砦の一族
都会とはいえ、西都にも林に囲まれた小高い丘はある。
まだ環国がオランドのみと交流していた時代、ここは町を見下ろす景勝の地としてそれなりに賑わっていた。
だが今は。白く大仰な建物が据えられてより民間人の立ち入りは一切禁止とされていた。
木の群れを城壁となし鎮座するその建物こそが、ルーク一族の英傑アルファ・ルークの居ます城「バルカン国使官邸」だった。
十字の紋章をあしらった盾の門番が、二人とも来訪者に気づいた。
合計五人。うち一人は馬に跨っている。その馬の足取りがやたら覚束ないことから、彼らが普段より遠くまで出ていたことが窺えた。
儀礼に従い、門番は盾を後ろ手に回した。
「環国視察、ご足労でありました! ルーク国使官認可の元、東大門を開門いたします!」
「“解錠”!」
閂を縛る鎖が金属音とともに引き上げられて行き、鋼鉄製の閂が上昇する。
門の棟屋根に備えられた空間に閂がちょうど収まり、門を封じるものはなくなった。門番は二人掛かりで扉を引いた。
その先にあるものは──断崖。深い水を湛えた堀が来訪者の行く手を阻んでいる。
「“架橋”っ!」
堀の向こうにある跳ね上げ橋が、キュロキュロと下ろされてゆく。ようやく渡された館への道地を、白いマントの男は例も言わずに通って行った。
四人の従者も後に続く。彼らが渡り終え、橋が戻り扉が閉まった後で左の門番が右の門番に言った。
「出るときは五人いなかったか?」
誰がいなくなったかまでは分からないが、出立の際には五人の“巨闘兵”がいたことは覚えている。あんな巨人が五、六人まとめて渡っても軋みすらしない橋の丈夫さに感心したものだ。
「いつもより遠くに出るから二人多めに連れているものと思っていたが……。一人はどうしたんだろう」
「さあ……?」
環国人の、たかが十五の少年に叩き切られたとは想像もつくまい。
だが、彼らもいずれ知ることとなる。門番だけではない。「砦の一族」が独占的に管理・使役する巨闘兵が環国人に殺害されたこの事件はすぐに知れ渡り、喧々騒乱の騒ぎとなる。そして、これを切っ掛けに起こったメトロキングダムと環国との衝突は、幾年か後にオランドまでをも巻き込んだ大戦となるのだ。
この二人の門番も、生きてさえいれば事の始終を見届けることができるだろう。
国使官邸の敷地に入ったランパネラ・ルークは厩へ向かい、干し草まみれの雑役夫に馬を預ける。
雑役夫は疲弊した馬を連れていくのに苦労していた。環国の支配がもう少しでも進めば専門の馬係など二人でも三人でも用意できるだろうに。日差しを受けて熱のこもったマントを脱ぎ、ランパネラは館に入った。
中枢部へと進んでいく彼の後ろを、四人の従者は迷いもなくついてきている。本来なら、ルークの戦闘員たる巨闘兵がこんな館の深奥まで連れてこられることはない。だが「戻れ」の指示がない以上、彼らは黙って主の後ろに従わねばならない。
この状況を訝しむ者など、彼ら四人の中にいはしないが。
通路を歩いた一行はついに円形の広間へ。彼らの向かいには十字架が彫り込まれた扉が。その部屋が目的地だった。
「バルカン副国使官、ランパネラ・ルーク。西都巡行の任を終えただいま帰投。バルカン国使官長は在室であられるか」
そこまでたどり着いたランパネラは、両手を後ろで組むメトロ式の立会作法で要件を述べた。
中から返事はない。
代わりに、扉に彫られたルーク家の十字家紋が一度だけ拍動する。
続いて堅い扉が内側から開かれた。
「入りな」
室内には文机と椅子と、陽の光が微かに染み込んだ空気以外何もない。
シャンデリアすらない。強いてあげるなら、その部屋の向こうには庭があった。一面ガラス張りの壁の向こうには、環国には存在しない種々の植物が植えられている。その庭から注ぎ込む太陽光だけが、この空間に明かりを与えているのだった。
「ご苦労。どうだった?」
「民間人の家屋を一軒破壊。その他に与えた害はなし」
ランパネラの報告は、兄の耳を右から左へと抜けていく。
そう。弟の巨体からは思いもよらない細身の体。そこに座る華奢な青年こそがランパネラの実兄。アルファ・ルークなのである。
アルファは斜めを向いて、自らの愛鞭〈ベラドンナ〉を傍らに椅子に寄りかかっていた。
十九歳にしては幼さの残る顔で、そのマスクの甘い魅力で数知れぬ婦女子を惑わせてきた男。背丈は環国人と比べても決して低くはないかもしれない。だが巨人ぞろいのルークの血を受け継ぎながら、彼の筋骨は過剰なたくましさを抱え込んではいなかった。
その細い指が愛おしく這う。彼の膝の上には十四の少女がうっとりと頭を預けていた。
彼女の名は「ローズ・ナイト」。アルファの五つも下の娘だが、来年の春にルーク家に嫁ぐことになっている正当な婚約者だ。
「ふーん……」
生返事。アルファが配下の言を聞き流すのはいつものことだ。たとえ弟であっても、立場上耳には入れるがすぐに忘れる。
目はずっとローズのうなじに注がれていた。
「おつかれ。帰っていいよ」
「それから、損害報告である」
「あ……ごめんごめん。つづけて」
まだ報告を続けようとする弟にアルファは苦笑いする。
が、すぐに顔を上げた。
損害報告?
ただ庶民の住処を歩き回るだけでなにを損害すると──
「……一人、いないね?」
ランパネラのほうをようやく見た兄は、彼の後ろに控える“戦力”が減っていることに気づく。
いないのは……25番か。
「“アイハラ シシオ”と名乗る少年が駐在メトロ邦人に刃傷を負わせ、偶然居合わせた我々に戦闘の意欲を明示。応戦した25番は戦死した。少年の歳は十五、六程度。髪を後ろに縛った──」
「……え、ちょ、ちょっとまって。うまく理解できてないんだけど」
ランパネラを留めるように手を挙げると、子猫のようにうとうとしていたローズが目を覚ました。額に手を当てて混乱する許婚を見上げ、それから彼の弟を不機嫌に睨む。
「えーっと、僕の足りない要約力を酷使するに」アルファは立ち上がった。「キミらは僕らの国の男を斬った子供と戦って、んで負けて、んで戻ってきて」
ローズのためだけに作らせた中庭の前で右に左に練り歩く。
「……他の四人は戦った?」
「いや」
「お前は?」
「即、帰還した」
アルファの目がすっと細まった。
「……アイハラとかいったね。そいつ今ドコ?」
「不明だ」
途端、巨闘兵たちの鎧が弾け飛んだ。
肉が裂け、骨は吹き飛ぶ。
まき散らされた脳漿がランパネラの髪に降りかかった。彼の抱えている純白のマントは穢れた深紅に染め上がる。
彼の動体視力はその“影”だけを捉えていた。「食虫植物の舌」なのか「人喰い大蛇の触手」なのか、例えづらい艶めかしさとグロテスクを兼ね備えた“影”だけを、辛うじて捉えていた。
「『不明ダ』じゃねえんだよアァ!?」
魔鞭〈ベラドンナ〉が彼の体躯を縛った。瞬く間に首元まで締め上げられ、なす術もなく部屋中に引きずり回される。
「ガキに負けやがったのかコイツ!? んでソイツの身元すら調べないで帰ってきたァ!? ふっざけんなよなこの出来損ないがァァ!!」
鞭を握るアルファの腕が大きく振りかぶられた。
その動作でランパネラの体は宙に浮く。
ゴウ! ──四肢を拘束されたランパネラはろくな受け身もとれず、頭から大理石の床に衝突した。続けざまに二度、三度と叩き落される。〈アラゴナイト〉の効力で頭蓋の骨は堅められていたか、脳に直接届く衝撃は防ぎようもなかった。
「────で?」
罅割れた大理石。額から滴る血液。
癇癪の切れたアルファは冷めた瞳でそれらを見下ろしていた。
「どうするつもりだこの出来損ないが、ア? テメエ一人でそのガキ探し出せんのか?」
「…………」
「ここに来たのは、アレか?」ベラドンナがスルスルと引き下がり、代わりにアルファが倒れる弟に歩み寄る。「ローズの“お人形”をアテにしてんだろ? どうせ」
「許されるなら……お力添えを」
兄の婚約者に向けた懇願は、兄に頭を踏みにじられる音で途絶えた。
呻く間もなく顔面を蹴り上げられる。それからアルファは、ランパネラの額を執拗に蹴り続けた。すでに額の皮は剥げ、脂肪まで抉られている。砕けた床石の破片が食い込むたびに、ランパネラの意識は薄れかけた。
「悲鳴を上げないのだけは褒めてやる」
気の済んだアルファは最後に思いっきり蹴飛ばし、穏やかな微笑みをローズに向けた。
「キミもヤッちゃっていいよ。このクズ、キミの大事なお人形さんを使わせろって言ってるんだから。好きなだけ踏み潰すといい」
「やーよ」ローズは膨らんだスカートの裾をつまんでみせた。「下着がみえちゃう」
「ああ」
アルファは愉快そうに笑った後で腰を下ろし、魂を呑み込まんばかりの恐ろしい目で弟の髪を鷲掴みにした。
「一つだけ聞かせてもらおうか。どうしてお前は戦わなかった」
王国に刃向かう者がいるのなら、たとえローズの手を煩わせることになろうとも早急に潰す。これは確立事項だ。ランパネラが頼むまでもない。
だがその前に、副国使官として相応の実力を持つランパネラがなぜ傷も負わずに撤退したのか。それだけははっきりさせておきたかった。
「……瞳の奥に……」
おびただしい出血がランパネラの唇を濡らしてゆく。
「あの少年の目に、何か……別のものを感じた」
「別のもの」
「人間ではない、何か……」
それだけではない、と続ける。
「アザがあった。……肩に、右の肩にだ」
「……!?」
アルファの手から力が抜け、ランパネラは再び床に伏した。
今度という今度はランパネラも激突に耐えられなかった。額の肉が爆ぜる音がして、彼はついに気を失ってしまった。
「……アル?」
アルファの様子がおかしい。心配になったローズが声をかけても全く反応しない。
「右の、肩に……」
弱冠十九にして一つの島を任される英才の将、アルファ・ルーク。弟の言葉一つで彼の噴気は混迷へと一変した。
右の肩にアザを持つ少年。
まさか。
どこか遠くからローズが呼んでいる。……そうだ。何を呆けている。ここはラジア大陸から遠く離れた辺境の地。こんなところに“あの子”がいるわけがない。
馬鹿げた考えだ。
我に返ったアルファはハンカチで汗を拭い、肩をゆすっているローズを強く抱擁した。そして「アイハラ シシオ」という名の少年の討伐を以ってして、十年も昔の“あの記憶”と決別することを心に誓った。




