数歩近くにいた香鈴が俺の肩に飛びついた。
「あ!?」
「噛むの!」
「待てかり……んぐあアアアァァ!!」
先日と全く同じ位置に激痛が走る。
結論だが、十数人もの植物人間を相手取って最大の傷がこのときの歯型だった。
「わおっ」
ローズとかいう少女は香鈴の変貌ぶりに感嘆していた。
半人半獣の姿を得た香鈴は敵の群へと地を駆ける。
町娘の懐刀を取り上げ、突っ込んだ。
「迅えぇ……!」
対雲桂戦での苦戦は何だったのか。今の香鈴の速さはまるで脱兎を仕留める野狐だった。
目を潰し、指を切り落とし、踵の腱を断つ。飛びかかる返り血より数倍も早く、白色の残像は敵の戦力を削いでいった。
記憶が薄いとは言え、やはり使い慣れた前世の体は勝手が効くのか。縦横無尽に短剣を振るう香鈴は一っ飛びで俺の隣に着地した。
「こんな短い刀じゃ……心臓が突けない」
「ああ。良くやった。あとは俺がやる」
血液をまき散らしながら暴れ狂う徒輩だが、源が頭を失っても俺を襲ったように奴らもまだ止まらない。
しかし十分だ。目が潰れ、指が切られ、腱を断たれた者相手ならば何人だろうと楽に討てる。
「“空鳴”」
五人まとめて心臓ごと切り裂いた。
宿主の断面から多量の体液が流れ出たことを悟った寄生薔薇は届く限りに根を伸ばす。
が、砂まみれの血溜まりを少し嘗めただけで枯れていった。
隙の大きい“空鳴”をこれほど一挙に叩き込める戦況などそうそうない。八方を取り巻いていたローズの傀儡は、風麒麟の生み出す真空の刃によって悉く崩れ落ちた。
「……これで全部、か」
俺が斬り殺したコイツらは元々ごく普通の町民だったんだろう。人間を殺すことに抵抗は感じなかったが、戦っている間中ずっと胸糞の悪い思いだった。
「あれぇ……死んじゃったぁ」
ローズは俺達を見下ろしたまま逃げようともしない。
俺は香鈴の狗耳に口を近付けた。
「香鈴。俺にも肩を貸せ」
「…………」
「拒否権はねえぞ。前世の力を取り戻してさっさと片付ける」
ここからではローズに“空鳴”が届かない。
ならばあそこまで跳んで刀を振るのみ。人間の体では到底不可能だが香鈴のような脚力を得たなら……。
香鈴は了承はしなかったが、首を横に振ることもなかった。俺はローズから目を離さずに屈んで、口を開いた。
「…………えっ?」
瓦礫の少女は驚いている。
まだ早いぜ。本当に驚くべきはここからだ。香鈴が変身したのは一瞬だったから見逃していたかもしれないが、今度こそはっきり見せてやる。
人が獅子の姿を取り戻す瞬間を。
そして精々後悔するがいい。その奇妙な髪飾りで人を支配し、我が意のままに戦わせたことを。
その相手が俺だったことを──!
ヒトとして生まれ変わって十五年。香鈴の肩に歯を添えた俺の高揚が誰に分かる?
顎に力を込めればかつての姿が甦る。完全ではないにしろそれは俺の“本当の形”だ。
耐えろよ、香鈴!
「──ああああああぁぁッ!!」
来た。
香鈴の絶叫が鼓膜を通過し、脳を揺さぶり、獣の本能を呼び覚ます。
この感覚──ッ!
「ウオオオアアアアア!!!」
この雄叫び、この生命力!
風麒麟が小さく見える。この圧倒的な優越感。
前世の自分の姿なんて覚えちゃいねえ。
それでも敵の吃驚した面を見りゃ知れる。今の俺は人間離れした強靱な体躯を──
「ハアァッ!!」
手に入れたッ!
足に力を。膂宍に熱を。
俺は跳んだ。
どうやらすぐに着陸したらしい
「…………ア、アレ?」
力の扱いに慣れてないのかな……?
「……っしゃもう一回!」
「し、志々雄……?」
蹲って肩を押さえる香鈴は目を見開いていた。
「ど、どうした。今の俺そんなにカッコイイか」
無情にも首を振る。
足の力も、背肉の熱も何ら人の限界を超えてはいなかった。
刀が小さく見えたのなんて気のせいでしかなかった。
──俺の体は十五歳の、弱々しい人間の姿のままだった。




